異世界作家創世録   作:もちまるまめ

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第2話 スラム 裏

 若い女が住み着いたらしい。

 そんな噂がロマンタのスラムに流れた。

 噂を訊いた大半はどうでもよいことだと興味を失い、わずかに残ったものが下卑た笑みを浮かべる。

 

 だが、後に続く言葉を訊いて、笑みを浮かべ続けた者はいない。

 

 曰く、その女が住み着いたのは悪徳地区である、と。

 

 それを訊いた大半は口惜しそうに顔を歪めた。

 

 スラムの住民は後ろ暗い過去を持つものが多い。前科があったり、逃亡奴隷であったり、夜逃げした一家など様々だ。

 彼らは薄氷の上で相互不干渉を保ちつつ、今にも崩れ落ちそうなあばら家でその日暮らしの生活をしている。

 

 しかし、新しい住人が住み着いた場所というのが、スラムの中でも一等に治安の悪い場所だった。

 

 悪徳地区。いわゆる、裏の住人の縄張りであった。

 

 スラムでは王国法は通用しない。

 ただし、だからといって無法というわけでもない。スラムにはスラムのルールがある。無秩序に崩壊しているような街並みであっても、その中にはれっきとした取り決めが存在した。暗黙の了解である。

 

 その中でも特に重要なのがひとつ。

 悪徳地区に近づかないというものであった。

 

 普通にスラムで生活する分には彼らは何も言わない。スラムはどうしようもなくなった者の最後の受け皿だということを彼らは理解している。更には、スラムの治安を最低限維持する名目で住人からみかじめ料を取っているのだ。接収できるのは雀の涙ほどとはいえ資金は資金である。貴重な金蔓を逃すほど彼らは愚かではない。

 

 だが、己の領分を侵犯する者には容赦がない。

 それは若い女だとしても関係はなかった。

 

 裏社会では力が正義だ。

 特にこのスラムではただの権威は機能しない。唯一誇れるものは他者を圧倒する武力だけである。強いものが正しい。舐められたらおしまい。それこそがスラムに巣食う裏社会の基本原則だった。

 

 縄張りの侵犯は裏社会を社会たらしめる掟への叛逆である。

 決して許しておけなかった。

 

 女が住み着き始めて一日と経たずして刺客は放たれた。

 指折りの実力者だった。数時間後に仕事は完了すると誰しもが思った。

 

 だが、翌日、刺客は無残な姿で発見された。

 

 目と()()が潰されていた。

 股間を抑えたまま泡を吹いて失神しているところを発見されたのだ。

 

 その後も同様の事件が相次ぐ。

 いくら手練れの刺客を送り込もうとも、翌日には目と()()を潰された悲惨な姿で見つかる。

 

 恐怖であった。

 裏社会では力こそ正義である。彼らがこの区画を支配できているのも力を持つが故である。

 

 だが、自分たち以上に力を持つ存在が現れたとすれば?

 

 簡単なことであった。

 それすなわち、今度は自分たちが支配される側になることを意味する。

 

 悪徳地区とて一枚岩ではない。意思決定機関である長老会は責任の擦り付け合いを始めた。

 

 今まで飽きることなく散々刺客を送り込んでいたのである。彼らは女が報復しに来ることを恐れたのだ。

 

 そんな中、一人の女が新たな刺客として名乗りを上げた。

 

 彼女――パリファは裏社会の末席に名を連ねる若輩者であった。取り立てて実力者というわけでもない。今まで送り込んだ刺客の方が何倍も優れてることは明らかだった。

 

 だが、別段止める理由はなかった。始末されれば口減らしができるし、こんな名も売れていない女ならいくらでも無関係だと切り捨てることができる。

 都合の良い鉄砲玉と同じだ。

 

 だがパリファに不服はない。

 長老会から暗黙の了承を得ると、彼女は早速仕事に取り掛かった。

 

 パリファには野望があった。

 それは、成り上がって偉くなること。

 偉くなるためには功績を打ち立てて力を示すしかない。そのために今回の仕事はうってつけであった。

 

