◆シャーロック・ホームズ綺談 ラノク湖の怪◆   作:mizumega

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4・湖の怪異

 

 翌朝目覚めてみると、宿屋の前に大勢の村人がいるので、わたしは驚いた。

「あれはなんです?」

 窓辺から見える彼らを指すと、ペッパー夫人はこともなげに答えた。

「ワトソン先生が診察してくれるって、みんな張り切って集まったんですよ」

 そういえば昨夜、自分たちの健康についてあれこれ相談されたのを思い出した。してみると、どうやらわたしはめったに来ない医者として見られたらしい。

「ワトソン君、出番のようだね。彼らの期待に応えたまえ」

「しかし君は?」

「ぼくにはやる事が山ほどある。後で成果を教えてあげるよ」

 わたしの肩を軽く叩くと、ホームズはインヴァネスに鹿撃ち帽の姿でさっさと出掛けてしまった。

 そんなわけでわたしは、朝食もそこそこに宿屋の居間をにわか診療所に仕立て、イナハ村のみならず近隣住民の健康診断をするはめになった。

 とは言っても、持参したのは万が一怪我をした際の応急処置をするための小道具一式で、とてもまともな治療はできない。仕方なくわたしは出来る範囲で彼らを診てやった。患者の症状を診断し、自前で材料を手に入れられるなら薬の作り方を詳しく教え、食生活やストレッチなど生活習慣の改善をアドバイスした。それが無理な者は処方箋を書いて手渡した。薬が買えないという者にはやむを得ず薬代を立て替えてやった。

 昼過ぎには行列も消えて、やっと職務から解放される。喜んだペッパー夫人は羊肉と野菜を煮込んだ美味しいスープをご馳走してくれた。

 

「やあワトソン、大活躍だったな」

 宿屋を出るとホームズとかち合った。

「君の仕事は終わったかね?じゃあ行こう」

「行くってどこへ」

「教会だ。湖のそばにあるキンノック教会さ」

 歩きながら彼は午前中に自分がしていたことを話してくれた。ホームズは村の中で聞き込みをしたようだ。

「まずぼくはジョナサン・ボイルについて調べてみた。酔漢だという事実以外に、色々面白い事がわかったよ。彼の家を訪ねて奥さんから話を聞いた。

 ジョナサンはもともと働き者の真っ当な男で、昔はローランド地方の農民だったらしい。しかし大地主の囲い込みに遭って、自分の家も土地も根こそぎ奪い取られてしまったんだ。アメリカへ移住しようにも金がなかったので、仕方なくこの貧しい村へ来た。それ以来ジョナサンは酒びたりだ。自分の情けなさを忘れるために酔い、酔っただらしない姿を忘れるためにまた酔うという具合で、立ち直れなかったようだ。

 そんな男だが、妻は彼を愛していて、女手ひとつでジョナサンを養っていた。それが申し訳なくてさらに酔うといった寸法さ。だが酒乱にありがちな暴力は一切振るわず、シラフの時は昔のようにせっせと働く時もあったらしい。しかし挫折の記憶が彼を苦しめ、不景気もあって仕事は長続きしなかった。家庭でのジョナサンは女房に優しく、仲の良い夫婦だった。

 ジョナサンは自分の不運と怠惰を恥じ、時々教会で懺悔していたということだ」

「根は真面目な男なんだな。気の毒に。しかし、それが捜査の役に立つのかい?」

「大ありさ。つまりジョナサン・ボイルに出奔する理由はなかったんだ。彼らなりに幸せだったし、いつかは立ち直ったかもしれない。少なくとも妻は彼を責めてはいなかった。重要だと思わないか?」

「ということは、家出という線は消せるわけだ。ジョナサンが遠くに行く理由はない」

「それなのに姿を消した。暗示的だと思わないか」

「で、その他は」

「次にぼくはエイリーン・カー夫人の足跡を追ってみた。近隣の住民から話を聞くと、彼女はラノク湖の周囲にある巨石の陰を逢引きの場所にしていたらしい。あらかじめ男をこっそり誘って、夜中に逢うわけだ」

「よくあんな気味の悪い所へ行けるな」

「それだけに誰にも見咎められず逢瀬を楽しめる。ここの村人は迷信深いから近寄りたがらない。ショーン・マカラム以外はね」

「待てよ…じゃあ、逢瀬の相手は、まさかショーン君なのか?それともオルコット博士?」

「いいや、それはない。相手の男を探したが、たいていはイナハ村か隣村の若者だ。血気盛んで好奇心旺盛な、早く大人になりたがる連中さ。評判通りカー夫人は相当な美人で、自身も色男に目がなかったらしい。だからオルコット氏のような男性には目もくれないし、ましてや子供など相手にもならん。欲望を持て余して冒険したがる女の典型だ。

 それで恋人になった男たちを捕まえて聞いてみたが、カー夫人にふられた男性はほとんどいなかった。普通は若者が大人になるにつれて疎遠になり、男は他の女と結婚し、夫人は独り身のままだった。どうやら彼女は地位も財産もない若者と一緒になる気はなかったんだな。亡くなった亭主は元地主で、それなりに財産を残したようだ。だから彼女に焦る理由はなかった。

 一つだけ例外なのは、カー夫人は牧師に懸想していたらしい。今からぼくらが行く教会の」

「ほう。よりにもよって牧師様か」

「面白いだろ?だが世の中そう甘くない。カー夫人はたびたび教会を訪れたが、懺悔室で熱い想いを告白しても牧師の方は相手にしなかったんだ」

「で、失恋して村を飛び出した…」

「だったら話は単純なんだがな。村長に断って夫人の家を見させてもらったが、家出を匂わせるものがないんだ。服も金もみんな置きっぱなしだ。旅行鞄さえあった。愛用のアクセサリーも放置したままだ。大切にしていたダイヤのネックレスを持っていかないなんて考えられないだろう?」

「そりゃあ奇妙だな。でも大金持ちと良い仲になったら、そんな物ははした金にならないか?」

「その大金持ちの消息は影も形もなしだ。噂好きの村人を舐めてはいけないよ。ましてや、ここは人目を避けるには湖の方面しかないからね。どう考えても大金持ちが荒野を渡って来るとは思えんだろう」

