滝沢の来襲があった翌日、カエデは人気につかないテナントビルの一室で帳簿に目を通していた。
このビルは金払いの良い上客のためのモノで、そこでは定期的にドラッグやら乱行やら、その他外には出せない欲望を発散させるためのパーティーが定期的に行われていた。
ここで遊んでいることが外に知られるとまずい人間が多いので、セキュリティには気を使い、表のカメラとマイクで顔や名前などの本人情報を確認した後、中から開錠するような仕組みにしている。中に人がいない場合は、カエデが持つ鍵で開錠しなければならず、そのセキュリティは帳簿や名簿などの重要なものを保管するのにも役立っていた。
帳簿の数字をなぞっていく。ケイやユウの付けた帳簿には特に不審な点は無い。だが、利益の点で言えば、ここ最近は頭打ちだった。それは、一般の客相手だけではなく、高級路線を進むこのビルで行われるパーティーも一緒だ。
どんどんと後発も生まれてくる。建部組が後ろにいるような所は潰せるが、ほかは余計な波風を立たせるだけのため、あからさまな攻撃は避けていた。
旨味がないわけではない。だが、稼ぎ切った、というのが所感だった。薬物やシゴトを強制させているため、昔より、リスクも上がっている。今はほかの収入がある為この売春クラブがなくなっても、金銭的にはそこまで痛手ではない。
しかし、クラブがつないでいる上流の人間との縁や、建部組に対してのエサ、その他の裏の繋がり。それを維持するためには、捨てるに捨てれなかった。
「まあ、どちらにせよ、目的を果たすまでの間だ。それさえ果たせば、意味なんてなくなる」
そんな独り言をこぼすと、チャイムが鳴った。
日程を勘違いした客かと思い、カメラを確認するとどうやら違うようだった。
浅黒い肌に、堀の深い顔立ち、日本人ではないその容姿から大体のことは察した。
「どちらさん?」
『クラーヴィのカミラです。ボスからの指示でお迎えに上がりました』
カミラと名乗った女は、流暢に用件を伝えた。
「分かった。今いくよ。それと、君のボスに、用があるときは一報入れろって言っておいて」
カエデはインターホン越しに言い放つと、帳簿を机の引き出しに滑り込ませ、鍵をかけた。ついでに、机の下に設置してあるセーフティボックスのダイヤルも確認する。中には名簿と、いざというときのための拳銃が一丁入っていた。
拳銃を持っていこうか迷ったが、いらない警戒を抱かせたくないため辞めた。
エレベーターを降りドアに向かい、慎重に開錠する。カチリと音を立ててドアが開くと、そこに立っていたのは黒のパンツスーツをビシッと着こなした長身の女だった。髪をひとつにまとめ、スーツ越しでも分かるような引き締まった体つきが、ただの使い走りではないことを物語っていた。
「カミラさん、だったね。どうも、初めまして」
「ええ。どうも、カエデさん。車まで案内します」
外に出ると、テナントビルの裏手にいかにもな高級車が停まっていた。
運転席、助手席に1人づつ、構成員と思わしき女が座っていた。
ドアを開けると、革張りのシートからほのかに香水と煙草の香りが漂ってくる。カエデはその匂いにほんのわずか眉をひそめたが、無言で乗り込んだ。
後部座席に挟まれる形で乗り込むと、高級車らしい滑らかな動作で車が進み始める。
暫く道なりに進むと、助手席の女が車のモニターを操作し、通話画面に切り替えた。
『やあ、カエデくん息災かな』
スピーカーから女の声が流れる。クラーヴィのボスにして、海外マフィアの幹部、レナータの声だった。
「ええ、それなりに。それで、なんのようですか?」
『進捗確認ってやつだよ。タケベに対しての仕込みは上々なようだが、肝心のセイキカイには、まだまだ不足しているように見える。我々は結果を求めているし、キミにはそれを果たす義務がある。わかるわね、カエデくん』
「分かってますよ」
『よろしい。私もキミに無償で援助をしたつもりはない。あれらは融資だ。当然、借りたものは返さなくてはならない。借金の返済は慣れてるだろう?』
「...どこまで調べたんですか?」
スピーカー越しに、小さく笑うような息が漏れた。
カエデはクラブを大きくする過程でレナータの組織から資金や情報、時には人材を借り受けていた。それがなければクラブの拡大はあり得なかったとは言え、大きな借りになっていた。
レナータの出した条件は、清輝會を潰す、若しくはそれに近い状態にすること。カエデの標的は建部組だけだったが、その過程のことを考えると利害は一致していた。
『そんなキミに今日はプレゼントを用意したんだ。渡してやれ』
レナータがそう命じると、カミラの逆サイド、カエデの左側に座る女からファイルを渡された。
中には、見覚えのない女の顔写真や住所などの個人情報が記されていた。
「清輝會の関係者ですか?」
名前には、鷹宮沙那とある。鷹宮は清輝會会長、鷹宮亜紀と同じ名字だ。
『セイキカイのボスの一人娘よ。年頃はカエデくんと同じくらいだし、話も合うんじゃないかしら』
