吉佐美さんは質問を飲み込むように、時間をかけて口を開いた。
「……ところで、事故のことは知っているのかな」
頷くと、「そうだよね」と吉佐美さんが小さく笑った。
「あれから5年か。早いものだね」
2027年冬。三島にある『関所』から柿坂へ向かう途中の山道で、一台の自家用車が転覆する事故が発生した。原因は、一匹のポケモンが走行中の車に体当たりをしてきたこと。夜間帯で周囲に街灯もなかったことから、回避するのはほぼ不可能だったらしい。その事故に遭った車を運転していたのは吉佐美光太。助手席には彼の奥さんが。そして後部座席には当時小学4年生だった吉佐美陽子が乗っていた。
吉佐美さんと陽子は重傷を負い、吉佐美さんの奥さん……つまりは、陽子のお母さんは亡くなった。ポケモンと車が接触した位置が車体の前方、助手席のあたりだったから。
それからだ。陽子が、ポケモンという存在そのものから距離を置くようになったのは。誰が口にした訳ではないけれど、俺は自然に思うようになった。「陽子は、ポケモンが嫌いになったんだ」と。
「………………」
「そんなに暗くならないでくれよ。事故は事故だ。避けようがなかった」
吉佐美さんは首を振りつつ、左足の太ももに手を置き、擦った。そして、何事もなかったかのようにこちらを向き直す。
「それで、鍋田君。どうして君は陽子がヒトカゲを飼育していたなんて思ったんだ? 5年前の事故がきっかけで陽子はポケモンが嫌いになって、今に至る。ヒトカゲなんて話のどこにも出てきていないし、嫌いになったきっかけとしても何もおかしいことはないように聞こえるけど」
「昨日のディベートで、やたら詳しかったんですよ」
「それだけかい?」
「それだけ……といえば、そうです。昨日のディベートは、準備期間がほとんどありませんでした。火曜の昼に知らされて、一時間だけ話し合いの時間があって、本番は翌日。家に帰って調べた可能性はありますけど、それでもあの知識を空で言えるのは不自然かなって。陽子を侮るわけじゃないんですけど」
俺の話を聞き終わった吉佐美さんは、深く頷いた。
「成程。大分飛躍した発想だと思うけど……実際その通りだからなあ」
「やっぱり、そうなんですね」
そう言いながら、ほっと胸を撫でおろす。
正直な話。陽子がディベートの日の朝、異様に気合が入っていたのも理由の一つだった。本人は『九重が嫌いだから』と言っていたけど、対抗心を燃やすなら定期テストとか、そういう場所で争えばいいだけの話だ。それに正直、陽子がテストで負けて悔しそうにしていたとか、そんなこともなかったと思う。
何か、このディベートには特別な理由があるんじゃないかと思った。
その理由とは、エイリ。というかヒトカゲしかいないと。
これを言うと、陽子と九重の微妙な関係まで説明しないといけないから黙っておくことにする。
まあ、強引でも納得してもらえたならよかった。
「君の言う通り、以前陽子の傍にはヒトカゲがいた。知っての通りヒトカゲの飼育に必要なトレーナーレベルは3。年齢的に陽子はまだ取得できていなくて、厳密には僕の手持ちだったんだけどね。ただ一番熱心に世話をしていたのは間違いなく陽子だった」
そういって、吉佐美さんが白衣のポケットからスマホを取り出して、画面を俺達に見えるよう差し出した。それは、家族写真のように見えた。懐かしい小学生の頃の陽子と、吉佐美さんと、女性が一人。加えて、2匹ポケモンも映り込んでいた。
一匹はさっき見たバリヤードのアソシエ。吉佐美さんの肩越しにピースサインをしている。
そして、陽子の足にしがみついているもう一匹は……。
「名前はフレン。性別はオス。人見知りする子だったけど、陽子にはよく懐いていた」
「…………」
まさしく、エイリとは別個体のヒトカゲだった。
「このヒトカゲは、今どこに?」
「亡くなったよ。五年前にね」
そう訊きながら、俺はその答えをある程度予想していた。
手持ちだったとか、懐いてたとか。吉佐美さんの口から出る言葉は全て過去形だったし、陽子の今の様子を考えれば、フレンの身に何かあったんじゃないかと察しはつく。でも、もうこの世にいないと前提で話すわけにもいかない。
躊躇いつつも、質問を続ける。
「五年前ということは、もしかして」
「そう。彼もまた、車内にいた。モンスターボールの中だけどね」
「え?」
驚きの声を上げたのは、横に座る航大だった。
「……あ、すいません。自分は当時新聞で記事を読んだんですが、そこに光太さんのポケモン亡くなったという記述はなかったので。なんというか、驚いてしまって」
「確かに、報道には流れなかったね。……亡くなった直接の原因が事故じゃなかったからだろうな」
どういう意味か分からず、航大と顔を見合わせる。その様子を見て、吉佐美さんが悩むように首を傾げた。
「うーん。説明が難しいけど……そうだね、まず第一にあの日僕の車に突進してきたポケモンは子供だったんだよね」
「子ども?」
「うん。親と逸れて、山中を駆けずり回っていたんじゃないかって。後で警察から聞いて驚いたよ。まさか、自家用車を転覆させたのが子どもだったなんてね。本当に、やるせない話さ」
