緩やかな上り坂を超えると静謐な空気が肌に触れる。
木々に囲まれた涼しい山の空気が火照りかけた肌に心地よい。
獣道のように狭い道の上を飛び石が山の頂まで続いていく。
整備された石段ではないのは出来るだけ自然を残したいという配慮なのか、それとも小さな寺だからそこまで手が行き届いていないだけなのか。
一歩一歩登るに連れて空気が澄んでいく。
つい先日にも歩いた道だが改めて驚く。
都心部から離れているとはいえ、こんなにも自然に満ちた静かな場所がまだあるものかと。
といっても、雨宮吾郎の故郷に比べればその範囲は極小さなものでしかない。
さながら市街化から切り離された孤島のようだ。
コンクリートと鉄筋に包まれた喧噪においては静かな自然が寧ろ不自然に感じられるのは何処か可笑しい。
飛び石が終わり、
整然とした墓石の列が視界に広がる。
自分のような年齢の子どもであれば、この空間そのものに圧倒され、怯えるのかもしれない。
日が高い真昼であっても無機質な葬列は重苦しい形と、息苦しい静寂を伴って石綿の如き圧迫感を生み出す。
もっとも、
僕が普通の子どもならそう感じるのだろうという話である。
死者の霊を日常の一つとして目にする自分には墓地はただの石碑の集合でしかない。
何時、誰が亡くなったのかが簡潔に記された記録の集まり。
図書館との相違点は情報量がごくわずかであるかどうかといったところか。
ここに真咲さんの魂は無い。
霊的な存在である僕達は現世の人間と墓への認識を同じくはしない。
墓は故人ではなく残された遺族の為のもの。
現世ではそんな言葉をよく目にする。最もらしい説明であり、間違っていないだろう。
しかし、それは思想の一つ、価値観の一つであり全ての人がそう思う訳ではない。
墓標に魂が留まり、家族を見守ってくれていると思っている人もいるのだろう。
じゃあ僕らにとってはどうなのだろうか。
尸魂界にも墓はある。
しかし、そこに魂は無い。というよりも一部の例外を除いて霊子で出来ている死神のような存在は死ねば霊子となり尸魂界の土へと還る。
僕達は思想ではなく事実としてそこに魂が無いと知っている。
だから、こうして墓の前に立つことは本当なら意味の無い行為なのかもしれない。
「聞いたぜ雨宮。らしくねぇことしたって」
「口軽いな浦原さん」
一心さんが近づいてきていることは気付いていた。
端から見れば僕らの姿は親子で墓参りに来ているとしか見えないのだろう。
「口止めしたのか?」
「してないけど。空気読んでくれてもいいっていうか⋯わかるでしょそういうの」
「読めても敢えて読まないのが浦原喜助って奴だろ」
「うわ。出たよ敢えて空気読まないって。空気読めない人間の常套句ですよそれ」
全て察した上で喋りそうではあるんだよなあの人。
「俺は聞いて良かったよ。ありがとうよ真咲の為に怒ってくれて」
「止めてくれよ。僕のはだの八つ当たりだよ」
「それでもだ。八つ当たりでも虚に怒ってるのはお前だけだからな」
「アンタは?アンタこそ怒ってるだろ」
「怒ってねぇよ。てか、そんな気も起きねぇ。好きな女の危機に駆け付けてやれなかったどうしようもないクソ野郎への怒りで俺の頭の中はいっぱいだ」
「……倒せた。あの程度なら倒せたんだ」
「お前知ってんのか?真咲を殺した虚を」
「アンタよりは現役時代長かったからね。小賢しい小物だ。俺達ならどれだけ侮っても負けることはない、その程度の奴だよ。だから俺が間に合うべきだったんだ。俺ならあの時⋯」
グランドフィッシャーの餌食になった死神は少なくはない。
手強い虚と呼べるかもしれない。
しかし、手強いとは単純な霊圧の強さだけではない。狡猾で生き汚い虚、そういう虚もまた手強い虚と呼べる。
グランドフィッシャーは間違いなく後者だ。
席官クラスとは交戦しないように立ち回り、未熟な死神や幼い霊体を獲物にする狡猾で下劣な虚。
そんな奴に真咲さんは⋯
「そこまでにしておいてくれ」
静かで有無を言わせない言葉が僕の思考を断ち切った。
「一護が虚の罠にかかった。真咲は何故かあの瞬間滅却師の力を失った。俺はそれに気づくことすら出来なかった。あの日起きたことはただそれだけのことなんだ。お前はアイツを悼んでやってくれ。それだけで十分だ」
