【完結】吉良吉影は静かに暮らせない 作:ようぐそうとほうとふ
図書室のドアを開ける。紙の匂いに混じって雨の匂いがした。図書室の空気と先ほどの廊下の匂いが混ざり合ってようやく際立つ。
図書コーナーにはいつものようにみぞれの小さな背中があった。そして珍しく、横に誰かいた。みぞれと同じかすこし小さいくらいの背中。ダボっとした学ラン。吉影のものとデザインは同じだが、色合いがわずかに明るい。中等部の制服だった。
ぶどうヶ丘中学と高校は校舎が分かれていた。それぞれに図書室があるはずだが、なぜここに中学生がいるのだろう。吉影の疑問に答えるように、ドアの音がしたのに一向に誰も来ないのを不思議がってか中学生が振り向いた。
赤みがかった癖毛の男子だった。あどけなさと制服の新しさからきっと一年生なのだろうと思う。前髪の片側だけ伸びた、少し変な髪型だった。
「…あれ?吉良くん…」
遅れてみぞれが吉影に気付く。表情は浮かなかった。もしかしたら照明のせいかもしれない。
「…まだ勉強中だった?」
吉影の問いにみぞれは少し迷ったような顔をしてちらりと中学生を見た。中学生は吉影をしばらく見つめた後に目を逸らし、前を向いた。
「ああ、ええと。うん。そうなの…。吉良くんこそ、本でも返し忘れた?」
「ああ、気にしないで。ごゆっくり」
吉影は2人と離れたところへ荷物を置き、本棚の方へ身を隠した。まさかみぞれ以外に…いや、みぞれが誰かと一緒にいるとは思ってもみなかった。それも中等部の男の子というのは意外すぎた。
吉影の姿が彼方から見えなくなってからしばらくしてボソボソとした声が聞こえた。
「…クラスメイトですか?」
「うん。お友達だよ。…それで、のりちゃん今日はおばさんはいるんだよね…迎えに来てもらう?」
「…迷惑をかけたくないんだ」
「そっか…。うん、やっぱり私、近所まで送るよ」
「でも…」
どうやら2人は知り合いらしい。それも幼馴染とも言えるような親しげな呼び方をしている。
「だって、なんだか私まだ怖くなってきちゃったもん。雨の日に出てくるお化けなんていかにもいそうだし…」
雨の日のおばけ。ああ、なんて聞き覚えのある(あるいは見覚えのある)言葉だろうか。
吉影は目の前にある本を適当に引っ掴み、席に戻るついでという体で2人に話しかけた。
「聞こえてしまったんだけど、雨の日に出てくるおばけっていうのは?」
吉影の問いかけに中学生は目を見開く。揶揄われるとでも思ったのか威圧的に感じたのかわからないが、ナイーブそうな顔がより警戒に染まるのがわかった。
「あ…えーっと…」
みぞれは言っていいのか迷っているようだった。中学生をチラリと見る。中学生は首を小さく横に振っていた。吉影は慌てて付け足した。
「ぼくも妙なものを見たんだ。教室からここへくる途中、閉まってたはずの廊下の窓が開いて雨が吹き込んでいた。人の気配なんて一切しなかったのに」
「えぇっ…」
みぞれは口に手を当てた。少し怖がっているようだった。
「ねえ。やっぱり送るよのりちゃん」
「いいよ。もうずいぶん遅いし…」
中学生は頑なに同意しなかった。きっとずっとこの問答をしていたのだろう。
「電車でなら。ね?あんまり歩かないし、バスより早いよ」
「溝呂木さんが心配なら、彼女はぼくが送ろうか。ぼくもついていく形になってしまうが」
中学生は吉影の提案に驚いた顔をした。そしてしばし悩んでから返事をした。
「…お願いしてもいいですか?」
「うんっ。お姉ちゃんに任せなさい」
みぞれはえへんと胸を張った。中学生は少し困ったように笑った。
「花京院典明、ぶどうヶ丘中学一年です。みぞね…溝呂木先輩とは、昔家が近所でよく遊んでもらっていたんです」
その中学生は自己紹介すると、それ以降吉影に積極的に話しかけてくることはなかった。元々の性格もあるのだろうが、かなり内向的でやや疲弊しているように見える。それにしても花京院、どこかで聞き覚えのある名前だ。
下駄箱まで辿り着いて一息。花京院は隅っこの空いていた棚からシューズを出して履いた。雨はまだ降っていて、薄暗くなった空を塗りつぶすように降り続いている。しかし勢いはだいぶ弱まったようで、もうじき止みそうな弱々しい雨だった。
みぞれが少し花京院の様子を心配しながら、傘をさして外に出た。