「じゃあ、カー夫人はたった一人で出て行ったというわけか。村人と喧嘩になったとか?」

「それも調べてみたが、時たま息子を誘惑したことで母親から嫌味を言われる程度だったらしい。村八分って雰囲気じゃないな。よくあることだが、こういう村ではおおいっぴらにならない限り色恋沙汰を詮索したりしないものだ。だからカー夫人が追い出されたという説も成り立たない」

「それなら、二人とも行く理由がないのにいなくなった…か。アクランド氏も似たようなものかい?」

「証言を集めてみたが、どうやら彼は忙しい日常からの逃避でここに来たようだ。加えて遺跡に関心があるので、湖の周りをよく散歩していたらしい。オルコット博士と会談したこともあるようだが、それは後で確かめよう」

 

 キンノック教会は小ぶりながら重厚な建物で、石の厚い壁で覆われている。翼廊がない長方形で、西の端に大きな円塔があった。窓はスリットのように細長く、扉も小さい。教会というより小さな要塞のようだ。

「それはそうさ。周りを見たまえ。城壁の跡があるだろう。入り口は階段を上らねば入れない。典型的な中世の城だよ」

 浅い堀に掛かった石橋を渡りながら指摘する。

「城を改装したのか」

「快適ではないが、修道僧にはもってこいかもしれないな」

 薄暗い堂内はかつて大広間だったところを改装したものだった。列石のアーチが天井を覆い、柱頭に魔除けの鬼が刻まれている。

 軋む床板を踏みながら奥へ進むと、祭壇の前で祈りを捧げる男がいた。

 祭壇の上に掲げられた十字架は奇妙なもので、たくさんの渦巻き模様が刻まれている。十字の端は碇のような形になり、大蛇が十字架全体に巻きついていた。

 我々はひざまずいた男が祈り終わるまで長椅子で待った。

 男は静かに立ち上がり、こちらを振り向いた。

「神の家にご用ですか?」

 レスリー・ファーガソン牧師は30歳に近い美青年だった。黒い僧服を端麗に着こなし、痩せて背が高い。淡く短い金色の髪が波打ち、細い鼻梁と高い頬骨、彫りの深い眉間。その下からのぞく薄青の瞳に理知と誠実さをたたえている。この男前なら恋多きカー夫人がのめり込むのも頷ける。

 

「確かにボイル氏もカー夫人も告解を受けられました」

 教会の脇にある牧師館へ案内し、お茶をすすめた後、ファーガソンは鷹揚に頷いた。

「二人とも敬虔なキリスト教徒で、ご自分の罪を深く悔いておられました」

 静かな口調で答える。

「ボイル氏とカー夫人は村を出たいと言っていませんでしたか」

 ホームズの問いに牧師は首を振った。

「告解の内容をお教えすることは出来ませんが、これだけは言えます。お二人にこの村を出る意志はなかったと思います。そのような言葉を聞いたことはありません」

「お二人と最後に会われたのはいつでしたか」

「ボイル氏は4月の29日だったと思います。カー夫人は6月の二十日でした」

「ずいぶんとご記憶がよろしいのですね」

「物覚えは良い方だと思います。それに覚えやすい日だったので」

「と、言うと?」

 わたしの問いに、

「両方とも翌日が祭日だったからです。4月の30日から5月の1日はワルプルギスの夜ですし、6月21日は夏至の日です」

「『ワルプルギスの夜』?」

「失礼、5月祭のことですよ」

「ああ、なるほど」

 ホームズが引き継いだ。

「その時、彼らに変わった様子はありませんでしたか。何か悩み事を抱えていたとか…」

「そうですね、特別これといったことは…悩み事はありましたが、それはいつもの事でしたし、その日も同じ事を聞かされただけです」

「たとえば酒に弱い性格のこととか、男性に恵まれないこととか」

「誰しも悩みはあるものです」

「失礼ならあらかじめ謝罪しますが、カー夫人があなたに想いを抱いていたということはありませんでしたか」

 するとファーガソン牧師は薄い唇に微かな笑みを浮かべた。

「村の人たちも困ったものですね。…私は聖職者なので、お仕えするのはただ神のみです。もしカー夫人がそうだったとしても、ご自分にふさわしくない者を選んだのです。彼女が魅力的な女性だったのは否定しませんが、どちらにせよ私に選ぶ権利はありません」

「なるほど。立派なお心掛けですな。

 話題を変えますが、ショーン・マカラム君に教育をほどこしたのは貴方だそうですね」

「はい」

「非常に勉強熱心な少年だ」

「彼は優秀な生徒でした。私はここへ赴任する前に別の教区でも学校を開いて教えていましたが、ショーン君のように飲み込みのいい子はいませんでしたね」

「その学業への情熱ゆえに、村を捨てて教育を受けられる場所へ行ったとは考えられませんか」

「勉強をしたいという強い願いはありましたが、ショーン君は親想いの子供でしたから、両親を見捨てて他所へ行くというのは考えられませんね。残念ながらこの村はあまりにも僻地なので、スコットランドの優れた教育制度でも十分な支援をしてあげられなかったのです。イナハ村の住民の大半は文盲で、教育を受けたいという意欲もありません。ですので、ショーン君のような人物は誠に希少な存在でした」

「ふうむ。となると、家出の線は消えますな。彼が失踪した理由として、事故が考えられますが、いまだに死体が発見されていません。これは奇妙なことです」

「それはどうしてですか」

「遺体を隠す場所がないからです。彼がこの近辺で倒れたなら、必ず捜索者の目に留まるでしょう」

「そうですね…私もそれを考えてみましたが、湖で溺れたとしか」

「しかし、あのように岸辺に藻や水草も十分生えていない場所で、遺体が発見されないとは妙ですな。水死体なら一度は浮くものです。沈むなら時間がある程度立たないと沈まない。そうは思いませんか」

