「あ、光――――コーチもおごるよ!」
「大丈夫大丈夫! これでも少しは稼いでるんだから」
「これひとつで800円とかいうインフレが、軽いと申すか?」
「……お願いします」
「素直なコーチ、かわいい♪」
「むー」
いのりは乳繰り合うみそぎと光を、のぞみと手をつなぎながら見る。
柔らかくいのりには見せない、その感情。
いつもと同じようなのに、何かが違う。その表情を、私にも向けてほしい。
その、相手を信頼しきった感情[かお]を。
二人がくるくると遊んでいる。自分だけの世界が壊れていく。
今までそんな自覚はなかったが、少しずついのりとみそぎだけの世界が切り取られていくのを感じたようだ。
(胸がチクチクする……なんで、こんなに苦しいんだろう……)
二人だけの箱庭が崩れ、手折れていく。
そして幻視するのだ。道を違え、私達から離れる光景を。
いのりはそれを視た時、のぞみの手から離れてみそぎたちのもとへ駆ける。
嫌な未来を想像してしまったから。いのりは今にもダムが決壊寸前になった表情をして、
光とみそぎの手を取る。
すでに日は沈んで夕焼けが少しばかり雲の底を照らす。
たそがれは、いのりの今を隠す。
「光ちゃん、みそぎちゃん! また明日、滑ろうね! 約束だから!」
「もちろんだよ! また明日ね」
「うん、また滑ろう! じゃあ、今日はこれで失礼するね」
光は迎えに来ていた自動車に乗り、みそぎもパンパンに膨れ上がったリュックサックを背負って帰路につく。
長く伸びた影に消えていった二人を見届けたいのりは、のぞみと司のところへ帰ってくる。
司ものぞみも、たそがれでよく見えないいのりを確認し、そのままお別れとなる。
「司先生!」
「うおっ!?」
帰ろうとしてのぞみが歩き出したというのに、いのりは歩かず俯いていた。
だが心に日が灯ったのか、先程まで見せていた悲痛な面持ちを取り去り司へ詰め寄る。
頭をあげて、ただがむしゃらに。
「先生! 私の憧れを現実にする手伝いをしてください!」
「わかった。あなたを誰もが勝利を希[こいねが]う選手にするよ」
「お母さん、私……オリンピックに挑戦する前に、二人に勝てる選手になるから。
見てて!」
「うん、お母さん、ちゃんと見てるからね」
いのりはふんすと気合を入れて、明日から一週間を全力で有意義に使おうと覚悟を完了したようだ。
司も癖がほとんどなくスケーティングやダンスも最高峰であるみそぎに勝てる唯一の手段、ジャンプの完成度で勝ちに行くことができる。
いつかみそぎといのりの決別というほどではないが、対峙することがあるだろうと予測していた。
まさかそれが、光選手がみそぎの4回転を見たことで、さっさと大会でみせろという理由でだいぶ早い時期に開催されてしまった。
遅かれ早かれこうなることがわかっていた。こんなことはみそぎさんといのりさんが、
大きな大会に出る前に終わらせておくべき事項である。
今はみそぎさんが俺の力不足を補うために、プログラムやエレメンツの指導が一年遅れていいと決心してくれた。
おかげさまでリンク貸し切り練習へ向けて、いのりさんのぶんの振り付けだけを考えることが出来ている。
本来なら、プロに頼むだろうがお金もないし、そもそも伝手がない。
なら、俺の経験を使っていのりさんの良さを前面に押し出したプログラムを作るだけだ。初級であれば振り付けは最低限。ジャンプ構成も最低限になる。
今はこれでいい。
問題を来年へ引き伸ばすのが心苦しかった。
それと同時に安心している。内輪の共食いはよくあることだ。
だけど、今、いのりさんにそれを直面させるのは精神面でよくない。
いのりさんはとても心を強く持っている人だと思う。
だけどバッジテストで見せたように、一人の状況に慣れていない。
この先フィギュアスケーターがどの大会に出場できるのか、というのは連盟のさじ加減になる。
つまりみそぎさんと一緒にいることができる時間が減ってしまう。
そうなると緊張と自己嫌悪に陥り、モチベーションの低下や無意識の手加減が起こってしまうだろう。
そう思うと、本当にいい機会だ。
「ただいま~!」
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、光、パパ!」
「おかえり、光、父さん」
鴗鳥慎一郎が運転する自動車に乗って自宅へ帰ってきた光。
手洗いうがいと衛生管理を滞りなく行って、絡んでくる理凰に少し待てをする。
名港ウィンドというフィギュアスケートクラブの上位陣が、軒並み専用リンクで訓練している中初心者連中や上位陣のプログラム練習にあぶれてしまった理凰。
どこに行ってたんだ?、と追求する暇もなく、自室へ撤退されて少しうなだれる。
自室へ戻った光は、荷物をいったんおいて理凰が両親へ頼み光のために買ってくれた
天蓋付きキャノピーベッドへ、ヘッドダイビングする。
少女は仰向けに転がり服にシワが付くことも厭わず思うのは、みそぎといのりのことだった。