花京院は周囲を警戒している。雨の日に出てくるおばけ、だったか。子どもじみた妄想のようにも聞こえるが、聡明そうなこの少年が空想を怖がりみぞれに縋るとはやはり思えない。となると、彼は見たのだ。もしかしたら吉影も追っている町の怪異を。
花京院は傘を手に、少し怯んだ様子だ。雨が怖いのだろうか?吉影は隣に立ち、話しかける。
「どこで見たんだ?」
「え…」
「雨の日のおばけだよ」
花京院は吉影を探るような目で見上げている。吉影はあえてなんとはなしに聞いてみた、というような顔をした。花京院は少し躊躇いながらも答えた。
「…そんなものはいませんよ」
花京院はそう言うと傘をさして校舎から出た。どうも何も話したくない様子だった。たしかに普通はそんなの真面目に取り合わない。校門を出てからしばらく三人とも無言だった。
「あ…あのね。典…花京院くんはすごく頭がいいんだよ。学年一位だったんだよね」
みぞれが気まずくなりかけた空気を取りなすように割って入った。
「小さい頃からずっと1番なの。吉良くんも、ずっと成績いいよね?」
「万年3位だから大したことないよ」
「すごいよ。私なんていつも50位くらいでパッとしないし…」
「同じくらいの順位をキープできてるなら十分だと思うけど」
「吉良くんがいうと嫌味っぽいな」
そんな雑談をしているうちに駅に着いた。帰宅時間なので人が多く、喧騒に少しホッとする。三人は傘を畳み、ホームで電車を待った。行き先はすぐ隣の駅だ。花京院は普段は歩きかバスで登校しているらしい。駅を経由するとむしろ遠いそうだ。
電車が到着し三人で乗り込む。車内は湿気で蒸し暑かった。花京院は窓の外を見てギョッとした顔をした。吉影も花京院の視線の先を見る。しかしそこには何もなかった。ただ町の風景が映るだけだ。
霊感少年というやつなのだろうか?ちょっと前なら吉影も鼻で笑っただろうが、数々の怪奇現象に直面した今となってはむしろもっと詳しく話を聞いておきたかった。
「それは危険なのか?」
「え…」
「危険かそうじゃないかだけ教えてくれるか?」
「…そうですね…」
花京院が見たものが何かはわからない。しかしその存在を信じているという意味を込めた吉影の質問。その意図を汲み、花京院はまた沈黙する。今回は言葉を吟味しているようだった。やはり賢い子どもだ。
「危険どうか、はっきりとはわかりません。ただ…」
電車がトンネルに入り、ごうと音を立てて窓が震えた。
「雨の日はいるんです、そこらじゅうに」
隣の駅に着いてすぐ、花京院少年はホッとした顔をした。
「ここまで付いてきてくださってありがとうございました。もう大丈夫みたいです」
「えっ…ほ、ほんとうに?まだ雨も降ってるけど…」
「うん。ありがとうみぞ姉…。もういないから大丈夫」
「そ、そお…?」
みぞれはちょっと困った顔で吉影を見た。吉影は自分は大丈夫、という意味で頷く。
「だったらいいんだけど。ねえ、心配なことがあったら電話してね…?」
花京院は杜王駅にいた時よりも顔色が良かった。それを見てみぞれも一応納得したようで、帰りの切符を買いに窓口へ行った。
残された花京院は吉影に向かって礼をした。
「先輩も、すみませんでした」
「いや、気にしないでくれ」
「…あの。気をつけてください」
花京院はみぞれに聞こえないように声を落として吉影に囁いた。
「何に?」
「町に」
どういう意味か聞こうとした時、みぞれが戻ってきて吉影に切符をさしだした。
「はい。吉良くんのぶん」
「え、ああ。ありがとう…」
「それじゃあ…」
「またね」
花京院は早々に立ち去ってしまった。弱まっていた雨足はまた強まってきていた。
「じゃあ…杜王駅に帰ろうか」
みぞれは頷き、2人はまた折り返し電車に乗る。
「吉良くん、ありがとう」
「気にしないで。それよりも意外だったよ。溝呂木さんが頼れる姉みたいだった」
「まあ、失礼な。典明くんにとってはそうなんです」
「そういえば、溝呂木さんの家はどこなんだ?あの子に送ると約束したし、ちゃんと送るよ」
「え…。あ、本当に?いいのに…」
吊り革に捕まろうとして、両手が塞がっているのに気がついた。そうだ、自分はなぜかバットを持っていたんだった。どうして今まですっかり意識の外にあったんだろうか。雨の日だと傘もあってこんなに邪魔くさいのに。
