しばらく呆然と車窓から景色を眺めていると、さびれた工場の前で車が止まった。
同じようなバンが近くに止まっている。おそらく組員のもので、中で待機しているのだろう。
殺されるのか、はたまた生かされ今まで以上の苦痛と辱めを受けるのか、どちらにせよ全てはもう決まってしまって自分にはどうしようもなかった。
いっそのこともう殺してほしかった。
弓弦の放った銃弾にあたっておくべきだった。
あの時死んでおくんだった。そんなことばかりが頭を埋め尽くしていった。
「降りろ。余計なことはするなよ」
促されるままに、車から降りる。
両脇はしっかりとかためられ、逃げることはできそうもない。そんな気力も残っていなかったが。
視界の端で、物言わぬ屍になった弓弦が2人がかりで運び出されているのが見えた。
深夜の工場はまるで時が止まったかのように静まり返っていた。シャッターは固く閉ざされ、外からの明かりはわずかな月の光だけだ。
「待ってたぞ」
暗闇のため、遠くからは表情が伺えないが、声と態度からして千屋だということが分かる。
声の調子は明るく、立身出世の計画が一部破綻したことを感じさせなかった。
「千屋さん、すいません。ふたりが仲間割れを起こすとは思わず」
「まあ、良い。片方は手に入ってるし、ウチの人間が死んだわけじゃねぇ」
千屋はこともなさげに下がらせた。
「結城、残念だったな。お前なりにいろいろと策を弄したんだろうが、結局全部無駄だった。知ってるか。逃げる側は常に運が味方しなきゃ逃げられないが、追いかける側はたった一度の幸運だけ捕まえられるんだ。高い勉強代になったな」
千屋は楽し気だった。
その様子からまだ悪夢は続くことを悟った。
「いつもなら殺すところなんだが、まだお前には価値がある。白石が手に入らなかった分だけ働いてもらわなきゃならないわけだ。私の栄光のために、な。ただし、そうは言ってもおとがめなしじゃあ、示しが付かない。罰は受けてもらう」
この期に及んでも、千屋はまだ僕を搾るつもりでいるらしい。
反抗する気力はない。
もう何もかもがどうでもよくなっていた。
「連れてこい」
千屋が後ろに向かって声をかけると、千屋の部下らしい人間が僕の前に何者かを引きずってきた。
「トオル、先輩?なんで」
「カエデか。すまねぇ。あんな大口たたいておいてこのザマだ」
透の顔はひどく腫れ、瞼や鼻や口、顔中至る所から出血の跡があった。
「結城、お前が処理しろ。人のために命を捨てれるやつってのは、生かしておくと大抵は次も同じことをやるもんだ。消えてもらわなきゃ私が困る」
「なんで僕が...」
「言ったろ、罰だって。それと最後まで愛に生きたコイツへのご褒美さ。罰ってことを抜きにすれば、別にお前が殺さなくちゃならないわけじゃない。でも本当にいいのか?」
千屋は部下にタバコの火をつけさせながら、楽し気に言った。
「私たちのストレス発散にリンチされて殺されるかもしれないし、どこかの変態に売り飛ばされて拷問を受けながら死ぬかもしれない、はたまた眼球やら内臓やらを根こそぎ取られて、すっからかんにされるかもしれない。そうなるより、愛する人間の手で殺されるほうがマシだろう。なあ、ミナト」
千屋は僕の反応を楽しむようにタバコを透の額に押し当てた。
「ぐっ」
透の口から苦悶の声が漏れる。
「さあ、得物はこっちで用意してやった。白石を殺った時みたいにすればいい」
千屋の部下に無理やりナイフを握らされた。
刃渡り10センチ以上はあるだろう、鋭利なナイフだった。
弓弦を刺したときの感触と匂いが蘇り、吐きそうになる。
「僕は...」
「私を殺せ、カエデ」
僕の言葉にかぶせるように、透が答えた。
瞳はじっとこちらをとらえて離さなかった。
「いやだっ、そんなの」
できるはずない。
弓弦を殺したときは無我夢中だった。
弓弦に殺される恐怖があった。
しかし、今はそんな状況ではない。
どうやら、千屋はまだ僕のことを殺すつもりはなさそうだし、透の様子から僕を恨んでいる風には思えない。
むしろ、自分の命を使って僕を生かそうとしているように思える。
「私がトチったせいでこんなことになってるんだ。恨みゃあしない」
透の声は掠れていて、喉の奥から絞り出すような声だったけれど、それでも迷いはなかった。
血の跡が残る顔の奥、腫れた瞼の隙間から覗くその眼差しは何処までも澄んでいた。
「早く楽にしてやったらどう?コイツはもう覚悟が決まってるみたいだぞ」
千屋のざらついた声が工場に響いた。
重く濁った空気をさらに歪ませる、そこ意地の悪いその声は背筋を冷やすのには十分だった。
震える手でナイフを見つめる。
白く冷たい刃先に、自分の顔がぼんやり映っていた。
また人を殺すのか?
