「五十六、五十七、五十八……」
頭皮から汗が滑り落ちる。もう何回も繰り返したルーティンだったが、若さ故か代謝は発汗を促している。
所謂筋トレ。近頃僕は、自分の体を鍛えることに熱中していた。
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「にしてもお前、どうして急に筋トレしだしたんだよ」
「ちょっと憧れの人がいて」
その言葉に嘘は無い。だが、憧れの人は筋肉隆々というわけではなかった。
僕の求める理想の自分。それはあの人──テイオーちゃんのトレーナーさんだった。
あの日、テイオーちゃんがトレーナーさんと一緒に訪問してきた日から、彼のことが頭から離れなかった。
彼女の隣に立つに相応しい、スラッとした立ち姿。言葉は流暢で、大人の余裕を感じさせる。
かっこいいと思った。そしてそんな人間になりたいと思った。
というわけで手始めに筋トレから始めることにした。筋肉がつけばこんな僕でも自信を持てるようになるのではないかと考えたからだ。
「俺が言うのもアレだけどよ。勉強は大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないけど、とりあえず時間はなんとかしてるよ」
勉強時間は減らせない。ただでさえ赤点スレスレなのだから。
そこで削ったのが、睡眠時間。初期の段階では筋肉痛で中々寝られなかったが、今は疲労感が意識を程よくシャットダウンさせてくれる。
「ほーん……まあ頑張れよ」
「うん」
友人は中肉中背で、腹筋が割れている。そういう所も羨ましく思う。
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「そっちはどう?」
『いやーそれがさー。何回も怪我しちゃったからトレーナーのチェックが入念でさー』
度重なる骨折によりトレーナーさんはテイオーちゃんに付きっきりらしい。トレーニングの際は片時も傍を離れないだとか。
「トレーナーさん、かっこいいよね」
『そう?確かにイケメンだと思うけど……』
小学生の時とは違い、今のテイオーちゃんにはトレーナーさんがいる。頼りがいがあって、眉目秀麗な人。僕が隣にいることも、無い……。
……?なんだ、これ。
「……テイオーちゃん、はさ。トレーナーさんのこと、どう思ってるの?」
『え~?どうしたの急に。……うーん、ボクが一番辛い時もボクの意志を尊重してくれたし、普段も頼りになるし、尊敬してるし、いい人だと思うよ』
彼女に相応しいのは彼のような人間だろう。……僕のような粗悪品に、そんな価値は無い。
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招、今なにしてるかな。最近筋トレ始めたって聞いたし、腕立て伏せでもしてるのかな。
「はぁ……」
「どうしたの?ため息なんてついて」
「前マヤノが言ってた『恋』の意味が、最近ようやく分かったんだよね」
「え、なになにテイオーちゃん好きな人できたの!?」
もう今はそのことしか考えていない。初めての恋は刺激的で、偏執的だった。
枕を抱いてベッドをゴロゴロしながら身悶えする。
「あ゛あ~……!」
「テイオーちゃんが壊れた……」
あの日……ボクに走れと言った招、かっこよかったなあ……。
トレーナーはもちろんイケメンだと思うけど、恋愛的な好きとはまた違う。
そしてようやく分かった。ボクは招のことが友愛とは違う意味で好きだ。あの必死に努力する姿が、網膜を焼き付いて離れない。
「どーしよっかなあ……電話しようかなあ……」
「今までその、えーっと招ちゃんだっけ?に対して普通に話せてたんでしょ?」
「そーなんだけどさあ……改めて恋心を自覚すると緊張するって感じでさあ……」
きっとボクが何を話しても招はいつも通りに接してくれるだろう。あの自己肯定感の低さ的に、自分が恋愛的な意味で好かれているとは露ほども思わない筈だ。
「テイオーちゃん、オトナの女になったんだね……」
感慨深そうに呟くマヤノ。どーしよっかなあ……電話しようかなあ……。
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『また招の家に遊びに行っていい?』
「ん?いいよ。いつでも大歓迎だよ」
テイオーちゃんが来るとなればうかうかしてられない。今すぐ掃除しないと。
筋トレも倍にするか。彼女の幼馴染みとして、かっこいい僕でいないと……あれ……?
