悪魔は何処にいる。人を惑わし、神に逆らう悪魔は。
ほむらは、星の海を見渡した。広い宇宙に散りばめられた無数の光の粒が輝いている。
時間遡行は上手くいった。何度も使ったことのある魔法だから失敗するはずはない。あとは、この宇宙が別の時間軸の宇宙であるかどうか。そして、ここにまどかがいるのかどうかを確かめなくてはならない。だが、しかし――
(ここは、いったいどこなの)
広大な宇宙空間の真っ只中に放り出されたほむらは、途方にくれる。〈前の世界〉において、彼女の魔法の基点は病院のベッドの中だった。あの頃は、いつもベッドの上で過ごしていた。同じ時間軸に沿って時間遡行する場合、いつも同じ場所に現れるのは当然のことだろう。でも、違う時間軸に移動した場合はどうなるのか。
この宇宙には、自分ではない別の“暁美ほむら”が存在する。時間遡行の出現ポイントは、てっきり、そいつの近くになると思っていたのだが、当てが外れてしまった。それとも、この真っ暗闇の真空中に、この宇宙の自分がいるとでもいうのだろうか。
これは、少々困ったことになったとほむらは思った。このまま、闇雲に地球を探し回ってもいいが、時間が勿体無い。早くまどかが存在するかしないかを確認して、いないのなら次の宇宙へ行かなくてはならない。初回からもたもたしているわけにはいかなかった。
ここで、ほむらは思い出す。そうだ、こんなときだからこそ役に立つ奴がいた。インキュベーターだ。この宇宙のあいつを呼びだして、地球まで送らせればいいのだ。グッドアイデアを思いついた彼女は、念話のために意識を集中した。
『キュゥべえ、いたら返事をしなさい。いないの? キュゥべえ――』
『――ここにいるよ。君はいったい何者だい? 僕を“キュゥべえ”と呼ぶということは、日本の魔法少女に関わりがあるのかい? 容姿は“暁美ほむら”という魔法少女とほぼ一致しているみたいだけど』
間髪いれず、頭の中へ返答が直に挿入された。インキュベーターだ。
キュゥべえは、いつもの調子だった。いつものとおり感情がない。別の時間軸でも、キュゥべえはやっぱりキュゥべえだった。
『私は、別の宇宙から来た暁美ほむらよ。あなたは今近くにいるの? いるのなら私を地球まで送りなさい』
ほむらは、偉そうな態度で宇宙人に命令した。
『ふうん、君は別の宇宙のほむらなんだね。どうしてこの宇宙に来たんだい? どうやって来たんだい? どうしてソウルジェムが変質しているんだい? どうしてそんなおかしな格好をしているんだい? それは、所謂コスプレというやつなのかい?』
キュゥべえは、突然現れた正体不明存在の指図を受けても、特に動揺していないようだ。極めて冷静に、事実確認のための質問をほむらに浴びせかけた。
彼女は、段々焦れてきた。こんな空気もないようなところで、のんびりと宇宙人の質問に答えている暇はない。それに、この宇宙にまどかがいなかった場合、次の宇宙に行くことになるが、次でもキュゥべえから質問攻めにあってしまっては、かなりウザイことになる。何らかの打開策を講じなければならないだろう。
ほむらは、しばし黙考する。そして、体内の異物に気が付いた。
『キュゥべえ、あなたへ素敵なお土産を持って来たわ。とりあえず、それを渡したいから姿を現しなさい』
彼女は、前のキュゥべえから、白いビー玉を受け取っていたことを思い出す。これには確か、奴らの情報が保存されているとか何とかいう話だったはずだ。これを渡してしまえば、色々とはかどるに違いない。
ほむらは、魔力を循環させて、異星の記憶媒体を体外に排出する。非常に表面が滑らかな白いビー玉が、彼女の小さな手のひらの上でコロリと転がった。
突如、彼女は、胃の中をかき回されるような空間のねじれを感じる。そして、時空間が安定すると、ほむらの前方5mほどの位置に、馴染み深い白い小動物が姿を現した。
姿かたちを自由自在に選択できるキュゥべえが、自分に会うために、わざわざその形状を選んだのには何か理由があるのだろうか。今更、可愛さアピールで女の子の警戒心を薄めるためだとかいう戯言は通用しない。だが、ほむらは、その変わらぬ姿を見て、この宇宙に来てからようやく少し気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