「……間淵…マヒルを見なかったか?」
「…間淵さん?なんで?」
「ああ、ほら。これ間淵のだろう。学校で拾ったんだ」
「ふぅん…?普通にお昼休みとかに見かけたけど」
「そうか。ならいいんだが」
電車はあっという間に杜王駅へついた。雨はまた強くなっていた。
「うち、結構駅から近いから本当に送らなくても大丈夫だよ?」
「そんなに家を知られたくない?」
「もう。そういうつもりじゃないですっ」
吉影も本気で心配しているわけではなかった。ただのちょっとした好奇心だった。自分の中で平凡の体現者であるみぞれがどんな家に住んでいるのか気になっただけ。
みぞれは水色の傘をふわふわと揺らしながら歩く。吉影からは顔は傘に遮られ、柄を握る美しい手だけしか見えない。
美しい手で思い出した。
そうだ、花京院という苗字はききょう病院の近所にあった美しい手をした夫人の苗字だ。
「ついたよ。見送りありがとう」
みぞれは建物の前で立ち止まり、吉影を見つめていた。吉影は少し…いや、かなり驚く。そこは繁華街からたいして離れてもいない、単身者向けと思しき古びたアパートだったからだ。
吉影はてっきりみぞれはごく普通の一軒家で、専業主婦の母親と会社勤めの父親と、犬なんかと暮らしていると思っていた。
しかしよく考えてみればそうか。そんな普通の家だったら、吉影と同じように家に帰らず図書室でギリギリまで時間を潰したりはしない。
「それじゃあ。…また日曜日にね」
あたりはすっかり暗くなっていて、吉影もさすがに慌ててバス停へ向かった。バスに揺られながら今日あったことを一つ一つ整理した。
父と見舞い、桔梗シンジの研究室、雨に濡れた廊下、雨の日のおばけ、みぞれの家。最後の一つは置いておいて、桔梗シンジと人がいなくなる怪異は確実に関連している。そして、もしかしたら雨の日のおばけも。
間淵マヒルに報告しよう。そう思うのは悔しいが、こういう状況の打破はあの女にやらせるべきだ。この怪異の正体は目前にある。つまりはトラブル必至。平穏を信条とする自分はもう降りるべきだ。
次の学校で間淵マヒルにわかったことを全て話す。そう決めて、吉影は家の玄関を開けた。母と2人きりの家へ、帰る。
溝呂木みぞれにとっての家はどんなものなのだろう。自分と同じく、帰るのに覚悟が必要な家。帰りたくない家。それとも、単に勉強するには居心地が悪いだけか。
あんな、単身者向けの狭くて古いアパート。みぞれのイメージではなかった。母子家庭なのかもしれないとも思ったが、それもなんだか違っていた。
吉影の中で生まれたみぞれという人物像と現実のズレは彼女と、彼女を通して見る『普通』への憧憬に昏い陰を落とした。まるで勝手だが、そう…すこしがっかりしたのかもしれない。
自分がここまでみぞれを神聖視していたことに少し驚きながら、吉影はやっぱりみぞれの神聖さの源泉はあの美しい手だというのをよく理解していた。しろくて、たおやかで、花のようなみぞれの手。
これまで見たどんな手よりもそそられる。欲しくなる、切り取って、自分のそばで永遠に愛でたい。
しかし同時に、みぞれは日常の象徴。平凡と、普通と、平穏。自分が求めてやまない理想そのものだ。彼女は壊してはいけない物差し。そう、ぜったいに。
日曜日。
みぞれと喫茶店に行く約束をした日だった。集合場所は杜王駅で、今日は久しぶりの晴れだった。待ち合わせの10分前に到着して腕時計を確認していると、「あ」という聞き覚えのある声がした。
「お互いに十分前行動するなら、待ち合わせを13:50にすればよかったね」
「それだと13:40にお互い着いてしまうよね」
「確かにそうだね」
溝呂木みぞれだ。服装は当然いつもの制服ではない。ブラウスにスカート、極々普通の私服だが、制服のイメージしかなかったので新鮮だった。3年間同じクラス、同じ委員会に所属していたのに一度も私服を見たことがなかった。
「せっかくの休日にごめんね」
「いや、謝るのはこっちだよ。ぼくが無理言って予定をずらしてもらったんだから」
「そう?でも吉良くんはもしかしたら土日はいそがしいのかなって…」
「そんなことない。塾にも行ってない受験生だ。勉強しない口実を日々探してるだけだよ」
吉影は気の利いたジョークを言ったつもりだった。しかし、横を歩くみぞれはぴくりとも笑わなかった。