どうすることも出来ないのか?
「なあ、カエデ」
透がまた僕の名前を呼んだ。
ただ、それだけで心臓が締め付けられた。
僕はナイフを持つ手を見た。
震えていた。
手のひらは汗でじんわり湿っている。
「カエデ、私は大丈夫だから。あとは、お前が生きてくれれば良いんだ。それだけで...」
まるで赦しのような言葉だった。
違う。
救いなんかじゃない。
これは罰だ。
無責任に他人を巻き込み、その末ここで立ち尽くし、何も選べず足を震わせていることの。
「しょうがねぇな。おい、やらせろ」
千屋が僕の背後の部下に命令した。
背後で靴音が響き、ナイフを握る手を上から包み込むように万力のような力で握られた。
どう力を込めても振り解けそうにない。
「やめろっ」
そのまま僕の手は透の首元へと誘導されていく。
「どうするんだ?このまま...」
「カエデ、生きろよ」
透が千屋の声を遮り、千屋の部下に拘束された体を引き延ばし自ら喉笛をナイフに差し出した。
ナイフの切先が皮膚に沈み、赤が滲み出す。
刹那、手に伝わる感触が変わった。
皮膚を、筋肉を、引き裂いていく。その感触はもう二度と体験したくないと思っていたあの感触だった。
熱いものが僕の手の中に広がる。
透の体は痙攣し、やがて力を失っていった。
ナイフが僕の手から滑り落ちると同時に、透はゆっくりと僕にもたれかかるように崩れ落ちた。
目は開かれていたが、とうに光は失われている。
「いやぁ、見事だな。尊い愛だよ全く。自分の命を捨ててまで、愛する人間を生かすとは」
千屋の声はもう耳に届かなかった。
ただ、透の体をそっと横たえ、瞼を閉じてやることしかできなかった。
「結城の野郎、自殺とか考えてるんじゃないですか。ここで死なれたら大損ですよ」
組員に件の結城を家に送り届けるよう命令してから、建部組の若頭である玉野は上機嫌そうな千屋に内心の不安を伝えた。
「しばらくは監視もつけるし、売春の仕事で生存確認もとれる。それに、今わの際に生きろって言われたんだ、早々死ねないだろうさ」
千屋はタバコを唇に咥えなおし、ゆっくりと紫煙を吐いた。
「まあ、ノウハウが吸収できるまでの間だけ生きてもらえれば良い。今回ので大分懲りただろうが、私たちに恨み骨髄の奴をずっと飼っておくわけいかないさ」
短くなったタバコは知屋の手から地面に捨てられ、靴で押しつぶしもみ消された。
「さっさとバラして運ぶぞ。ここは空気が悪くてかなわんからな」
医療廃棄物用の箱に少し小さくなった体を入れている部下を眺めながら、千屋は次のタバコに火をつけた。