日が沈みかけ、薄暗い河川敷。高い草に囲まれた川辺で、私は穴を掘っている。
スコップなんて便利なものはなく、悴む手で必死に土と草をかき分けていく。何にも守られていない皮膚に血が滲む。しかし痛みはなく、ただ無心で掘っていく。
しばらくして、穴は十分な深さになった。脇に置かれた重たい何かを、視線もむけずに穴に落とす。一つ、二つ、三つ。それから、穴の周囲にあるかき分けた砂を穴に戻し、埋める。
パンパンと叩いて土を固め、その上から雑草や枯れ草を被せてカモフラージュ。
……これで、大丈夫。誰にも、見つかりっこない。
小さく息を吐き、私は誰かに見つかる前にと、その場から立ち去ろうと振り返る。
瞬間、心臓が跳ね上がるような錯覚を覚えた。
「……お父さん?」
久しく会っていない父が、そこにいた。糊の利いたスーツを着た父の姿は河川敷に置いてあまりに似つかわしくなく、降って湧いたような違和感がある。
父の視線の直線状に、私はいない。私の後方、埋めたばかりの穴をじっと見つめていた。
一歩、父が動く。
「そっちは、ダメ」
引き留める私を無視して、父はそこへ近づいていく。
穴の淵で立ち止まり、蓋代わりの草木を引っぺがしてから穴を掘り返していく。
「やめて」
懇願する。しかし、すげなく無視される。
あっという間に埋めたはずのものが露わになる。
三つの肉。冷たい冷たい、私の秘密。
お母さん。
友達。
ヒトカゲの、エイリ。
土と血に塗れ、どんな顔をしているかもわからないそれらを、父は真顔で穴から引きずり出して、私の目前に並べる。
私は跪いて、父の顔を仰ぎ見る。
「それは、それは。違うの」
私の言い訳を無視して、父はこの世の何より暗い目を慕たままに、告げる。
「……お前が、やったのか?」
******
意識が光を帯びていく。
木目の天井、薄暗い部屋、鳥の鳴き声。ベットに横たわる体。
……夢を見ていた。どんな夢か、あまり詳細には思い出せない。しかし、首元にうっすらと伝う寝汗が恐らく悪夢だったと語っている。
スマートフォンの待ち受けで確認すると、時刻は午前11時過ぎ。休みだからと言って、いくらなんでも寝すぎた。
ヒトカゲ、エイリにまつわるディベートからおよそ3週間が経った。
2032年5月5日、こどもの日。ゴールデンウィーク最終日の天気は晴れ。
窓に近づきカーテンと窓を開けると、外の風がぶわっと私の顔を襲い、まばゆい日差しで目が眩む。月が替わっただけで季節が移ったわけでもないのに、妙に日差しが強くなったようにも感じる。何処かに出かける予定はなくとも、雲一つない青空はそれだけで嬉しい。窓の外、水平線と空の境目をじっと眺めていたくなる。
「そうだ」
ふと思いついて、棚の上のボールケースからダイブボール柄にラッピングされたモンスターボールを2つ取り出して、壁に掛けた小さなポシェットへと入れる。加えて、その横にある箱から新品のマスクを取り出し身に着ける。服装は部屋着として使っている黒のジャージのままだが、大丈夫だろう。そのまま部屋の外に出る。階段を下りてリビングを横切ると、葵さんが私の姿に気がつき声をかけてきた。
「あ、雫ちゃん。お出かけ?」
「いえ。いい天気なのでこの子たちを海で遊ばせようと思って」
「お、良いね~」
そう笑って、窓の外を見る葵さん。掃除中のようで、その手にはフローリングワイパーが握られている。
……右腕に、包帯はない。
「葵さんもう痛みはないですか」
「うん、全くないよ。跡も残らなかったしね」
包帯が取れたのは一週間前。ガーゼを当てなくなったのはつい三日前のこと。全治一か月と診断された葵さんの怪我は長引くこともなく、無事に完治した。
「……良かった」
「ごめんね。色々迷惑をかけたし……見苦しいものも見せちゃった」
見苦しいもの。何のことだろうと少し考えて、答えに思い当たる。
「気にしないでください。固いことは言いっこなしです」
「……ありがとう、雫ちゃん」
葵さんは笑って、掃除を再開した。これ以上リビングにいても邪魔になるだけだろう。
リビングを出て、玄関へと向かう。
