【完結】吉良吉影は静かに暮らせない 作:ようぐそうとほうとふ
欲望は歯止めない
雨が、降る。
雨が、雨が、このまま街を沈めるつもりなんじゃないのかと勘繰ってしまうほどに。
そんな日があれから何日か続いてから、雨は嘘みたいにぴたりと止んだ。
長らく続いた梅雨の終わりと期末テストの終わりに学生たちは活気付いていた。一方で全国模試を目前に控えた受験組はどこか浮かない顔をしながら下敷きで顔を扇いでいる。
吉影は涼しい顔をしながら、焦るでもなく浮き足立つでもなく、いつも通りの一日を過ごしていた。
試験後の弛緩した空気が流れる中、授業が終わってから放課後、吉影はいつも通り図書室にいた。隣には溝呂木みぞれが座っていて、彼女は本を読んでいた。みぞれは吉影と同じくテストの見直しをするタイプではないらしい。
「なに…?こっち見て」
「ああいや、涼しい顔をしているけど期末試験はどうだったのかなって」
「いつも通りだよ。いつも通りだめだめすぎてもう諦めてるだけ」
「ひょっとしたら今回は50位台から抜け出せるかもしれないね」
「……もしかして60位台に落ちるって言いたいのかな?」
「さあ。どうだろう」
「いやみな人っ」
みぞれは顔を背けて本に目をやる。しかししばらくすると吉影の方をチラッと見て微笑んだ。みぞれと吉影は現在交際中だ。
だがこれと言って特別なことはしていない。帰りに吉影が少し余計に歩いてみぞれを送る習慣ができたくらいだ。あれからすぐ試験が跨ったのもあるが、休みの日にどこかに行くというのもない。あったとしても一応受験生だし図書館なんかになりそうだ。
この日も吉影はみぞれを家まで送り、一番近いバス停からバスに乗って家へ帰った。
家には父親が帰ってきて、母はその世話で忙しい。父の顔色は少し良くなっている。手術は成功したらしい。これから何年生きるのだろう。
受験生として毎日遅くまで勉強して帰ってくる吉影を、母は勤勉だと褒める。吉影は今の所、母のいい子の範疇からはみ出てない。
平穏な生活。植物のよう、とまではいかないが。とにかくそれが続いている。
何かがおかしい。
隣を歩くみぞれはこれまでと全然変わらない。あの告白以降も、付き合い始めてからも。これまで見てきた女たちは浮かれ、ベタベタと触ってくる奴らが多かった。分不相応な化粧品を塗りたくり下品な笑い声を上げる同級生たちと一線引いて、無垢なみぞれ。
吉影はいままで女性の手以外に価値を感じることはなかった。しかしその手を飾るパーツとして肉体が存在すると思うとそれなりに大切な要素な気もする。
たとえば、みぞれの桜貝のような爪は綺麗に切り揃えられている。きりっぱなしでなくやすりで丁寧に仕上げた美しい爪。それは彼女の几帳面さも寄与する所だ。
吉影は自分の爪を見た。
ついこの間母に爪を深く切られたにも関わらず、もう爪先は指の先を超えて伸びていた。前よりも伸びる速度が格段に速くなっている。執拗に切られる爪がその環境に適応して早く伸びるようになったのだろうか。
並んで帰るみぞれの手が、すぐそこで歩行に合わせて揺れる。ゆら、ゆら、誘うように。
実際誘っているんだろうか?