「その辺は医師ではないので分かりかねます」

「丘の向こうはどうでしょう。湖の周りの遺跡のある丘のことです。あの辺なら人が隠れられる穴などがあるかもしれません」

「さあ…私は興味がないので向こうの様子は分かりかねます」

「なんでも悪魔が棲んでいるそうですね、あの石たちの中に」

「それか湖に」とわたし。

 牧師は困惑した笑みを浮かべた。

「あまり言いたくはありませんが、この辺の村はいまだに未開な文明を引きずっているところがあります。悪魔とか妖精とか、およそ非現実的なことをさも実在するかのように言うことも…たしかに私が耳にした伝承の中でも、昔湖に悪魔が棲みついて聖コルンバに退治されたというようなお伽話もありましたが」

「悪魔が彼をさらったわけではないと?」

「シャーロック・ホームズ氏がそのような発言をされるとは意外ですね」

「いや、これは片腹痛い。失言もいいところでしたな。ぼくはひょっとするとショーン君が伝説に惹かれて荒野をさまよい、そこで事故に遭ったのではと思ったのですが…」

「彼は聡明な子でしたから、そんな迷信に興味は持ちませんでしたよ」

「なるほど。あなたの生徒でもありますしね。お時間を取らせました」

 立ち上がったホームズは、牧師館を去る前に振り向いた。

「ああ、あと一つだけ。セドリック・アクランド氏はこちらを訪問しましたか?例の旅行客ですが」

「彼なら確かに会いました」

「どんな話をされましたか」

「この周辺の民話や伝説についてですね。私はあまり詳しくありませんが、答えられる範囲でお話ししました」

「どうもお邪魔しました」

 

 応接間から出ると、我々は使用人の老婆に廊下で出会った。彼女は台所から大きなトレイに銀の蓋を被せた皿を運んでいた。

「おや、牧師さんのお昼ですかな」

 ホームズは快活に話し掛けた。

「当ててみせましょうか。中はサーモンのクリーム煮ですね?」

「とんでもねえ!」

 老婆は顔をしかめた。

「そっただもんじゃねえだよ」

「ぼくはスコットランドの料理に興味がありましてね。見せてもらってもいいかな?…やあ失敬、マトンのカレー煮とは!ぼくとしたことが。牧師様は健啖家ですな」

「サーモンなんてとんと釣れねえだよ」

「あなたは住み込みで雇われているんですか」

「いんや、毎日村から通いだよ。牧師様はお一人でお住まいじゃ」

「明日は日曜日ですが、牧師様はこの教会だけで説教するのですよね」

「いんや、あちこち飛び回るだよ。あんお方ぁ真面目な方だで、行ける所ならどこでも説教しに馬車を走らせるさ」

「それは素晴らしい。そういえば、ショーン・マカラム君の勉強もみてあげておられたのですね」

「あんだいあんたぁ、やけに知りたがるね」

「ショーン君が行方不明になってさぞ心配されているでしょうね」

「んだから毎日神様に祈ってるべ。もうええか?」

「これは失敬」

 不機嫌な使用人はブツブツ言いながら去って行った。

 

「牧師も空振りか…これはいよいよ進退窮したな、ホームズ」

「まだあるさ、聞くところが」

 湖の岸辺に向かいながら彼は言った。

「どこだい」

「あそこだ」

 杖の先は北側のドルメンを指していた。そこに小さな人影が見える。

「オルコット博士か」

「自称ドクターらしいがね。…やあ君、暇そうだね」

「先生かい」

 釣り小屋のそばにいたのは村人の一人だった。昨夜も居酒屋で会っている。すっかり打ち解けた彼は我々を見ると笑みを見せた。

「どうかね漁の具合は」

「いんやあ、漁どころじゃねえだよ。なんせ今年になってから1匹も釣れんからなあ。商売替えしなくちゃあ。今はよ、やる事がねえからこうして綱を修繕してんだ」

「だったら舟を一つ貸してくれないか。3シリングでどうだ」

「いいとも」

 思いがけない収入に男は二つ返事で頷いた。

「そういえばもうすぐハロウィンだけど、この辺じゃ祭りはやらないのかい」

 ふと思いついてわたしが聞くと、男は暗い顔で首を振った。

「今年はだめだあ。こうおっかねえ事が続くとよ、ほんとに悪魔が出そうでなあ。いつもは隣の村さ子供連れて遊びに行くんだが、ほら俺の村ぁ小せえだろ?んでも、今年は無理だあな」

「子供が心配だね。それは仕方ないな」

 

 我々は舟を湖面へ繰り出した。風もない水面は鏡のようで、苦もなく漕いでゆける。

「良い思いつきだな、ホームズ」

 オールを漕ぎながらわたしは言った。これならわざわざ迂回せず自由に湖を行き来できる。ホームズはパイプを吹かしながら物思いに沈んでいた。

 空に黒い雲が少しずつ垂れ込み、地は暗い影に覆われようとしていた。閑散とした周囲は死の世界のように静かで、ギィギィと軋むオールの音が静寂に吸い込まれてゆく。

「君は沈黙の才能があるね、ワトソン」

 ホームズが微笑んだ。

「余計な口をきかないでいてくれるのは本当に助かるよ。ぼくの思考が澄み渡る。かと言って、一人ではダメなんだ。かえって考えが散漫になってしまう。そばに誰かが居ながら、その存在を気にさせないのが一番いいのさ」

「わたしはきみの砥石だからな。それで、そろそろ何か言う気になったかね」

「そうだな…」

 ホームズは湖面に広がる波紋を見ながら、

「ぼくはある考えを持っている。それが実証されるのは確実だと思えるんだが、一つだけ欠点があるんだ」

「欠点って?」

「動機だ」

 舟が岸辺に着いたので、我々は引き揚げて丘の上を目指した。

 