外に出て、マスク越しに浜風を吸い込む。日差しは強くなって空気は温いが、風には若干冷気が残っているだろうか。外にいても体は冷えすぎないし、激しい運動をしなければ汗ばむこともない。つまりは、丁度いい気温だ。
階段を下りて、砂浜に立つ。柿坂にいくらでもある海岸の中でも一際小さな砂浜。整備もされておらず、ビーチバレーもできないほど小さな海岸だが、そんな予定もないので十分だ。
柿坂に引っ越してきてよかったと感じることは多々ある。その中でも特に良いと思うのは、家のすぐ傍に海があること。東京だったら、海の近くに住めても独り占めはそうそうできない。
「さて」
ふう、と一息ついてからポシェットからモンスターボールを取り出す。中央にあるボタンを順に押して、一つずつ、そっと砂浜に置いていく。ボタンのある方を海の方向へ向けるのを忘れずに。
モーターの駆動音が鳴り、ボールが開く。十秒ほどたって、浅瀬にポケモンたちが投影された。
ヌマクローのアリア。
カメールのリン。
彼らは外に出たことを認識した次の瞬間、跳ねたり水を掬い上げたりと、それぞれの方法で一日ぶりに外へ出た解放感を表現し始めた。
微笑ましさに口元を緩むのを感じながら、一旦指示を出すために柏手を打つ。
ぱん、と乾いた音に反応して二体が一斉に動きを止めてこちらを見る。その目に、何故止めるという若干の不満の色が見て取れた。何だ、こっちはさっさと遊びたいんだと言わんばかりだ。
苦笑しつつ、そんな彼らに私は告げる。
「制限なし。好きなだけ遊んできていいよ」
アリアとリンは嬉しそうにこくりと頷き、勢いよく海へと向かった。バシャバシャと立てられる水柱は、彼らの背丈よりも大きい。
二匹の喜びようには訳がある。私は毎日最低でも一度は彼らをボールの外へ出すことにしているが、彼らの行動には必ず目を光らせておく必要があるので、長時間外に出して遊ばせておくことはできない。休みであっても天候不良だと海が荒れる可能性もあるし、そういう場合は我慢してもらうしかない。特に最近は雨が多かったら、ストレスも溜まっていたことだろう。
だから今日のように時間に制限をかけず好きなだけ遊んでいいというと、彼らはとにかく喜ぶのだ。
……ただ、部屋に残してきたもう一匹については海で遊ばせたりできないので、後ほど埋め合わせが必要だろう。
「……ふう」
20メートル程離れた沖合で、彼らが仲良く遊び始めたのを見届けて、私は砂浜に体育座りで座り込む。
視線をポケモンたちに合わせたまま、思考を努めてぼやけさせる。何も考えない、というのは難しいが海を見ていれば心は安らぐ。
波の音を聞く。微かに届く、弾む鳴き声を聞く。
ここ最近は色々とあった。もう少し経って、夏に入るとどうしても忙しくなる。だからたまにはこういう日があってもいいかもしれない。
そんなことを思いながらしばらくそうしていると、砂を踏みしめる音が聞こえた。反射的に振り向くと、私はいるはずのない人物の顔を見た。
男性だった。しかし髪は女性でもあまり見ないほど長く、顔つきはまだ幼さが残っている。
とても、見覚えのある人物だった。
「よう、九重」
「……こんにちは」
鍋田君が。鍋田悟がそこにいた。
***
ピカチュウとニャースが、水面を走っている……ように、見える。
アリアとリンが、それぞれピカチュウとニャースを背に乗せて海を泳いでいるからだ。
どうやら競争しているようで、入江の端の岩場から向こう岸目指し、水しぶきを上げながら平行して進んでいる。楽しそうで何よりだ。
……ところで、あのピカチュウとニャースは私の手持ちではない。
なら誰の手持ちかといえば。
「楽しんでるなー、あいつら」
「あの、鍋田君」
「ん」
「この状況は何ですか」
お互いのポケモンが海で仲良く遊んでいる様子を、二人して眺めている。それも、大して仲良くもない同級生同士で。休日の過ごし方として、何かが決定的に間違っている気がする。
突然現れた鍋田君が、突然ポケモンを外に出して私のポケモン達と遊ばせ始めたのだ。繰り返すが、あの仲良く競争している4匹は初対面のはず。人ではないから、人見知りという概念がないのだろうか。この場において、私だけが状況に置いていかれている。
鍋田君は、うーんと頭を捻ってから答えた。