 パリファはスラムで生まれた。

 最古の記憶は小さな自分をスラムへと捨てた父の後ろ姿。そして物心ついたころにはゴミ山でその日暮らし。温かい飯にありつけたのは数えるほどである。

 

 家族はいない。

 その代わり、同じような境遇の孤児たちをまとめ上げて集団生活をしていた。

 

 時には歓楽街に出て物乞いの真似事をした。子供の姿だと同情を買いやすくて比較的儲けた。

 あるいはスラムに迷い込んできた観光客を集団で襲った。だがスラムの住人は襲わなかった。同じ底辺同士である。不思議な仲間意識があった。

 

 いつしか、そんな彼女に悪徳地区の人間から声がかかった。

 

 子供たちを統率する能力が買われたのだ。特別腕っぷしが強いわけではなかったが、パリファは物事を冷静に判断し、時に大胆に行動できる強かさがあった。

 

 そんなパリファだ。ただ闇雲に仕事を引き受けたわけではない。

 彼女は今回の仕事に勝算があった。

 

 今までの刺客は目と()()を潰されている。

 

 愚直であるが、効果的な処理の方法だ。実際、いろいろと潰された彼らは再起不能となって内々に始末されている。視覚を失った元男が生きていけるほどスラムは甘くはない。

 よしんば生きていてもそんな状態では復讐もかなわないだろう。

 

 だからこそ、そこにつけ込む。

 

 度重なる襲撃で、標的の脳内には刺客=男のイメージが付いた。

 すなわち、女の自分なら刺客だと悟られない可能性がある。

 

 更に、パリファは今年で二十になる。にも関わらず、その容姿は十代前半とそう大差ない。

 

 これが遺伝か栄養失調からくるものなのかは定かではないが、標的の女は十代前半の少女だという。同年代に見えた方が警戒されにくいという魂胆もある。

 

 早速、パリファはその日から標的の家に赴いた。

 

 そこはスラムにならどこにでもある、何の変哲もないあばら家だった。

 

 裏の住人にとっても、別段、重要な拠点というわけでもない。だが、建っている場所が悪かった。それだけのことである。

 

 だが、今となってはそこは数多の刺客を屠った謎の少女が住む恐怖の館である。

 パリファは意を決して門戸を叩いた。

 

 ――予想に反して、標的とはあっけなく邂逅を果たした。

 

 一言でいえば、標的の少女は平凡であった。

 

 考え事でもしているのか、眉間には常に皺が刻まれてる。不機嫌かと思えばそうではないようで、話しかければスムーズに受け答えをする。目元にはいつも濃ゆい隈が刻まれている。言動は偏屈で厭世的。性根がひん曲がっていた。

 

 見た目は田舎娘然としているにも関わらず、言葉の端々で教養を感じた。お淑やかさはかけらもないものの、凋落した貴族の子女と言われれば納得ができる。事実、彼女が何やら文章を書いているのを目撃した。

 

 文字が書ける平民はそうはいない。出自に何かしらの謎があることは確定だろう。

 

 パリファは時間をかけて少女の警戒を解くことにした。

 

 焦りは禁物である。この少女がどれほどの実力者か判明していない今、迂闊に手を出せない。

 

 少女との短い会話の中で、パリファは己へそう言い聞かせた。

 

 幸いにして、少女はパリファのことをかけらも疑っていないようであった。

 

 パリファをスラムに住むただの少女だと認識している。スラムのルールを少しでも訊き齧っていればそんなことありえないとわかるはずだが、少女がそれに気付いた様子はない。

 パリファはそのことに一抹の罪悪感を覚えるも、すぐさま感情に蓋をした。

 

 接触からしばらく経った。パリファは少女と会話するための糸口を探していた。少しでも情報を引き抜くためである。

 

 話しかければ返答するものの、お世辞にも会話が続くとはいえない。最初期の門前払いを考えれば大きな進歩ではあろう。だが、肝心の情報を引き出せなければ意味がなかった。

 

 その日、パリファはスラムを散策していた。彼女は考え事をするときは歩きたくなる質であった。

 

