はじめに
架空のキャラクターだったはずのポケットモンスターが地球上に出現してから15年の月日が経とうとしている。
2016年開催、リオデジャネイロオリンピックが現状最後の開催になってしまったことは世界環境の変化に対して人間社会が強いられた受容と対応のほんの一部分である。そう断言できるほど、この15年は激動のものだった。
本書は俗に『第2次ポケモンショック』と呼ばれる2016年の大晦日以降、日本と諸外国問わずポケットモンスターの出現を契機に生まれた制度や影響を記したものである。
ポケットモンスターの知名度は2016年以前より世界的なものであったが、現代においては常識といえるほど高いものである。その反面、その生態系は未だ解明されていない点は多い。そういった状況であるからポケットモンスターの存在を前提としたルールを規定するという行為のハードルは当時も今も高く、世界中の成功例と失敗例の数を比較すれば後者のほうが断然多いのは間違いない。失敗のために失われた時間を取り戻すことは不可能であり、掛かったコストを補填することは難しい。
ポケモンは賢い生物である。ヒトが他の生物よりも賢いという理由で万物の霊長足りうるならば、ヒトを凌ぐ可能性を秘めるポケットモンスターと共生する社会を作り上げることは必須といえる。
改革の壁は高く、リスクは大きい。その上で避けては通れない道を行くのであれば、必要なのは前例とリスクを低減させる知恵が必要となる。本書は今後積み上げられていくであろう一つの塵となりたい。
改めて今日、ポケットモンスターが地球上に出現してから15年の月日が経とうとしている。
15という数字はただ区切りの良いだけのものではなく、我が国においてはポケモンショック以降に生まれた子供たちが義務教育を終えるために必要な年月でもある。ポケットモンスターを架空のキャラクターからいて当然の存在と認識するまでに10年以上必要とした我々大人とは全く異なる常識をもった子供たちは、世の中を大きく変えていくことになるだろう。
*****
2032年4月12日、月曜日。
明朝から降り出した雨は時間がたつほどに勢いを強め、やがて土砂降りになった。今朝の天気予報では一日中晴れの予報が出ていたはずだけど、 17時現在、止む気配はない。
柿坂市立柿坂小中学校、3階の一教室。
僅か6人しかいない中学3年生の教室にはその人数分しか机がない。だから、それほど広くないはずの教室がやけに広く感じる。
雨雲に覆われて薄暗い外の景色をぼんやりと眺める。晴れた日には太平洋が綺麗に見えるけど、今日に限っては灰色の雲と海が繋がっているようにしか見えなくて、面白くない。
すぐに外の景色から視線を外し、机の上に置いた本を捲っては閉じ、また捲っては閉じる。
『第二次ポケモンショックから15年 共生する社会』と題されたハードカバーの学術書はまだ新しい。去年、具体的には2031年の1月に出版された本だから、当然といえば当然だ。
先週これを渡されて、一応読んではみたものの、内容は全く頭に入っていない。かろうじて読み取れる範囲から鑑みるに社会の教科書をさらに踏み込んだような内容で、中学生に読ませるものなのかと疑ったが、聞くと一応去年の読書感想文の課題図書だったらしい。
本の隣には、400字詰めの原稿用紙が3枚。1枚目に3行ほど定型文じみた文章が書いてあって、後の2枚は白紙。さらにもう一枚、小さめの紙にはこう書いてある。
『「ポケモンショックと15年目の共生する社会」を読み、自身の考えを述べよ。
字数:800〜1200字』
何もわからなかった。終わり。
1週間後の今日までに提出せよと命じられた小論文を目の前に、ただ無力に呻く。
「……努力義務……相利共生社会……?」
ちなみに一章から躓いている。普通に無理。
内容のわからない本をいじるのにも飽きて、ペンを回し、貧乏ゆすりをして気を紛らわしていると、教室の隅から視線を感じた。
振り向くと、そこには数少ないクラスメイトの一人、九重雫がいた。
濃い黒のタイツ、袖から覗く黒のインナー、ついでに黒マスク。セーラー服に重ねて、徹底的に肌を隠す格好に身を包んだクラスメイトは教室の一番窓際の席に座りながら、責めるような視線をこちら向けていた。
「なんだよ、九重」
「……鍋田くん。物音を立てないでください、気が散るので」
「気が散るって……お前、何かしてるの」
本やら筆記用具やらで散らかった俺の机の上と対照的に、九重の机の上には何もない。さっきまで、ただ雨が降っている外の景色をぼんやり見ているように見えた。当然、スマホや本なども持っていない。