(私の知っている世界と、あまり変わりはなさそうね)
『それが僕へのプレゼントかい?』
宇宙の深遠を背景にして、キュゥべえが尋ねる。
『そうよ。受け取りなさい』
ほむらはそう言って、ビー玉を指で弾いた。彼女の手の上から放たれた重力の影響を受けることのないビー玉は、放物線を描くことなく一直線に飛んで行く。
キュゥべえは、無重力空間の中でアクロバティックに身を捻り、その飛翔体を背で受けて、体内に吸収した。
『これは――』
キュゥべえは、そう言ったきりフリーズ状態に陥る。凍りついた白い小動物が、ビー玉を受けた慣性でゆっくりと回転していた。
『……とうとうバグったのかしら?』
まさか、あのビー玉にトロイの木馬とかが仕込まれていたわけではあるまい。ほむらは、このまま長時間の待ちぼうけを食うのだけは勘弁願いたいので、宙を漂っている動物の死体を調べるために移動しようとした。すると、ゴミのように浮遊していたキュゥべえが、突然、体をビクッとさせて息を吹き返す。死んではいなかったようだ。
『なるほどね、全て理解したよ。そういうことなら話は早い。この宇宙には〈まどか〉は存在しないよ。残念だけど〈円環の理〉という概念存在を、僕達は観測できていないんだ。君の居た宇宙と状況的にはまったく同じさ』
地球に行くまでもなく、まどかの不在が明らかとなった。インキュベーターが、今、この場でほむらに嘘をつかなければならない理由はない。宇宙人の言っていることは、おそらく正しいのだろう。だが、ほむらは、自ら地球へ行って、この目で直接確かめるまでは、この宇宙を去るつもりはなかった。
『そう、分かったわ。でも私は地球に行きたいの。〈転移ゲート〉とかいうので地球まで移動できるのでしょう? それを使わせなさい』
『そうだね。でも、その前に君に言っておくことがある。君が時間遡行の魔法でこの宇宙に出現したときの空間座標は、前宇宙の僕達の星の周回軌道上に存在するんだ。君の魔法は、おそらく時間遡行を行なった場所を基点としている。もし、次の宇宙でもこの場所に出現したいのなら――』
『こんな不便な所に用はないわ。そういうことなら是が非でも地球まで送ってもらうわよ』
元の宇宙で時間遡行の魔法を使った場所が、次の宇宙での出現ポイントになる。ならば、地球で時間遡行を行ったほうが、効率的な探索ができるに決まっている。
『そうかい、じゃあ、〈転移ゲート〉まで任意座標転送することにしよう』
キュゥべえがそう言った途端、ほむらは、自身が雲散霧消するのをはっきりと感じる。そして、視界が切り替わる。目の前の光景は、様変わりしていた。
そこは海の中だった。彼女の周囲は、360度淡い青色の液体で満たされていて、果てしなくどこまでも続いていた。その水の中で、光が奇妙に屈折して揺らめきながら、音もなく浮かんでいる巨大な構造物を照らし出している。黒い円環体〈転移ゲート〉だった。
『ほむら、これを次の宇宙の僕達に渡して欲しい』
キュゥべえはそう言うと、水中でくるりと一回転して、その可愛らしい背中からビー玉を射出する。ビー玉はゆっくりと水の中を進みながら、ほむらの元まで辿り着く。彼女は、それを受け取った。なぜか、ビー玉の色が白色から青色に変わっていた。
『きみの元居た宇宙で僕達の星があった座標についてだけど、この宇宙では天体が存在しないんだ。しかも、君の宇宙と比べると、僕達インキュベーターの発祥や生態がまったく異なったものとなっている。別の星で、別の進化を遂げた完全な異種生物だ。というのも、この宇宙の僕達の本体は、液体で構成されていて、固着性微生物の集合体である君の宇宙での僕達とは根本的に違うんだ。でも、〈転移ゲート〉を作り出し、宇宙のエネルギーを回収するという目的だけは共通している。僕達はこれから、この事実が何を意味しているのかを考えてみることにするよ。君のおかげで、宇宙生成の謎に一歩近づくことができた。ありがとう、違う世界の“暁美ほむら”』