「どうも博士。研究は進みましたか」

「またあんたらか」

 迷惑そうな様子を隠そうともせずオルコット氏は言った。

「それとわしは『博士』じゃない。正式な学位は持っとらん」

「しかしずいぶんお詳しいようですが」

「30年もやっとりゃ一通りの事は身につくさ」

 スケッチブックに遺跡の様子を描き込みながらオルコットは答えた。

「お邪魔でなければご一緒してもよろしいかな」

「いや、邪魔だね。うろちょろせんでもらいたい」

「この遺跡は他所と違うそうですが、どう違うんですか」

 オルコットはため息をつき、

「なあホームズ君、わしは暇つぶしにやっておるんじゃないんだ。これでも真面目に研究しているつもりでね。他人が周りにいると仕事にならんのだ」

「一つお聞きしたいが、この遺跡は生け贄を捧げる場所になりますか」

「なに?」

 彼が眉間に皺を寄せた。

「なぜそんな事を聞く」

「なぜなら血の跡があるからですよ、この上に」

「なんだと!?」

 オルコットは石舞台に歩み寄った。そしてホームズが指差す上面の溝を見た。

「この隅をご覧なさい。雨に流されず溜まって固まった血痕だ。顕微鏡で見ないと分からないが、おそらく人間の血でしょうな」

「そんなバカな」

 顔をくっつけそうなくらい近づけている。

「ぼくも少し考古学を齧ったことがあるのですが、こういった遺跡の周囲から遺骨が出ることがあるそうですね」

「ああそうだ。ストーンヘンジにも例がある」

「では、それがここにあるとして、どこに埋められると思いますか」

「そうだな…」

 オルコットは周囲を見渡した。そして少し離れたところにある小さな石積みのケルンを指差した。

「例えば、ああいう所に」

「もしよければ、そこを掘り返す許可をいただきたいのだが」

「…何を考えておる」

「失踪した人々の手掛かりが見つかるかもしれないからですよ」

 オルコットは穴の開くほどホームズを見つめた。しかしホームズは微動だにしなかった。とうとうオルコットの方が折れて、

「わしの土地ではないし…誰の所有物でもないのだから、許可などいらんが…いやしかし、記録が……。これを使うといい」

 スコップを手渡してくれた。

 ホームズはオルコットに配慮して、石を一つずつ丁寧に下ろしていった。後でまた積み上げるために。わたしも協力してケルンを崩してゆく。

「見ろワトソン。土が新しいぞ」

 石をすっかり取り除けた後、地面に丸い跡が現れる。それはどう見ても周辺の土の色より黒かった。乾燥していない証拠だ。

「待て、ワトソン君。わしがやる」

 オルコットが渋面をつくりながら黙ってスコップで掘ってゆく。1メートルも掘らないうちに、ある物が現れ、我々をギョッとさせた。

「ーーー足だ!」

 それはブーツを履いた足首の残骸だった。まだ肉が残っていて、骨の周囲にまとわりついている。にわかに異臭が漂い、吐き気を誘う。

「なんてことだ」

 オルオットの顔は真っ青だった。わたしも似たようなものだったかもしれない。

「サンダース製か」

 取り上げたホームズは目を細めつつ眺めた。

「紳士用のアウトドアブーツだ。間違いなくアクランド氏の物だ」

「アクランドだって」

「分かるだろうワトソン、彼が遺跡巡りの趣味を持っていたことを。この辺の住民がこんな高級品を履くはずがない。しかもこれはオーダーメイドだ。足にぴったり合っている。金持ちの紳士でなければまずありえんよ」

「しかしなぜ!?」

 オルコットが叫んだ。

「あるはずだと思ったからですよ。オルオットさん、どうです、この傷口は変わっていると思いませんか」

 確かに妙だった。骨は砕かれたように先が消失していたのだ。

「肉も裂けた跡がある。刃物で切ったならこんな傷跡は出来んよ、ホームズ」

「そのとおりだ。あなたは博物学者だそうですね。動物に噛まれた跡のように、ぼくには見えるんですが」

「だとしても、かなりの大型だぞ」

 オルコットが唸った。

「この辺の動物で大型の獣は絶滅している。狼も例外じゃない。大昔なら恐竜が跋扈していたが、この現代に人間を襲う獣などないぞ。サーカスからライオンが逃げ出したのでなければ」

「その点が弱いんですなあ。どうにも説明がつかない」

「ホームズ…これは大変なことになったぞ。だとしたら、何もかもひっくり返っちまう」

「なぜ死体が埋まっていると思ったんだね」

「実は昨日、ここで女性の下着の切れ端を見つけましてね。もしやと思ったのです。…うむ、この穴にはもう何もないな。別の所を探そう」

 ホームズは立ち上がった。

「ここにはケルンが幾つかある。ぼくの推理が正しければ、この中のどこかにジョナサン・ボイルとエイリーン・カー…そしてショーン・マカラムの体があるはずだ」

「ショーンが!」

 オルコットが叫んだ。

「手分けして探そう。石をどかして確かめるのだ」

「わしがやる」

 オルコットはもうためらわなかった。自分から乱暴に石積みをどかし、蹴飛ばし、下の穴を掘った。

「ぼくも考古学や歴史に興味がありますが、昔は人身御供が行われているのでしたね」

 手を動かしがならホームズが言う。

「そうだ…たしかに…生け贄を祭壇に捧げた」

 スコップを動かしながらオルコットが答える。

「無垢の女子供を殺して心臓や内臓を取り出し、血を飲んだのだ」

「野蛮な!」

「人間の本能だよ、ワトソン君。我々の祖先には邪悪な血も流れておったのだ」

「しかしなぜ、今?」

「それは分からんね。だが、誰かがここを殺人の舞台に選んだのは確かなことだ。…うむ、あったぞ。これは女の手だ」

 ホームズは穴の中からボロボロの手を取り出した。指が千切れ、骨が剥き出しになっている。

「死後どのくらいになる、ワトソン?」

「特定は出来んが、まだ肉が残ってるから、そんなに時間は経っていない。せいぜい数ヶ月だ。ここらは気温が低いから微生物があまり活発じゃないし」

「だとすると6月末に消えたのと一致するな」

「こっちにもあったぞ」

 そちらへ行くと、オルコットが恐る恐る骨を取り出した。それは男性の大腿骨の残骸だった。太股の肉が残り、ズボンがまとわりついている。両端はやはり千切られたように無くなっていた。他にも体や服の一部が見つかったが、全体としてはわずかな量だった。