爪が伸びるのがわかる。
抑え難い欲望が自分を内側から食い破ろうとしている。衝動的に、溝呂木みぞれの頼りない首を締め上げてやりたくなった。傷一つない肌を引き裂いてやりたくなる。そうしてからその美しい手を握りたい。
傷。
傷跡。
ぼくは何かを忘れている。
みぞれを送る帰り道、ぼくらはとりとめもない雑談をする。次の日あった時にはもう忘れてしまいそうなちょっとした話だ。
「吉良くんは夏にしたいことある?」
ふらっとやってきた観光客を殺したい。
「そうだな。…ぼくの家はほら、別荘地帯で海岸がわりと近いから海水浴かな」
「そうなんだ。素敵だね」
家にいることを強要されていた時よりは遥かに素敵かもしれない。
「溝呂木さんは?」
「私?私は…今年はどうかなぁ…」
「受験生らしく勉強かい」
みぞれは図書室でも勉強しているそぶりがなかった。ぼくもだ。
「ううん。なんていうか…あんまり先のことが考えられないっていうか」
ぼくもだ。
「何か不安なことでもあるの?」
「っていうより、うーん。なんて言えばいいんだろう。今ここにいるのが信じられないっていうか」
ぼくもだ。
「どういうこと?」
「吉良くんにはわからないよね」
そう、ぼくには君のことがわからない。
わかろうとも、していない。
ただ君の美しい手を前にして、荒波の中で溺れないようバタ足してる気分だ。
「吉良くんにはわからないよ」
溝呂木みぞれの家は、いつも真っ暗だ。
煌々と灯りがついた玄関で待っていた母に成績表を差し出す。母は笑顔になり、吉影を中に通す。これまで一度も3位より下を取ったことがないからわからないが、成績が悪かったら締め出されるのだろうか?
いや、過保護な母はそんなことしない。玄関扉を閉めて、土間に正座させられるんだろう。夜まで?朝まで?わからないけれども。
部屋に帰り、天井を見る。ずっと変わらない毎日だ。…だったか?
なぜみぞれの告白をOKしたのだろう。
一緒に帰るたびすぐ隣でひらり、ひらりと揺れる手を前にして思う。
あの雨に閉ざされた密室でなんの中身もない会話をしながら、とことん自分は目の前にいる人間に価値を見出せないと実感しながら、なぜ?
日常の象徴である彼女を手にしたかったから?
「吉良くん」
みぞれは吉影の内心なんてまるで知らない。
「今度、手を繋いでもいいですか?」
「……」
頭が真っ白になった。なんて答えたんだっけ。
夏休み前最後の図書委員の当番。じつはこれが地味に忙しい。
夏休み中読む本を借りてくやつや、ずっと返しそびれていた本を持ってくるやつの駆け込み需要で珍しくカウンターに人の列ができる。片割れのみぞれは返却本を書架に戻す作業をしており、吉影は1人で淡々と受付業務をこなしていた。
貸し出しカードに判を押し利用者カードを適切に管理する、それだけの仕事だ。退屈でつまらない、がこれがまさに平穏な人生の一端なのではないか。そう思っていた。
だが、駆け込みで本を返しにくるやつらが軒並み返却期限を大幅に超過していたり、そもそも貸出記録がないものだったりと杜撰な管理体制を目の当たりにしてからは意見が変わった。
周りの生徒たちは自分が思っている以上に馬鹿で粗雑な連中なのだ。むしろ生徒に放課後やらせるよりも司書を雇うべきだ。馬鹿の面倒を見続けるのはいくら平穏な人生でもごめんだ。
…いや。そういえばそもそも、2年生まではこんな持ち回りの貸し出し業務なんてなかったはずだ。確か古典の崖川が司書資格を持っていて…。
「あの、すみません」
はっとして前を向くと、女子生徒が申し訳なさそうな顔をして立っていた。見覚えがないが、おそらく下級生だろう。なかなかに美人だった。
「貸し出し?」
「いえ、返却なんですけど…えーっとォ。これ、返せますか?」
女子生徒は変なことを言いながら一冊の本を差し出した。それは杜王町近辺の郷土史の本で、古いにもかかわらず誰も読まないせいか日焼けもせず手垢もつかず綺麗なままだった。
貸し出しカードを取り出して借りた生徒の名前を見る。
「………君の名前は?」
「杉本鈴美です。あの、これ実は部室の掃除をしてたらロッカーから出てきて。私が代理で返しにきたんですけど、受け付けてくれますか?」
「借りた本人は?」
「それが捕まえられなくて。あの人忙しいじゃないですか」
貸し出しカードの名前は間淵マヒル。
そう、間淵マヒルだった。
「わかった。こっちで処理しておくよ」
「ありがとうございます」
吉影は動揺を隠しながら本を受け取り、女子生徒を見送った。
間淵マヒル。
どうして自分はあの女の存在を忘れていたのだろう。
そんなの決まっている。
間淵マヒルは
間淵マヒルを知っていますか?
