ある日のこと。深夜のバイトが終わって満身創痍となり、宙へ身体を放り投げた司
は夢を見た。
”お前がコーチ? この最強無敵美少女光様が、
お前の大切なみそぎをもらっていくぞ!”
”もらっていくぞお!”
”サラバダー!”
”サラダバー”
”Oh,My せんせ! あいしてたのに”
"嗚呼! なんてこったい先生! いますぐ、このイノリがヒップドロップで
開眼一発効果てきめんでハッスルマッスル!"
「みそぎさん!? いのりさん!?」
いつの間にか寝落ちして、心地の良い目覚めを待つだけと思っていた。
しかし、ガバっと汗だくで起き上がる司。荒唐無稽さ満載の夢を見ていたようだ。
如何にも苦しんでいたようにみえる。其の原因はよくわからない夢だけでなく、
もぞもぞと膝の上で蠢いている存在がもたらしたようだ。
「司くんおはよ~」
突然かけられたここにいるはずのない声色に、ハッとする司。
え、まだ夢みてるのか?と目をパチクリして見つめるが、眼前にある
3次元さを見て徐々に受け入れていく。
「羊さん!?」
なんでこんなところに、と驚く暇もなく何やらリビングで油が跳ねる音が聞こえる。
司は羊といわれた少女は、とある人の娘だ。つまり、親が同伴しているわけ。
それを鑑みると……。
司はすぐさま羊を身体の上から下ろして、リビングへ駆け寄る。
案の定、そこにはエプロン姿でフライパン片手に、目玉焼きとベーコンを焼いている
男性がいた。
「なんで加護さんがいるんですか!?」
「や、おはよう、司くん!」
「おはようじゃなくてですね」
司は以前、加護一家にお世話になっていた。
しかしある理由で転居とともに出奔。横浜でガンバります!という言葉を聞いて、
一安心していた家主である加護。
だが住居変更における重大な連絡などが家主の方に入ってきて、そこから携帯電話のGPS
を辿ってここまで来たというのだ。
「司くん、はいこれ」
「え?」
朝食の準備を済ませていく加護から渡された書類。
それは国民皆保険が支払われた書類だった。
「え? え?」
「年金は更新されるけど、保険は更新されないんだよ?
申請すれば返ってくるけど、僕じゃ無理だからさ」
あ、と司は思い至る。みそぎの高等技術と自身の技術を吸収しまくるいのりのことで、
頭がいっぱいになってしまってそのことをど忘れしていた。
すでに前払いをされている国保の書類を受け取るが、加護の言葉を聞いて少し胸が痛む。
正式にコーチングをし始めたことを伝えていたが、法定福利を払ってもらえる関係ではない。
現在、ルクス東山でアシスタントコーチをしているが、その実態はみそぎといのりの専属コーチ。いわゆる個人事業主だ。スケート教室なら、普通に社会保険に入ることができるかもしれない。
場所によって大きく異なるが、基本的にといえば個人事業主であると断言できる。
そのため、大きな収入がなければ国民皆保険は、大きな負担となってしまう。
いのりかみそぎ、どちらか一人しかコーチングできなければ、貧困に次ぐ貧困で
懐事情は非常によろしくなかっただろう。
だが、いまはいのりとみそぎの二人を担当している。
コーチング料金は破格の安さであるため、結束家の家計はある程度に抑えられている。
ただ安すぎるというのは、いのりの母のぞみの感覚である。長女の実叶が、
名城クラウンのFSCに所属していた頃、めちゃくちゃお金がかかった。
有名クラブだからこそお金にシビアであるが、その対価はノービスB中部ブロックの
優勝というものに還元されている。
とまあ、司は新人であるからこそこんな安さと思うかもしれないが、単純に交渉が下手なだけである。そのためこの安さに辟易としたみそぎが、よくいのりたちを喫茶店に誘っては奢っているというのも、この安さによる司の経済不安による精神の余裕を少しでも確保するためだったりする。
本人たちは全く気づいていないが。
「おなかすいたー」
「準備終わったよ。司くんも座って座って」
「あ、ありがとうございます」
よそよそしくなった司に寂しいと直接感情をぶつける加護。
コーチについてよくわかっていないが、穴開きの靴下やボロボロの靴も
なく比較的いい場所のコーチになったんだな、と加護は思っている。
「司くん、名古屋に戻ってきたんだったら、一緒に住もうよ!」
「お金を貯金できるくらい余裕ある生活をしてるんで!」
「嘘だね! こんなヨレヨレのシャツ着て!」
「ヨレヨレじゃあありませんよ! お気に入りなんですから!」
「第一印象は身だしなみなんだよ!」
目玉焼き・ベーコン・レタスを、食パン二枚で挟み込んだ疑似サンドイッチを頬張りながら舌戦をする。勢いある口撃に、オーディエンスからもヤジの声が。
「司くん、これ食べて」
「羊さん!? なんでコーンポタージュのコーンだけ綺麗に残してるんですか!?」
「だって……お腹いっぱいなんだもん」
羊の小さい体がギブアップしていて、眼の前にいる羊の父親も何やらFXで金を
溶かした顔になっている。
「僕も」
「なんで6枚食パン買ってきたんですか!? あそこに10枚食パンあるじゃないですか!」
「だって、司くんと一緒にご飯食べたかったし」
「その前に胃袋と相談してくださいっ」
結局司は羊が残したコーンと加護が残したサンドイッチを食した。
意外と6等分食パンは侮れない。司の胃袋はいっぱいになってしまった。
ついでにいうと、コーンポータージュの中には、6等分食パンの一枚を細断したものが入っていた。そのせいもあって、コンポタで膨れ上がったパンを詰め込む司。
お腹がいっぱいと言うより、逆流性食道炎になりそうな青い顔をしている。
そんな司に、加護は興味津々にどんなことをしているのか聞く。
「ところで、コーチはどんな感じだい?」
「とても楽しいですよ。俺なんかよりもスケートが上手で、すぐに俺の技術を吸収していくんです。
やりがいしかありませんね」
「そっかそっか」
加護は自然かつ自罰的にこき下ろしている司をみて、とても気になってしまう。
しかし心の底からわくわくが溢れ出しているので、わざわざ止めることはしない。
それはそれとして、一緒に住もうよという。
「なんでですか!?」
「せっかく名古屋に帰ってきてるんだし、家賃もかかるじゃない?