「長話になるかもしれないから丁度いいかなって」
「……? あの。本当に何しに来たんですか。要件は?」
「…………」
私の横に立つ鍋田君を見上げながら再度訊ねるが、返事がない。
本当に何なんだ。ここまでよくわからないと、もはや怖い。
30秒ほど我慢して待っていると、鍋田君がやっとのことで口を開いた。
「まあ、正直半分用事は済んでるんだけど……」
「用事?」
「えーと。まずここまで自転車で来て、インターホン鳴らしたら片桐さんが出て。そしたら後ろ見てって言われたから見たら九重がいて……」
「すいません、話が見えないです」
「え、あー……ごめん」
要領の得ない話を強引に打ち切る。
ディベートを経るまでもなくわかっていたことだが、彼は話をまとめることが苦手なのだろう。
話の腰を折られた鍋田君は顔を顰めながら、うんうんと唸り始めた。
……この調子でいくと、冗談ではなく日が暮れるのではないかという気がする。
「鍋田君。別に謝る必要はないです。とにかく要件を率直に、手短にお願いします。細かいことは後でいいので」
仕方ないので、こっちから話を振る。これで話が進めばいいのだが。
「わかった。じゃあ、聞くけど。九重、お前は……」
躊躇いのような一瞬があった。それでも意を決したように、そのまま鍋田君は一気に告げた。
「片桐さんに怪我させたのは、エイリだったことに気づいているか?」
呼吸が止まった。鼓動が早まり、背筋が凍り。しかし体の体温が急激に上がるのを感じた。
何故、と思った。
私が驚きの余り何も言えないでいると、鍋田君が急に体育座りのままの私の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んできた。
長い前髪の向こう。大きく見開かれた瞳孔に私の顔が浮かんでいる。
エイリが母親であることを一目見ただけで看破した観察眼が、今私に向けられているのだと気づく。
怖い。恐怖という感情だけが、今私の心を占めている。
「その様子だと、気づいているっぽい……いや、知ってたのか」
視線を動かさないままに、鍋田君は言う。
図星だった。全くその通りで、返す言葉もない。しかし、だからといって本当に黙るわけにもいかない。
このまま何も言えなければ、この事実が真実となる。私にはどんな嘘をついても、この件を有耶無耶にしなければいけない理由がある。
「……な、何の話ですか?」
何か。何か言わねばと思いながらも、私はそう口にするだけで精一杯だった。
「え……だって」
「葵さんとエイリに何の関係があるんですか。私は、何も知りません」
鍋田君の言葉を遮り、きっぱりと断言する。
これで諦めてくれれば。そう淡い希望を込めながら鍋田君を見ると、彼は何故か笑っていた。立ち上がり、海で遊ぶポケモン達に視線を向けながら言う。
「そっか。まあ、そう反応するに決まってるよな。じゃあ、改めて俺の話を聞いてくれ。何故エイリがそう思ったか、理由を話すから」
「……わかりました」
そこまで言うのなら話ぐらいは聞いてやろう、という体を取り繕いながら私は了承した。
有耶無耶にして、無かったことにする思惑は空振りに終わった。なら今度はどうにか言いくるめるしかない。
そう決心して、鍋田君の言葉に耳を傾ける。
「あのディベートのあと、航大に話があるって言われてさ。そしたらなんかトイレに連れこまれて」
「ト、トイレ?」
言われて思い出す。確かにあのディベートの後、二人が教室に戻って来るところを目撃した。何をしていたのか疑問を持った記憶がある。
ただ、今の今まで何が起こったわけでもないので忘れていた。だって、あれからもう3週間経過している。
「で、まず言われたのが『そもそもヒトカゲが海岸に流れ着いたなんてこと自体がおかしい』だった」
「…………」
「まあ、気づいてたか」
「……なんのことでしょう」
鍋田君の言葉に首を傾げる。このやり取りに、意味があるかはわからない。
ただそういう他ない。否定するしかない。
「それで鍋田君。何故おかしいと?」
「九重だって疑問に思っただろ。炎タイプのポケモンが、なんで海からやって来るんだって」
