『春眠暁を覚えず』……以下略。
春の眠りは、夜明けに気づかぬほど心地よい。
国語の授業で習った詩の冒頭を、この季節になるとよく思い出す。特に、こんな晴れた日には。
2032年5月6日、木曜日。
風はちょっとだけ強いけど、おかげで涼しくもある。今日何があっても悪い一日にはならないだろうというぐらい好きな空気だ。例え連休明けであっても、憂鬱な気分がずっとましに感じる。
軽い足取りで玄関を出て、敷地の外へ一歩踏み出したその瞬間。
「あ」
「……おはようございます、鍋田君」
「……おはよう」
九重と、ばったり出くわした。とりあえず、挨拶を交わす。
九重は当然のごとくいつもの黒マスクと、セーラー服。昨日会ったときは私服姿だったから、連休明けということもあっていつもの制服が不思議と目新しく見える。
それにしても、前にもこんなことがあった。あれはそう、初めて水研に言った次の日のことだ。
九重がバス通学を始めていたのを知らなくて、驚いたのをぼんやり覚えている。
そこまで考えて、ふと疑問を覚えた。
「九重、まだバス通学なの? 片桐さん、怪我治ってたじゃん」
「いい機会なので、バス通学を続けることにしたんです。私だけ車で送迎してもらうのはやっぱり目立ちますし、気も引けるので」
「ふーん。そういうもんか」
「そういうもんです」
楽で良いじゃん、と思うけどそれは学校まで3分もかからない奴が言うセリフではない。本人がそう言うのなら、やっぱりそうなのだろう。
「……じゃ、先に行くわ」
そう告げて、前と同じように走り去ろうとすると、袖が引っ張られる感覚。
「九重?」
「このぐらいの距離、わざわざ別に向かう方が不自然です。……その、教室まで一緒に行きましょう」
「……う、うん」
そういうことになった。
九重と二人、肩を並べて通学路を歩く。
車も通らない住宅街。静かでいいけれど、沈黙が気になる。そう思った矢先、九重が思い出したように口を開く。
「そういえばなんですけど。外浦さんに話しました?」
「何の話?」
「初めて会った時のことです」
「…………」
「話したんですね」
「はい」
まずい。バレている。夏美め、どういう経緯かは知らないけれど気取られるなんて。
九重は重たいため息をつく。
「……あれだけ口止めしたのに」
横目で冷たく睨まれる。若干俺より背が高い九重に見られると、何となく迫力がある。
「すいません、どうしたらお許しいただけるでしょうか。何でもします」
「……まあ、昨日は迷惑をおかけしたので。いいですよ、もう」
「それはそれで申し訳ないんだけど。大したことしてないし」
俺がそう言うと、九重は眉を顰めた。それから数秒、うーんと考える素振りを見せる。
「……そういうことなら、ちょっと質問させてください。それで貸し借りなしにしましょう」
「え。うん、なんなりと」
「鍋田君は、あのディベートで何故『野生派』を選んだんですか」
……今更? いや、というより何でそんなことが気になるのか。
「いやでも、何故って言われてもな」
「なんとなく、ですか?」
「そう。それ」
「成程」
九重は頷き、突然足を止めた。もう校門が見えるぐらいの距離だけど、当然到着ではない。不思議に思いつつも、倣って俺も立ち止まる。
「丁度、この辺りでしたよね。鍋田君は私に『大変だな、お互いに』と言いました」
「……言った」
九重が親と暮らしていないことを知って、つい言ってしまったこと。そんな会話をしてしまったこと含めて、迂闊なことだったと思う。
そんなこと言ったっけ、みたいなとぼけるフリはできなかった。九重の意図はわからないけど、そんな空気じゃないことだけはわかる。
「私はどういう意味なんだと思いました。私は確かに葵さんと二人暮らしです。でも鍋田君は校長先生と、実の母親と暮らしているじゃないか。なのに、『お互い』とは?……鍋田君、失礼を承知で訊きます。答えたくないのなら、お手数ですが以前のように走り去ってください」
「そんなことしないよ」
「じゃあ、訊きます。鍋田君と校長先生は、血が繋がっていないんですか」
……やっぱり迂闊だった。
なんというか、随分訊きづらいことを言わせてしまって申し訳なく感じる。
できる限り平坦に、俺は答える。
「そうだよ。養子なんだ。母さん自身は、ずっと独身」
「……やっぱり、そうなんですね」
九重は目を伏せる。
別に、隠していたわけではない。どころか、九重以外のクラスメイト4人は当たり前のように知っていることだ。まさか、九重に直接訊かれるとは思ってなかったけど。
「で、九重。それが何か……」
「その上で、もう一度聞きます。何故『野生派』を選んだんですか」
「え?」
何故、その質問にこだわるのかわからない。なんとなくじゃダメなのか。
「二度目に水研を訪問する前、バス停で私がした質問を覚えていますか」
答えられない俺を見かねて、九重は別の質問を投げかけてくる。
流石に3週間も前なので、記憶はぼんやりとしている。それでも何とか頭を捻り、答える。
「何でもう一度水研に行こうと思ったのか、みたいな話だっけ」
「そうです。それで、鍋田君はこんな風に答えました。想像していることがある、それを確かめに行く』と」
「……言ったかも」
記憶に自信はないなりに同意すると、九重はこくりと頷く。
「では、その確かめに行きたいものとは何だったのか。……それはエイリが母親であること、じゃないでしょうか」
エイリとリザードンの間に血縁があるかを確かめに行くのは、隠すほどのものではない。
5年前に起こった事故と、陽子のことを吉佐美所長に聞くのは『確認』ではない。
九重の言葉は的を得ている。その真意は全くわからないけれど。
「確かに、そういう意味で答えたよ」