「骨の大きさから考えるとジョナサン・ボイルのものとしか思えん」

「えらく上手く処理したものだな。他の死体はどこへやった?」

 ホームズが呟く。

 我々は周囲のケルンを手当たり次第に掘り返したが、見つかったのはそれだけだった。ホームズは地面をくまなく調べ、他に埋めた跡がないことを確かめた。

「ここに轍の跡がある」

 石舞台から続く細い一対の溝を指差す。溝の間の幅は1ヤードほどだ。

「誰かが夜中に自分の手で荷車を引いたんだ。蹄の跡がないから馬は用いていない。それに馬に乗るとなると、夜でも月が出ていれば誰かに見られる恐れが大きくなる」

「一体誰がこんなことを」

「もう見当はついておるんだろう、ホームズ君?」

「問題はですね、オルコットさん。殺人の動機と手段です。それにショーン君が今どこに居るか突き止めねばならない」

「ショーンは生きているのか、ホームズ?」

「断言は出来ないがその確率は高い。なぜわざわざこの場所を選んで殺したのか?何か意味があるからだ。犯人は場所と日付を選んでいたに違いない。だったら、ここにショーンの遺体がない以上、どこかに監禁していると思う」

「それで隠れる所はないのか聞いたのだな!?」

 オルコットの言葉にホームズは頷いた。

「あるいはと思いましてね」

 石舞台に歩み寄ると、

「だから、ここが特別な場所である理由を知りたいのですよ。間違いなく犯人はこの場所について何か知っていた。ここを選んだのだから」

「ふむ!それでは言うが、ここの近辺はイギリス中を探しても他にはないのだ。周りのメンヒルを見たまえ。こんな像はどこの遺跡にもない。普通はただの石か、表面に渦巻き模様を彫るか小さな穴を開けて加工する。こんな風に具象的な物は描かん。

 この石舞台もあからさまな絵が彫られている。こういう動物や悪魔を描くのは南米の遺跡に見られるものだ。イギリスでもウェールズでもアイルランドでもこんな絵は見たことがない。

 向こうのドルメンを見たまえ」

 南側の丘を指差す。

「あちらにはここと対になる遺跡がある。こことあちらを直線で結べば、冬至の太陽が昇る方角になる。そして、」

 と石舞台の溝を示し、

「ここにも方角を正確に刻んだ跡がある。この線を見たまえ。冬至・夏至・春分点を指す線なのだ。もしホームズ君の仮説が正しければ、この石舞台で特別な日に儀式が行われた。人を生け贄にして」

「じゃあハロウィンの日とかも?あの日はたしか魔女や悪霊が飛び回るんですよね」

 半ば冗談を込めてわたしは言った。

 カッとホームズが目を見開く。そして額を激しく叩いた。

「この愚か者め!」

「どうしたホームズ?」

 何気ない一言に反応され、わたしは驚いた。

「ハロウィンだ!ワトソン、ハロウィン!」

 熱に浮かされたようにホームズは叫んだ。

「四旬節!5月祭!ワルプルギスの夜!そして夏至」

「すべて古代の重要な祭日だ!」

 オルコットも叫ぶ。

「なんということだ、悪魔崇拝の儀式だったのか」

「そして今日は10月の30日!明日はハロウィンだ。こうしてはいられない、教会へ戻るぞ」

「教会!?」

「真犯人は牧師だ」

 矢のように駆け下るホームズに、我々は大慌てで続いた。

「オルコットさん、銃を忘れないでください!」

 彼に言われ、オルコット氏は鳥撃ち銃を抱えて走り下った。

 

 ホームズは岸辺に揚げた舟を湖へ押し出した。追いついたわたしは力を合わせて舟を浮かべた。少し遅れてオルコットが乗り込む。

 陽はすでに丘の向こうへ沈んでいた。空には重く雲が垂れ込め、夕陽の残照で真っ赤に染まっている。それはこの世の終わりを告げるような不吉な眺めだった。北の丘は最後の陽光を受けて頂上の石舞台だけが赤く血の色に輝いている。その他はすでに闇に沈んでいた。

 湖面は黒檀のように真っ黒で、ほとんど手元が見えない。ホームズの漕ぐオールの軋みと波打つ音だけが舟の進み具合を示している。舟は東の岸を目指していた。

「灯りは?」

「忘れてきた」

 ホームズが舌打ちする。

「わしが持っている」

 声とともにカンテラの光が舟の中を照らし出した。下から照らされているおかげで、我々の影は上に残り、死人のような顔つきにしている。舟のまわりがかろうじて見えるだけで、かえって闇は濃くなっていた。ホームズは微かに見える山影を頼りに舟を漕いだ。

「ホームズ、秘密を明かしてくれ。舟はわたしが漕ぐから」

「いや、わしがやろう」

 オルコットが身を乗り出し、ホームズと交代した。たくましい二の腕が力強くオールを操り、舟は速度を徐々に上げていった。

「博物学者は深窓の人だと思っていたのに、大した力ですね」

 わたしが感心すると、オルコットは笑った。

「なあに、年柄年中土を掘っていると、嫌でも体力がつくよ」

「できるだけ早くお願いします」

 ホームズはパイプに火を点けて言った。

「それでホームズ君、牧師が犯人だという理由は?」

「そうだホームズ、なぜ分かったんだ」

 ホームズはパイプをスパスパ吸うと、おもむろに言った。

「あるいはと思ったのさ。マカラム夫妻がロンドンへやって来た日から」

「なんだって。それじゃ最初から疑っていたっていうのか」

「可能性としてはあると考えていた。ぼくは事件を捜査する時、その状況から思いつく事を幾通りも思い浮かべる。そして消去法に従って一つ一つ消してゆく」

 暗い湖面を見ながら、

「この事件は始めから奇妙だった。一つ、失踪人に消える理由がない点。一つ、死体がどこにも見当たらない点。一つ、調べられる範囲で捜索が容易な点。これらを合わせると、誰かが失踪人を誘拐し、殺害して、死体を埋めたとしか思えない。それには湖の周辺がピッタリだ。迷信深い村人はめったにここへ来ようとはしない。それに今年に入ってにわかに魚が獲れなくなったので、今は漁師さえいない。実に都合のいい状況だと思わないか?

