【完結】吉良吉影は静かに暮らせない 作:ようぐそうとほうとふ
夏季休館があけた図書館。
人はまばらで、特に洋書のコーナーのそばのテーブルには通りかかる人すらいなかった。
そこはいつも吉影とみぞれが座って勉強しているテーブルだ。いつもと同じように吉影がそこへ行くと今日はみぞれはいなかった。
吉影はみぞれの家へ向かう。インターフォンを押すと返事はなかったが、ノブを握ると鍵は開いていた。
吉影が中に入ると、すぐそこのリビングにみぞれが仰向けに寝ていた。床に毛布を敷いて、見慣れた白いワンピースで眠っている。真夏の熱気で汗ばんだ体。物音に気付き、ゆっくり目を開けた。
「あれ…吉良くん。どうしたの?」
「図書館にいなかったから迎えにきたんだ」
「そっか。もう1週間経ったんだ…ごめんね…」
みぞれは怠そうに体を起こした。肩紐を直し、裾を整えてから寝起きを見られたという恥ずかしさからかほんの少しだけ赤面する。
「えっと…図書館、行くの?」
「今日は遠出しないか?」
「珍しいね。いいよ」
立ち上がり、ふらつく。ろくに食べてないのか少し痩せたように見えた。
「えっと…身支度したいから、少し待っててくれる?」
「わかった。外にいるよ」
「暑いでしょ?いいよ、中にいて」
みぞれは冷房をつけると風呂場へ行った。すぐにシャワーの音が聞こえた。吉影はそれを確認すると、さっきまでみぞれが寝ていた毛布を踏みつけ、リビングと個室を仕切る開かずの襖に手をかけた。
襖はあっさりと開いた。埃と湿気の混ざった嫌な匂いがふわっと漂う。部屋は和室で、思っていたよりも整頓されていた。仏壇と書斎机、座椅子がおかれ、押し入れ以外の壁に本棚が置かれているせいでかなり狭く感じる。
みぞれはどうしてこんな普通の部屋を開けずに封印していたのだろう。
桔梗シンジの部屋。ざっと見ると、机の上とその周辺にカルテが散らばっていた。
机の中心にはリストがあり、題は『Dear Hearts and Gentle People』とあった。そこには16人の名前と症状が書かれており、その中のいくつかは吉影の身に覚えのあることが書かれていた。
このリストが《閉じ込めた》怪異たちということか。そして、娘みぞれのために誰を解放するか考えていた途中で桔梗シンジもやられてしまった。
散らばってる方のカルテを拾ってみてみた。年代はバラバラだ。古そうなものを中心に探すと、なんと母の名前があった。まだ幼い2歳の吉影を伴い受診。受診理由は…『息子が言うことを聞かない』。なるほどね。以後来院なし。
「なんだ……お父さんが帰ってきたのかと思った…」
声がして振り向くと、みぞれが下着姿で立っていた。同じ年頃の女のあられもない姿を見るのは初めてだったが、吉影は欲情や恥ずかしさは感じなかった。ただそのか細い体と幽霊のような佇まいに傷ましさは少し感じた。
そこでやっとわかった。みぞれは、人の部屋に勝手に入らないというごく自然なマナーをただ守っていただけなのだと。
みぞれはこの1週間で急速に壊れて行っている。吉影に自分のことを告白したからなのか、単に限界だからなのかはわからないが、普段のみぞれならこんな格好で人前には出ない。
みぞれは畳んで置いてあった制服に袖を通す。吉影はみぞれが着替え終わるのを待った。
「…お待たせ。それで、どこに行くのかな」
「この間の返事をするのに相応しい場所かな」
「へえ。楽しみ」
見慣れた制服姿のみぞれ。けれども決定的に以前と違っていた。変わったのは自分か、みぞれか、両方か。もはやどちらでもいい。
みぞれの家からは電車に乗り、一駅。そのあとは歩きだ。弱っているみぞれが炎天下を歩けるか心配になったが、みぞれは思ったよりもしっかりとした足取りで吉影の跡をついてきた。
会話はしなかった。そんなものもう不要だった。
「ああ…」
みぞれが坂の上を見ながらつぶやいた。
「懐かしいな…」
視線の先にはききょう病院がある。以前立ち寄った喫茶店は閉まっていた。夏空の下、外を歩いているのは2人だけ。
荒れた道を登りきって、病院へ辿り着く。夏の日差しを受けて伸び放題の雑草が入口を飲み込んでいた。草を掻き分けて進むと正面ドア。マヒルが鍵を開けたままでいたから簡単に入れた。
「記憶と全然違わないや」