「では鍋田君は、エイリを最初に見た段階でエイリが卵を産んでいる母親であると見抜いていた、ということですね」
「……まあ、確証はなかったからもう一度行きたいって話をしたんだけどな」
「それですよ」
「え?」
「それこそが、鍋田君が『野生派』を選んだ理由じゃないですか。エイリが母親でありながら海岸で倒れていた。その事実がある以上、どこかで親と離れ離れになった子供が存在する。だから、野生に返してあげるべきだ。だから、『野生派』を選んだ。……違いますか」
返す言葉が出てこなかった。
図星だと思ったわけではない。でも、俺が『野生派』を選んだ理由は「なんとなく」で、正しく言語化をできていたわけではない。九重が今突き付けてきたこの指摘を、否定するほどの材料がない。
九重が、一歩近づいてくる。俺の目を見据えながら続ける。
「鍋田君は、子どもは実の親の元で暮らすべきだ。そう思ってるんじゃないですか」
それは違うと、咄嗟に言い返そうとして口が止まる。
いいや、俺は3週間前何と言ったのか。
……『大変だな、お互いに』と言った。親がいない事を、『大変』と言ったのだ。
まるで今。自分たちが不幸だなんてみたいな言い草で。
迂闊な発言だとは思っていた。しかし、これはそれどころじゃなくて。取り返しのつかない失言ではないのか。
「……そうなの、かな」
「…………」
「だとしたら、本当に」
「鍋田君」
九重が突然、人差し指を近づけてきた。子供に、静かにしなさいと注意するような動きだった。
九重の指と唇が触れそうになって、一歩後ずさる。
そんな俺の反応を見て、九重が慌てたように手を引っ込める。
「……別に、責めている訳じゃないです。鍋田君がどんな人かは、昨日で十分わかってます。私はただ、今の鍋田君の心が知りたかっただけです」
「な、なんで?」
「…………」
今度は、九重が黙った。お互いにコミュニケーションが根本的に下手すぎる。
どうしたもんかと少し待つと、おずおずと。言い訳するみたいに九重は話し出す。
「なんというか。その。クラスメイトですし。鍋田君のことを心配してる人もいますし……」
「心配してるって、誰が?」
「それは……」
言い淀む九重を見て、ぴんときた。
ディベートの期間九重とよく喋っていて、それでいて俺の話を進んで出す奴なんて一人しかいない。
「夏海か」
九重の動きがぴたりと止まる。どうやら正解らしい。
少し込み上げてくる笑いをこらえながら訊く。
「あいつ、なんか言ってた?」
「……いや、その。鍋田君の事情について、何か言ってたわけではないです。ただ……」
「ただ?」
気まずそうに、それでいてはっきりと九重は言った。
「多分、怒ってました」
「……そっか」
夏海はそういう奴だった。
あいつはこの柿坂が。もっと言えば柿坂小中学校、中学3年生の教室が好きなのだ。今、この瞬間が。後1年の立たずに終わりを告げるあの教室が。
だから、夏海から見て今を大事に思っていない俺の態度は、とても腹立たしいものだったのだろう。思えば、陽子とか九重ほどじゃなかったけど、あいつだってあのディベートに真剣だった。
あのディベートはエイリと陽子のためにあると思っていた。
……でも。俺のために頑張ってるやつもいたんだな。
謝らなきゃ。それで、言わなきゃいけない。
俺は、今この時が嫌なんじゃない。今のままの自分が嫌なだけなのだと。
時間とは、大抵の悩みを解決してくれるもの。でも、優しいだけのものでは決してない。本当は、全ての問題を水に流してしまう残酷なもの。その恐ろしさを身をもって知っているわけではないけども。
「九重」
「……はい」
「教室行こう」
随分と長い立ち話だった。
遅刻の心配はないと思うけど、そろそろ教室に向かわなければいけない。
九重も同意見の様で、小さく頷く。それから、再び並んで歩きだす。
昇降口で上履きに履き替えて、教室のある4階に向かう途中。
3階の踊り場で、九重が突然足を止めた。
「どうした?」
「いや……大丈夫です」
声をかける。九重は大丈夫と言うけど、とてもそうは見えない。
マスクの下で、若干息切れしているように見える。
え。階段登っただけで?
「お前……体力ないな」
「う」
「それで普段大会とか平気なのか。バテないの?」
「疲れますけど、実際戦うのはアリア達ですから」
「そういうもんか」
九重雫は、ポケモントレーナーである。
厳密な意味ではポケモンを手持ちに持っているだけでそう呼ばれるわけだけど、一般的にはポケモンバトルを行う人こそをそう呼称する。
九重は、ポケモンバトルが強くて有名なトレーナー……どころの話ではなくて。
……今、踊り場で力尽きている姿からは、想像もできないけれど。
「あの、先行っていいです……」
「いやいいよ。ここまで来て置いてくのも変だろ」
そんなわけで、まさかの小休憩となった。通りすがりの後輩の視線が痛い。
生まれた気まずい時間の中で、九重が口を開く。
「……そういえば。昨日鍋田君が言ってたことですけど。爪木先生が全て知っていたかもしれない、という件で」
「ああ、あったな」
「私もやっぱり、考え過ぎだって思うことにしました。気にしたってしょうがないですから」
「そうだな。それがいいよ」
「ええ。だから……」
九重が言葉を区切って、俺の顔を見た。
「二人だけの秘密ですね」
「…………」
あんまり、良くない気がした。毒気が抜かれるというか、そんな感覚がある。
だって、九重とはもう一度……。
「…‥どうかしました?」
「いや、なんでも」
とぼけつつ背を向けて、二段飛ばしで登っていく。それを、九重が慌てて追ってくる。
春が終わり、もうじき夏が来る。
きっと長い夏になるだろう。