あと国保や年金もかかるし、お得だよ?」
「いやいや、俺はもう加護家に居座る資格はないんですけど!」
「司くんはさぁ、難しいこと考えすぎなんだよ。僕は君を応援したい、それで十分
じゃないのかい?」
司は自分がスケーターとして滑ろうとしていたときといまのコーチをしている状況は、
全く違っていると強く思っている。あのときは、加護家……羊の母で加護耕一の妻である
芽衣子が、自分をスケーターだから応援しようとしていた。
しかし司がその道から外れて、コーチとして活動している。
スケートを……アイスダンスを諦めた存在は、すでに芽衣子の遺志と全く関係がない状況にあるのだ。
スケート業界に携わっているのだから、別に関係なくないかと思うがそれが司の分別であり矜持である。
期待を裏切ってしまった。まだ自分は頑張れたんじゃないか。
いのりさんやみそぎさんに、フィギュアスケートクラブを紹介しただけで指導を拒否すれば、まだスケーターとして滑っていられたんじゃないか。
今回のように、他のスケートリンクが保全作業で一時閉鎖になったとき、名港ウィンドのコーチが見初めていたんじゃないか。
自分のせいで、いのりさんやみそぎさんが世界へ躍進する機会を奪ってしまったのではないか。
そしてなにより、いままで大量の投資をしてくれたのに、
その恩を返せないことにある。
「……でも」
「司くんはさ、アイスダンスを諦めたからコーチになったの?」
「違います! 俺は、あの子達に自分と同じ、悲しい選択をさせたくなかったからです。
それだけははっきりと言えます」
「……うん、やっぱり司くんは司くんだね。自分を曲げずに、ひたすら頑張る。
芽衣子はさぁ、そのひたむきな姿に惹かれたんだと思うよ。スケーターだからとかじゃないんだ。僕らは芽衣子と違ってスケートとか全然わからない。
だけど司くんにいままで何度も助けられているんだ。それに報いたい。
今度は僕らが君を助ける番なんだよ」
「そう……なんですかね」
煮えきらない応えを出す司に、耕一はそれはそれとして、とナニカの缶を出す。
カシュッとプルタブの圧力で出ていく音を聞いて、司がガバッと頭を上げる。
顔が暗くなっているが、缶にかかれてある文字を見て違う意味でサァッと暗くなる。
「それはそれとして、司コーチの未来にカンパーイ!」
「かんぱーい!」
「ちょお!? なんで朝っぱらからビールなんですか!?」
「今日休みなんだ」
「え、じゃあ羊さんは」
「司くんのために休んだ!」
「学校は有給取れないんだよ!? 加護さんもたしか自動車ですよね!?」
「久しぶりに司くんに会えたし、新たな門出を祝えてなかったなって」
「加護さん……じゃなくてっ、帰りは――――」
「お願い☆」
お世話になっている人を無碍にできない司は、羊主導で耕一とともに水族館にいくことを約束しつつ車で加護一家を家へ送り届けることになった。
このあと、一人暮らしをしているアパートを解約し、加護家へなんやかんやと色々あれやこれやとあって一緒の生活に戻ることになったのだ。
「ところで、鍵はどうしたんです?」
「開いてたね」
「司くん、窃盗に気をつけないとダメだよ?」
「あなた達がそれを言いますか」
どっと疲れた司であった。
Q:実はみそぎちゃんって色々邪魔?
A:他に居場所がないはずのいのりに居場所を与え、光に無二じゃない友となり、
司の心を色々揺るがすので……まあ、デバフですね。
漫画P62、アニメ1話 19:20秒あたりの確固たる覚悟を決める場面をすっ飛ばしているので、司先生はちょっとぐらつきやすいんですよね。