「そんなことあるんだ、とは思いましたが」
露骨にとぼけて見せる。
そんな返答は想定内だったのか鍋田君は気にした様子も見せない。代わりに、すっと海の方向へ人差し指を向ける。
「エイリが保護されたのはディベートの要項によると、水研の前の海岸。そして、ディベートの途中でヒトカゲは伊豆諸島の一つ、神津島からやって来たとわかった。……柿坂から50キロ以上離れた、神津島から。その距離を漂流してきたなんてありえない」
「人間なら考えにくいかもですね。でもポケモンならあり得るかも知れない」
「怪我をした、炎タイプのポケモンが?」
訊かれ、私はふうと、小さく息を吸ってから答える。
「事実として、エイリが水研に保護されたことは間違いありません。神津島から飛んできたリザードンと血縁関係にあることも間違いないはず。よって、神津島からエイリがやって来たことも揺るがないと思います。これが違うのなら、水研が嘘をついたということになる」
鍋田君は首を横に振った。
「違うのは、ルートだよ」
海の方角に向けられていた人差し指を、鍋田君は海とは反対側、月日地区の大半を占める小山の方へ向けた。
いいや、正確には恐らく山の向こう側。柿坂港に向けて。
「ディベートでもあったけど、柿坂から神津島までは定期船が出てる。エイリは、その船に紛れ込んだんだ。漂着したんじゃなくて、密航して来た。最初の前提がありえないのなら、そのルートが一番妥当だと思う」
エイリは元は誰かのポケモンだったわけでもない。
ヒトカゲは本州には生息していない。
これらの可能性は、既に否定されている。
「……もし、エイリが流れ着いたのでないのなら、そうだと思います」
「なんか含みがある言い方だな。まあいいや」
気にした様子もなく、鍋田君は続ける。
「柿坂港に、船が止まる。そこから脱出したエイリは、現在地がどこなのかもわからず、当てもなく歩き出す。そして、水研の近くまでやって来て、保護された。そういうルートを辿ったとすると……」
山の向こう側を指していた鍋田君の指が西の方角へとずれていき、海岸線で止まる。
「あの道。九重の家の近くの通りを、途中で通るはずだ」
私が住むペンション跡の狭い道を通り抜けると突き当たる、海岸線の通り。
毎日の通学路で必ず通ることになる道。バス停に向かい山間を抜けると、右手側には柿坂港が見える。爪木先生の車でも通った道だ。あの道を通れば、水研の近くまで行けることは、確かだ。
ただ、これに関しては反論もできる。
「水研に行くのはいくつかルートがあります。例えば柿坂港を真っすぐ行くと、国道に合流します。二度目に水研を訪れた際使ったバスは、その国道を通りますよね。そちらの可能性もあるじゃないですか」
「傷だらけのポケモンが市街地の方を歩いてるなら、流石に誰かしら目撃してるんじゃないか」
「夜なら。ヒトカゲの尻尾の炎は目立つでしょうが、夜の柿坂に人気は輪にかけて少ないはずです」
「ディベートでその話題は出たろ。定期船に夜の便はない。週に一本、金曜の午前に便があるだけ。……九重、わかってるだろ」
わかってる、と言いたかった。しかし私は言葉を飲み込み、代わりに荒い息を吐く。
別に、慌てる必要はない。言いたいだけ言えばいい。
「成程。じゃあ、鍋田君の話が正しいとしましょう。エイリは柿坂港から海岸線を通り、水研の前にある海岸へとたどり着いた」
「…………」
「確かに葵さんはあの道を頻繁に通ります。当然ですよね。家の前の通りですから。もしかしたら、タイミングよく葵さんとエイリが出くわすこともあるかもしれない。でも、見たでしょう。エイリのあの弱り切ったあの姿を。葵さんがエイリに怪我を負わされることになんて可能だと思いますか?」
「可能だと思うよ。エイリが怪我した理由と一緒で」
「……どういうことですか?」
「想像してみればいい。片桐さんとエイリが偶々出会う。すると、片桐さんはどうすると思う?」
しらばっくれようとするなら、放っておくとか通報するんじゃないかとか。そんな適当なことを言っておけばいい。でも、その嘘に意味はない。葵さんなら、間違いなく……。
「……助けようとすると思います」