「一護はどうするんだよ。知ってるだろ。あの子が今どうしてるのか」
学校に行かずに川原を歩き回って。
疲れたらしゃがみ込んで。
また歩く。
朝から暮れまで毎日毎日。
真咲さんが何処かにいるのだと信じているように。
真咲さんが生きていることを願うように。
正直、
痛々しくて見ていられない。
「一護はきっと自分のせいだって思ってる。自分が母親を死なせと」
「だろうな」
「だろうなってアンタ」
「真咲が死んだのはお前のせいじゃない、俺が一護にそう言ってないと思ってるのか?とっくに言った。アイツは『わかってる』と言ったきりだよ。だが、それ以上何が言える?」
一心さんは煙草に火を付けると、ゆっくりと深く吸い込む。
煙草を吸う時の手がカッコいい、
いつだったか真咲さんが言っていたのを思い出す。
少し照れながらとっておきの内緒話を打ち明けるような仕草が余りにも可憐で不覚にもどきっとしてしまったのを覚えている。
「自分のせいで母親が死ぬのは辛いですよ。誰かに責められらればいっそ開き直れるけど、そうじゃないなら自分で自分を許せる時までずっと抱えていかなきゃいけない」
「雨宮」
「はい」
「お前の母親ってよ」
「出生と同時に母親を産科危機的出血で亡くす。祖父母に育てられ産婦人科医を目指すようになった。身寄りのない雨宮吾郎という研修医のカバーストーリーとしてはそれなりに説得力があるでしょ?」
自宅で出産して死んだ。
だから母の温もりを知らず、
父に至っては名前すら知らず、
祖父母はとうに他界し、
あるはずの無い雨宮吾郎の痕跡を追えるものは何も無い。
ただ、作り話は一から組み立てるとすぐにボロが出る。
事実にほんの少し手を加えるくらいが無理のないものになる。
嘘を吐く時のちょっとしたコツだ。
いずれにせよ確かなのは僕には真咲さんのような母親も一心さんのような父親もいなかった。
「一護は優しい子です。それに責任感も強い。泣き虫で甘ったれだったのも妹ちゃん達が生まれてからは鳴りを潜めてる。自分が守らないといけないから、そんな意識がそうさせてるんでしょうね。自分の為じゃなく、人の為に強くなろうと出来る奴なんです。そんなアイツが罪の意識に苦しみ続けるのは⋯見たくありません。 友達として」
「雨宮」
一心さんはゆっくりと細く紫煙を吐き出す。
「あんまりアイツを舐めるなよ?」
眼差しは空に溶けていく紫煙を見上げたまま、にやりと笑う。
「アイツは俺と真咲の息子だぜ?」
「 ─── っ」
根拠も理屈も何も無いシンプルでいい加減極まりない言葉でしかなかった。
だけど、それは弾丸のような言葉だった。
僕の中に澱の様に蓄積されていたぐずぐずと湿っぽくいじけた言葉の数々を一発で粉砕するような強烈な説得力のある言葉だった。
情けないことに、僕はその一言、一発の弾丸によって撃ち抜かれ、何も言い返すことも、言い募ることも出来なくなってしまった。
たった一言、
だけど無責任な他人が口にする幾千もの慰めや薄っぺらな人間が口にする幾万もの憂慮の言葉を打ち砕く程に強く雄弁な言葉だ。
「ま、それに一人でイジけてる暇も無いくらい賑やかにしてやるつもりだしよ」
「……是非そうしてください。アンタはその辺の匙加域がクソ下手くそだから、一護どころか遊子ちゃんと夏梨ちゃんにもウザがられるようになりそうですけど」
「お前酷くない!?今、いい感じにかっこよく締めただろ!!」
***
真咲さんの墓前で会話を思い出しながら、僕は目の前の光景をただ黙って見ていた。
歩いては立ち止まって。
立ち止まっては歩いて。
休んでは歩いて。
歩いては休んで。
歩いては立ち止まって。
立ち止まっては見渡して。
見渡しては肩を落として。
肩を落としてはまた歩く。
歩いては立ち止まって。
立ち止まっては見渡して。
見渡しては肩を落として。
肩を落としてはまた歩く。
真咲さんが死んでから一週間。
真咲さんが死んだ場所で一護は一日中そんなことをしている。
晴れの日も雨の日も。
朝から晩まで。
学校にも行かずにずっと。
一心さんは一護を叱ってはいない。