 しかし誘拐説には難点がある。動機が見当たらないんだ。被害者のうち三名は金を持っていない。恨みという線も考えにくい。彼らには共通した欠点がないのだ。村人の証言から考えるに、恋愛のトラブルと酔っ払いの喧嘩くらいしか思い当たらない。だとしたら犯人は何のために誘拐したのだろう?身代金の要求はなかったし、そんなものはおよそ非現実的だ。では、快楽のために殺人を犯したのだろうか?なるほどそれなら納得がゆく。しかしこれも難点がある。というのも、被害者にはたった一つ共通点があるんだ」

「それは?」

「誰も真剣に探さない人物ってことさ。考えてもみたまえ。消えたのは手に負えないアル中と男漁りの女と見知らぬ旅行者だ。姿が見えなくなったとしても、気にする人間は少ないだろう。何かと理由をつければ辻褄は合う。ワトソン君が指摘したようにね。となると、犯人は村の事情に詳しい者に違いない。偶然というには出来過ぎている。

 だが、犯人は決定的な間違いを犯した。ショーン・マカラムを誘拐したことだ。なぜ彼を狙ったのか分からないが、今日あの生け贄の舞台を見て確信した。ショーン君は好奇心を持ち過ぎたのだ。おそらくあの遺跡の周辺で遊んでいたに違いない」

「なんてことだ」

 オルコットが呻いた。

「でもホームズ、それならオルコットさんはどうなる?ここらを調べて回ってたんだろう」

「常に銃を携帯している男をかね?それにオルコットさんは警戒心が強く、容易に打ち解けない人物だ。力もある。狙うのにこれほど不都合な人はいないだろう」

「言われて納得せざるを得んな。わしならためらわず銃をぶっ放しとる」

「相手を容易に誘拐できたのは、村人と顔見知りで信頼されている人間だと考えたんだ。そして、失踪者全員と面識があったのは…」

「レスリー・ファーガソン牧師だ!実に単純な話だ」

 わたしは叫んだ。

「今日彼と面会した時の会話を覚えているかい?失踪者の行方が分かっていないにも関わらず、ファーガソンは全員を過去形で呼んでいた。『でした』『だった』とね。もしかしたら生きているかもしれない人間を過去の人物として言及するのは、彼らの運命を知っていたからに違いない。

 そして彼はもう一つヘマをやらかした。5月祭をワルプルギスの夜と表現したことだ。普通は順序が逆になると思わないか?牧師はうっかり自分の仕える神より魔女や悪魔に関心があることを漏らしたのさ」

「そういうことか⋯いかにも敬虔な聖職者を装い、生け贄にふさわしい人間を選んで手に掛けていたのか。なんて卑劣な奴だ」

「それが分かれば後は容易だ。だがねワトソン、どうにも理解できなかったのは、犯罪を犯す時期だったんだ。何か一定の法則があるらしいことはおぼろげに感じていたんだが、今日やっと分かった。悪魔崇拝者なら特別な日を選ぶということを」

「なるほど…それでファーガソンがはっきりと答えられたわけだ。犯罪を実行する前の日だったんだからな」

「ぼくは遺跡の下なら死体を隠すにはもってこいだと思った。事実、それは発見された。だがショーン君の遺体だけは見つかっていない。なぜなら明日の夜に殺人を決行するつもりだからだ」

「じゃあショーンはどこに居るんだ」

「おそらく教会の中」

「教会!?」

「あの教会を見たろう。元は城だったのを改築したものだ。城につきものといえばなんだい?」

「地下牢だ」

 オルコットが代わりに叫んだ。

「ご名答。隠し場所にはもってこいだと思わないか」

「でもホームズ、そんな所に居たら、叫んだら誰かに気づかれるだろう。ずっと猿轡を噛まされていたとでも言うのかい」

「今日、牧師の昼食を見たのは、それを確かめるためさ。メニューは何だった?」

「マトンのカレー煮…そうか!『銀星号事件』の!」

「どういうことかな、ワトソン君?」

「粉末阿片ですよ。被害者を弱らせるために料理に盛ったんです。苦味を分からせないためにカレー味にした」

「くそ、子供になんてことを!」

「食事は2人分の量があったから、自分のを取り分けた後で残りに薬を混ぜ、ショーンへ与えたに違いない」

「おかげで彼は助けを呼ぶことも出来ず、地下牢に横たわっているのか」

「なんとおぞましい事件なのだ」

「あの時強引にでも調べておくべきだった。メンヒルの下の死体を見るまでは確信が持てなかったのでね。間に合えばいいが…」

「任せろ」

 オルコットがいっそう力強くオールを漕いだ。

「しかし君は大したものだな。そうやって次々と真相を突き止めるとは。わしも消えた人間のことは時々考えてみたよ。見当もつかなかったな。君ほど鮮やかに解決できる人間はおらんだろう」

「ですがね、オルコットさん、まだ分からないことがあるのですよ」

「何をだね」

「殺害方法です。あんな異常な傷跡は不可解だ。それに発見された死体は少な過ぎる。遺体が腐りにくい場所で、あれだけしか見つからないのはなぜ…」

 その時、ゴボリと音がして、舟が揺らいだ。

 今まで静かだった水面から波紋が押し寄せてきた。我々の舟が作り出す波がそれと相殺され、複雑な模様を描く。

 

 …どこかから声がする。

 朗々と響くその声は、我々の言葉ではなく、未知の言語であった。

 彼方からささやきかける旋律がわたしの耳に届いた時、体中に寒気が走った。それは間違いなく呪いの言葉であった。

 憎しみと傲慢と蔑みに彩られたその歌は、我々を飲み込もうとしていた。

 