「そうだよな。そのために葵さんは近付いて、抱え込もうとする。でもエイリは自分より体のサイズの大きい生き物を怖がってるから、振りほどこうとする」
「それでたまたま傷ついた、と? ……そんな都合の良いこと、あるわけがない」
口ではそう言いながら。内心ではあり得るかも、などと思う。しかし怪我の経緯なんてディベートでも証明できなかったことだ。どうせちゃんとした根拠なんてないと思っているから、私は嘯ける。
しかし、鍋田君は首を横に振った。
「爪、切られてただろ?」
「え」
「エイリの脚の爪が切られてた。あれってさ、暴れたら危ないって判断されたからじゃないの」
血の気が引いた。
そうだ。確かに、そうだった。私は最初にエイリを見た時、それに気づかなかった。初日のディベートで鍋田君が言及して、翌日水研に訪れた際に確認した。わざわざ処置をするということは、それなりの理由がある。それはまさしく、人を傷つけるリスクがあるから。
……事実が追い付いてくる。最早、否定の言葉も出てこない。私はいよいよ、反論を諦めた。
明確な敵意を持って、鍋田君を睨めつける。
「鍋田君」
「どうした?」
「……もし仮に。仮に! 鍋田君の言っていることが正しいとして。エイリがどうなるか、鍋田君にはわかってるんですか」
「保健所に連れてかれるだろうな。人に怪我を負わせたんだから。ルールに従えばそうなる」
「……っ」
そうだ。わかっているじゃないか。
人に怪我を負わせたポケモンは、それが野生のポケモンであるなら人間の元で暮らすことはない。
ポケモンには、ポケモンの権利を守る法律がいくつもある。でも、それはデーターベースに登録された、人の手持ちにいるポケモンに限った話。
野生の、人を傷つけるポケモンは、法律上「
もしかしたら、保健所はエイリを野生に返すという判断を下すかもしれない。それなら良い。しかし、エイリの健康状態をみて野生に帰せないと判断したなら。エイリが辿る、その末路は。
私はわかっている。鍋田君も、わかっているだろう。
……それがわかっていながら、どうして! 叫びたかったが、何とか堪える。
鍋田君の語る言葉は、恐らくすべて正しい。
エイリは、柿坂と神津島をつなぐ定期船でやって来たのだろう。
エイリは、柿坂港から、あの海岸線の道をたどり水研前の海岸にたどり着いたのだろう。
エイリは、葵さんと偶々出会ったのだろう。
葵さんは、エイリを助けようとしたはず。でも、エイリは助けの手を振り払い…‥葵さんは怪我をした。
あの包帯の下にある傷は、手持ちのワニノコに噛まれた傷じゃない。傷を8針縫う、全治一か月のひっかき傷だ。
……だからなんだ。誰も悪くないじゃないか。エイリも、あのリザードンも、もちろん葵さんも。
私は許せない。誰かの優しさで、消える命があってたまるか。
どんな手を使ってでも、この真実は隠し通す。
「……証拠は」
「ん?」
「証拠は、あるんですか。エイリが、葵さんに怪我を負わせたその証拠。ないのなら、貴方の発言はただの想像で、でっち上げだ。もうディベートは終わっている。自分の言葉が正しいと主張し続けるのなら、確かな根拠を示す必要がある」
私は立ち上がり、鍋田君に詰め寄った。少し上背の低い彼を押さえつけるように睨めつける。
「あるなら、出してみろ!」
私の精一杯の大声は、かすれて大して声量もなく、小さな波音だけがさざめく海岸に空しく溶ける。
鍋田君は、瞬き一つせずじっと私の目を見つめている。目を逸らすことも、私を跳ね除けようともしない。
怒りがさっと引いて、代わりに羞恥が襲ってくる。
……私は、何をしているんだ。こんなの、全部真実だと語っているようなものではないか。何でもするから黙っていてくれと頭を下げるとか、そっちの方がいくらかマシだ。
私が一歩引いて謝ろうとすると、その前に鍋田君が落ち着けとばかりに肩をトントンと叩いてきた。
それから鍋田君は、ふうと小さく息をつく。
「証拠ね。それならないよ」
「なら」
「もっと言えば、証明する気もないし。他の人に言いふらす気もない」
「……え」
「だから、今日来たんだよ」
今日一番大きなハテナマークが、脳裏に浮かぶ。
『だから、今日来た』、だって?