 ふと、足が止まる。そこはスラムの広場だった。

 

 広場といっても、別段何かがあるわけではない。ただ、ゴミが路肩に避けられていて、比較的綺麗なだけの空き地である。

 

 そんななんでもない場所に人だかりができていた。

 そのほとんどは子供たちであった。彼らは一様に目を輝かせて、何かを今か今かと待ち望んでいる様子である。

 

 その光景は異常であった。この社会の最底辺、スラムにおいて、子供たちが目を輝かせるなどありえないことだからだ。

 

 だが、現実に今、起こっている。パリファは混乱した。

 

 すると、子供たちの前方に設置された手作りの踏み台に、年配の男が立った。

 

 パリファはその男に見覚えがあった。彼は悪徳地区の上層部に所属する人物。いわゆる長老と呼ばれる幹部であった。彼は小脇に分厚い本を抱えている。

 

 彼の登場とともに子供たちは色めき立つ。まるで彼の登壇を心待ちにしていたかのような熱狂ぶりであった。

 

 まさか、この子供たちが彼のシンパでもあるまいに。

 

 パリファが思考すると同時に、彼は語りだした。

 

 さて、今日の読み聞かせを始めよう、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読み聞かせが終わった。

 ぞろぞろと子供たちが散っていく。彼らはみな、興奮冷めやらぬ様子で、楽しそうにはしゃぎまわっていた。

 

 パリファはそんな中、ただひとり、茫然と立ち尽くしていた。

 

 感動していた。何も考えられなくなるほどに、ただひたすら余韻を噛み締めていた。

 

 読み聞かせはそう長くはなかった。

 だが、パリファには永遠にも、一瞬にも感じられた。不思議な時間だった。

 

 長老が語りだすと同時に、目の前に世界が広がったのだ。

 

 ごみごみとしていて、憂鬱なスラムなんかじゃない。弾けるような青空と、どこまでも続く大地。この世界にいる時、自分は自由なのだと確信できた。

 

 読み聞かせは前回の続きから始まった。

 だが、それが全く気にならなくなるほど、パリファは物語にのめり込んだ。それは、長老の語り口が軽妙であったことも一因であるが、何より、作り出された世界が魅力的だったからだ。

 

 そんな世界から急に放り出されたのだ。

 現実と空想のギャップにパリファはしばし混乱して、同時にそのギャップを噛み締めていた。

 

 『竜騎士の冒険譚』

 この物語はそう呼ばれているらしい。今日読み聞かされた話ではまだ竜騎士は登場しなかったが、これからが楽しみで仕方ない。この素晴らしき物語の名を、パリファは忘れないことを誓った。

 

「キミは、パリファ君だね?」

 

 ふと、話しかけられた。

 パリファが顔を上げると、そこには長老がいた。小脇にはあの本を抱えている。顔も合わせたことはないが、実質的な上司である。

 

 パリファは慌てて跪いた。

 

「ああ、いいよ、いいよ。畏まる必要はない。私はほとんど隠居してる身だ」

 

 ですが、と。

 渋るパリファを見て長老は笑った。

 

「はは。構わないよ。ここは中立地帯だ。そんなことを気にする輩はいない。ところで、キミ、私の読み聞かせはどうだったかね?」

 

「は、はい!大変素晴らしかったです!」

 

「ありがとう、楽しんでもらったようで何よりだ。明日も同じ時間に読み聞かせをするからね。もしよければ来なさい」

 

「はい!」

 

 長老はニコリと笑って歩き出した。

 パリファはそれを見送った。

 

 その瞬間、ふと、疑問が湧いた。

 なぜ、長老は自分の名前を知っていたのだろう。

 

 聞くか否か。考えるよりも先に、疑問が口から飛び出した。

 

「あ、あの!ひとつ、よろしいでしょうか!」

 

「......なにかな?」

 

 長老はゆっくりと振り向いた。その雰囲気は、裏社会の重鎮だとは思えないほど朗らかだった。

 

