夜が明けても同志が帰ってくることはなかった。
厠にはおらず、紙の山に埋もれているわけでもなく、ただただ彼は忽然と姿を消した。
女将に聞くところによると、私が買い出しから帰ってくる直前に宿を出たらしい。散歩にでも出かけたのかとも思ったが、それにしては書置きが妙すぎる。
まったくもってけしからんやつである。
買い出しにまで行って宴の準備をしていたというのに、せっかくの夜が台無しになってしまった。
怒りに燃えた私はその翌日、バザールに出店することなく、いつもの場所で彼を待った。
しかし、彼が来る事はなかった。
次の日も、その次の日も。
そうして数日が過ぎて、私もようやく察した。
同志が私の前に姿を現すことはない。
その理由は明白である。
彼が姿を消した日、彼に手渡した物語が原因であろう。
おそらく彼はそのあまりの不出来さに失望し、私の前から姿を消したのだ。
書置きとともに残されていた幼児の落書きのような物語は、私が"これ"と同等であるとあてつけるためであろう。
屈辱であった。
それと同時に、不甲斐なくもあった。
すべては己の至らなさが産んだ結末である。
思えば同志に渡したあの物語も妥協の産物であったのかもしれない。
これこそは私が今まで同志と語らったものの集大成である。これなら彼も楽しんでくれるだろう、認めてくれるだろう、と。
そんな甘えと期待が込められた物語だったのだ。
だが、それがだめなのだ。
物語にストイックで、何より文筆というものに並々ならぬ情熱を注ぐ同志には、その甘えが許せなかった。
信じたくはないがこれがすべてであろう。
ろくな感想も残されていなかったのが証左である。
私は猛省した。
執筆とは孤独な戦いなのである。決して他者を拠り所にしてはならない。ましてやその甘えに浸け込まれて物語に妥協を許すなどあってはならない痴態である。
私は今一度、初心を思い出さなければならない。
あの血の繋がっただけの阿呆どもから晒される蔑視と折檻の数々を。そして、血豆を潰しながらペンを握り続けて、初めて物語を書き上げた朝明けの輝きを。
すべて己の腕一本で切り開いてきた道筋だ。
今更、他者が介入する余地は毛ほどもないのである。
ゆえに、私は初心を取り戻すべく、この都から旅立とう。
今一度、己の知らぬ土地ですべてをやり直す。
再出発である。
どちらにしろ良い頃合でもあった。
辺境の片田舎から飛び出して一年ほどになる。
そろそろ新天地へと向かうべきであるとは常々考えていたのだ。
さらに言えば、とうとう資金が底をついたのも理由の一つである。
同志と決別して以降も、私は精力的にバザールに出店をしていたが、結局、私の小説が売れることはただの一度もなかった。
とはいうものの、今更小説が一部売れたところで焼け石に水である。ではなぜ時間も金もないのにわざわざ露店などをしていたのか。
今思えば、私は同志がふらっと現れるのを心のどこかで期待していたのであろう。まったく、私も弱くなってしまったものだ。女々しい限りである。
資金難である。
正真正銘の素寒貧である。
ゆえに、私は今夜にでも宿を出ていかなければならない。女将は寝ているだろうから、その安眠を妨害しないようにこっそりと、である。
俗にこれを夜逃げともいう。
荷物は未使用の紙束と愛用のペンのみ。
それらを抱えて宵闇に紛れてすたこらサッサ。
当然であるが、そんなことをするのには理由がある。実の所、私はここ数か月の宿代を踏み倒していたのだ。
日に日に鋭さを増していく女将の視線には恐れ入るが、いくら懐をまさぐろうとも私にはもう金子は残っていない。
では働いて返せと言われそうだが、私は今生において労働はもうこりごりである。
一応、駄賃の代わりとして物語とその習作を部屋いっぱいに残してある。あれらはそこらの金塊にすら劣らない価値があるため、数か月分の宿代としては贅沢すぎるほどであろう。女将よ、これで許すがよい。
はてさて、お次はどこへ行こうか。
存外にこの都市で満足してしまったため、そこら木っ端の都ではもはや私の求める価値はないであろう。
熟考の末、私は決めた。
これより私は王都へ向かおう。
というのも、公園で彼が現れるのを待っていた時、偶然にも、王都で美術館なる施設が作られているのを耳にした。
美術館とは、要はこの国にある美術的価値のある作品を収蔵、あるいは展示をして、下々の民に美の啓蒙という名のコレクション自慢をする施設である。
聞けば展示する美術品は一般からも公募しているようである。
そこに営業をかけるのだ。
私の物語は娯楽性もさることながら、その美術的価値も計り知れない。
そんなものを展示すれば、道行く人々はガラス越しの物語に齧りつきであろう。光景が目に浮かぶようである。
バザールでの大敗は我が不足が招いた結果である。
しかし、甘えがあったとはいえ、我が集大成は確かに以前よりも格段に素晴らしい出来となっているはずだ。
腕試しである。
目の肥えた連中を唸らせることができれば、私は恥ずべきことのない彼の同志と成れるだろう。
そしてついでにそいつらから金子を巻き上げて資金難から脱却するのだ。
また、王都には美術館以外にも、固有の専門機関が山ほどあるという。
に魔法学校、そして王国文学で幾度となく全焼の憂き目にあっている王宮もそうである。
ロマンタも良き街であったが、専門機関の類はなかった。
私は王都へ行き、新たなる学問を学ぼう。そしてその全てを我が物語世界の糧とするのだ。
それらが私にいったいどのような影響を及ぼすのかは定かではない。
だが、たとえどんな艱難辛苦を押し付けられようとも、私はその全てを呑み下して我が物語世界の糧として見せよう。
荷物をまとめて一息つく。
ぐるりと見回すも、あるのは紙の山ばかり。
この部屋ともお別れであるが、感慨はない。この部屋で綴った文字と同志からの教えは私の心に刻み込まれているからだ。
私はしばらく放置していたズタ袋から、あの日買ってきた酒とつまみを取り出す。
酒はともかくつまみは痛んでいる。
常人が食べれば腹を壊してしまうだろう。
だが、私は常人ではない。
故にこの程度で腹を壊すわけがない。
私はつまみを口に放り込んで、酒とともに呑み下す。
空になった瓶を放って窓から飛び降りると、颯爽と夜の闇に紛れた。
奮発して買って来た酒とつまみは、ひどく不味かった。