ぶどうヶ丘高校3年生100人にインタビューすれば誰しも口を合わせてこう言うだろう。
「ああ、あの間淵さんね」
もしくは
「彼女、目立つよね」
そう、間淵マヒルは目立つ。
それは彼女がこの高校にあるすべての運動部に入部しエースを務めていたからでもなく、成績が2年間ずっと4位をキープして、最近一位になったからでもなく、間淵マヒルがこの町を越えS市の中でも飛び抜けて可愛いからでもない。彼女が常に、片手に金属バットを携えているからだ。
間淵マヒルを最近見た?
「……さっき廊下にいなかったっけ?」
間淵マヒルはいつからいないのか。
問題はそこだった。ついこの間まで金属バットを片手に校内を徘徊していたような気がするのに、いない。彼女が借りた郷土史の本、貸出日を確認すると借りたのは5月の終わり。返却予定日は6月末だった。ということは少なくともここ2週間は間淵マヒルはいなくなっていたことになる。
なのに一体いつからいないのか正確に思い出そうとするとどうしても頭がぼやけてしまう。
あんなに鮮烈な女の不在に気づけなくなるなんて。
うっかりしているとまたすぐに間淵マヒルがいないことを忘れてしまいそうだった。間淵マヒル間淵マヒル…吉影はすぐそばに置いてあったペンで左手首に書いた。
《間淵マヒルがいなくなった》
「…」
《探せ》?
いや、自分は間淵マヒルがいなくなってむしろ都合がいいはずなのに。
「吉良くん、そろそろ終わりだよ。…どうしたの?怖い顔して…」
「溝呂木さん。間淵マヒルを見かけた?」
「…間淵さん?うーん…今日は休みなんじゃないかな」
「そうか。…なるほど」
「大丈夫?」
「ああ。もう帰ろうか」
生徒たちはとっくに全員帰っていて夏休みを始めた。学校からの帰り道を歩くのは吉影とみぞれだけだ。高く登った太陽がアスファルトに色濃い影を落としている。青空には大きな雨雲が。油断して傘を持ってきていなかった。バス停に着くまでに降らなければいいのだが。
「夏休みになっちゃったね」
「その言い振り、あんまり楽しみって感じじゃなさそうだね」
「あはは。だって受験生だし、模試とか色々控えてるじゃない」
「溝呂木さんはそんなに受験に必死には見えないけど?」
「…それに学校で吉良くんに会えないじゃない」
吉影はみぞれを見る。左側を歩くみぞれの顔は俯きがちでよく見えなかった。
「じゃあ図書館で会おうか。幸いぼくたちは受験生だから」
「言い訳になる、ってことね?」
「そう…」
母への言い訳に。
「家にいなくてもいい、言い訳だね」
「…そうだね。家だとなかなか集中できないから」
「うふふふ」
みぞれが笑う。そして突然、吉影の手を握った。
つい、と白くて細いみぞれの指が吉影の手の甲をなぞり、有鈎骨をなぞり、小指を絡めとる。すべすべとした母の感触。そして小動物のようなあたたかさ。すらっとした美しい形の指が、絡む。
「約束ね…」
爪が疼くのがはっきりわかった。
そして同時に、まるで幽体離脱したかのように自分の理性がはるか彼方へ飛び去った。自分の背中がみえる。みぞれの小指と絡まる自分の指がはっきりみえる。
そして、その反対の手がみぞれの首筋に伸びているのも。
吉影の小指が強く、まがる。みぞれの手を包み込む。
自分の手が、これまで絶対に触れられなかった理想の手を包み込む。
吉影には自分が激しく勃起しているのがわかった。
このままこの女を殺してその手を持ち去ろう。
そう決めた。
みぞれは吉影を見つめていた。無垢な瞳。
これまでずっと観察してきた小動物のような黒い目はガラス玉のように自分の姿を反射している。
みぞれの目に映る自分は、これまで見たことのないような顔をしてきた。
みぞれの首に手がかかった。
もうどうなってもいい。
手に力が入るその直前、みぞれが恥ずかしそうな顔をしながら目を逸らした。
「人が見てるよ」
その一言で吉影は我に返った。
今みぞれを殺そうとしたこの道は駅の改札もそろそろ見える道で、通行人が何人か目に入った。