今日は、何の日だ。
今日は、2032年の5月5日。こどもの日。
ディベートからおよそ3週間。エイリが保護されてからはおよそ一か月。
一か月。……
「あ」
私は愚かにも、その時になってようやく気が付いた。
鍋田君が白浜君とエイリについて話をしたのはディベートの決着した直ぐ後の放課後。
そして彼は、その話を聞いてエイリと葵さんにまつわる真実にたどり着いた。……であれば、彼がそう推理したのは最速でも4月16日。今から、3週間前。この3週間、鍋田君は私に何も言わなかった。それが何を意味するのか。
決まっている。
葵さんの傷が治るのを待っていてくれたのだ。
証拠がないのなら。仮に誰かが疑問を持ったとしても『エイリが神津島を脱出して、柿坂に漂着した』。その結論は誰にも覆されない。証拠もなしに、議論の末に決まったことを証拠もなしに否定することはできない。少なくとも、鍋田君はそう考えた。
鍋田君はこの秘密を誰にも言わない。
それを証明するのに、3週間待ったという事実以上の証拠はない。
「……鍋田君、さっき用事は半分済んでるって言ったのは」
「ああ。片桐さん、もう治ってたな。良かったよ。傷跡も残って無くて安心した」
鍋田君は最初に何と言ったのか。
そうだ。『片桐さんに怪我させたのは、エイリだったことに気づいているか?』、だ。
気づいているか。それは、変な駆け引きも企みもない。ただの確認ではないか。
鍋田君の意図を理解して。ちゃぶ台をひっくり返すような真似をするつもりはないのだと理解したうえで、私の心に込み上げてくるのは疑問と困惑だった。
「なんで」
「……?」
「なんで、わかったんですか」
「片桐さんの怪我の事? さっき言ったじゃん。航大の話を聞いて、一度葵さんにも会ったからそれでわかった」
「じゃあ、葵さんはポケモンに引っ掻かれたとでも言ってたんですか」
「……いや、手持ちのポケモンに噛まれたって言われたよ」
「そうでしょう。私もです。でも、私は傷の下を見ました」
私は見たのだ。ディベートの開催を告げられた日。家に帰ると、リビングでは葵さんが居眠りをしていた。痛み止めの副作用で、包帯を取り換える途中で眠ってしまったのだ。だから、彼女がノコちゃんに噛まれてできたと言っていた傷を見てしまった。それは、咬み傷ではなく、三本のひっかき傷。
「葵さんは嘘をついた。わざわざ怪我の理由を隠す理由があると知って。それでようやく真実に気づきました。エイリは人と暮らせないし、野生に帰る道もないんだと。……鍋田君は傷を見ていないでしょう。なのに真実にたどり着いた。足りないんですよ。その思考に至るまでの段階が」
私が片桐さんの傷を見たはただの偶然に過ぎない。
鍋田君が葵さんに『噛まれた』と訊いたのなら、尚更わからない。その話を嘘だと断じるなら、それに足る根拠があったはずなのだ。
エイリとリザードンのこともそうだ。洞察力が高いとか、それで納得なんてできない。
「お願いします、理由を下さい。私にもわかる理由を。そうじゃないと……」
「そうじゃないと?」
「……恐ろしくて、鍋田君の顔を見れません」
例え、エイリを害するつもりがなくとも。葵さんのやさしさを台無しにする気はなくとも。
それでも、秘密を全て見抜いてしまう人間が傍にいるのは恐ろしかった。
彼のせいではない。本人に伝えるべき言葉ではないと思う。でも、本心だった。
鍋田君は表情を変えない。ほんの少しだけ視線を逸らす仕草は、言葉を探しているように見える。十秒ほど待って、鍋田君はようやく口を開いた。
「片桐さんとエイリがよく似てたから、かな」
あの二人が、似ている?