「ワトソン」

 呆然と聞き入るわたしにホームズが言った。

「君が見た島はどんなだった」

「…え?」

「ワトソン、しっかりしろ。君は小島を見たんだろう。どんな姿をしていた」

「ええと…そうだな」

「木は生えていたか」

「いいや、木はなかった。剥き出しの岩だ。青黒い岩」

「では、その小島は動くのだろうな」

 声と同時に、水面に細長い岩が浮かび上がった。それはカンテラの光を受けてテラテラと輝き、ぬめった青黒い岩肌を晒していた。その岩がス〜ッ…と舟を横切ってゆく。

「岸へ!一番近くの岸へ!」

 ホームズが怒鳴った。

「急げ!間に合わなくなるぞ」

 舟を漕ぐ手を止めて聴き入っていたオルコットは、弾かれたように手を動かした。

「あっちだ!」

 ホームズが指差す方へ舟は向きを変え、岸辺を目指した。オルコット氏を叱咤激励する必要はなかった。というのも、泳ぐ岩の生み出す波が今やザワザワと大波になって船腹を打ったからだ。その衝撃で舟は危うく横倒しになるところだった。

 オルコットは歯を食いしばって舟を漕いだ。汗が額から吹き出、顔が火のように真っ赤になる。歯の隙間から搾り出すように彼は言った。

「…ポケットに弾がある!」

 すぐ察したわたしはオルコットの上着のポケットから鳥撃ち銃の散弾を取り出した。そして銃の中折れを開けると薬室に2発装填した。

「頑張れ。もう少しだ」

 ホームズはカンテラを掲げて行手を照らしていた。

 岸辺まであと10ヤードという時、突然岩が急接近し、巨体をぶつけてきた。舟は木の葉のように揺れ、もう少しで我々を投げ出すところだった。が、皮肉にも今の衝撃で舟が岸辺へ強く押し出され、一気に近づいた。

 ホームズがカンテラと拳銃を掲げ、浅瀬へザブリと飛び降りる。続いてわたしと、オールを投げ捨てたオルコットが水中に入り、腰まで水につかりながら岸辺へ這い上がった。わたしはオルコットへ鳥撃ち銃を投げ渡し、自分の拳銃を懐から引き抜いた。

 異様な咆哮が轟いたのはその時だ。

 それは大音量となって我々を叩いた。つい忘れがちだが音は質量のある存在である。だから音の響きがあまりに大きいと、実際に人間をよろけさせるのだ。この時がまさにそうであった。鼓膜が破れなかったのは運が良かったとしか言いようがない。

 その咆哮は今まで聴いたどんな生物とも似ていなかった。ドラムとホルンを1000個も並べて一度に吹かせばこんな風になるのかもしれない。聴くだに総毛立つおぞましい声だった。

 それと同時になんとも言えない悪臭が漂い、吐き気をもよおした。

 カンテラの光が湖を照らす。

 そこにいたのは、1匹の巨大な怪物であった。

 視界を覆うほどの巨体はヌメヌメと嫌らしくテカり、アザラシを何十倍も膨らませたような大きさだ。ホームズが測ったように横幅はゆうに15フィートはある。胴体の長さは少なく見積もって50フィートはあるだろう。

 さらにその上に驚くほど長い首が蛇のようにクネクネと蠢き、その先に頭部があった。しかしその頭は鳥や動物や魚のそれではなく、鈍色のパイナップルのような形をしていて、先端には無数の触手が円状に並んでいた。

「ウミユリだ」

 呆然と呟くオルコットの声が聴こえた。

 そいつは首をうねらせ、ちっぽけな人間を睥睨した。レモンを輪切りにしたような口の周りに青く光る丸い目が5つ、等間隔に並んでいる。そしてその間にたくさんの触手が意志を持って蠢き、口中はヒルのように何重にも輪になった小さな牙がズラリと生えていた。あそこに飲み込まれたら最期、肉挽き機のごとくミンチにされるに違いない。怪物はその醜い口から涎を滴らせ、どれから喰おうか考えているようだった。

「撃て!」

 声と同時にホームズが発砲した。目も眩む銃火が闇の中に走った。

 ただちに我々は射撃を開始した。わたしの拳銃とオルコットの鳥撃ち銃が加わり、凄まじい銃声が鳴り響く。標的があまりに大きいので外しようがない。だが、弾倉が空になっても怪物が怯んだ様子は毛ほどもなかった。弾が当たったことに気づいてさえいないのかもしれない。

 グイ、と力強い手がわたしの上着の袖を引っ張った。

「オルコット、走れ!」

 ホームズに叱咤され、オルコットが走り出す。我々は南側の急斜面を息を切らせて駆け上った。しかし恐ろしいことに、我々を追跡する怪物の方が速いことは一目瞭然だった。ズルッ、ズルッ、と樽のごとき胴体を引きずる様はオットセイを思わせたが、滑稽な要素は微塵もなかった。わたしは肺が焼けるほど走ったが、絶望で足先から力が抜けてゆく気がした。辺りは冷気に包まれ、吐く息は白かったが、全身汗みずくだった。徐々に彼我の差が縮まり、怪物の息吹が感じられるほど接近した時、闇の中から唐突にドルメンの白い岩肌が現れた。我々は一も二もなくその中へ頭から飛び込んでいた。

 

 遺跡の内部はそれほど広くないので、我々は身を寄せ合って奥に座り込んだ。悪いことに入口は怪物の頭を防げるほど狭くはなかった。あの頭を突っ込まれたら助かる見込みは全くない。

 わたしが恐怖に発狂しなかったのは、隣にシャーロック・ホームズがいたからだ。

 彼は片手を振ってコルト・ネービーの弾倉をスイングアウトすると器用に空薬莢を捨て、ポケットから予備の弾を落ち着いた手つきで1発ずつ装填した。そしてまた片手を振ってカチリと弾倉を元に戻すと、銃口を入口へ向けた。走ったせいで汗を掻いていたが、じつに冷静で、焦った様子は微塵もなかった。

 それに影響され、わたしとオルコットも黙って自分の銃を装填し直した。

「奴が頭を入れたら、口の中へ全部の弾をお見舞いするんだ」

 ホームズはカチリと撃鉄を上げて平静な声で言った。

 怪物は遺跡の中へ入ってこなかった。ズルズルとドルメンの周囲を這いずり回っている。その気になれば遺跡ごと我々を押し潰すことだって出来ただろう。けれどもなぜか奴はためらい、決定的な一撃を加えようとはしなかった。それでも背中から目の前に掛けてドロドロと土を這う音が響くのは、身の毛もよだつ光景だった。