「長老は、なぜ私の名を知っていたのでしょう」

 

「......優秀な若者を覚えているのがそんなに不思議かな?」

 

「い、いえ。滅相もないです。その、なんといいますか、自分はまだ大きな功績は挙げていなかったので、長老様に知っていただけているとは露知らず、つい......」

 

「......」

 

 慌てて頭を下げるパリファの後頭部を、長老は黙って見つめた。

 

 パリファは軽率な自分をひどく後悔した。

 長老の指示ひとつでパリファの命など簡単に失われる。

 機嫌を損ねるなどもってのほかだ。

 

 沈黙は一瞬だった。

 彼は膝をついてパリファに視線を合わせるとゆっくりと語った。

 

「私は、キミが幼い頃から知っている。皺皺の目で、母を求めて腕をさ迷わせていたのを見ていた。私はそんなキミに何もしなかった。背を向けて見捨てた。この場所ではありふれたことだったから」

 

 長老は続ける。

 

「後悔したよ。キミに背を向けたことを。だが、キミは逞しかった。気が付けば子供たちをまとめ上げ、いつの間にか私のいる場所にまで辿り着いていた。私はそんなキミのことを誇らしく思うと同時に、哀れに思った」

 

 長老は伏せていた視線をパリファに向ける。

 パリファはそんな彼をまっすぐ見据えていた。

 

「キミには選択の余地がなかった。この世界でどうにか生き抜くしかなかった。それを強いたのは、私たち、大人の責任だ。私はそれを申し訳なく思った」

 

 長老は小脇に抱えた本を差し出した。 

 表紙には美麗な絵とともに『竜騎士の冒険譚』と書かれている。だが、パリファにはその文字が読めなかった。

 

「だからこそ、私はこの場所で、大人としての責任を果たしていた。大人とは、子供たちに夢を与えるものだ。それが物語の中にしかない仮初のものであっても、彼らの胸に宿る夢は本物だ。......パリファ君、キミには夢があるかね?」

 

「私、には......」

 

「なんでもいい。なくてもいい。ただ、自分が夢中になれることがひとつでもあるのなら、それはとても幸せなことだ」

 

 パリファは考えた。

 自分の夢。野望。それは、成り上がること。偉くなることだ。

 

 だけど、それは本当に夢なのか。疑問に思う。

 思い出すのは長老の言葉。

 

 私に選択の余地はなかった。

 

 それは正しい。スラムでは力がすべてだ。武力が何よりも尊ばれる。だが、女である自分にはそれがない。

 ゆえに、自分は集団の中で、武力以外の力で地位を高めていくしかなかった。それしか生き残る道はなかったのだ。

 

 成り上がることは夢ではなかった。

 己が生き残るための手段に過ぎなかったのだ。

 

 突きつけられた現実にパリファは愕然とする。己を支えていた梯子が急に外された気分だった。

 

 長老は優しく語りかけた。

 

「焦らなくていい。夢は急いで決めるものではない。ゆっくりと積み上げていくものだよ」

 

 長老がパリファの頭を優しく撫でる。

 温かい手だった。体温だけじゃない。心の奥底が温まるような不思議な心地だった。

 

 だが、と。

 パリファは夢心地を振り払って長老を見上げる。

 まだ肝心なことが訊けていなかった。

 

「結局、長老はどうして私のことを知っていたのですか?」

 

「......わっははは!すまんなぁ、歳のせいかね。私はなぜキミのことを知っていたか覚えていないんだ」

 

「なんだ、そうだったのですね」

 

「老人の長話に付き合ってもらって悪いね。キミと話せて嬉しかったよ」

 

 そう言って、長老は今度こそ広場を後にする。

 

「そうだ、夢のことで思い悩むなら、例の少女に話を聞いてみるといい。彼女は世界で一番の夢追い人だからね」

 

 最後にそう言い残して、長老は去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パリファは長老の言葉を図りかねていた。

 

 夢。

 すべてが終わり果てたスラムでそんな綺麗な言葉を使う人がいるとは思わなかった。

 