初級というのに、スケーティングや振り付けが全くそれではない。
更にジャンプもジュニアやノービス選手に引けを取らない、異常に見えるその習熟度に驚くばかりだ。
初級と初級未満の二人。
世間に埋[うず]もれた才能が、まだ知れ渡っていない。
こんなにやれるなら、もっと早く大会に出てこれるはずなのになんでこんなに遅いのか。
フィギュアスケートの選手生命は短い。
基本的に二十歳前にはピークがきてしまい、やめていく選手がほとんどだ。
あの大会に出場すれば必ず優勝する自身のコーチですら、二十歳でやめてしまった。
ただ、夜鷹純がスケートをやめた理由は、サクラバクシンオーみたいな理由なので常人には理解できないだろう。
鴗鳥慎一郎もまた、夜鷹純と同じく勝利への渇望を抱き続けた異彩を放つ存在である。
28才にして銀メダリスト。彼もある意味唯一無二と言える。
このように並外れた普通からかけ離れた人たちは、アマチュアスケートを長年嗜むことができるが、一般的な優れた選手やそれ以下のスケーターはアイスダンスやペアなどの選手に転向しなければプロスケーターになるしかなくなる。
しかし、そのプロスケーターも狭き道だ。
タレントや実況解説などで食っていく人もいれば、メダリストの墓場であるアイスダンスを披露したり、コーチやティーチングなどで選手を育てる側にまわったりする。
結構たくさんあると思うだろうが、地方にたくさんあるスケートリンクが減り、大都市のスケートリンクが土地の制限もあり増やすことが出来ない現実がある。
更に地方のスケートリンクが、収益を得られていないということはその分スケートへ回せる資金や興味が
なくなってきていることにほかならない。
このように競技人口はともかく、スケートへの関心が薄れてきている現状早めに結果をだしておかないと、今後此の世界で食っていけなくなる。
早く習わせて身体に染み付くようにするというのも、一つの理由だろう。
しかし、どう高説タレようが11才は遅すぎる。
「これで、あのコーチも尻に火が付くかな」
才能を溝に捨てる穀潰しがいる。
そう、未来のライバルにして友達のみそぎちゃんが見せたあの顔。そして、それを躱さない男。あれはコーチでもなんでもない。才能を殺すことに特化している毒物だ。
みそぎちゃんの成長性といのりちゃんの見ただけで経験から正解へたどり着くことができる技術力を、アレは価値も知らないで地に追いやっている。
今まで聞いたことがないから、どこぞの野良だろう。
有名どころなら、自身のコーチや慎一郎から言葉が出てくるはず。
まだ慎一郎にあのコーチのことを教えていないけど、いのりちゃんが所属するルクス東山とかいうアイスダンスを専門としているスケートクラブは畑が違う。
きっと、無名だろうな。
「こっちに移籍すればいいのに」
そうひとりごちた。
さて、と身体を起こした光。いのりから引き継いだ落とし物を、別の頑丈なものに変えようと動いた。
ハンカチに関して言えば使ってくれて構わないと許可を受けている。
そこでちゃんとしたものにして、完全な状態で届けるのがいいだろうと判断する。
フリルが多い服から室内用の服装へ着替えて、居間へ出ていき何かないか探す。
途中で理凰が話しかけてきて、手伝ってもらうことにしたが頑丈な箱物なんて
日常生活に不必要なもの。見つかることはなかった。
「ねーねー慎一郎」
「なんだい、光」
「友達から大切なものをもらったんだ。綺麗に保管したいから、なにか頑丈な箱ってない?」
リビングで妻の手伝いをしている慎一郎を呼び止めて、何か入れ物はないかを聞く。
詰め物は綿でいける。箱も腕に収まるくらいでいい。
一体何に使うのか知らない慎一郎は、妻に聞いて頑丈な箱を探し出すことに成功し
光へ手渡す。
「一体何をするのかな?」
「ないしょだよ!」
慎一郎はそうかそうかとにこやかに微笑み、理凰の相手をすることにした。
そして光はあと少しでごはんだから、はやめにいらっしゃいと声をかけられ生返事をする。そのまま自室へ戻ってきて、預かってきたハンカチの包を取り出し机の上へ置く。
居間では理凰が父親に絡まれ、うざったそうだけど楽しそうに喋っているのが聞こえている。そんな最中、少女は徐々にハンカチを開いていく。
ただの移動作業だ。それなのに、光は徐々に息を呑むのと同時に、唇を噛む。
だんだんとただの呼吸だけでなく、別の何かが混じり合っていく。
厳重に閉じられてあと少しというのに、途中でやめてしまった。
完全に開くまでもない。そこに映るものは、今まで探してきた未練そのものであるからだ。決別したわけでもない。すっぱりと断ち切れたわけじゃない不完全な気持ちは、完全に溢れかえってしまう。
鈍い黄金[こがね]色の情景が、光の幼い瞳を揺らす。
女の子は軽く息を整え、慎一郎の妻エイヴァが呼ぶ声に返事をして”いま”へ戻っていく。
肩の荷がひとつ降りたら、また一つ