手を、離す。
みぞれは赤面していた。キスでもされると思ったのだろうか。だったら怪我の功名だ。
「ご、ごめん」
吉影はなんとか言葉を搾り出す。呼吸はまだ元に戻りそうになかった。みぞれの手の感触がまだ自分の手の中に残っていた。
「私こそごめんね。急に」
「いや。とんでもない。…ええっと…今日はここで」
「あー、うん。そうだね。うん…」
「じゃあ…」
「電話するね」
吉影はみぞれの顔をろくに見ずに、逃げるように走る。バス停に並んでいられなかった。すぐそばの公衆トイレの個室に駆け込み、そのまま精を吐き出した。
自分はたった今、危うく衝動的に人を殺そうとした。その恐ろしい事実よりも、吉影にはみぞれの手の感触を反芻するのに夢中だった。
もはや神聖視していたと言ってもいいあの美しい手が。
いざ触れてみてがっかりするんじゃあないかと思っていた、モナリザの手のような理想の手が。
触ってなおこんなに素晴らしいままなんて。
吉影はまた勃起した。そして頭が冷静になるまで個室に篭り致した。何人かがドアを叩き罵声を吐き捨てたが全て意に介さなかった。
ようやく落ち着いた時に、吉影は自分の左腕に書いた字が目に入った。
《間淵マヒルがいなくなった》
だから、お前は出てくるなよ。
ベッドに入るまでの記憶が曖昧だった。脳内にはまだ手に触れた時の感覚が渦巻いていて、ぐらぐらと自分の中身まで揺らぐのを感じた。植物のような静かさから一番遠い、欲望や衝動、殺意といった感情が湧き出ては理性が抑え込む。そうして自分の中身がかき混ぜられていく。
訳がわからなくなりそうな自分を俯瞰する自分がいる。もう一人の自分は淡々と、溝呂木みぞれを殺す計画を考える。
しかし計画はどれも自分の理想の生活を完膚なきまでに破壊してしまう。
手のために女を殺せば、自分はもう平穏な生活を得られなくなる。なんてひどい。理不尽だ。しかしこのまま
みぞれが憎い。本心では筋違いなことを自覚していたが、吉影はみぞれが憎くてたまらなくなった。
美しい手をまた女がよきクラスメイトで交際相手なんて。せめて行きずりのどうでもいいあばずれだったら躊躇なく殺していたのに。
吉影は絶望を感じながら、理性は静かに囁いていた。
方法は見つかる。
どんな状況も解決策はあるものだ。
しかし吉影の思いとは裏腹に、一度火がついた欲望を押さえつけることは苦渋に満ちたものだった。解決策なんて見つからない。そして、目の前には欲望をさらに掻き立てる《手》がある。
週に二度、月曜日と木曜日に2人は図書館で会う。ちゃんと約束をしていなかったが、吉影が意を決して図書館に行った日にみぞれも居たのだ。その時に約束をした。
図書館で、みぞれはノートを広げながら小説を読む。吉影は参考書を開きながら、ぼうっとしていた。みぞれの手を常に視界の端にとらえながら、反射のように雑談に応える。
手が、ページを捲る指が、吉影を誘惑する。そのたびに爪が疼き、頭にきゅうっと血が上り、殺意が抑えられなくなっていく。おかしくなりそうだ。
家に帰るや否や湯だった殺意と欲望を衝動のままに発散させる。
こんなことは続けていられない。このままいけば図書館で、公衆の面前で彼女を殺してしまう。何もかもが終わってしまう。
溝呂木みぞれを殺すべきではない。とわかっている。
溝呂木みぞれを殺せ。本心が叫んだ。
だめだ。だめだ。自分は完璧に普通を演じているのに。18年間の努力をパァにするつもりなのか。
この町で、ただ静かに暮らすという夢をぶち壊すつもりなのか?
日常を守り続けるんじゃあなかったのか?
「吉良くん」
図書館から出る直前、みぞれが話しかけてきた。
外は夕立で、風が肌寒かった。
2人とも傘を持っておらず、雨が止むのをただ待っていた。
「吉良くんに聞きたいことがあるの」
「なんだい」
みぞれは雨の中へ歩き出す。そしてずぶ濡れになりながら吉影の方へ振り返った。
「なんでまだ私を殺さないの?」