吉佐美さんは目を伏せる仕草を見せたけど、それは一瞬のことだった。
「そのポケモンが激突して、車は転覆し、僕は身動きが取れなくなった。そして、後部座席にいた陽子は幸か不幸か、外に投げ出されてしまった」
「……車は転覆したんですよね? どうしてそんなことに」
航大が訊く。確かに、車が横にひっくり返って陽子一人が外に放り出されるとは考えにくい。
「陽子は今もだけど、乗り物酔いが酷くてね。あの日も酔った、気持ち悪いって言ってたから窓を開けていて、間の悪いことにシートベルトまで外していた。そして、フレンが入っていたボールを大事そうに持っていたな。気休めになるって、本人は言ってたね」
「それで、外へ」
前の席にいた二人、つまり吉佐美夫妻はシートベルトをしていたから体は衝撃を受けても社内に残り、していなかった陽子は外へ。そして当然、陽子が手に持っていたボールの中にいたフレンも同様に、外に投げ出されてしまったということ。
「これ以降は、聞いた話になる。……さっきも言った通り、激突したポケモンは子どもで、当然親がいる。逸れてしまった親は子を探し、そして見つけた。車と激突し変わり果てた子供と、その直ぐ傍にいる生きた人間」
やるせない話、と吉佐美さんは言った。ポケモンは子どもでも走行中の車を転覆させるだけの力がある。だとしても、強い力でぶつかったそのポケモンの体は、無事では済まなかったのだろう。
その姿を見て、ポケモンの母親はどう判断したか。ピクリとも動かない鉄の塊よりも、そのすぐそばで倒れている人間を、敵と判断するのではないだろうか。
「その親は、激高し陽子に襲い掛かり……その間にフレンが割って入った」
モンスターボールに入ったポケモンが自分の意志でボールから出れるかどうかは、トレーナー本人次第。自由に出てもいい設定にするか、ロックをかけておくか。事故の時に吉佐美さんがどう設定していたかわからないけど、外に投げ出された衝撃でボールが壊れていたも不思議ではない。
「フレンは戦い、そして死んだ。これが5年に会った事故の全てだよ」
俺も航大も、何も言えなかった。話を聞く前から、面白い話じゃないだろうなとは覚悟していた。
5年前にあの事故が遭って、陽子はしばらく入院した。数か月後、久しぶりに登校してきた陽子は人が変わったみたいだった。事故のことには一切触れず、あまり喋らなくなって。積極的に話しかけていたのは夏美ぐらいだったと思う。
そうなるぐらいの何かはあると思っていた。
でも、これは……。
黙りこくった俺達の言葉を待たず、吉佐美さんは続ける。
「鍋田くん。君が確かめたいのは……何故陽子はあんなにヒトカゲに詳しいのだろうか。陽子はポケモンが嫌いだと思っていたが、違うんじゃないか。嫌いでないのであれば、何故エイリを野生に帰すべきだと判断したのだろうか。こういうことじゃない?」
その通りだった。最初から全部分かっていたのかと思うぐらいに。
吉佐美さんは、俺の目を覗き込んで言う。
「どうかな。答えは、もうわかったんじゃないかな」
陽子は何故ヒトカゲに詳しいのだろうか?
その昔、陽子にはフレンという友達がいたからだ。
陽子はポケモンが嫌いだったか?
違う、少なくともフレンのことはとても大切にしていた筈だ。
陽子は何故エイリを野生に返すべきだと思っているのか。
……それは、自分のせいでフレンが死んだと思っているからではないのか。
もう二度と、誰も同じ過ちを繰り返させないためではないのか。
もし5年前、事故が遭ったその日に、車酔いを我慢して窓を閉めていたら。
ボールを吉佐美さんから預かっていなかったら。
フレンが自分に懐いていなかったら、自分をかばうなんて真似しなかったのではないか。
いいや、そもそもポケモンが人と暮らしているから、こんな悲劇が起こるのでは。そう考えたんじゃないのか?
そこまで考えて、答える。
「……どうですかね。色々難しいです」
「そうだね。とても難しい話だ」
俺が今考えていることはあくまで推測に過ぎないし、人の心情をすべて汲み取ることなんてできやしない。
ただ、陽子の人生にヒトカゲという存在がいたことは事実。
そして、陽子の前に命の問題に直面しているヒトカゲがいることも事実。
「でも、やることは決めました。……吉佐美さん。お話、ありがとうございました」
「……何かの役に立てたのなら、何よりだ」
そう告げてから席を立とうとして、オレンジ色のカップにコーヒーが残っていることに気が付く。もったいないので、少し冷めたコーヒーを、一気に呑み込んだ。
「ごちそうさまでした」
「はは。アソシエの淹れたコーヒーは美味しいでしょ。僕より達者なんだよね」
実のところ、味の違いは全然わからないんだけど、頷いておく。
改めて席を立つと、横の航大が空のオレンジ色のマグカップを見つめながら、ぼそりと呟く。
「光太さんは、飲まれなかったんですね」
「? まあ、カップが足りないからね」
「成程。……いやすいません。ちょっと気になっただけなので」
不思議そうな顔をする吉佐美さん。俺もまた、疑問に思う。何故そんなことを訊くのか。確かめる暇もなく、航大は吉佐美さんに一礼して、さっと部屋を出ていってしまう。
その背中を、慌てて追いかける。