「最後の、何?」
「明日に関係ないことだから。気にしなくていいよ」
研究室を出て、エレベーターを待つまでの間。最後の質問について航大に訊くが、反応は芳しくない。
航大は嘘はあんまりつくタイプじゃないけど、隠し事は普通にするので油断ならない。それに、気にしなくていいと言われれば余計気になる。
吉佐美さんがコーヒーを飲んでいなかった。だから何?
「うーん」
「今言っても混乱するだからさ。ほら、エレベーター来たぞ」
「はいはい」
促されて、エレベーターに乗る。
既に混乱してるから聞いてるんだけど。そう思いはするけれど航大が気にしなくて良いと言うのだから、諦めることにした。
エレベーターを降りてロビーに出ると、俺達を待っていたのか夏海が一人ソファーで座っていた。
遠目から声をかけると、夏海がこちらを見て手を上げた。
「そっちの用は済んだ?」
「正直、もうちょっといたかったけど。バスが無くなっちゃうし」
「そうだよな」
正確な時間はわかないけど、窓の外がほんの少し暗くなっているから見当はつく。そろそろ水研を出ないと怪しい時間帯なはず。それで夏海は、どうせ乗るバスが一緒なのだから待っていたと。ただ、にしては一人足りない。
周囲の見渡してから、航大が訊く。
「夏海、九重さんは?」
「もう少し残って、そのまま歩いて帰るって。九重さんって家がこの辺りなんだね。知らなかったよ」
確かに、月曜も九重は帰りの車には乗っていなかった。詳細な家の場所までは知らないけど、夕日地区に家があるとは聞いたような気がする。
それにしても、九重は居残りまでして何してるんだろう。夏美に訊きたいけど、じゃあそっちは何してたのと訊かれても困る。ぐっと我慢して、大人しく変えることにする。
3人揃って自動ドアをくぐり、受付の守衛さんに挨拶してから外に出ると、少し冷たい空気が肌に触れた。
水研は海岸沿いにあるのでこの時間は半袖だと少し厳しいかもしれない。寒さから逃げるように正門へと向かうと、来る前と様子が違うことに気がつき、全員の足が止まる。
門の目の前に、黒塗りの車がゲート付近に停車している。
なんとなく見覚えがあるような気がして、隣の航大に向けて言う。
「あれって、航大の家の車じゃない?」
「……昨日の今日だからかな。確かに水研に行く用事ができたって連絡はしたけど」
どうやら航大のお迎えの車らしかった。
確かに昨日あんなことがあったら、保護者としては暗くなる前までに帰ってきて欲しいのが普通かもしれない。ただ本人は嫌そうに見える。航大の家は色々複雑だ。
航大がため息をつきながら、夏海と俺の顔を見渡す。
「まあ、来ちゃったものは仕方ない。一緒に乗せてもらうように頼んでみようか」
航大の提案は確かにありがたかったけど、首を横に振る。
「いいよ、俺は。あんま良い顔されなそうだし」
俺が断ると、夏海も続く。
「そういうことなら私も遠慮する。悟を一人でバス乗らすの不安だし」
「え?」
「そうだな。夏美、頼む」
「ん? 二人とも酷くない?」
抗議の声は空しく無視され、航大は黒い車の中へと消えていく。
海岸線の方向へ向かう航大を乗せた車が見えなくなったところで、夏海に肩を叩かれる。
「さて、悟。帰ろっか」
「うん」
つい一時間ほど前に通った道を、夏海と肩を並べて歩く。
大体18時ぐらいだろうか。水研からバス停のある県道までの道は小山の間をすり抜けるような道のせいか夕陽が届きにくく、街灯もないので薄暗い。
この暗さ、この人気のなさだとゴーストタイプのポケモンが普通に出かねない。
早く抜けてしまうと速足で歩いていると、後ろから声が掛かる。
「悟、歩くの速い」
「……ごめん」
苦情を入れられてしまった。仕方なくスピードを緩める。
