ある日、少女は言った。
明日の夜、ウチに来い、と。
すなわち、ゲーリは少女の部屋にお呼ばれしたのだ。
その言葉の意味を理解した瞬間、混乱したゲーリは一周回って冷静になり、帰宅したあとベッドで懊悩した。
突然の出来事だった。いつものように公園で語らい、日も傾いてきた頃合いである。そろそろ帰ろうとゲーリが立ち上がった背に、その言葉は投げかけられた。
いったいどういうことか。ゲーリが追求しようにも、当の少女は用事があると残して帰ったため、事の真相は聞けずじまいとなった。
果たして、この誘いは何を意味するのか。
ゲーリは今まで少女のことを異性として見たことがなかった。少女はあくまで己が導く生徒であり、自分は教師。ただそれだけの関係であったのだ。
それがここにきて急変しようとしている。
ゲーリとて、年頃の男である。
物語に傾倒する彼ではあるが、人並みに欲はあり、そして色恋にも興味はある。
しかし、今年で二十三を迎える立派な青年であるが、いまだに恋人ができたことはなかった。
それ故に、ゲーリはこの誘いが、いわゆる
ゲーリは思い返す。
少女の口調は何の違和感もなかった。いつもと同じ、少し勝ち気で強い意志を感じさせる幼い声だ。
それを考えれば、この誘いはただの遊びの誘いであり、ただ気分転換に語らいの場所を変えてみたかっただけということも考えられる。
だが、と。
こうも考えられた。
あの違和感のない声。
それこそが、内に秘めたる恋慕を少女が精いっぱいに押しとどめた結果であると。
そう思えば違和感がないのが逆に違和感な気がするゲーリであった。
そして、少女が誘いの言葉をかけたタイミングも不自然であった。
いつものように語らっている最中ではなく、わざわざ立ち上がったタイミングで声をかけたのだ。
まるで顔を見られるのを避けたかのように。
思考の坩堝に囚われる。
次第にすべてが疑わしく見えてくる。
ゲーリの灰色の脳細胞がチカチカと明滅する。
桃色のシナプスは点と点を繋ぎ合わせ、メルヘンな幾何学模様を描き出す。
用事があると足早に帰ったことも、ふとした拍子に少女が浮かべる笑みも、その全てが、ただ一つの結論へ至るための変数として処理される。
弾き出される結論。
すなわち、少女は己に惚れている。
間違いない、と。
ゲーリは確信した。
曰く、巷で流行っている小説の中には恋愛を題材とするものも多くあるという。
その中には教師と生徒の禁断の恋を題材としているものが存在することもゲーリは知っていた。
恋愛を題材にするなどナンセンスである。
王国文学においても色恋の要素はあったが、あくまでそれは美しいレトリックを成立させるための一要素に過ぎない。恋愛物語など唾棄すべきものである。
ゲーリは常々そう考えていた。
だが、事実は物語より奇なりともいう。
そんな空想世界のような出来事が我が身に降りかかったとしても何らおかしくはないのだ。
事ここに来て、今まで恋愛小説に懐疑的であったゲーリはその存在意義を理解する。
なるほど、読者たちは物語を通して空想に描かれている甘酸っぱい色恋を疑似体験しているのだな、と。
小説を唾棄する王国文学至上主義者であるゲーリであったが、その点については概ね理解ができた。
色恋とはすばらしいものだ。胸がトキメキ、どこかぽわりぽわりとする様は熱に浮かされているようで実に心地がいい。
だが、それはそれとして。
ゲーリが小説というものを認めるかどうかは別である。
否、むしろゲーリの小説へ無理解は深まったといえる。
何故なら、少女という愛しの相手を手に入れたゲーリには、恋愛小説などという疑似恋愛は必要がないからだ。
「恋愛小説など弱者が縋り付く下品な妄想に過ぎない。愛好者どもはそんなものに夢中になってないで現実を見たらどうだ」
ゲーリは誰に言うでもなく文句を垂れて、しかしその表情は言いようがないほど締りがなかった。
◇