単純にうっとおしいから静かにしろ、と言われた方がしっくりくる。
九重の返答はシンプルだった。
「考え事です」
「……そうか」
いまいち納得できないけど、うるさくしたのは事実なので黙って本を読む作業に戻る。物音を立てるなと言われた直後なので、内容がわからないからと適当にページを捲るのにも躊躇う。
仕方がないので必死に文字を追うも、やっぱりわからない。マジで。
「……」
ペンは動かない。本を捲る手も動かない。
教室内には雨粒が落ちる音と時計の針が進む音がだけが響く。九重と俺の間に会話はない。
帰りてーな、と思う。率直に、今すぐに帰りたいと強く思う。
それでも帰らないのは、担任教師にここで待っていろと言いつけられたからだ。隣の九重も含め。
要件も詳細の時間も告げず、ただ放課後教室に残れ。そう言われたのだった。
雑な連絡に不満を抱かない訳ではないけど、あの男の適当な性格が27歳にもなって改善されるとは思えないから黙って従っておく。
静寂に耐え、ため息を我慢しながら、そこから10分。
もう寝てやろうかと机に顔を突っ伏していると、廊下から早歩きの男の足音が聞こえてきた。
俺が顔を上げると、丁度その瞬間に引き戸が開く。
「すまんすまん。またせたな二人とも」
「……本当に待ったよ」
中学3年担当、爪木藤次。27歳。
ボサボサの髪に、胡散臭い伊達眼鏡をかけたジャージ男。教師以前にまともな大人には見えない。
放課後になって約1時間。生徒をこれだけ待たせておいて口元にはうっすら笑いを浮かべている。
なんて野郎だ。
「まあ怒るなって。後でなんか買ってやるよ」
「あーもう、わかったよ」
挙げ句の果てに小学生みたいな扱いもする。
ただし、これもいつものことだからもはや怒る気にもならない。
担任以前に長い付き合いになるけど、こいつにとって俺は中学3年生になっても何一つ覚束ない子供なんだろうか。
「先生も忙しいでしょうから、お気になさらないでください……それで、要件は」
俺たちのやり取りをさらりと流して、九重は本題を促す。
こいつも随分、藤次の性格に慣れてしまっている。
「ああ、それなんだけど」
そう前置きして、藤次は教室に備え付けられている時計に目を向けた。
「時間が押してるんだ。悪いけど直ぐに出なきゃいけない。ついてきてくれ」
*****
それから5分後。
俺と九重は藤次の所有者の後部座席に、有無を言わせず詰め込まれていた。
法定速度を軽く10キロは通り越した黒の車体が海浜公園の横の道を悠々と進んでいく。前後にほかの車の影はなく、ついでに雨ということもあってか歩行者もいない。だから藤次は遠慮なくと言わんばかりにスピードを出している。
人気がないのはこの街ではいつものことだけど、結局どこへ行くのだろうか。このままいくと、街の中心部である駅前に行くか、住民の少ない夕日地区に行くかのどっちだ。目的地の心当たりはない。
不安に包まれる後部座席、先に痺れを切らしたのは九重だった。
「あの先生、どこへ向かっているんでしょうか」
「ん? ああ、水研」
「すいけん……あ、水環境研究センター?」
水環境研究センター。馴染み深い場所ではないけれど、その名前には聞き覚えがあった。
柿坂市にある研究施設。柿坂にある数多くの研究施設の中でも特に規模が大きいところだ。
……あそこは確か。身を乗り出しつつ、藤次に訊ねる。
「そこって、陽子のお父さんが働いているところだっけ」
「そうだな」
「俺たちが入ってもいいの? あそこ、国の施設とかって前言ってなかった?」
「国が出資しているってだけで運営は民間だよ。まあ、確かに部外者が簡単に入っていい場所ではないな」
中学教師だって、簡単には入れないはずだと思うんだけど。
「せ、先生って顔広いですね」
「これぐらい狭い街で教師なんてやってると自然とこうなるよ、普通普通」
「ふ、普通ですか」
マスクで表情はよく見えないけど、九重は明らかに動揺していた。
それを察したのか、ようやく藤次自ら話を切り出した。
「で、お前らが聞きたいのはそんなとこに何の用だってとこだろ」
「そうですね。教えてください」
「まあ、どっから話したもんかな……」
呟くように言って、藤次は首を捻る。なにやら、複雑そうな話ではありそうだ。
赤信号が見えて、車が止まる。直ぐに信号の色が青になり、アクセルを踏み込むのとほぼ同時に藤次はまた口を開く。
「ざっくりといえば、ポケモンのお世話」
「お、お世話ですか?」
「えー、先々週の金曜の話なんだが」