かっこよくなって……何がしたい?
何がしたいって、それは当然テイオーちゃんの幼馴染みに恥じない自分になりたくて、トレーナーさんみたいな人になりたくて……
もう彼女の傍にいるのは僕じゃないのに、何故努力している?
何故って……それは……
…………あれ?
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「やっほー、招」
「いらっしゃい」
約束の日はすぐにやってきた。
親友との久しぶりの再会ということで気を利かせてくれたのか、両親は出払っている。
菓子を盆に盛り、僕の部屋へ直行。一応僕の家にも二人で遊べるゲームはある。
「ねえ、またやる?お菓子を賭けた勝負」
「……負けないよ」
そう言うと、テイオーちゃんはやけに嬉しそうに……嬉しそうに?どちらかというと獲物を見つけた動物みたいな……そんな喜色が漂っていた。
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「イェーイ、ボクの勝ち!」
「……本当にテイオーちゃんは強いなあ」
手加減は無し。それは幼い頃に決めた制約だ。
それでも、負け続きでも幸せだった。
いつだってそうだ。テイオーちゃんと語らう時、交流を深める時、一緒に歩く時……。僕の中では大きな幸福が萌芽していた。
「よし、僕の勝ち……ってええっ!?逆転された……!?」
「詰めが甘いな~。ワガハイはこの程度じゃやられないよ~?」
楽しい。一番の親友とこうして遊べることが、何よりも嬉しい。
親友。それが僕にとっての一番だ。その筈だ。なのに、なんだこのモヤモヤする感じは。
いつかの、シンボリルドルフさんについて熱く語っていた彼女を前にしても、このモヤモヤは表れていた。
そし、て、
「…………あれ?」
「ん?どうしたの?」
トレーナーさんとテイオーちゃんの二人組を見た時も、このモヤモヤは発現していた。
「招?おーい」
「…………あー、ごめん、なんでもない」
それはきっと世迷い言だ。
僕だけが、彼女の隣にいたいなど。
「?……そうだ。ねえ招。最近鍛えてるんでしょ?」
「うん。まだそこまで筋肉ついてないけど」
「じゃあさ、ボクと腕相撲してみない?」
「は……?ど、どうして急にそんなこと」
「いいの?ボクに勝てるチャンスだよ?そうだ、ハンデとして招は両手使っていいよ」
「…………」
「もしかして……ボクに負けるのが怖いの~?」
「……分かったよ。やってやる……!」
挑戦を決めた僕を、何故か彼女は恍惚とした表情で見つめていた。
……ええい。今は勝負に集中しろ。いくら相手がウマ娘だからって、勝てない道理は無い。
「いつでもいいよ」
机に右腕を乗せ、準備を終えたテイオーちゃん。僕は意を決して両手を添えた。
「…………っ」
今まで何度も握ってきた手なのに、酷く緊張する。陶器のような肌はすべすべとしていて柔らかく、年相応の瑞々しさを放っていた。
「それじゃ、よーい、スタート!」
合図と共に全力で引き倒そうとする。が──
「ッッッ……」
動かない。満身の力を込めているのにピクリともしなかった。
「じゃ、いくよ」
彼女がそう言ったと同時に僕の両手は勢いよく叩きつけられた。
「……負けた」
……今度こそ。次、このような事態になった時勝てるようにと、筋トレを強化することを密かに誓った。
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「じゃあね。今日は楽しかったよ。ありがとう」
「そんな、お礼を言うのはこっちの方だよ」
……嫌だと、思ってしまった。
テイオーちゃんを帰したくない。そんなワガママが思考を支配している。
彼女には次に挑むレースがある。それを僕のエゴで縛りつけるなんて、あってはならないことだ。
だから、そんな考えを言葉ごと飲み込んで見送ろうとしたのだが、
「……あっ、ちょっと待って。一回招にやってみたかったことがあるんだ」
「?なに?」
こちらに歩いてきたかと思うと、彼女の体は勢いよく僕の胸に飛び込んできて。
「…………!?て、テイオーちゃん!?」
「ごめん。もうちょっとこうさせて」
所謂ハグをされた。
脳内が真っ白になる。突然の行動に体は固まり、動けない。
「ん~…………」
「て、テイオー、ちゃん……?」
ぐりぐりと僕の胸に頭を擦り付けられる。一体何が彼女をこうさせているのか。
「よし、補給終わり!じゃあね、招」
「…………」
去り行く背にかける言葉は見つからず、彼女の姿が見えなくなるまでぼーっと眺めていた。