少女が居を構える宿はどこにでもある簡素なものだった。
ゲーリは少女の案内に追従して部屋の前にたどり着く。
世間話をしながら歩いて来たものの、ゲーリとしては緊張でそれどころではなかった。
これからめくるめく乙女の園へ足を踏み入れるのだ。そこから先は未知の領域であり、己の格と器が試される試練の場。
しかし、その身を縛る緊迫は決して不快なものではなく、むしろゲーリの興奮を一層に掻き立てた。
少女がノブに手を掛ける。
いよいよその時が来たのだ。
――ようこそ、我が同志よ。
そうして開かれた先の光景を見て、ゲーリは固まった。
そこは紙の墓場であった。
床の木目はもはや見えない。足の踏み場もないとはこのことか。
あちらこちらに紙束が積みあがって、いくつもの山脈を築き上げている。
峻嶺《しゅんれい》とした山々はゲーリの肩ほどにまで到達し、崩落すれば少女が生き埋めになることは間違いがない。
机やベッドはもはやその姿を確認することもできない。紙束に呑まれて久しいようだ。かつてあったと予想される場所は、こんもりとした台地になっていた。
「――――」
ゲーリは圧倒されていた。
どこを見ても紙、紙、紙。
手に取ってみると、それには文章が綴られていた。
少し目を通しただけでわかった。物語だ。
少女は言った。
お前に倣って一日に物語を十書くことを目標にしているが、これがなかなか難しい。
お前に倣って、と。
そう言われてゲーリは思い出す。
つい先日、落ち込んでいた少女にかけた言葉だ。
上達したければとにかく書け。そしてその全てを最高に面白く仕上げろ。俺は毎日十の物語を書いている、と。
それを少女は実行したのだ。
なんて純粋なのだろう。教師冥利に尽きるというものだ。
ゲーリはそう思って、ふと、原稿用紙を握る己の手を見た。
綺麗な手だった。
真っ白で、大切にされてきた綺麗な手......。
――はて、少女の手はどうだっただろうか。
ちらりと少女に視線を向ければ、彼女は紙の山から数枚の綴りを抜き出しているところであった。
崩落しないように慎重に取り出すと、彼女はそれをゲーリに差し出す。
これまでの集大成だ。読んで感想を聞かせてくれ、
簡潔に言い含めると、少女は部屋を出ていった。
一人残されたゲーリはしばし途方に暮れた。まだ入室してから数分と経っていない。それなのに取り残されるとはどうしたものか。
少女との蜜月を夢想していたゲーリは肩透かしを食らった気分だが、しかしすぐに気を持ち直す。
己の生徒が物語の感想を求めているのだ。教師として無下にするわけにはいかない。
ここはひとつ、最後にまた株を上げておくのも一興だろう。少女は己にべた惚れなのは間違いないが、ダメ押しして損はない。
桃色の思考を垂れ流すゲーリは軽い気持ちでペラりと頁をめくる。
瞬間、ゲーリの意識は呑まれた。
◇
その世界で、ゲーリは宮廷魔術師を目指す若者であった。
新王の戴冠式を目の当たりにし、その煌びやかで神聖な世界に憧れを抱いたのだ。
幼き頃より修練を積み、宮廷魔術師の一人に弟子入りを果たす。修行の毎日が始まった。
長く、苦しい時間であった。
同輩の弟子たちはその才能を見初められ、一人、また一人と階位を駆け上がる。
いまだ見習いの地位を出ないゲーリはその度に苦渋を呑み、蔑視に耐え抜いた。
ある時、ゲーリはかつての弟弟子と邂逅する。
彼は一通りの魔術を修め、陛下からの覚えもいい優秀な魔術師だった。
そんな彼から下町に呼び出された。
曰く、久しぶりに二人で呑もう、と。
気分転換だと考えたゲーリは笑顔で了承した。
そして訪れた酒場で殺された。
最初から全て仕組まれていたことであった。
血だまりの中でゲーリは理不尽な罵声を浴びた。
王宮という煌びやかな場所に、お前のような薄汚い無能はいらない。
ゲーリにはもはや言い返す力もない。風前の灯火だ。
嗚呼、嗚呼。
俺の人生は、俺の人生はなんだったのだ。