一心さんが一護を迎えに来ることもない。
学校を休んでいることも、真咲さんを探す行為も叱るどころか触れてもいないのだろう。
最初は自暴自棄になるんじゃないかと僕はひやひやしながら見ていた。
何さ目の前には川が流れ、土手を少し登ってしまえば車通りの激しい道路に飛び出せる。
少し足を伸ばせば鉄橋だって架かっている。
死に方は選び放題なのだ。
それに、遅くまで一護のような幼い子どもがふらふらと出歩いていれば、よからぬ輩だっている。
小さな子供の命を奪うことに喜びを見出すイカレた殺人者や幼い子供に劣情を催す変質者だって現れないとは限らない。勿論、そうなった場合は黙って加害されるのを見ているつもりは無い。こちとら元四番隊、死神の端くれだ。治療行為に反抗的な血の気の多い連中を抑え込む術だって知っている。中には最初から四番隊だからと舐めてくる連中(十一番隊のような連中とかな!!)だっているのだ。そんな連中の腕を極め、足を極め、頸動脈を極め、落とし、黙らせ、泣かせ、大人しくさせてから治療するのは日常茶飯事。
子どもの身体であるが縛道を使えば問題ない。一般人程度なら指先一つ動かせないし、一切傷が残らず痛みだけを与える縛道だっていくつも修得してる。
そして、一番のケースは虚の出現。
高い霊圧を持ち、幼く穢れが無い魂は多くの虚にとって大好物だから、僕は可能な限り一護から目を離さないようにしている。
その結果、学校をサボったことで教師やミヤコさんに叱られたのだが、それはどうでもいい。
一護を狙う虚が現れれば即座に動くつもりだったし、何よりグランドフィッシャーが現れようものなら容赦する気はなかった。
こっちは魂を粉々に砕かれた方がマシだと思える程の苦痛を味合わせる気満々なのだから。
ただ、今のところ僕の抱いている不安は杞憂に終わっている。
台風が去った後のように周辺に虚の気配は無いし、一護が自棄になる様子も無い。
何より日が暮れる頃には僕に促されるまでも無く帰宅する。
胸中はわからないが、少なくとも帰る家があり、そこには自分を待つ家族がいることを決して蔑ろにはしていないことが伺い知れるだけでもこっちとしては一安心だ。
僕がそんな心配と警戒と安堵を一人でぐるぐるとしている間にも、一護は川原を歩いている。
真咲さんの痕跡を確かめるように。
真咲さんの記憶を焼き付けるように。
真咲さんの姿を探すように。
立ち止まって見渡していた一護がまた歩き始める。
一連のルーティーンと化した光景を僕はじっと見ていた。
「ん?」
今までのルーティーンと異なる行動。
一護が立ち止まった。
僕の目の前で。
真っ直ぐ僕の前まで歩いて来て、
そして立ち止まった。
彷徨っていたブラウンの瞳が今は僕一人を映す。
「一護?」
「アクア」
「うん」
「帰ろう」
「もういいのか?」
「うん⋯うん、大丈夫」
「本当に?」
「ちょっとウソついた。まだ大丈夫じゃない」
「強がったか」
「うん、強がっちゃった」
初めての笑顔だった。
真咲さんが死んでから初めて目にする一護の笑顔だった。
「でも、大丈夫」
「そっか」
「アクア」
「何?」
「ごめんな」
「何がよ」
「いっぱい心配かけて」
「まぁ…そうだな」
「でも、もうここには来ないから」
「無理してないか?」
「してるけど、してない」
「なんだそれ」
「こんなことしてても強くなれないから」
「強く?」
「母ちゃんは俺のせいで死んだんだ」
「そんなことないだろ」
「あるよ、そんなこと。だから…」
「だから、強くなる」
「遊子も夏梨も守れるくらい」
「母ちゃんの分まで守って」
「母ちゃんが安心できるように」
「母ちゃんが俺を守ったことがムダじゃないって思ってくれるくらい⋯」
「強くなる」
太陽を見上げた時のように思わず目を細めてしまった。
眩しさを直視できず、だけど目を逸らせずにただ圧倒されるように。
『アイツは俺と真咲の息子だぜ?』
一心さんの言葉が過った。
「なれるよ一護なら」
「そうかな」
「ああ、絶対」
「うん」
へらっとした、頼りない笑顔じゃなくて、もっと不器用で突っ張ったような一護の笑顔は少し一心さんに似ていた。
子供時代終了