それにしても、この胸の高鳴りはなんだろう。テイオーちゃんを間近で見てからずっと心臓がうるさい。
「…………なんだったんだろう」
この衝動にも、さっきの行為にも、それらしい答えは見つからず悶々とした気持ちで自室に戻った。
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「そこまでやって告白しなかったの!?」
「だ、だってさ~……」
実際、招と遊んで腕相撲して抱きついただけで満足してしまった。
我ながら攻めに攻めたから聞いているマヤノの顔は真っ赤。結構刺激が強い話になった。
告白かあ~……。招の恋人に……いけないいけない。想像しただけでくらくらしそうだ。
招はボクのことどう思ってるんだろう。やっぱりただの友達としか思ってないのかな。
「これはマヤの勘だけど、招ちゃん多分テイオーちゃんのこと好きだと思うよ」
「あ、それはボクも分かってるよ。ただ友達としてだけだったら怖いんだよね~……」
「そういう意味じゃなくって……」
恋人になって特別したいことがあるわけじゃない。それでも、もう一歩踏み込んだ関係になりたい。
ボクに本気で勝とうとするあの目。そんな視線を感じるだけで心の底からゾクゾクする。
「あ~……やっぱり好きだな~……」
「……テイオーちゃん」
いつからこんなにぞっこんになったんだろう。ほっとけない親友と思ってたら、あんな形で激励されて……正直、かっこよかった。多分そこからだ。
……でも、振られたらどうしよう。改めて今までみたいに交流できる自信が無い。
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「……はぁ」
勉強に身が入らない。テイオーちゃんが遊びに来た日から、何をしても彼女のことが頭に過るようになってしまった。
僕の唯一の親友。それだけでよかった筈なのに。
「……くっ」
忘れるな。僕にそんな価値は無い。学生の本分である勉強すら上手にこなせない、愚鈍で能なしの僕が彼女を引き止めることなど。
そうだ。僕に価値は無い。親友としてだけでも十分すぎるくらいなのに。
……だけど、仮に名づけるとしたらこの感情は何と呼ぶのだろう。
そんな思考に耽っていると着信音。相手はもちろんテイオーちゃんだった。
『もしもし招?今勉強中?』
「いや、ちょうど休もうと思ってた頃だよ」
いつも通りなんでもないような話をした。そんな細やかな幸福を噛み締めていると、彼女は唐突に問いを投げかけてきた。
『ねえ、もっかいレース見に来てくれたりしない?』
「場所によるかな」
『じゃあ、今度さ。招ん家に比較的近い所でレースやるんだ。……だから、見に来てくれる?』
「分かった。行くよ」
奇跡の復活を目撃した日から僕はレース観戦にハマっていた。
走るテイオーちゃんは格別にかっこいい。見ているだけで胸が震える。
あの輝きをもう一度見られるなら、多少交通費がかかろうと構わない。
『招はさ、ボクのレース好き?』
「うん。もちろん」
『そっかあ……。あはは』
「?なんか変なこと言った?」
『違う違う。嬉しいんだ。そう言ってもらえると』
心臓がうるさい。一体いつからこんなにままならなくなってしまったんだ?
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〈トウカイテイオー、今一着でゴールイン!〉
「……すごいなあ、テイオーちゃん」
涙がこぼれた。やっぱり彼女は、太陽のように強い光を発している。
「越雲招くん、だよね」
「……っ!?トレーナーさん……?」
レースが終わりウイナーズ・サークルに立っているテイオーちゃんを見ていると彼女のトレーナーさんが声をかけてきた。ただの一観客に過ぎない僕に一体何の用があるというのか。
「控え室に来てくれる?もうすぐテイオーがウイニングライブの準備を始めるから」
「……分かり、ました」
間近で見てもトレーナーさんはかっこいい。対する僕はなんだか冴えない姿。纏うオーラからして別物だった。
……確信する。僕とテイオーちゃんは違う世界の生き物だ。僕が隣に立ちたいなど、叶うわけがなかったんだ。
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「あ、招!どうだった?ボクのレース」
「かっこよかったよ」
「にしし!でしょー!」
僕が控え室に入るとトレーナーさんは部屋を出てしまった。一体何の目的で呼び出されたんだ?