ほむらは、背後で話を続けるキュゥべえを尻目に〈転移ゲート〉の時空境界面へ進入した。
彼女は、〈転移ゲート〉の通過を明確に知覚する。見渡す限り、白色と黒色のマーブル模様がカオス状態で渦巻いている。彼女は、時空間の流動を感じ取り、その流れに身を任せた。
ここでは、時間が経過していない。自身の時間停止魔法と同質の力を感じるが、それよりも遥かに無秩序な何かがこの空間内にはあった。
彼女に向かって、何かが近づいてくる。何かは、フラフラとした足取りで歩いている。何かは、人だった。しかも、魔法少女の格好をしている。彼女は、その格好に見覚えがあった。
ほむらは、ぞっとした。
(あれは、私だ)
“自分”は、俯いたまま、弱弱しく歩いていた。その表情は見えない。ますます距離は縮まってくる。
ほとんど手が届きそうなほど近づいたとき、出し抜けに“自分”が、顔を上げる。そして、ほむらを見た。
『ーーーーーっ!!』
魂が揺さぶられるような恐ろしい悲鳴だった。原初の恐怖に“自分”の顔は彩られている。“自分”は何を見たのか。ほむらは、薄ら笑いを浮かべながら“自分”に声を掛けた。
『どうかしたの? ずいぶん酷い顔をしているわ。悪魔でも見たの?』
彼女の言葉が、聞こえたのかどうかは分からない。“自分”は声なき悲鳴を上げ続けている。
答えは聞けなかった。ほむらは、気が付くと、都市の上空に浮かんでいた。懐かしい風のにおいがする。彼女は、この場所をとても良く知っていた。何せ、ここは彼女の故郷なのだから。
彼女は、里帰りを、なんだかやたらと久しぶりだと感じた。時間的には大して経過していないはずだが、片道5億光年の距離を往復したことによる時差ボケなのかもしれない。
見滝原市へと帰ってきたほむらは、迷いなく鹿目家に向かって一直線に飛翔する。そして、心の中で一応謝罪しながら、こっそりと魔法で家の中を覗き見した。だが、やはりキュゥべえの言ったとおり、まどかはこの宇宙には存在しないらしい。鹿目家には、まどかの部屋がなかった。
これで、もうこの宇宙に滞在する用はなくなった。さっさと次の宇宙へ移動するべきだろう。彼女は、時間遡行の魔法を使う前に、本当にやり残したことがないのかをもう一度よく考えてみた。
(この世界の私は、どんな感じなのかしら)
ほむらは、〈転移ゲート〉通過時に“自分”とすれ違ったことを思い出す。もしかしたら、あれがこの時間軸の自分なのだろうか。しかし、あれは、魂の在り方が奇妙だった。“暁美ほむら”個人というよりも、“暁美ほむら”という人格の集合意識のように感じられた。
悩んでいても仕方がないので。彼女は、自分が住んでいるはずのマンションへ向かうことにした。
この世界のほむらは、普通に居た。ご丁寧に部屋の番号まで同じだった。部屋の中を覗いてみると、黒髪ロングの女子中学生が、ソファーにだらしなく寝そべりながら、暢気に雑誌を読んでいた。
それを見たほむらの心中に、モヤモヤとした何かが発生する。
『キュゥべえ、私をあの部屋の中に転移させなさい』
『どうしてだい? 念話で話し掛ければいいじゃないか』
『いいから、やりなさい』
ほむらは、もう、すっかりお馴染みとなった重力の方向が一回転するような感覚を覚える。そして、目の前の光景は懐かしの我が家となっていた。
ソファーに寝転がって、表紙に“小悪魔系ファッション特集!”と銘打たれたファッション雑誌を読んでいた少女は、転移時の時空の乱れを感じたらしい、何事かとあたふたしながら顔を上げた。そして、ほむらと目が合った。
「こんにちは」
「はぁっ!? えっ……えぇっ! 何、私!? 誰なの!?」
ソファーの上から勢いよく転げ落ちた少女は、尻餅をつき、驚愕の表情でほむらを見ている。期待通りの反応を示してくれた少女に、ほむらはご満悦だった。
「私は、違う時間軸から来たあなたよ。少しお話をしましょう」
少女は、口をポカンと開けながらほむらを見つめている。その混乱状態の頭にようやくほむらの言葉が染み込んできたらしい。彼女は、慎重に言葉を選びながら返答した。
「……あなたは、違う時間軸の私。……それで、何の用なの?」