己の人生の無価値を嘆き、そっと命を手放そうとする。
その瞬間、それは現れた。
取引をしよう、と......。
◇
ゲーリは部屋の中央に立ち尽くしていた。
彼の周りにあるのは少女が残した紙の山だけ。
そこには血だまりの中で斃れ伏す兄弟弟子も、積み上がる死体の山も、そして、煌々と燃え上がる王宮もない。
それを理解して、ようやくゲーリの意識は現実に帰ってきた。
ゲーリはこの物語を知っていた。
これは、ゲーリがかつて少女との語らいの中でおすすめした『ヴォルファスト』のオマージュだ。
――『ヴォルファスト』とは、王国黎明期にヴォルファストという魔術師が実際に起こした事件をもとに書かれた作品である。
絶望の淵に立たされたヴォルファストが悪魔と契約して絶大な魔法の力を手に入れて、己を虐げた者に復讐していく物語だ。
そして憎悪に呑まれた彼は、最後には自分諸共王宮に火を放ち、狂ったように笑いながら焼死する。
悲劇的で寓話めいたこの物語は王国文学の中でも秀逸なレトリックで編まれており、特にゲーリのお気に入りであった。
これを少女が書いた。
その事実にゲーリは愕然とした。心のどこかで信じたくない自分がいたのだ。
非の打ちどころのない物語だった。
難解で迂遠な表現ながらも、スッと頭に滑り込んでくるような洗練された韻文。まるで小説のような読み心地を読者に与えるも、しかし原典のレトリックを多分に盛り込んだそれは、まさに王国文学のお手本のようである。
展開もただ原典をなぞるのではなく、オリジナリティに溢れ、時には人物の再解釈を行い、登場人物の新たな一面を垣間見せる。
旧態依然とした、ただただ格式と伝統を重んじるだけではない、洗練された新たな王国文学の形であった。
この物語を読んだゲーリの感想はただ一つ。
悔しい。その一言に尽きた。
己こそが新たな王国文学の道を切り開くはずだったのに。よりにもよって、生徒である少女に先を越されてしまった。
感情の行き場を失ったゲーリががむしゃらに腕を振るう。そばにあった紙の山が崩れ落ちた。雪崩のように足元に迫ってきたそれを、ゲーリは見つめた。
それは少女が書いた物語で。
彼女が積み上げてきた努力の証だ。
そこでふと思い立って、ゲーリはもう一度、部屋を見渡した。
果たして、自分の部屋はどんな有様だったか。
思い出す。綺麗に整頓された自室。四方を本棚で囲った、理想の書斎。机には新品同然のペンと、触らなくなって久しい原稿用紙が放置されている。
そこに物語世界は無い。
記憶のどこを探しても、己の成果は見当たらなかった。
「私の......手......」
ゲーリは自分の手のひらを見つめる。
真っ白で、大切にされてきた綺麗な手。
――真っ白で、何も生み出さない、生み出したことのない、ペンだこすらない無価値な手だった。
それを理解した瞬間、ゲーリは叫びたくなった。
とてつもない羞恥を感じた。
頭が熱くなる。それは体中へと伝播していき、どうしようもなく居心地が悪くなる。不甲斐なさと情けなさが溢れてきた。
ただひたすらに恥ずかしかった。
消えてなくなってしまいとまで思った。
だが、と。
心にへばりついた自尊心が囁く。
天才である己には努力すら必要がないのだ。それを今ここで証明して、帰ってきた少女を驚かせよう。
藁にも縋る思いで、床に放置されていたペンをひっつかんで、原稿用紙に向かう。
書きたいことは頭の中にあるのだ。
あとはそれを文字に書き出すだけ。ただそれだけの作業である。
――なのに、書けない。
いくら考えても、いくらペン先を睨んでも、物語が綴られることはなかった。
その原因は至極簡単なことだ。
ゲーリは生まれてこのかた、物語を妄想するだけで書いたことがなかった。ゆえに、自分の頭の中に詰め込まれた壮大な世界を書き出す手管を持っていなかったに過ぎない。
ゲーリは己の愚かさを思い知った。
そして、そんな自分が少女に働いた愚行の数々が脳裏によぎる。
