目を覚ますと、音で雨が降っていることに気が付いた。昨日の夕方から降り出した雨はまだ止んでいないらしい。最近、こんな天気ばっかりだ。春とはこんな雨の多い季節だったろうかと考えてみるけど、寝起きの頭はうまく回らず、代わりにうめき声が口から漏れ出る。
「……うあー」
瞼が重い。布団にもう一度逃げたくなるけど、感覚的にもう起きなきゃいけない時間だろうなとわかっていた。
布団を跳ねのけ、体をひと思いにばっと起こして念のため、ひょっとしたらの思いを込めて箪笥の上にある時計を確認する。デジタルで時刻だけじゃなくて日付もわかる優れものだ。
時刻は7時4分。ついでに今日は、2032年の4月14日。水曜日だ。
ちょっと起床時間には早い気もするけど、二度寝をするには遅い時間だなと、これも感覚的に思った。
じっと時計を数秒見つめてみて、見間違いではないと確認してからため息をつく。
昨日突如決まった、ディベートという謎イベント。開催日時は翌日である今日の五時間目。
気が重い。いや、今回に限っては時は荷が重いというべきか。後で辞書を引くべきかもしれない。
のろのろと部屋の隅に行き、カーテンを勢いよく開けると、視界は土砂降りの雨でいっぱいになる。4月になって暖かくなってきたけど、今のところ窓は開けない方が良さそうだ。
「なんだ、起きてたの」
カーテンをタッセルに束ねたところで、襖の開ける音ととも声がして振り返る。
長めの茶髪白にのジャケットのスーツに身を包んだ俺の母親、鍋田薫がそこにいた。
「おはよ。なんか目ぇ覚めちゃった」
「おはよう。ならよかった。私今日早いから。そこ座りなさい」
そういって母さんは壁に掛けてあったヘアブラシを手に取り、俺の両肩をつかんで布団に座らせる。それから背後に回り込んできて、俺の髪の毛を慣れた手つきで梳かし始めた。
持ち手部分はブナの木、ブラシ部分は豚の毛でできているらしいそれは結構高いものらしく、自分以外の力加減でも痛くもないし、痒く感じることもない。というより寝起きにはむしろ心地よすぎるぐらいで、黙っているとなんだか眠くなってくる。
だからいつも、母さんが髪を梳かし終わるのを待つ間、適当な話題で意識をつなげる。
「今日早いね。なんかあるの?」
「リモート会議があるの」
改めてもう一度時計に視線をやる。さっきからまだ7時ちょい。
「朝から?」
「朝からよ」
「勤務時間には」
「含まれません」
思わずしかめ面を作ると、雰囲気で察したのか母さんは苦笑した。
「管理職なんてね、早起きできる人の集まりよ。覚えておきなさい」
「へーい」
大人に、もとい偉い大人になんてなるもんじゃないなと思う。でも母さんがこんな面倒なことをしているのに、ただディベートぐらいで億劫になることもないとも思い、なんだか心が軽くなった。
俺の髪は長いけど、髪を梳かすのは数分で終わる。でも視線の先、外の雨はまだまだ止みそうにない。
***
朝食は目玉焼き(だし巻き)と焼き魚、小松菜とえのきのみそ汁だった。
ばっちり米をお代わりして食べ終わった後、身支度を手早く済ませていつもより少し早めに家を出た。
もう少しゆっくりしたい気持ちもあったけど、うっかり遅刻しそうになっても咎めてくれる人はいない。
家は坂の途中にあって、家を出るとどこに行くにもすぐに坂を登るか下るかの二択を迫られる。学校に行くには、登らなきゃいけない。いつも面倒な坂道が、雨のせいでより面倒に感じる。
そういえば、昨日はここで九重に会った。
一時的なのかわからないけど最近はバス通学らしく、去年よりも少し遅めに登校してくるようになった。だから昨日は鉢合わせしてしまったわけだけど、今日は早めに出たおかげでその心配はない。
昨日みたいに、いらないことを訊いてしまうこともない。
憂鬱で足取りも気分も重くても、それでも学校までなら3分もあれば辿り着く。
昇降口で靴を履き替える。周囲に人はいない。雨音がいくら大きくても、人が少ない学校は不思議といつもより静かに感じる。
薄暗い廊下を抜け、階段を上って3階にまでたどり着く。
教室には既に人が居る。髪が短くて、眼鏡をかけている。陽子だ。
いつものごとく、自分の席に座って静かに本を読んでいる。俺がドアを開けても、こちらを見向きもしない。
「よ」
「ん」
声をかけると、首を少しだけ動かして軽く反応した。愛想の欠片もないけど、いつものことだ。
陽子の真後ろにある自分の席に座る。時計を見ると、8時を少し回った位。分までに席についていればいいから、それまでは暇なぐらいだ。
何をしようかと考えていると、黙っていた陽子がくるりと振り返り、俺を見た。
「ねえ悟」
「ん。なに」
陽子が話しかけてくるのは珍しい。普段誰よりも無口で、この半年、正確には九重が転校して来てからはさらに大人しい。教室では大抵黙りこくっていて、割と怖い。
「今日のアレ、あるでしょ」
「ディベートのこと?」
「そう。今日、絶対に勝つから。悟も気合入れてやって」
「……はあ」
そういえば、昨日の5時間目。今日のディベートに向けての話し合いは積極的に発言していた。少なくとも俺の3倍は。元々必要なことは発言するからそれ自体は不思議には思わなかったが、ディベートの勝敗に関して拘っている陽子はらしくないように思う。勝負ごとに熱くなっているイメージは正直ない。
理由を考えていると、当の本人が眉間に皺を寄せつつ訊いてくる。
「何、不満?」
「不満っていうか。不思議」
「……私がただのディベートに気合入れてるのがおかしいって?」
「うん。何で?」
正直に感想と、ついでに理由も訊いてみる。すると、陽子は面倒くさそうにため息を漏らす。正確に言えば結果次第でヒトカゲ、『エイリ』の処遇が決まってしまうので、ただのディベートとは言えないけれど。
振り返った姿勢のまま数秒考えてから、
「九重を直接ぶっ倒せるいい機会じゃない」
そう答えた。その言葉を聞いて、思うのはただ一つ。
「陽子って、九重の事嫌いなの?」
「嫌い」
「…………おお」
ストレートすぎて、逆に感心した。それ以上、何も言えない。
陽子は言うべきことは言ったとばかりに前を向いて、それきり黙ってしまう。
改めて時計を確認すると、まだ8時10分。気まずい沈黙、聞こえるのは雨音だけ。
……他の皆はまだ来ない。