“私”は、ずいぶんと落ち着きを取り戻すのが早かった。
「あなたは、まどかのことを憶えているの?」
ほむらは、埃を払い落としながら立ち上がった少女に問う。
「“まどか”? 女の子なの? 知らないわ」
この“暁美ほむら”は、まどかを憶えていない。
“まどかを知らない”その言葉を、自分と同じ姿で同じ声の人間が発した。それを聞いて湧き上がる感情は、筆舌につくしがたいものだった。
「あなたは、〈前の世界〉で時間遡行の魔法を使っていたことも忘れたの?」
「何を言っているのか、まったく分からないわ。“前の世界”? “時間遡行”? 何のことなの? 私の魔法は、弓矢と翼による飛翔よ。……あと、ずっと気になっていたのだけど、そのコスプレは何? 私と同じ容姿の人間がそんな格好をしているのは、とても残念な気持ちになるのだけど」
少女の口ぶりからすると、時間停止の魔法も使えないらしい。この世界の“暁美ほむら”は、“鹿目まどか”を完全に忘れていた。だが――
(ずいぶん、楽しげな部屋ね)
少女の部屋には、割とセンスのいい家具が配置され、幾つか置いてある落ち着いた色調の棚には、本や、小物類などが並んでいる。自身の空虚で殺風景な部屋と比べると、雲泥の差だった。
ほむらは、段々と、ここにいることが耐え難くなってきた。まどかを忘れてしまった“自分”の方が、幸せそうだなんて、そんなことは絶対に認めたくなかった。
「……あなたは、その赤いリボンをどこで手に入れたの?」
「これ? このリボンは確か、……ええと、憶えてないわね。まあ、どこかで買ったんでしょう」
「そう、もういいわ。もう、あなたの顔は見たくない」
「……突然現れて、突然酷いことを言うのね。言っておくけど私の顔は、あなたの顔でもあるのよ」
ほむらは、もう、この気持ちの悪い存在と会話を続ける気はなくなっていた。少女を無視して、時間遡行の魔法を使用するために意識を集中し始める。そんなほむらに、少女がこう言った。
「あなた、ずいぶん疲れた顔をしているわ。少し休んだほうが――」
時間遡行の魔法が発動し、少女の言葉は、途切れた。
ほむらの旅は続く。
ほむらは、またしても宇宙空間を漂流していた。インキュベーターは嘘つきだったのか。時間遡行の魔法が、前回の場所とリンクしているのなら、当然、今回現れるべき場所は、自分のマンションであるはずだ。だが、彼女は、遥か前方に浮かんでいる美しい惑星に気が付いた。
(これが、地球。本当に青いのね)
理科の教科書で目にしたことのあるほむらの母星が、太陽の光を受けて宇宙の闇に浮かんでいる。彼女は、この程度の距離なら、今の自分であればすぐに移動できそうだと判断した。しかし――
(いちいち、飛んで移動するのも面倒ね。でも、またあいつらの手を借りるのも何だか気に入らないわ)
ほむらは、思考する。別に、キュゥべえに頼まなくても、魔法で空間転移できるのではないか。何度も、宇宙人の謎の科学力によって空間転移を経験した彼女は、その感覚を何となくつかんでいた。正直なところ、今の自分は何でもできそうな気がする。思いのほか、簡単に瞬間移動を習得できるのではないだろうか。
彼女は、静かに目を閉じて、魔力を流動させる。そして、時空の隙間に流れ込む道を見定め、そこに向かって一気に突入した。
空間転移はいともあっさりと成功した。地球に移動したほむらは、再び上空から街を見下ろしていた。彼女は、集中する。感覚を研ぎ澄まし、遠見する。この宇宙に、まどかは、いない。鹿目家には、やはり、まどかの部屋がなかった。
もう次に行くべきか、少し悩んだ末に、彼女は、もう一度自分の部屋の様子を覗いてみることにした。
ほむらは、大きな翼をはためかせて飛ぶ。そして、意識を自分の部屋に向けた。
部屋の中には、相変わらずのマヌケ面の黒髪ロング少女がいた。そして、今回は、白い小動物も一緒だった。両者は、なにやらお話中のようだ。どうせ、中身のない時間つぶしの下らない話だろう。彼女は、なんだか気が削がれたので、もうこの世界に見切りをつけようとした。しかし、テーブルの上に置いてある菓子袋を目にして気が変わった。
(そう言えば、長い間何も食べてなかったような気がするわ)