 彼は夢を持てと言った。

 生きるため、必要に駆られて望むものではなくて、己が夢中になれるものを探せ、と。そう言った。

 

 パリファにはそんなものなかった。

 彼女は今までただ生きることに必死だった。すべてはただ明日を見るために。夢も希望もないこのスラムで、ただ生存することだけを考えていた。

 

 すべての行動はただひとつの目的に集約される。子供たちをまとめ上げていたのは数を力にするためで、悪徳地区に足を踏み入れたのは更なる力を求めてのこと。今回の仕事だって、己の地位を少しでも良いものにしようと考えた結果だ。本当なら命が危険な仕事なんてやりたくもない。

 

 だが、こうするしかなかった。

 夢なんてないから、ただ目の前にある目標――生きるということを追い求めた結果が今のパリファだ。

 

 夢なんて見つかるはずがない。

 これまでの人生で夢中になれることなんてひとつもなかったのだから。

 

 ――ふと、脳裏によぎるのは先ほどの物語。

 

 どこまでも自由で、どこまでも雄大な大空を、騎士は竜の背に跨って旅をした。

 

 空想の物語で、決して手が届くはずのない世界だ。そのはずなのに、読み聞かせを聴いているときだけは、パリファはその世界の主人公になって自由を感じていた。

 

 ゴツゴツとした竜の鱗、風にたなびく髪、天空に吼える竜の雄たけび。そのすべてを鮮明に覚えている。

 

 夢中になっていた。

 夢も希望もないスラムのど真ん中で、パリファは確かに夢中になっていたのだ。

 

「......」

 

 居ても立っても居られなくなって、パリファは駆けだした。

 

 夕焼けに染まるスラムを走り抜ける。見慣れた景色だった。けれど、今のパリファにはどこか輝いて見えた気がした。

 

 体力も尽きて息が切れたころ。目的地にたどり着いた。ここ数日で見慣れた少女の住むあばら家だった。

 

 声をかけずに扉をくぐる。気が散るから声を出すなと言われていたのだ。

 彼女は変わらずそこにいた。相も変わらず眉間に皺を寄せて、机に向かって黙々と何かを書いている。

 

 パリファの喘鳴とペンの走る音だけが部屋に響いている。彼女はパリファが来たことにまだ気が付いていない。驚異的な集中力だった。

 

 今なら殺せる。

 そう確信できた。

 

 だが、パリファにそのつもりはもうなかった。

 

 ここに来た理由はただ一つ。

 長老の言葉を確かめるためだ。

 

「あの、何を書いてるんですか」

 

 少女が振り返る。

 億劫そうな顔だった。呼びかけられたから仕方なく振り返ってやったのだ、と。

 顔に書いてあった。

 

 彼女は答えた。

 物語である、と。

 

 それを訊いた瞬間、パリファはなりふり構わず額を床に擦りつけて懇願した。

 あなたの物語を、世界を知りたい、と。

 

 彼女の性格は熟知しているつもりだった。ゆえに、少し頼み込んだくらいで渡してくれるとは思っていない。邪魔をするなと叩き出されるのが関の山であろう。

 

 なぜ自分が仕事を放棄してまで物語を欲しているのか。

 

 確かめたかったのだ。この胸に灯る情熱が一時の気の迷いじゃない。ただ熱に浮かされたわけじゃない。

 この興奮は本物である、と。

 もう一度、自由な世界を体験して、確信を得たかったのだ。

 

 チラリと少女を仰ぎ見る。

 苦渋に歪んでいると思われた少女は、意外にも笑みを浮かべていた。

 

 少女は机に積まれていた紙束から数枚を抜き取ってパリファに差し出した。

 書きかけの物語らしいが、冒頭だけ読ませてくれるらしい。

 

 だが、パリファは断らざるを得なかった。

 パリファは文字が読めない。それは彼女に限らずこのスラムの住人のほとんどがそうであろう。だからこそ、長老は読み聞かせという形で物語を披露したのだ。

 

 気難しい少女が差し伸べてくれた好意を無下にすることを心苦しく思っていると、彼女は言った。

 

