「ごめんなさい」
「……えっと」
長いようで短かったディベートが無事に終了し、放課後。
自席で帰り支度を進めていた私の前に現れて、あろうことか頭を下げてきたのはまさかの吉佐美さんだった。
私は慌てて周囲を見渡す。爪木先生は既に職員室に戻っている。外浦さんは部活、入田君は速攻で帰宅。鍋田君と白浜君も、丁度教室にいない。
いつの間にか、私と吉佐美さんが二人きりになっている。それでこの状況。周りに人がいないのは幸運か、それとも不幸か。
私が落ち着く前に、すっと吉佐美さんは顔を上げる。
「流石に態度悪すぎたから。……言っとくけど、夏海になにか言われたからとかじゃないからね」
吉佐美さんの表情は照れているのか、ほんのり赤味を帯びている。それだけではなくて、心なしか柔らかい印象を持った。眉間に皺が寄っていない、というような。
らしからぬ行動に驚いたが、謝られて応えないわけにはいかない。
「いえ。私もディベート中は熱くなってしまったので。それに……」
「それに?」
「私も、勝手に吉佐美さんの事情を聞いてしまったので。ごめんなさい」
返す様に頭を下げる。
事情とは、もちろん5年前の事故の顛末。かつての母親とフレンという名前のヒトカゲを喪った、吉佐美さんにとっては忘れがたい悲劇のこと。それは間違いなく軽々しく聞いてはいけないものだ。
自分から聞いたわけではないが、聞いておいて正解だったと結果的に思う。そう思うのなら、私だって謝るべきだ。
頭を上げると、吉佐美さんは私が謝ったことが意外だったのか、目を丸くしていた。らしくないことをしているのは、お互い様か。
同じことを思ったのか、吉佐美さんは小さく笑った。
「別にそれは良い。言いふらしてないだけで、隠してはないし」
「……はい」
「じゃ、要件はそれだけだから」
「あの」
用は済んだと帰宅しようとする吉佐美さんを呼びとめる。一瞬迷ったが、しかし今しかないと思った。
「一つだけ、訊いてもいいですか」
「いいけど」
「……本当にエイリを受け入れるんですか」
確かに、ディベートでは『吉佐美さんがエイリを受け入れる』という話で終わった。しかし、エイリを野生に帰すべきと猛烈に主張していた当の本人が、里親となるという結論を当然の流れのようには思えない。鍋田君が強引に話を進めて、場の空気で決まってしまった。そんな風に見えなくもない。
果たして本当に彼女はこの結末に納得しているのか、それだけは訊いておきたかった。
吉佐美さんは、私の問いに悩むことなく頷く。
「受け入れる」
「……そうですか」
「あんまり納得してなさそうね」
図星だった。
「いえ、あの。今更文句があるという訳では」
「いいわよ別に……そうね。九重、赤羽根蓮ってわかる?」
「え? ……赤羽根選手ですか。もちろん知ってます」
赤羽根蓮。プロのポケモントレーナーで現在の日本ランク一位。世界選手権でも優勝経験のあるトップトレーナー。
知ってはいるが、何故今その名前が出てくるのだろうか。そういえば彼はリザードン使いだが、それと何か関係があるのか。
「結構前に、テレビでこんなことを言ってた。ヒトカゲ族は勇敢で、決して敵の前から逃げない。何故なら尻尾を切って逃げられないから」
……トカゲだけに?
「面白いですけど、俗説ですよね」
「まあそうね。科学的根拠なんて一切ない話。それを聞いて、私はこう思った。何言ってんだ、そんなことポケモン図鑑にだって載ってないでたらめだって。……それを、ディベートの途中で思い出した。 そういえば、あの時フレンは逃げなかったなって」
「…………」
「九重の考えでは、エイリもそうだっていうんでしょ。……ん? これは悟か」
「そうとも言える、程度ですが」
5年前。吉佐美センター長の手持ちだったヒトカゲのフレンは吉佐美陽子を庇って亡くなった。
今回。エイリは自分の子供を浚われたと思い、リザードンに立ち向かった。
後者は勿論想像なれど。吉佐美さんが連想するには十分すぎる。
「私はあれから勉強した。だから、ヒトカゲとその進化系について少しは詳しいつもりでいた。でも、これから先ポケモンという存在はどんどん解明されて行って、ヒトカゲももっと研究が進んでいく。本当にしっぽを切れないから敵から逃げない。そう図鑑に書かれる日も来るかもしれない。それをちゃんと否定できるほどに詳しくない。何も知らない。ちゃんと知りもしないのに、何か否定することはできないし、しちゃいけない。それに気づいた。気づかされたってのが正しいかな」
二人きりの教室に、吉佐美さんの声が響く。その反響が空しく思えて、私は何か言わなければと言葉を探す。しかし、適当な励ましも同調もできない。何を言っても間違いにしか思えない。
幸い、沈黙は長くは続かなかった。吉佐美さんの視線が、私の目を真っすぐ捉える。
「やっぱり、ごめんは違う。……九重、ありがとね」
見たことのない表情だった。しかし、これこそが本来の吉佐美さんなのだろう。
これは想像ではない。根拠はないけど、これは確信だ。
吉佐美さんは頬を一層赤くしながら、一歩後ろに引く。
「……じゃ、私今度こそ帰るから」
「吉佐美さん。ディベートの時気が合わないって言ってましたよね」
「? 言ったわね」
「そんなことないと思います。私達、結構気が合うような気がします」
「…………」
しん、と気まずい雰囲気が流れる。まずい。反応に困られている。
「……それだけです。さようなら、また来週」
「……ふ。じゃあね、九重」
吉佐美さんは小さく笑い、そのまま教室を出て行った。
その背中を眺めながら、来週少しだけ教室の居心地が良くなるかもしれない。そんなことを思う。
吉佐美さんが去り、誰もいない教室に一人取り残される。
学校に残る用事はない。私もさっさと帰るべきなのだが……今教室を出ると吉佐美さんを追いかけるような形になる。
途中まで一緒に帰ろうとでも言えばよかっただろうか。いや、流石に今日いきなりなんて勇気は私にはない。
数分悩んで、階段を下りる吉佐美さんの足音が聞こえなくなってから、ようやく私は教室を出た。話しかけたりするのは、まあ。来週頑張ろう。
「ん。九重さん、今帰り? また来週」
「じゃあなー九重」
「……さようなら」
教室を出ると、白浜君と鍋田君が二人並んで教室に戻ってくるところだった。
挨拶だけ交わし、私は階段を降りて昇降口に向かう。
学校を出てバス停まで歩くまでの道で、私はつい先ほどの違和感を覚えていた。
私と吉佐美さんが教室で数分話している間、白浜君と鍋田君、彼ら二人は教室にいなかった。帰りのHRが終わった後、彼らはどこで何をしていたのだろうか。
お手洗いなどでは長く、爪木先生に呼び出されていたようなこともなかったような気がする。
「…………」
バスを待つ間、バスに揺られている間。思考の隙間で私は考えたが、結局答えは見つからなかった。推理するほどの材料もないから、当然ではあるが。そもそも、彼らが何かしていたとしても、私に関係のあることとは思えなかった。ただちょっと、ささくれのように気になっただけのこと。
だから、家に帰る頃にはすっかり気にならなくなっていて、それから土日を挟み翌週になると、私はこのほんの少し変なすれ違いを思い出すことはなかった。
でも意外なことに、私はその内容を知ることになる。
それはディベートが終わって3週間以上経った、5月5日。
ゴールデンウィークの最終日のことだった。