彼女は、次の宇宙に行く前に、少しつまみ食いをしていくことに決めた。そうなると、目的のためには、あの邪魔な女を排除するべきだろう。彼女は、指先の感覚を伸張し、部屋の呼び鈴を押した。すると、ほむらの目論見どおり、マヌケ女は客が来たと勘違いして玄関に向かった。
(あなたを訪ねてくるような友人なんて、どこの宇宙にもいないというのにね)
ほむらは、室内に向かって空間跳躍した。
リビングに着地したほむらは、早速、雑誌の上に置かれている“ねぎ味噌かりんとう”の袋を手にして、中のお菓子をボリボリと食べ始める。この味を食べるのは初めてだったが、意外と悪くないなと彼女は思った。
そして、その様子を、キュゥべえが静かに見守っていた。この予想も付かない事態に対して、ここまで冷静でいられる宇宙人のメンタリティは、賞賛に値するだろう。
袋の中身を空にしたほむらは、何も言わずに、キュゥべえに向かって青いビー玉を放り投げる。少し、狙いが外れてしまったそれを、キュゥべえは、驚くほど俊敏な動きで、正確に背中で受けて吸収する。
「――なるほどね。そういうことなら、次の宇宙にはこれを持っていって欲しい」
瞬時に状況を把握したキュゥべえは、即断即決でビー玉を返球してきた。ビー玉の色は、またしても変化しており、今度は、赤色だった。ほむらは、それを素早い動作で体内にしまいこんだ。
「この世界にも、まどかはいないのよね?」
「ちょうど今、その話をこの宇宙の君としていたところさ。〈円環の理〉が〈まどか〉という魔法少女の成れの果てということらしいね。それについては、貰ったばかりの情報を分析して、より多角的な視点で考えてみることにするよ。実に興味深い話だね」
「そう、この世界の私は、まどかのことを憶えているのね」
ほむらは、室内を見回した。リビングにはソファーとテーブルしか置かれていない。ほかには、何もない。それは、空っぽな部屋の主の心を映しているかのようだった。
もう、ここに用はない。彼女は、意識を集中する。
「ほむら、君は、それをいつまで続けるつもりなんだい?」
キュゥべえは、最後にそう言ったが、既にほむらの姿はなかった。室内に静寂が訪れる。
そこへ、“ほむら”が戻ってきた。彼女は、勢いよくリビングのドアを閉めると、ソファーにどっかりと腰を下ろした。どうやら、機嫌が悪いらしい。その辺りの空気も、それなりに読めるようになっているキュゥべえは、余計な口を出さずにだんまりを決め込んだ。
彼女は、荒々しく菓子袋の中身を探り出す。そして、すぐに気が付いたようだ。ブチギレ寸前の声色でこう言った。
「キュゥべえ。あなた、私のお菓子を勝手に食べたでしょう――」
ほむらの問いかけに対して、キュゥべえは、言うべき言葉をじゅうぶんに知っていた。
「僕じゃないよ。あれは、悪魔だったよ。間違いなくね」
ほむらの旅は続く。
次の宇宙も殆ど似たような状況だった。まどかは、いない。誰も〈円環の理〉を見たものはいない。
次の次も、次の次も次も。しばらくは同じ状況がずっと続いた。ほむらは、何度も時間を遡った。かつて、そうしたように。何度も時間を遡った。
ほむらの旅は続く。
ほむらが、時間を逆行しながら、次なる宇宙に出現するその寸前。突然、彼女の体中に細い糸のようなものが大量に絡み付いてくる。それは、彼女を束縛しようとする明確な意思を持っていた。
ほむらは、この程度の拘束ならすぐに抜け出せると分かっていたが、今までにない事態を引き起こした存在の正体が少し気になった。彼女は、とりあえず、されるがままになって、事の推移を見守ることにした。
彼女は、時空間の狭間に完全に固定される。そして、彼女の頭の中へ、ある程度予測していたとおりの口調で、念話が送り込まれてきた。
『手荒な真似をしてすまない。少し話をさせて欲しいんだ。君は何者なんだい? どうやって、時間を遡ってきたんだい? 僕達の種族は、時間遡行の技術を研究しているんだ。その研究の一環として、未来から過去への時空間の乱れを引き起こす存在を捕獲するシステムを作っていて、そのシステムに君が引っ掛かったということなんだ。君は、未来から来たんだろう?』