俺が渋い顔をしたのを薄暗い中でも読み取ったのか、夏海は静かに笑う。
「なんか、二人で歩くの久しぶりだよね」
「学校行けば絶対会うから、そんな気はしないけどな」
「そうだけどねー」
俺と夏海の家は徒歩一分ほどの距離にある。だから昔はどっかへ遊びに行った日なんかはこうして帰りが二人になることも多かった。中学に上がってからは夏美が陸上部に入ったこともあり、流石にこういう機会もなかなか少なくなっている。高校に上がれば、もうそんなことはなくなるかもしれない。
何となく気分が重たくなって、会話が一瞬途切れる。沈黙を嫌ったように、夏海が「そうだ」と口にした。
「あかりさんが悟君によろしくってさ」
「そういえば、あんまりあかりさんと話せなかったな」
「それ、あかりさんも言ってた。もっと話したかったって。九重さんが教えてくれたけど、爪木せんせーの同級生なんだね、あかりさんって」
夏海と九重の目さえなければ、あかりさんにも聞きたいことはあった。昔の藤次を知っている人なんて知り合いにいなかったし。
……気になったので、少し探ってみることにした。
「何か話した?」
「うん。高校時代の話とか、後は大学時代の専攻とかね」
「ほー。他には?」
「他……あ、そうだ。あかりさんって『野生』派らしいよ」
聞きたかったのは藤次の話だったけれど。思いがけない話が出てきた。
一応確認する。
「それは、エイリの話だよな?」
「そうだよ」
夏海は頷く。
でもそうだ、藤次は最初に言っていた。野生に返すか、里親か。暫定で保護している水研の職員の間で意見が割れているんだと。
「ならもしかして、吉佐美さんって保護派だったりすんのかな」
「吉佐美さん? ……ああ。おじさんのこと。まあ、そうかもね」
ディベートの審査員として水研の職員が二人いて、その片方が野生派であるなら、もう一人は保護派であるべき。つまり吉佐美さんは保護派、陽子とは反対の意見を持っている。
これが、何かを意味するのだろうか。
「うーん」
「ね、悟はどうして……」
何かを言おうとしていた夏海の口が、不自然に止まる。
「夏海?」
「あれ見て」
夏海はまっすぐに前を見据えて、指で遠くを指している。その先には、俺たちがたった今向かっていたバス停。その傍らに女の人が一人。
何故かうずくまっていて、動きがない。足元には中身の詰まった買い物袋。遠目で薄暗いから良く見えないけど、彼女の腕をよく見てみると。
……主婦かな? それにしても、明らかに様子がおかしい。怪我か、それともなにかの病気か。
「悟」
「うん」
顔を見合わせ、二人揃って女性の元へと走り出す。
***
その女性は、片桐葵と名乗った。職業は住み込みで働く家政婦。主婦ではないらしい。
聞けばスーパーへの買い物の帰り道、バスを降りたところで手持ちのポケモンに噛まれてしまい負った怪我が急に痛み出し、その場で動けなくなってしまったらしい。
「痛み止め、家に忘れちゃって……」
「それは大変でしたね! 安心してください、私たちが家まで送り届けますので」
片桐さんと夏海が肩を並べて歩いていくその後ろを、買い物袋を持つ俺が付いていく。
今はなんとか痛みも落ち着いているし、家まですぐ近くであるからと本人は遠慮したが、通りがかってしまった手前そうもいかない。せめて荷物持ちぐらいはと申し出て、今はこうして片桐さんの家……ではなく、住み込みで働いている職場まで、来た道を逆走する形で歩いている。
「二人ともありがとう。もうすぐ着くよ」
水研を通り過ぎて、海岸沿いに出たところで片桐さんは言う。
いよいよ日没は間近に迫っている。空は暗く、水平線がオレンジ色に染まっている。
この辺りは市街地からも遠く、空き家も多い。けどそれ以上にかつての別荘とかが多く、住んでいる人はそれなりに金持ちのイメージがある。片桐さんも家政婦というし、そういう人の家で働いているんだろうなという想像をする。