「…本当に?」
「どういう意味?」
「だって吉良くん…」
みぞれが黒くてくるっとした瞳で吉影を見る。吉影はなぜかゾッとしてしまう。まるで何かを見透かしているような、そんな眼差しに感じたからだ。しかしすぐにみぞれは目を逸らしてしまう。そしてやや赤面しながら言った。
「その………ま…女の子とデート…とか…」
吉影は拍子抜けする。これまでのみぞれからすればだいぶ大胆な発言ではあるが、要するに吉影に対して下手くそなカマをかけたのだ。いや、むしろ正面から好意を表したとも言えるのか。やはりみぞれといると気分がいい。自分を好きな女というのはちょっとした優越感と自尊心を満たしてくれる。
「そうだったら受験生でも少しは楽しいのかもしれないけど。まあ強いていうのなら今日がその『女の子とデート』なんじゃあないか」
「えう」
みぞれは顔を真っ赤にして早歩きで吉影より前へ行ってしまう。本当につくづく普通で平凡で退屈なラブコメみたいだ。植物のように平穏かはさておいて、だが。
みぞれはちょっと先で立ち止まって待っていた。並んで少し歩けば目的の喫茶店、カフェ・ドゥ・マゴだ。
店内はわりと空いていた。2人は人気の少ない奥まった席に座り、一息つく。梅雨の合間の晴れ間は湿度が高く、結構汗ばんでしまった。ハンカチをもつみぞれの手が白くて細い首筋をなぞるのをじっくり見てから吉影はメニューを見た。
みぞれは季節のパフェ一択のようだが、吉影はそこまで甘味を欲していなかった。色々迷ったが、結局自分は少し高めのコーヒーのみにした。
そういえばゴールデンウィークも喫茶店に入った。あの時は洋楽が流れていたが、ここの喫茶店は無難にジャズが流れている。みぞれはジャズなんて聞かなそうだ。
すぐに品物が運ばれてきた。季節のパフェはダークチェリーとチョコレートアイス、ベリーのゼリーが入っていた上には生クリームとさくらんぼがちょこんと乗っかっており、みぞれは嬉しそうに小さく拍手をした。
「季節のパフェはさくらんぼだったようだね」
「うん。さくらんぼ、実はいただきものが家にたくさんあるんだけどね」
「じゃあ食べ飽きてる?」
「ううん!パフェは別だよ!…でも本当にたくさんあって、食べきれないんだ。の…花京院くん、この前送った中学生の子なんだけど。花京院くんにもたくさんお裾分けしちゃった」
「そんなに届いたの?」
「うん。おばあちゃん家がさくらんぼ農家で」
「そうなんだ。羨ましいな」
一昨日、彼女を自宅まで送った時にも思ったが、吉影はみぞれのバックボーンを全くと言っていいほど知らなかった。3年間クラスメイトで、同じ委員会だったのに?そうだ。そもそも吉影はそんなものに興味がない。自分から話を振ることもなかったし、みぞれもわざわざ話したくなるような身の上でもなかったというだけ。
みぞれが吉影を意識しているような仕草を見せたのもつい最近、三年生になって少ししてからだ。そう。……ええと、手紙をもらってからだ。誰のだっけ。
「…間淵…マヒル」
「え?」
「あ、いや。溝呂木さんと仲良くなったのって間淵マヒルがぼくに手紙を渡してからだなって思ってね」
「あ…ああ!そうだね。言われてみると、私たち時々話したりはしたけど休日に遊びに行くのなんてはじめてだねっ」
吉影は自分の前に運ばれてきたコーヒーにミルクを垂らし、かき混ぜた。まだ2ヶ月ほどしか経っていないが、ずいぶん自分の中で変化が起きているように感じてしみじみと言った。
2人は1時間ほど話をして、次第に店内が混み合ってきたのを見計らい店を出た。みぞれは満足そうな顔で頬をさすっていた。
「吉良くん、今日はありがとう…!」
「こちらこそ。途中まで送るよ」
「ありがとう。吉良くんは紳士だなあ」
紳士なんてとんでもない。ぼくは溝呂木さんの手以外にまるで興味がないのだから。今のぼくは普通ならこうするだろうというシミュレーターが走ってるだけで、心はその手を切り取ってどう『使うか』について考えるのに夢中だ。
ああ、爪が疼く。爪が伸びるのがわかる。
2人がカフェ・ドゥ・マゴから出て繁華街を通り過ぎたあたりで天気が急変した。冷たい風が吹き、ポツポツと雨が降り出したと思ったら急に土砂降りになった。
慌てて走って、みぞれの家の前に着く頃には2人ともすっかりびしょ濡れになってしまった。