「ところで、なんで僕がここに……?」
「ああ、そうそう。それなんだけどね。……レースの時より緊張するなー」
彼女の頬はほんのり色づいている。改めて見ても美少女だよなー、テイオーちゃん。
そんな間の抜けたことを考えていると、爆弾発言が飛び出した。
「あのね……ボク、招のことが好き!勘違いされそうだから言っておくけど、恋愛的な意味で大好き!」
「………………。………………えっ」
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言っちゃった。言っちゃった言っちゃった言っちゃった!
招、どんな顔をしてる?緊張で顔を上げられない。
「…………して」
「え?」
「どう、して?」
困惑の色が強い。あーこれじゃダメかもなー。
「昔から友達として大好きだったんだよ?なんだけど結構前に招の家行ったとき励ましてくれたじゃん。あれがきっかけかな」
「で、でも、僕は良いところなんて何も無くって」
「もう、それを決めるのはキミじゃないよ」
やっぱり招は自己肯定感が低い。きっとボクと自分じゃ釣り合わないだとか、そんなことを考えているのだろう。
だから──攻める。
「ボク、招の良いところならいくらでも言える自信があるよ?ボクにとってキミは、それぐらい価値のある……ううん、大切な存在なんだ」
招は自己肯定が下手だ。だからボクが認める。
「な、なんで今?」
「せっかく告白するんだから、一番かっこいいボクでいないとねって思ったから」
だから今を選んだ。走るボクが、招にとって一番かっこいいボクだと考えて。
「……いいの?」
「なにが?」
「……僕は、いつの間にかテイオーちゃんを……その……逃がしたくないって思っちゃってたのに」
「いいよ」
「す、好きになるってことがどういうことなのかも分からないのに?」
「それでもいいよ。キミはね、ボクにとって一番の親友で──一番好きな人なんだから」
……なんだ。キミも
「ねえ、招」
好きになるってのがどういうことか、教えてあげるよ。
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……夢でも見ていたのではないかと思ったが、現実だった。
僕とテイオーちゃんは恋人同士になった。
正直なところ恋愛的な『好き』という感情がどういうものなのか分からない。しかしそれらしいものは僕の内に確かに眠っていたようで。
離したくない。ずっと傍にいてほしい。友人曰く、それは恋に値するものだと教わった。
「にしても、俺より先にお前が恋人を作るなんてな~、ちくしょー、うらやましいぜ」
「ぶっちゃけ僕も何がなんだか……」
胸の奥に芽吹いた新しい感情。潰さないようにしっかりと育てていきたいと思いながら、テイオーちゃんのことを考えた。
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「お待たせ、招」
「…………」
「どしたの?」
「……いや、テイオーちゃん可愛いなって思って……」
「……そういうところズルイと思うなあ」
クリスマスイブ。僕たちは衆目を離れて待ち合わせていた。
今日は特別な日。トレーニングもレースも、筋トレも勉強も関係ない僕たちだけの日。
「それじゃ、行こっか」
「うん」
控えめに手を繋ぐ。それだけで僕の頬は紅潮し、鼓動は加速した。
「あはは、招、顔赤ーい」
「……だって」
嬉しいやら恥ずかしいやらで頭はいっぱいいっぱいだった。こんな風に誰かと交流したことはない。
「じゃあもっと恥ずかしいことしようか。ちょっと屈んで」
「え?」
彼女の言葉に従い、少しだけ膝を曲げて顔を落とす。一体何が────頬に、柔らかな感触。
「え……え、……え!?」
「……ボクも恥ずかしくなってきた。ほらほら、行くよ招!」
「わっ──」
勢いよく手を引かれて歩き出す。夜はまだ始まったばかりだった。