頭の中に、二人の顔を並べる。柔和な表情の葵さんと、苦しげな顔のエイリが浮かぶ。
「全然、似てないと思いますけど……」
「いやまあ顔は似てないし。でも、初めて片桐さん会った時にな。俺は一目見て主婦だと思ったんだ。包帯をしていない方の手、薬指に指輪してたから」
「…………」
……ああ。本当に、よく見ている。
「でも、話を聞くと家政婦なんだって。住み込みで九重と二人暮らしをしているって。詳しくは流石に訊けなかったけど、どういうことかとは思った。……えっと。ここまではいいか?」
「はい」
「ありがと。それでな。航大からディベートの不審な点を訊いてから、色々考えてるうちに思ったんだ。エイリと、葵さんは似ているって。何でそう思うのか。……これは失礼な想像だけど、家族を失っているから、じゃないかなと俺は思った」
……正解だ。
葵さんは、私が東京にいた頃。中学生になったタイミングで父に雇われた。当時は通いだったが、多忙な父に代わり家事全般をこなしてくれていた。一緒にいる時間が自然の長くなる中で、話してくれたことがある。葵さんは3年ほど前、旦那さんとお子さんを亡くしている。育児に疲弊した葵さんを見かねて、旦那さんが一人の時間を作ってもらうためにお子さんを連れて外出し…‥そして、帰ってこなかった。死因は葵さんが言わなかったので聞かなかった。聞きたいと思ったこともない。ただ、これだけは言っていた。結婚指輪は、未だに外せないと。
「子供を探して、柿坂にやって来たエイリ。それと、片桐さん。二人は似ている。そこから連想していった感じ。エイリが発見された日付と、片桐さんの怪我しただろう時期が近い。バス通学を始めたのがそれぐらいだったからな。それと、エイリが通るだろうルートが九重の家に近いこと。……後はそうだな。九重の様子かな」
どきりと、心臓が高鳴った。
「……私ですか?」
「あのディベートで一番必死に勝とうとしてたのは九重だったよな。エイリを受け入れようとしてたぐらいだし」
「そうですね」
それは否定のしようがない。外浦さんにも指摘されていたことだ。
私はあの時、何が何でもディベートに勝とうとしていた。正確に言えば、ディベートに勝って、エイリを受け入れようとしていた。エイリが葵さんに怪我をさせたという事実をひた隠すのに、それが一番簡単な方法だったからだ。だからあのディベートで吉佐美さんが受け入れるという結末は最善ではなかったのだが、彼女は信用できるということで納得した。
「一番様子が変だったのはまあ陽子なんだけど、でも九重も負けないぐらいらしくなかった。何でそこまでして勝ちたいのか、と思って。正直、九重のことは良く知らない。それでも誰かのために動くとするなら。理由があるとしたら家族に何かあるんじゃないかって」
「……家族」
「家族だろ?」
「いや、その通りです。違いません」
……そうか。私か。
鍋田君にそのつもりがなかったから大丈夫だった。でも、そうじゃなかったら。彼にほんの一欠けらでも悪意があったら。もしくはルールを絶対視する正義感があったなら。
今頃、エイリは吉佐美さんの元にはいない。
「えっと。大体こんな感じなんだけど。どう、納得できた?」
「はい、大丈夫です」
「…………」
「…………」
鍋田君が説明を終えると、途端に会話が途切れる。
じゃあ、これで話は終わりとも言えないような雰囲気だった。言葉を探したが、先に口を開いたのは鍋田君だった。
気まずそうに、おずおずと話始める。
「そのさ、なんというか。俺は普段、ポケモンの事になると急に思いつきで喋っちゃうことがあって。それが的外れなら何言ってんだで済むんだけど。それがなんか当たっちゃうことがある。そしたらさ、気味悪がられることもある」
「それは……」
自らを卑下する言葉を否定しようとして、口が止まる。私彼に思っていた感情がそれじゃないのか。私が彼に見抜かれるのを嫌がるのと同じで、彼もまた恐怖や奇異の目で見られるのは嫌だったんじゃないのか。
「今回のことも、本当は気づいて良かったのかわからない。……九重、今日俺は色々話をしたけど。多分、気を悪くしたと思う。本当にごめん」
鍋田君は、私に向かって頭を下げた。
違うと思った。それは、絶対に違う。
「謝ることなんて、ないです。……だから、頭を上げてください」
言われて顔を上げた鍋田君の表情はなんだかとても悲しげで。
私はその時初めて、彼を同い年の、同じ人間であると感じたのだった。