「ひどい雨だな」
「そうだね。にわか雨にしては土砂降り」
アパートの軒下で裾を絞るとプールにでも落ちたのかというくらい水がでた。みぞれは雨粒で真っ白になってしまったメガネを外してハンカチで拭くが、そのハンカチもびしょ濡れであまり意味がなかった。
みぞれは少々悩んでから提案した。
「……うちで雨宿りしていく?ついでに、服も乾かさなきゃ…」
「…家の人とか大丈夫?」
「うん。お父さん今日も仕事だから」
溝呂木みぞれの、らしくない家。興味がないと言えば嘘になる。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
溝呂木みぞれの家、1LDKのアパートの一室。築年数もそこそこで、水回りはやや古びている。雨のせいか北向きのせいなのかやけに冷える部屋だった。今いるダイニングと個室は襖で仕切られて閉ざされている。
ダイニングには食卓のほかに食器と雑貨が入った棚と小さなテレビ、コート掛けがあった。コートには冬物の男性用コートが掛かっていた。一緒に暮らしている父親のものだろう。今吉影が借りているポロシャツも多分そうだ。
一通りあたりを見回した後、吉影は台所に立つみぞれの背中を見た。みぞれも服を着替え、髪を拭いた。しかし髪はまだしっとりとしていて、いつもは二つ結びにしているところを肩にかけたタオルにおろしていた。
「…はい。どうぞ。粗茶ですが」
みぞれは紅茶と皿に盛られたさくらんぼを運んできた。
「あれ?紅茶の場合粗茶でいいのかな」
「さあ」
紅茶を飲み、一息。雨に降られて冷えた体に染み入る温かさだ。多分ティーバッグの安物だけれど、吉影にはまだ茶葉の良し悪しはよくわからない。いつかわかればいいと思う。
「色々とありがとう。正直この雨の中帰るのは少し憂鬱だから」
「そんなの気にしないで。吉良くんには色々とお世話になってるし」
「お世話になってるって、そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ。吉良くんはずっと『良きクラスメイト』でいてくれるでしょう?普通はどこかで揉めたり、なんとなく話さなくなったりするもの」
「そういうもの?」
「そうだよ。普通はそう…」
みぞれは紅茶を一口飲む。熱かったのか、少し顔を顰める。
「吉良くんはきっとずっと変わらないんだろうなって思うと安心する」
「それは…喜んでいいのかな?」
「うん。いいことだよっ」
吉影はさくらんぼを摘む。みぞれはさくらんぼの茎で片結びができるらしい。吉影もやってみると蝶結びまでできた。しばしの談笑の後、雨が家屋に打ちつける音だけが部屋を包んだ。
静かさに包まれて、この部屋の居心地に慣れてきて改めて部屋を見回す。狭いダイニングにはいろんなものが詰め込まれていた。大きな飾り棚の中には食器の他に鍵や小銭、土産物であろう置物、腕時計。みぞれの教科書と筆記用具まで詰め込まれていた。
棚の横にはスクールバッグ、そして折り畳まれた制服もあった。まるでこのダイニングがみぞれの部屋のようだった。
「奥の部屋はお父さんの部屋?」
「…うん。そうだよ。だから入っちゃダメなの」
「そうなんだ」
「あは…ごめんね?狭くて驚いたよねっ…。実は最近急にお父さんと暮らすことになったからこんな感じなの」
「いや。ごめん、立ち入ったことを聞いて」
「ううん。ほら、私たちお互い家族のことあんまり話さないし」
「…そうだね」
吉影にとっての家族は、自分が望む平穏な日々に傷をつける小さな小さな引っ掻き傷。古傷だったり、新しかったり、かさぶただったりするが、そのどれもが自分の完璧さを損なう忌まわしい瑕だ。
みぞれの家族は?
「私は家族が大切だよ」
「それはいいことだよね」
「うん。吉良くんもそうだよね」
「ああ、もちろん」
もちろん嘘だ。
早くいなくなればいいのにと思わない日はない。
「…お父さん、早く良くなるといいね…」
「ありがとう」
嘘だ。
早く死ねばいいと思っている。
いや、もはや、そんな憎しみを抱くことすらなくなりつつある。
「私ね、こんなふうに吉良くんと話すことができて嬉しい」
「…ぼくもだよ」
みぞれとの会話は、いつもいつも嘘と建前ばかりだ。
「ねえ吉良くん」
「何だい」
「私と付き合ってください」