……それにしても。住み込みの家政婦。怪我をしている。そんな話、どこかで聞いたような。
「うん、ここまでで大丈夫」
俺が考えながら歩いていると、片桐さんは一軒の家の前で足を止めた。
洋風の、白い外壁と淡い水色の屋根の家。一軒家というより、別荘みたいな風貌の家だった。海岸沿いという場所も考えれば、昔は本当にペンションとして経営していたのかもしれない。ここからなら、海が綺麗に見えるはず。
「本当に、ここまでありがとう。何かお礼を……」
「あーいえ、お気持ちだけ」
深々と頭を下げる片桐さん。それに対して、夏美が申し訳なさそうに遠慮する。
好意は有難いけど、バスの時間的に結構怪しい。多分、藤次とか母さんに連絡してもらうことも視野に入れなきゃいけない時間帯だ。
とりあえず預かったこの買い物袋を玄関まで運んで、急いでバス停に向かおう。ここからなら、商店街跡のバス停の方が近いかな。そう考えた矢先。
俺達が今来た方、角の向こう側から気配がして振り向く。
「ん?」
現れたのは、真っ黒な格好に身を包んだ長い髪の女。その背に広がる真っ暗な海に溶け込んだその姿は、まるで幽霊のような……というか、九重だった。一瞬、顔見知りだと気づかなかった。
それで、ようやく思い出した。火曜の朝、家の近くで九重と鉢合わせた時、家に家政婦がいることと、その人が怪我をしていたとか、そんな話を聞いたのだ。あと、その時余計なことも言ったことも、同時に思い出す。
そして、俺の声で夏海も九重に気がつき、「あ」と声を上げる。
「九重さん!?」
「……え? ど、どうして」
戸惑いながら九重が俺たちの顔を順々に見る。それから片桐さんと、俺が持つ買い物を袋見て、おおよその状況を理解したらしく、マスクの上からでもわかるぐらい顔を青くした。普段からは考えられないぐらい速度で詰め寄ると、すごい勢いで俺から買い物袋を奪い取った。
「……すいません。あ、あの。大体事情は把握しました。本当にありがとうございます」
「謝るようなことはないと思うけど」
俺が言って、夏海が同意すると九重は言葉に詰まって顔を俯かせた。
なかなかレアだ、こんな九重。
奇妙なやり取りをする俺達を片桐さんが交互に見て、一言。
「あ、そっか。知り合いだよね。もしかして、同級生?」
「そうです!……えっと、片桐さんはつまり」
「うん。九重さんのお宅に雇われてる家政婦だよ」
「世間せっま!」
夏海、狭いのは柿坂だぞ。
俺が突っ込みを入れようとすると、その前に九重が片桐さんにグイっと詰め寄って言う。
「葵さん、ダメじゃないですか。まだ怪我良くなってないのに。買い物なんて私が行くのに」
「心配かけてごめんね。でも、雫ちゃん帰りが遅くなるって話だったから」
「……う」
九重の喉の奥から、声にならない音が漏れた。
放課後、水研に寄るなら遅くなるかもしれないと九重が保護者である片桐さんに連絡した。それで片桐さんは九重が遅くなるならと夕飯の買い物に出かけた。そういうことらしい。
実際、日が暮れてからの帰宅になったわけで、九重は何も言えないだろう。
「じゃあ、自分たちはそろそろ。バスの時間があるので」
九重が黙ってしまったことで気まずい雰囲気になり、それを見かねた航大がタイミングよくそう切り出すと、九重がばっと顔を上げて俺達の方を向く。
「その。何といっていいか。……ありがとうございました」
「うん、本当にありがとう。今度、遊びに来てね」
九重と片桐さんは、何度も俺達が去るまで何度もお礼を言っていた。
明日合う九重が、どんな顔をしているか。想像すると、少しだけ面白い。
***
「いやー驚いた。まさか九重さん家の家政婦さんだったとは」