努力をしてこなかった自分が、ひたすらに努力を重ねていた少女に偉そうな講釈を垂れていたのだ。
今思えばあれほど情けない行いもない。
ゲーリはようやく自覚した。
ことここに来て、これまでゲーリを支えていた虚栄心は崩れ去ったのだ。
「......いや、違う!こんなのは偶然だ、そうに決まっている......!」
鬼気迫る表情でゲーリは積まれていた物語を片っ端から読み漁る。
だが、そのどれもが秀逸で洗練された文章で綴られており、未完結の物語も含め、すべてが素晴らしい完成度であった。
少女の集大成は、決して偶然の産物などではない。れっきとした努力の結晶だったのだ。
失意の底に沈んで、ゲーリは座り込む。
すると、視線の先に見覚えのあるタイトルが入った。
それは、少女がゲーリと出会う前に露店で売っていた小説だった。
一部も売れていなかった物語だ。誰も買わず、誰にも読まれることすらしなかった作品。
意気投合してすぐの頃、せっかくだから読んでみてくれと渡されたゲーリは、どうせつまらないだろうからと全く目を通さなかった。感想を聞かれても、適当に答えてありもしない改善案をでっち上げた。
それが今、目の前にあった。
ゲーリはそれを手に取ると、読み始めた。
一縷の望みに賭けたのだ。
彼女は自分と出会って、自分の師事があったからこそ、ここまでの大輪を咲かせたのだと。
未だに縋り付く虚栄心と泥のようなプライドがゲーリを雁字搦めにする。
そしてそれは容易に霧散した。
もはや語るべくもない。
ゲーリは理解した。
己が愚者で、彼女こそが秀才、あるいは天才であると。
ゲーリは震える手で再びペンを握ると、その場に蹲ってペンを走らせる。
出来上がったものは、書き損じと涙でくしゃくしゃになった、物語とも呼べない破綻した世界。
ゲーリの集大成だった。
ゲーリはそれをまとめると、一番目立つ紙の山に重ねた。
そして最後に一言だけ書置きをして、おぼつかない足取りで部屋を出る。
この部屋からも、世界からも、少女の記憶からも。
自分という存在を消してしまいたかった。
◇
王国文化研究はゲーリ・デ・アラマスタの日記の上に成り立っていると言っても過言ではない。
彼が晩年に書いたこの日記は、彼が死没するまでの約三十年間、一日の出来事を事細かに記し、ほぼ毎日欠かさず書かれている。
日常の些細な気付きや近所で起こったちょっとした事件。当時の世相や国際情勢。日々の習慣から食生活に至るまで書かれていることから、当時の世俗文化を垣間見ることができる貴重な資料として重宝されている。
また、アラマスタ家といえば、小説文化勃興のあおりを受けて衰退していた王国文学を立て直した文学界の大家である。彼はその長子でもあった。
ゲーリは幼少の頃より物語に触れ、その類稀なる才能から将来を有望視されていたが、二十代の頃に一度、その筆を折っている。
その後も細々と創作活動は続けていたが、生前において、彼の小説が売れたのは記録上、たったの一部のみ。
いったいなぜ、麒麟児とまで呼ばれた彼が筆を折ったのか。
彼が凋落した原因はなんなのか。
いくつもの推測が挙げられているが、その真相は定かではない。
しかし近年、新たに発見されたゲーリの日記に真相究明の糸口が見つかった。
それは、晩年の日記に突如として現れた「少女」と呼称される女性との会話録だった。
摩耗した文字は擦れてその全てを解読するのは困難ではあるが、会話中には「同志」や「友」などの単語が確認され、楽しげな様子が窺える。
また、日記の最後には「親愛なる同志へ」と題して、「少女」に小説を購入してくれたことへの長い感謝と、向けられた酷評への反論を綴っている。
全体的に鬱屈とした印象を受ける『ゲーリの日記』において、「少女」のことを綴るその文体が場違いなほどに楽し気であったことからも、彼らの仲がただの作者と読者ではないことは明らかであった。