この独特の思念は、やはり、インキュベーターだ。この世界のキュゥべえは、過去に行きたいらしい。そうだ、元の世界でも、奴らはそんなことを言っていたような気がする。大昔のことなので、あまり憶えていないが。
ここで、ビー玉を渡してしまえば、話はすぐに済むだろう。だが、ほむらは、このちょっと変なキュゥべえが気になったので、少しだけ会話することにした。
『この世界の地球には、“暁美ほむら”という魔法少女はいるの?』
『“暁美ほむら”かい? ……ちょっと待って欲しい。……ああ、契約した記録はなぜかないけど、“暁美ほむら”という魔法少女は、確かに存在していたね』
『……“存在していた”?』
『彼女は既に消滅している。今、現地の端末と情報同期して確認したから間違いないよ』
この世界の“私”はもう、死んでいる。ソウルジェムが消滅して、〈円環の理〉に導かれている。自分がいない。当然、その可能性もあるのだ。ただ、それを、悲しむべきなのかどうかが分からなかった。
『“暁美ほむら”と会話した記録は僅かしかなかった。話し掛けても上の空で、相手にされなかったらしい。あと、彼女のソウルジェムは、穢れがずっと蓄積されたままだったみたいだね』
『そう……』
ほむらは、この世界の“自分”の心情に思いを馳せる。虚しさだけしか感じなかった。
『君は、別の時間軸の“暁美ほむら”のようだね』
『そうよ、私は時間遡行の魔法を使えるの。良かったわね。元の世界のあなた達は、私の魔法を研究して過去へいけるようになるらしいわ。その技術は、既に完成されているから、もうあなた達が時間遡行の研究をする必要はなくなったわよ』
『別に、良くはないよ。どこかの確率時空の僕達が、過去に行けるようになったからといって、それが、この宇宙の僕達と何の関係があるんだい? 僕達は、主観的にしか物事を認識できない。それは、君も同じはずだよ。そうだろう、“暁美ほむら”? 君は、どこか別の時間軸の君が、“鹿目まどか”を発見したという話を聞かされて、それで納得できるのかい?』
ほむらは、ハッとする。こいつにまどかを探しているなんて言った覚えはない。もしかしたら、この世界の“自分”から何か情報を引き出していたのかもしれないが。それに、別の時間軸のインキュベーターのことなんて、どうでもいいという考えを持っているようだが、それならば、このビー玉を何と説明する。
ほむらは、この宇宙のキュゥべえに、ビー玉を渡さないことに決めた。このキュゥべえは、何かがおかしい。一刻も早く次の宇宙に移動するべきだ。
彼女は、魔力を爆発させて拘束を吹き飛ばす。
『ちょっと、待つんだ――』
キュゥべえが何かを喚いていた。
ほむらは、魔力が放射された次の一瞬で時間遡行の魔法を行使した。あっという間に、ほむらの姿がこの宇宙から消失する。
ほむらの旅は続く。
景色の変わらぬ旅が続く。いずれも、まどかは、いない。
ほむらの旅は続く。
ほむらは、ふと思う。幾つもの時間軸を見てきたが、今の自分と同じように、こうして時間遡行を繰り返しながらまどかを探索している“自分”と出会った事はない。
今の状態は、とてつもなく確率の低い状態なのではないか。もしかしたら、すべての並行宇宙でたったひとつしかない極めて稀なケースではないのだろうか。
ほむらの旅は続く。
「ほむら、僕達のような主観的存在は、無限というものを認識できない。君は、自身の今の状態が低確率だと言うけど、今の君と同等の状況は、確率的には無限に存在している。そして、〈まどか〉と出会うことができた君も無限に存在している。僕達は、所詮、有限の時しか生きることのできない存在だ。無限なんて、正しく認識できるわけがない。……なるほど、確かに今の君には寿命というものは存在しない。でも、君が何度時間を遡ったとしても、君の主観では有限の回数しか繰り返すことはできないんだ」
ほむらの旅は続く。
「袋の中に赤玉と青玉が1個ずつ入っているとしよう。君が、この袋からひとつだけ中身を取り出せるとしたら、赤玉を引く確率は何だと思う? 赤玉と青玉が100個ずつだったら? 赤玉と青玉が1億個ずつだったら? ……赤玉と青玉が無限ずつだったら?」
