カーテンの間から差す、光によって朝が来たことを理解した。
昨晩は帰ってから一睡もできなかった。
鏡を見ると、今日のコンディションは最悪なことが分かる。痣もまだ消えていない。
どうするかはまだ決まっていない。
生きるべきか死ぬべきか。
殺すべきか殺されるべきか。答えは出ない。
携帯を見ると、透からメッセージがきていた。
体を気遣う文面と何処かで会えないか、といったメッセージ。
透なりに僕を心配しているのだろう。
適当なファミレスを指定して、会う事にした。
ファミレスに着いたのは、約束の時間より少し早かった。
入り口がよく見える席につく。
メニューを眺めながら、コーヒーを注文する。眠れていないせいか、視界の端が妙に霞んでいた。カップに手を伸ばそうとして、指先の震えに気づく。
深く息を吐いたところで、透が見えた。
軽く手を振ると、透もこちらに気づいたようだ。
「おはよう」
そう言って透は席に着くと、すぐにウェイトレスを呼び、同じくコーヒーを頼んだ。
「昨日は、眠れなかったのか?」
核心を突かれる。適当に誤魔化そうかとも思ったが、どうでもよくなった。
「まあ、そうですね」
「そうだよな。悪い。あんな事があったんじゃあ...」
それとは別件だが、透には言わない方が良いだろう。
「学校はどうするんだ」
「辞めますよ。もう、行けないでしょうし」
店内のざわめきと、遠くでなる食器の音がやけに大きく聞こえる。
昨日のことを思い出す。
透に相談すれば何か解決してくれるだろうか。
そんな弱気な考えが、胸をつく。
「そうか...。転入とかはしないのか」
「そうですね。今は他の事で頭がいっぱいで、そこまでしてられません」
ことの次第によっては高校に通うどころじゃなくなるだろう。
頭が重い。
考えもまとまらない。
「...カエデ。何か悩みがあるんなら私に相談してくれ。呼んだ私がいうのがなんだが、ひどい顔色だ」
透の真剣な眼差しに、ほんの少し心が揺らいだ。
けれど、それを口にしたところで、透に何ができる?
いや、そもそも透を巻き込んでいいのか?
透は、僕が今いる世界とは違う場所にいる。
「ただの寝不足ですよ」
「...嘘だな。ヤクザに何を言われた」
「見てたんですか」
「ホントにそうなのか?」
透は自分で言ったのにも関わらず怪訝そうな顔だった。
「カマをかけたんですか」
そう問い返すと、透は少し困ったように目を伏せた。
「話してくれ。カエデを助けたいんだ」
「だめですよ。関わらないほうが良い」
透の眉がわずかによる。
「そんなこと言われて、はいそうですかって引き下がると思う?」
透はカップを傾け、コーヒーを一口飲んだ。
苦い液体を嚥下しながら、じっと僕を見ている。
何か言わなければと思ったが、うまく言葉が出てこない。
「...トオル先輩は普通の生活をしていてください。僕はもう戻れませんから」
「お前が言ったんだぞ」
透の声は震えていた。
「なんです?」
「お前が、いつでも助けれるように、見とけって言ったんだ」
そういえばそんなことを言ったんだった。
一時の気の迷いだった、とは言わない。あれは紛れもない本心だった。
「自分の言葉には責任を持てよ。カエデが話してくれないなら、私は四六時中カエデのことを追いかけていくからな」
「なんですか、それ」
思わず笑いが漏れる。
「な、なに笑ってんだよ。私は真面目だぞ」
この人には敵いそうにない。
透は本当に僕を見捨てる気はないらしい。
「巻き込まないって決めたんです」
「それを勝手に決めるなって言ってるんだ」
透は腕を組み、まっすぐ僕を見据えている。
その瞳の奥には、確固たる意志があった。
「カエデがこれまでも、今も、どれだけのことを抱えてきたのか、私は知らない。でもな、もう一人で戦わなくても良いんだ。私がいる。カエデが生きていけるんなら、私はなんだってやる」
透の言葉はまるで誓いのようだった。
しかし、何もかもが遅かった。
でも、もう一度やり直せるのなら、この人にだけは頼って良いのかもしれない。
「...じゃあ、少しだけ、話します。逃げたくなったらいつでも逃げてください」
「逃げるわけないだろ」
僕は震える手でカップを持ち上げた。
カップの中のコーヒーは僕の心のように揺れていた。
視線をテーブルに落としながら、ポツポツと語り出した。
弓弦を組に売れと言われたこと、従わなければひどい目にあうだろうこと。
透は僕の話を聞くたびに憤りの表情を浮かべた。
「そんなことが...」
「聞いて後悔したでしょう」
「見くびるなよ、カエデ」
透は険しい表情で僕を見つめた。
「私がなんとかしてやる。だから、カエデは逃げろ」
「なんとかって、何する気ですか」
「...なんとかするんだよ」
透には危険なことはしてほしくない。
「危ないことはしないで下さいよ」
「父親かっての。一番危なそうな奴が何言ってんだか」
透はあくまで平静を装っていた。
「それで、カエデはどう動くつもりなんだ」
「まだ、分かりません。取り敢えず弓弦さんに会いにいって話すつもりではありますけど」
「売るつもりはないんだな」
「...ええ」
正直迷っていた。
しかし、ここで迷っているとか売るつもりだとか言えば、きっと透に失望されることだろう。
それは避けたかった。
「そうか」
透は安心したような、苦々しいような表情を浮かべた。
「とにかく、方針が決まったら私に連絡しろ。何にも連絡がないんなら私は勝手に動くからな。いいな」
「分かりましたよ。何かあったら連絡します」
透はそれだけ聞くと伝票を持って会計に向かった。
透が会計を済ませている間、カップの中のコーヒーをじっと見つめていた。
このまま弓弦さんに会いに行く。
でも、それで本当に何かが変わるのか?