「僕に何をやらせたいんですか」
レナータの声が少しだけ愉快そうにくぐもった。
『そう構えないで。何も消せと言っているわけじゃないわ。少なくとも、今はね』
車内の空気がわずかに張り詰める。カミラたちは無表情のまま、モニターに目もくれず前方だけを見据えている。運転は相変わらず滑らかで、不穏な話とのギャップがどこか滑稽ですらあった。
『彼女を上手く使いなさい。一人娘なのもあってタカミヤは子煩悩でね。色々と使えるとは思わない?女を引っ掛けるのは慣れてるでしょう?』
カエデは黙ってファイルを見つめた。
写真の中の彼女は、一見してヤクザの娘には見えないが、鋭い目つきが危険な匂いを感じさせた。
「...」
『キミがソレを使わずに私のオーダーをこなせると言うのなら、好きにするといいわ。けれど、時間はあまりないわよ。事が始まれば、こうして話すのも手間がかかるのよね』
「分かってますよ。上手く使います」
カエデは白旗を振るように、ファイルを頭の横でひらひらと振った。
『さすがね、カエデくん。話が早くて助かるわ。ホテルまで送ってあげなさい』
カエデは襲撃の警戒や拠点を掴ませないためにホテルを転々としていた。この様子だとその事も知られているのだろう。今日のいきなりの来訪を含めて、何処かで監視を付けられているのかもしれない。
車はやがて幹線道路から外れ、静かな通りへと入っていった。背の高い建物が立ち並ぶ中、カエデはファイルを膝の上に置いたまま、黙って窓の外を見ていた。街の灯りがガラスに反射しては流れていく。そのどれもが、カエデの中の不安と焦燥を静かに煽っていた。
ホテルのエントランスに到着すると、運転手の女が静かに降りてドアを開けた。カエデは無言で頷き、車から降りる。振り返ると、カミラが車内からわずかに身を乗り出し、言葉少なに告げた。
「近いうち、また来ることになるでしょう」
「その時はアポイントを取ってくれると助かるな」
カエデが皮肉気に返すと、カミラは微かに口元を歪めて笑った。それが、愛想なのか警告なのかは判断がつかなかった。
ロビーを抜け、エレベーターで部屋へと向かう。カードキーをかざし、静かにドアを開ける。荷物も最低限しか置かれていない簡素な部屋だ。ベッドの端に腰掛けると、膝の上にファイルを広げ直した。
タカミヤ・サナ。年齢は21歳。青嶺大学3年生。
プロフィールには大学での様子や通学ルート、通っているカフェなども事細かに記されていた。写真は数枚。どれも無防備な瞬間を切り取ったものばかりで、狙われていることに本人は気づいていないのだろう。
「まずは、裏取りからか」
ここ数年で表には出せないような知り合いが随分と増えた。その中には、金に汚い公安崩れもいる。多少値は張るが元公務員だけあって仕事は確実だった。
カエデはスマートフォンを取り出し、チャットを送った。その内、法外な報酬の請求と情報が送られてくることだろう。
「ボス、彼に入れ込みすぎではないですか」
カエデと呼ばれていた少年をホテルに送り届けた後、カミラは疑問を投げた。カミラの声には冷静さの中に、ごくわずかな苛立ちが滲んでいた。マフィアグループの一員として、彼女は実力にも忠誠にも自信がある。だからこそ、あの年若い男に向けられる特別待遇が気になっていた。
『入れ込んでる訳じゃないわ。駒は使える時に使う、それだけのことよ。彼がセイキカイを倒せたとしたら、それだけ上からのオーダーを早くに達成できる。素晴らしいことじゃない』
そもそもカミラ達がこの国に来たのは、カミラの上のレナータのそのさらに上、本国のマフィアグループを束ねる強大なカルテルの意向だった。
目的は新しい薬物の販路拡大。そして、この国に進出するための橋頭保の確保。そのために現地のマフィアと友好を結び、信頼を得る必要がある。そこで白羽の矢が立ったのが、海外マフィアに比較的融和派であり、大きな勢力を誇る清輝會トップの鷹宮だった。
この鷹宮のラインを使って、営業や根回しを行うことを基本戦略として動いているが、清輝會が力と影響力を大きく落とし、混沌とした情勢になれば、回りくどい手段を使う必要はなくなる。
しかし、カミラには件の少年がそんな大それたことを出来るとは到底思えなかった。
「彼はまだ若い、それにただの男ですよ。いくら、売春ビジネスが成功してようと所詮はそれだけ。マフィアを相手に立ち回るなんて無理でしょう」
『無理だと思うなら、試せばいいのよ。結果はすぐに出るわ』
レナータの声がカミラの意識にまで届くようだった。その声には、淡々としながらも楽しげで揺るがぬ自信が滲んでいる。
カミラはため息をつき、背筋を伸ばした。忠誠心や実力に自信を持つ彼女にとって、この若者を「駒」として扱う上司のやり方は不完全に見えた。だが、それを口に出せば自らの立場を危うくすることになる。
それ以来車内に会話はなく、車は夜の街明かりに吸い込まれていった。