「君を連れてくるんじゃなかったな」

 不機嫌そうにホームズが呟いた。

 わたしには彼の気持ちが分かっていた。危険に巻き込んだことを後悔しているのだ。

「君を一人で行かせて帰ってこなかったら、一緒に行かなかった罪で自分の頭を撃たなきゃならんよ」

「ふん!出来の悪いジョークだね」

「なぜ奴は入ってこんのだ…?」

 オルコットが不審そうに呟く。

「やっこさんの気持ちは分かりませんが、あまり腹が空いていないのかもしれませんな」

「ホームズ君、君もワトソン君を非難できた義理ではないよ」

「まあなんにせよ力の限り戦うのみです」

 そんな軽口を言い合っている間に、いつの間にか物音は途絶えていた。

 辺りがシン…と静まり返る。

 ホームズは慎重に入口へ近づき、カンテラで周囲を照らした。

「…どうやら奴は去ったようだ」

「本当か」

「おそらくはな。だが今動くのは危険過ぎる。夜明けを待って行動しよう。野原を横断している最中に襲われたら、今度こそ助からんよ」

「信じられん」

 オルコットは闇の向こうをまじまじと見つめた。

「圧倒的な有利さを捨てて捕食しなかっただと?なぜだ」

「分かりませんね。たまたまここが安全な場所だったのかも」

「貸してくれ」

 カンテラを受け取ると、オルコットは遺跡の内部を照らした。

「見たまえワトソン、これは珍しいな!こんな文様は初めて見るぞ」

 命の危険に晒されているというのに、ホームズは目を輝かせていた。指差す天井へ目を向けると、石の表面に巨大な剣らしきものが描かれている。奇妙なことに、その長剣は左右に3つずつ刃を生やしていた。互い違いに交差する様は蝋燭立てのようだった。7つの剣先から炎が噴き出し、天を焦がしている。

「どうですオルコットさん、これはあなたの研究に貴重な閃きを与えてくれませんか」

「これは気がつかなかった。なんてわしは不注意なんだ」

 驚愕したオルコットがカンテラを近づけると、浮き彫りの線が光を受けて薄っすらと輝いた。それは絵自体が燃え上がるようであった。

「なんと見事な技術だ!こんな精巧な未知のテクノロジーは見たことがない。極めて稀少な例だ。この形状はあえて言うなら日本の七枝刀に似ている。これほどのものを見られるとは思ってもおらんかった」

 さらに調べると、どうやら遺跡に刻まれた絵や模様は暗い中で光を当てると現れる仕組みになっているらしい。カンテラの光が未知の図を次々に浮かび上がらせるとオルコット氏は狂喜した。彼はわたしにカンテラを手渡し、内ポケットから手帳を取り出すと熱心にスケッチを始めた。

 静寂が辺りを支配している。我々の他に生命の兆しは少しも感じられなかった。だがわたしは遺跡に抱かれているような不思議な安堵を覚えていた。

「ホームズ君、このドルメンは墳墓の跡ではないらしいぞ。最初から石だけで組み立てられておるようだ」

「ということは、盛り土がなくなって剥き出しになったわけではない?」

「そのとおり。そして、北側の悪魔の遺跡に対抗し、天使がこれを作ったらしい」

 指差すところを見たが、その『天使』は我々が知っているものと似ても似つかなかった。翼らしきものは生えていたが、これが人間だとはどうしても思えない。わずかに頭部を囲む三重の円が光輪のように見える程度だ。

「もしあの化け物が遺跡によって呼び出されたとしたら、ここもまた何か秘密を隠しているかもしれませんな」

 ホームズは地面に触れて、

「分かるだろうワトソン、外はあんなに寒いのに、我々は少しも凍えてはいない。地面が暖かいからだ。こんな現象は説明がつかないぞ」

「何か周囲を覆っている気がするね」

「うむ…得体が知れんな。夜が明けたらすぐ発掘しなくては」

 オルコットが頷いた。

 

 かなり長い間我々はそこに居たが、遺跡の不思議さと怪物の襲撃について議論したので、時間はあっという間に過ぎていた。やがて我々はいつの間にか寝入っていた。ふと気がつくと夜明けの深い青が空を染め上げ、再び地に活気が戻ろうとしている。

 すると遥か下の方からチラチラと明かりが幾つか見え、こちらへ近づいてきた。そして、おおい、おおい、という声が聴こえた。

「マカラムだ」

 わたしは立ち上がり、手を口に当てて叫んだ。

「おおい、ここだ、ここだ!」

 マカラムたちは我々がいつまで経っても帰ってこないのを心配し、勇敢にも救助隊を結成していた。我々が駆け寄ると安堵し、

「悪い冗談ですぜ先生。今までどこで舟を漕いでたんでさあ」

「すまなかったね、マカラムさん。なあに、ぼくらは遺跡が好きなものだから、夜を明かしてこの中で一杯やっていたのさ。うっかり寝坊してしまったが、大したことはない」

「夜中にえらい声が聴こえたが、ありゃなんだね」

「声?それはなんだい?ぼくらは気づかなかったな」

 ホームズは何気なくマカラムの二の腕を取ると、一瞬だけ力を込めた。驚いたマカラムが何か言う前に、ホームズは微かに頷いた。すぐに察したマカラムは何事もなかったようにため息をついた。

「…まったく、あんたらイングランド人は呑気過ぎて困らあ!」

「いやいや申し訳ない。探してくれたお礼に一杯ご馳走するよ」

「先生、それを期待してたんでさあ!」

 村人たちはホッと肩を撫で下ろした。あれほど奇怪な声を聴いたら普通は来ないものなのに、我々を探してくれた勇気にわたしは感服した。

「後で君の家で会おう。…いや、朝っぱらから迎い酒とは豪勢だね!」

 マカラムに耳打ちしたホームズは、今までの冒険が嘘のように快活に村人と談笑し始めた。わたしはマカラムに目で頷き、ホームズに続いた。

 

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