そんなに甘い相手じゃない。
僕が何をやろうと、結局は向こうの思い通りになるだけかもしれない。
「...行くしかないか」
小さく息を吐き、震える手を押さえながらカップを置いた。
透が戻ってきて、俺の顔を覗き込む。
「今から行くのか?」
「はい」
「ついて行こうか?」
「ダメですよ。先輩は連絡があるまで待機していてください」
「絶対連絡しろよ」
「...分かってますよ」
透はジッと俺を見つめたあと、ふっと小さく笑った。
「まあ、いい。無茶するなよ」
「努力します」
立ち上がり、透に軽く頭を下げる。
「...ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いだろ」
「そうですね」
ファミレスのドアを開けると、外の光がやけに眩しかった。
透と別れた後、ポケットからスマホを取り出す。
弓弦の番号を探し、指が震えないようにゆっくりとタップした。
コール音が鳴る。
心臓が、嫌な音を立てているのがわかる。
数回のコールの後、電話が繋がった。
『もしもし?』
少し低めの、落ち着いた声。
俺は息を吸い込んで、短く告げた。
「弓弦さん。会って話がしたいです」
『別に構わないが、なんの話だ』
「クラブの話です。ヤクザ絡みの」
『...分かった。カルミアの前で待ってろ』
了承の返事をして通話を切った。
はやる気持ちのまま指定されたカルミアへ急いだ。
店の前で10分ほど待っていると、弓弦が駆け寄ってきた。
「待たせたか」
弓弦の眼光は普段より鋭く見えた。
「いえ。それで電話の件ですが」
「ここじゃなんだ。落ち着いて話せるところへ行こう」
「どこへ行くんです?」
「俺の家だ」
タクシーに10数分ゆられ、弓弦の住むアパートに到着した。
そのアパートは静かな住宅街の一角にひっそりとたたずんでいた。
弓弦の家と聞いて高級マンションのようなものを想像していたが、目の前のアパートは外観からして高級とは程遠く、単身者向けの一般的なものに見えた。
「意外か?」
「はい。正直、もっと高そうなところに住んでるかと思ってました」
弓弦は微笑を浮かべながら尋ねてきた。
「いつ逃げるとも分からんし、職業不定の人間に貸してくれるとこも限られてるからな。こんなとこの方が都合が良いんだわ。まあ、セキュリティとはトレードオフだが」
「なるほど」
それなら弓弦はいつでも逃げる用意があるということだろうか。
早くに動けるには越したことはない。まだ希望はあるかもしれない。
弓弦に続いてアパートの階段を上り、3階に上がったところで方向を変え廊下へと進んだ。
角につくと弓弦はポケットからカギを取り出し、扉を開けた。
「入れよ。初めてのお客様だ。歓迎するぜ」
「お邪魔します」
内装は殺風景なワンルームマンションだった。
人が住んでいるにしては物が少ないが、玄関では互いの死角を隠すようにペットカメラが動いており、部屋に入っても同じようにカメラが動いていた。
「ヤクザからなんて言われたんだ」
弓弦は冷蔵庫からお茶をコップについで僕の目の前に置いた。
軽く頭を下げて受け取り、一口含んだ。
「弓弦さんを3日以内に建部組につれてこい、と」
「理由は」
「組内部のことなのでよく知りませんが、組長が上に行くために必要なんだそうです。瑞樹さんの代わりにお礼参りされるんだと思います」
弓弦から舌打ちが漏れる。
「連れてきたらカエデは何がもらえるんだ」
「クラブです。弓弦さんの後釜に僕を据えて、クラブを自由に動かすつもりみたいです」
「なるほどな。俺に話を持ってきたってことは言いなりになるつもりはないんだろう」
弓弦は少し微笑んだ。
「ええ。一緒に逃げてくれるんならですけど」
「いいぞ。ただ、納得できる理由を教えろ。ヤクザの顔に泥を投げつける決意をしたな」
「色んな事が嫌になっただけですよ。人を裏切ってヤクザに売るより、逃げる方が悩み事が少なそうだ、て思ったんです。僕はただ楽になりたい。このままじゃ、しんどいだけですから」
まぎれもない本音だった。
何も考えず、何かに煩わされずに、ただ眠りたかった。
現実から目を背けた選択だ。
どっちを選んでも大して楽にはならない事は分かっている。
それでも、今が楽なほうへ何も考えずに流れて行きたかった。
「アハハ。正直者だな、お前は。こういう時は嘘でも、恩があるから、とか言うもんだろ。いいぞ。これから先、俺たちは一蓮托生だ。2人で逃げ切るぞ」
弓弦は手を僕の方に差し出した。
「はい。よろしくお願いします」
僕はその手を取った。
それだけで何かが救われた気がした。