夏海が小さく欠伸をして、ぐいっと背伸びをした。学校からそのまま水研に行き、その後は歩き通しだったから流石の夏海も疲れを隠せていない。
俺達は海岸線に戻らず、街中の方へ進路を切った。勾配になっている狭い道を抜け、商店街跡の通りへと入っていく。大道路を横切る際に海の方角へ視線を向けると、柿坂港が見える。停船する、かつて漁船だった船たちが明かりを灯していた。
もう空は完全に真っ暗で、街灯に頼らないといけない時間帯になった。現在時刻は18時半を回ったあたり。
そこからほんの数分歩いて、ペンキが新しいバス停で足を止めた。バスを言い訳に使ったけど、時刻を改めて確認してみれば直近の便は一時間弱先だった。これでは、帰りが夕飯時を過ぎてしまう。なので、藤次に連絡を取って迎えに来てもらうことにした。ちなみに俺はスマホを持っていないので、夏海のスマホを借りる。
遅くなったことに何か言われるかと思ったけど、藤次は「おっけー」と軽く言って、それだけだった。
用は済んだので夏海にスマホを返却しようとすると、突然荘厳な音楽と共に画面が切り替わる。画面には、『外浦春華』とある。夏美の母親だ。……これが、噂に聞く着信?
興味のままに、緑のボタンを押す。
『夏海! アンタこんな時間まで何やってんのよ』
「あ、おばさん。こんばんわ」
『……あれ? 悟君? あ、今一緒なの』
「そうなんですよ、今ちょっと……いだだだだ」
有無を言わせず顔を鷲掴みされ、スマホを奪い返される。
その後「連絡忘れてた」だの「もうすぐ帰るから」など短い会話をして、逃げるように夏海が電話を切る。その後、ジトっとした目で睨めつけられる。
「まったく。人の電話に出ちゃ駄目でしょ。うちじゃなかったらとんでもないことだよ」
「ごめん。ちょっと興味本位で」
「……いい加減、悟君もスマホ買ってもらえばいいのに。校長先生にも勧められてるんでしょ」
「そうなんだけどさあ」
夏海の呆れたような言葉を、曖昧に濁す。ああいう機械に興味はあるけど、上手く使える気がしない。今時、持っていない方が珍しいのはわかっているけど、失くす方が怖かったりする。高校生になれば、そうも言ってられないんだろうけど。
とりあえず、今は話を逸らす。
「それにしても、あんな九重久しぶりに見たな」
何気なくつい先ほどのやり取りを思い返しながら言った言葉。それがまずかった。
夏海がピクリと反応する。
「『久しぶり』? え、なにそれ。前にも似たようなことでもあった?」
「やべ」
つい、やべとか言ってしまった。最早言い間違えとも言えない。
夏海に顔をぐいと近づけられ、問い詰められる。
「前々から気になってたけど、悟と九重さん、何かあったでしょ。いつも露骨に気まずそうにしてるじゃん。なんで仲悪いのかなって不思議だったんだけど」
痛いところを突かれた。
実際のところ、あんな風に慌てた九重を見るのは初めてじゃない。何かあったかといえば、あった。
ただ、当の九重から口封じされている。だから、口を割るわけにはいかない。「やめてください、絶対に」とまで言われたぐらいだ。
「悟ー? おーい、聞いてますー?」
夏海が俺の脇腹をつつきながら追い詰めてくる。こうなると、夏海はしつこい。
……とはいうものの。もはや、隠しきれないか。
「わかった。言うから。腹はやめて」
そう観念すると、夏海はやっと手を止めた。
一つ息をつき、話してしまったことを九重には言わないでくれと念押ししてから、勇気を振り絞って告げる。
「……去年の夏休み明け、九重が転校してきたじゃん。その初日にさ」
「うんうん」
「九重の着替え、覗いちゃったんだよね」
沈黙が流れる。
「…………は?」
夏海のその声は。夜の浜風よりも、ずっとずっと冷たかった。