 また明日、同じ時間に来い。

 

 有無を言わせぬ物言いであった。少女からは言葉にできない気迫が漂っている。

 

 言うべきことは言ったといわんばかりに、彼女はそのまま机に向かってしまった。カリカリとペンが走る。パリファのことは意識の外であった。

 

 こうなってしまえば自分にできることはない。そのことをパリファは理解していた。これ以上居座っても気が散ると叩き出されてしまうだろう。最悪、先ほどの言葉を反故にされかねない。

 

 困惑に満ちた頭で、パリファは少女の家を後にした。

 

 翌日、パリファは言う通り、同じ時刻に少女の家を訪ねた。

 

 すると、そこにはいつも以上に隈を深めた少女が不敵な笑みを浮かべて待っていた。

 

 開口一番。

 お前のために物語を書いた、と。

 彼女はそう言った。

 

 それを訊いてパリファは喜んだ。

 まさか、この少女が自分のためだけに物語を書いてくれるだなんて思ってもみなかったのだ。

 しかも読み聞かせを前提としたお話らしく、今から聞かせてくれるという。

 

 パリファはこの少女に頭が上がらない思いだった。

 

 パリファは椅子に座り、少女が部屋の中央に陣取る。

 咳ばらいを一つ。それでは、と。妙な気迫に満ちた彼女は自信満々に笑みを浮かべる。

 

 彼女が口を開いたその瞬間。

 

 ――ふいに、パリファの世界が広がった。 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 その少女はどこにでもいる町娘だ。

 だが、あるとき偶然にも魔法の力を手に入れて、世界を冒険することになる。様々な出会いと別れがあった。そして、素敵な男の子と恋をした。

 

 彼といると胸が高鳴った。一緒にいるだけで幸せだった。少女は心の底から彼を愛していて、同時に彼もまた彼女に惹かれていった。

 

 しかし、幸せな時間はそう長くは続かなかった。

 

 彼が悪い魔法使いに攫われてしまった。

 独り取り残された暗い森の中で、少女は身が引き裂かれる思いだった。

 

 寂しさで胸がいっぱいになる。とめどなく涙が溢れてくる。少女はその時、もう一人だったころには戻れないのだと悟った。

 

 少女は決意をした。必ず彼を救って見せると。

 少女は立ち上がった。決して歩みを止めないと誓った。

 

 愛するものを失った心が泣き叫ぶ。悲しみを魔法の力に変える。

 

 少女は再び旅に出る。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭う。

 顔を上げた彼女は、もうどこにでもいる町娘ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おしまい、と。

 

 少女の読み聞かせが終わって、部屋が静寂に満たされる。

 読み聞かせを終えた少女は汗を拭っていた。

 

 パリファは茫然としていた。

 いまだに意識が現実の世界に帰っていなかったのだ。

 

 それほどまでに、少女の語り口は巧妙であった。

 まるでパリファの意識を物語の世界に引きずり込むような、荒々しく、それでいて洗練された語りであった。飽きが来ないように緩急をつけて、時には身振り手振りで感情を表現し、臨場感あふれた台詞が狭い部屋の中に世界を作り上げた。

 

 パリファは言葉が出なかった。今でも彼女の胸の中には様々な感情が渦巻いている。

 

 愛する彼との離別の悲しみ、隣に誰もいない夜の寂寥感、そして、再会の喜びと溢れんばかりの幸せ。

 

 悪の魔法使いを愛する彼と共に力を合わせて打倒した瞬間など心が打ち震えた。

 

 まるで実際に体験したかのように、パリファは彼との人生を思い出せた気がした。

 

 読み聞かせを聴いているとき、パリファは確かに主人公だったのだ。

 

 嗚呼、そうか、と。

 パリファは理解した。

 

 自分にも夢中になれることがあったのだ。

 

 自分はもっと、自由な世界で生きたい。

 広大で、楽しくて、幸せな世界を、たくさん見てみたい。

 たくさん経験したい。

 

 ぼんやりと、しかし、確固たる意志を持って、パリファはそう理解した。

 