ほむらの旅は続く。
「すべての宇宙を“まどかのいる宇宙”と“まどかのいない宇宙”の2つに分けた場合、両者は等しく無限に存在している。……え? 〈まどか〉がいないほうが多いって? そんなことはないよ、無限は無限さ。多いも少ないもないよ」
ほむらの旅は続く。
「うわ、あんた、その格好は何のコスプレなの?」
ほむらの旅は続く。
「え? コスプレじゃないのかぁ。でも、魔法少女の格好ってその人の本質的なものが出てくるんでしょ。余計ヤバイよね」
ほむらの旅は続く。
「そっか、あんたは、そのまどかっていう子しか見えてなかったんだね。だから、いつも、あんなに辛そうだったんだ」
ほむらの旅は続く。
「しっかし、そんな状態になってまで、友達を探し続けるなんて、ほむらの愛は重いなぁ。なんていうかさ、あんたが心配だわ」
ほむらの旅は続く。
「ほむら! 友達見つかるといいね!!」
ほむらの旅は続く。
「は? そのイカれた格好は何なんだ?」
ほむらの旅は続く。
「でもさ、よく見ると結構しっくりくるなソレ。アンタっぽいというか」
ほむらの旅は続く。
「まどか、ねえ。アンタは、そいつがいなくなったことを認められなくて、元の世界から逃げ出したのか?」
ほむらの旅は続く。
「どんだけそいつのことが好きなんだよ。あんたは、もうジューブン頑張った。そろそろ休んでもいい頃合だよ」
ほむらの旅は続く。
「ふーん。絶対にあきらめないのか、そうか、じゃ頑張れよ」
ほむらの旅は続く。
「どうしたの!? 暁美さん、あなたがそんな素敵な格好をしているなんて!」
ほむらの旅は続く。
「そう、あなたの魂がその姿を選択したということなのね……」
ほむらの旅は続く。
「その子のことを探すために、何度も時間を遡っているの? ……暁美さん、私に何か手伝えることはない?」
ほむらの旅は続く。
「暁美さん。今のあなたは、まともじゃないわ。しばらく、この世界で暮らしたらどう? 一緒にお菓子作りをして、おしゃべりして、それでもあなたの決心が揺るがないのなら、私は、もう何も言わないわ」
ほむらの旅は続く。
「行ってしまうのね。でもこれだけは憶えておいて欲しいの。たとえ、あなたがあきらめたとしても、その子は絶対にあなたを責めたりはしないということを」
ほむらの旅は続く。
「引き継がれた情報を解析すると、君が訪れた時間軸には、必ず“宇宙”と“人類”と“インキュベーター”が存在しているね。でも“インキュベーター”は、それぞれの時間軸でまったく異なる種族がその役割を果たしている。これはどういうことだろう」
ほむらの旅は続く。
「どうして、必ず“宇宙”が存在するのか。君は、考えてみたことはあるかい? “ない”状態はひとつだけど“ある”状態はあらゆるパターンが存在する。なんて、馬鹿げた考えはなしにしてだ」
ほむらの旅は続く。
「“インキュベーター”という存在は、どうやら“人類”の感情エネルギーを回収する役割を与えられているみたいだね。だから、“インキュベーター”と“人類”は必ず存在する」
ほむらの旅は続く。
「“インキュベーター”は、君のおかげで、時間遡行の技術を手に入れている。だから、“インキュベーター”は過去へ行ったんだ。宇宙誕生以前の過去へ。そして、“インキュベーター”は、“宇宙”を生成する。だから、必ず“宇宙”と“インキュベーター”が存在するんだね」
ほむらの旅は続く。
「ありがとう、暁美ほむら。君のおかげで、僕達は何のために生まれて、何のために生きるのか。その答えを知ることができた」
ほむらの旅は続く。
しかし、まどかは見つからなかった。でも、彼女はあきらめなかった。
ほむらの旅は続く。
しかし、まどかは見つからなかった。でも、彼女はくじけなかった。
ほむらの旅は続く。
しかし、まどかは見つからなかった。
ほむらの旅は続く。
しかし、まどかは見つからなかった。
ほむらの旅は続く。
ほむらの旅は続く。
ほむらの旅は続く
ほむらの旅は続く
ほむらの旅は続く
ほむらの旅は続く
ほむらの旅は続く
ほむらの旅は、終わる。