先々週の金曜。今日が12日の月曜だから……4月2日。
予想もできなかった返答に上ずった声を出す九重を気にも留めず、藤次は話を進めて行く。
「水研のすぐ近くにある海水浴場跡に一匹のポケモンが漂着した。かなり衰弱した状態でな。それで、水研の職員の一人がそいつをたまたま発見して保護した」
駅前近くの交差点に差し掛かる。柿坂港方面と夕日地区方面に行くなら左。駅前に進むなら直進だ。
ウィンカーのランプが点り、車は左折していく。詳しくは知らなかったけど、水環境研究センターとは夕日地区にあるらしい。
夕日地区には複数、かつて観光客で賑わっていた海水浴場跡がある。そのポケモンが漂着した海水浴場跡とはそのうちのどれかだろうけど、ポケモンの漂着なんてあまり聞かない話だ。大型のポケモンが人間の生活圏内に迷い込む、ぐらいならそこそこニュースには流れてくるけれど。
「そうなると治療をして野生に返すか、里親を探すかのいずれかですね」
「その通り。よく勉強しているな、九重」
「習った通りですからね……それで、お世話をするって」
「まあ、別に飯とかトイレの世話しろって話じゃない。ちょっと遊んだり触れ合ったりして……最終的に処遇を決めてもらうって感じだ」
処遇。取り扱い、取り決め。話すの流れから察するに、野生に返すのか、里親を捜すのか。
それを、お前らが決めろ。中三の俺達に。……藤次は、本気でそう言っているのだろうか。
腑に落ちず、口を挟む。
「何でそんな話になってんの?」
「そのポケモンはちょっと扱いが難してくてな。野生に返すか里親を探すか。どっちかの方針を採るにしても意見が割れそう……というか、すでに割れているらしい」
「……それで、俺達に?」
「そう。職場内で意見が分かれて喧嘩になるのは良くないってことで、俺に連絡が来たんだ」
だからって、何で藤次に連絡が来るのだろうか。というか、だったら藤次が決めるべきでは?
その疑問を口に出す前に、九重が言った。
「私に頼むのは、ひょっとして『補修』の件ですか」
「まあ、そうだな。だから悪いけど、九重に関して強制だ」
「……補修?」
たった6人しかいないこの学年だけど、九重の成績は少なくとも優秀な部類だったはずだ。俺と違って、補修を受けるようなタイプではない。
俺の口から思わず零れた疑問には、藤次が答えた。
「ほら、九重はしばらくいなかっただろ。その穴埋め代わりにな」
「ああ、それで」
確かに、九重は新学期が始まった先週の月曜から水曜までは学校を休んでいた。その前は春休みだったので、先週の木曜に登校してきたときは随分久しぶりだな、と思ったものだ。いやでも、その要件から鑑みるに公休とかになって、補修なんかにはならない気がする。
どういうことかと考えていると、九重はちらりとこちらに視線を向けた。
「そういうことなら止むをえませんが……それで、鍋田くんがいるのは」
「役に立つから」
「鍋田くんが、ですか」
明らかに納得がいってない。
反論したいとこだが、この件で俺が何の役に立つのかは確かにわからないし、そもそも何で俺がここにいるのかもわからない。もっといえば、九重「は」強制なら俺は断ってもいいはずなのに、有無を言わさず連れてこられたのだ。
「普段の悟を見てれば、九重がそう思うのも不思議じゃないけどな」
「いいえ、爪木先生が仰るならそうなんでしょう。私にはよくわかりませんが」
「おい、どういうことだよ」
九重は答えずそっぽを向き、俺の文句は黙殺される。
その様子を見て、藤次は笑う。
「お前ら相変わらず仲悪いなー。転校初日ぐらいからずっとそんな感じじゃないか?」
「……」
「……」
「……なんかあったのか?」
二人揃って口を噤むと、今日一番の深刻さを見せて藤次が訊いてくる。
「それは、その……私からはちょっと」
「じゃあ、俺が説明する」
「やめてください。絶対に」
仕方なしに白状しようとすると、九重はすごい勢いで俺を睨めつけた。
こわっ。
「……すいませんでした」
女子を怒らせてたら何をすべきか。決まってる。なんでもいいから頭を下げるのだ。
「わかればいいんですよ」
「どういう関係なんだ、お前ら」
半笑いになりながら、藤次はゆっくりとハンドルを切る。
車は柿坂港の波止場を横切り、夕日地区の小道に入っていく。
「まあ、いいか。着いたら喧嘩すんなよ」
「はい」
「……わかってるよ」
話すべきは話したのか、それきり車内は静かになった。
山と山の間にある小道を抜け、その先の車一台しか通れなそうな海岸線をゆっくりと進む。
雨は、まだ止まない。