 夢心地であった。

 体から力が抜け、物語と現実の境目をさ迷っていた。

 

 ゆえに、少女から物語の是非を問われて、パリファはその心持と同じく、ぼんやりと雲のように答えた。

 

「......あ、うん。面白かった、よ?」

 

 それはパリファの心からの本心であった。

 否、こんな言葉程度には納められない気持ちを込めたつもりだった。

 

 ただ、あまりに気が抜けすぎていて、上手く言葉にできなかった。それだけのことだった。

 

 少女の表情が凍り付く。

 自信満々に吊り上げられていた口角はへの字に垂れて、眦に涙を浮かべた。

 

 パリファが失言に気が付いたのと同時に、少女は荷物をひっつかんで家を飛び出した。

 

 パリファは慌てて呼び止める。

 だが、少女は止まらない。

 彼女の背中はみるみるうちに小さくなり、あっという間にスラムの闇に消えていった。

 

 唖然と立ちすくむパリファの足元には、彼女が遺した物語だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロマネスク王国の文化史を辿る上で、舞台演劇は外せない要素である。

 

 娯楽文化の黎明期にはまず初めに小説が生み出され、人々を空想の世界に誘った。

 

 だが、小説はあくまで教養人向けの娯楽と言わざるを得なかった。

 今でこそ王国の識字率は九割を超えるものの、当時は読み書きができない人々であふれていた。必然的に、小説を楽しむことは富裕層に許された特権となったのである。

 

 だが、ロマンタのスラム街出身であるパリファがそんな状況を打破した。

 

 彼女は同じスラムで暮らす人々をまとめ上げ、史上初めて大規模な劇団を結成したのだ。

 

 彼女の日記からは、最初期の慣れない大規模な組織運営に対する苦労が克明に記されている。また、彼女の日記帳はその類稀なる文才と表現力から文学的な側面も評価され、死後数年を経て、カール文庫から出版された。

 

 パリファが立ち上げたパリファ=スラム劇団は結成から一年と経たずして、のちの世で娯楽王の勇名を馳せる、当時のロマンタ領主ドミニクの耳に届く。当初より娯楽文化の興隆に関心を示していた彼は、舞台演劇をいたく気に入り、以後パトロンとして精力的に支援を行った。小説の普及に貢献した豪商カールと並んで、彼が王国娯楽文化の父と呼ばれる由縁である。

 

 演劇のその最大の特徴は視覚的なインパクトにある。

 『竜騎士の冒険譚』を始めとする様々な小説を演目として、ただ読み聞かせるだけでなく、実際に物語の疑似的な舞台を作り、登場人物一人一人の役を演じる舞台は、富裕層のみならず市井の人々にまで人気を博した。

 

 舞台演劇が広まった要因は数多くあるものの、観劇料を取らず、あくまで善意の寄付によって公演費用を賄っていたというのが大きいだろう。

 

 これは座長であるパリファの、舞台を通して子供たちに夢を見てほしいという願いから実施された取り組みである。

 

 パリファは脚本の制作のみならず、舞台女優としての活動も活発に行っていた。

 生涯現役を貫き通した彼女には、王国文化を発展させた功として、当時の国王ロマネスク四世から文化勲章が授与された。

 

 しかし、パリファの日記からは当時ロマンタで活動していた反社会組織である『悪徳地区』との関与が随所に見受けられ、彼女の芸術的活動に対する誠実さを疑問視する研究者が存在することも留意しなければならない。

 

 また、のちに発見された『悪徳地区』の上層組織である長老会の一員と思わしき男の手記からは、パリファとの血縁関係を仄めかす文言が見受けられる。

 

 パリファの死後から二百年余りが経つ。

 彼女が遺した作品は今もなお語り継がれている。特にパリファの最初期の作品である『町娘の魔法のような恋』は昨年にリメイク上演されて久しい。

 

 だが、当時のパリファが実際に舞台上で演じる姿を知っているものは、皆一様にこう答える。

 

 あれは彼女のための物語である、と。

 

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