待合室を眺めながらみぞれが呟く。
「ぼくも昔ここ来たことがあった…らしいよ」
「そうなんだ。じゃあ私たちどこかですれ違ってたかもね」
吉影は先ほどのカルテを思い出し、空想する。母はある日、幼少期の吉影をつれて児童精神科のあるききょう病院を訪ねた。
『うちの子おかしいんです。言うことを聞かないし、やっていいことと悪いことの区別もつきません。本当に悪い子なんです。どこか頭が、心が悪いに違いないわ』
桔梗シンジは母にこう言った。
『おかしいのは、あなたです』
医者の見立ては本当に正しかったかな。
ぼくたちは階段を登り、上へ。深い爪痕や破壊の痕跡があるのにみぞれはどうでも良さそうだった。彼女ももう、だいぶ狂気の淵へ近づいている。
2階、精神科。
吉影が促すまでもなく、みぞれは桔梗シンジの研究室へ入って行った。
遅れて吉影が入ると、みぞれは院長席に座っていた。
「それじゃあ吉良くん。返事を聞かせてほしいな」
溝呂木みぞれは、きっとかつて父親がそうしたように肘掛けに手を置いて対面にいる吉影を見つめた。学校にいる時と同じ笑顔で。
かつて自分は、この笑顔の下で彼女が壊れ続けていることに気づかずに日常の象徴として崇めていた。神聖なる日常の象徴。そして触れてはいけない欲望の対象だった。
それが今は、触れられる。
吉影は懐からあるものを取り出し、みぞれの足元へ投げ捨てた。みぞれはそれを拾い上げる。
それは5日前の新聞だった。
「…杜王町一家殺人事件…8/13日未明、杜王町で杉本さん一家が殺害される事件が起きました…」
「その犯人は、ぼくだ」
「…………」
みぞれは新聞をじっくりと読み、机に置いた。
そして吉影をもう一度見た。
「…どうだった?」
「…興奮したよ」
「そう…」
「両親は正直呆気なかったな。初めてだからこっちもあんまり余裕がなくて、楽しむ余裕はなかった。…ああ、犬も殺したけどそっちはもっと簡単だった。喉をばっくり裂いてやったよ」
「……そうなんだ…」
「最後に娘を殺したけど、溝呂木さんは覚えてる?最後の図書委員の当番で本を返しに来た子だよ。そっちは楽しもうと思って、ベッドの下にもぐってさ…怪談みたいに話しかけてやったんだ」
「…もういいよ」
「テンションが上がってしまって変なことを口走ってしまったけど、あの怖がりよう…。やってよかったよ。ああ、背中を切り裂いた時はもう本当に興奮した。正直、勃起したよ。血を舐めてみようかと思ったけど、流石にちょっと抵抗があるよな…」
「もういいって言ってるでしょ…!」
みぞれは吉影を遮って立ち上がる。
自分で踏み外せと言ったのに、どうしてそんなにゾッとした顔をしているんだろう。酷いじゃあないか。傷つくな。けれどもぼくは優しいから、それは言わないでおいてあげよう。
「す…杉本さん一家を…消せばいいんでしょう?いいよ、吉良くんはちゃんと私と同じ怪物だって証明してくれたから…私…」
「みぞれ」
ふいに名前を呼ばれ、みぞれは立ちすくんだ。吉影は淡々と告げる。
「ぼくはそんなことは頼んでない。君が聞くから答えたんだ」
「…そうだけど…」
「そもそも、死んだ人間を消せるのか?」
「それは…」
「ぼくには君が自分の能力を制御できてるとは思えない」
「だったらなんで殺したのッ…」
「殺したかったから」
吉影の問いにみぞれは絶句した。そしてごきゅ、と喉を鳴らした後におずおずとたずねる。
「……つかまっちゃうよ…?」
「ぼくが証拠を残す間抜けに見えるか?確かに衝動的犯行だったけれどね。ご覧の通り捕まっていないよ」
「じゃあどうして…私にそれを伝えるの…?」
「君に感謝したくて」
みぞれが目を丸くして…それは驚愕だけではない、怯え、恐れが混じっている。そんな目で吉影を見た。背筋がゾクゾクする。そんな顔されたら、だんだん興がのってくるじゃあないか。
「君がぼくの背中を押してくれたんだ。厄介な間淵マヒルを消してくれたし、母を電話でけしかけてくれたから、ぼくは一歩踏み出せた。本当に感謝している。そして何より…君の手が、ぼくに触れた」
吉影はみぞれににじりより、立ちすくんだその手を取る。ひんやりとしたその手をさすって温めてやる。みぞれの余裕は消え去り、体が小さく震えていた。
そう。それでいい。
自分と同じ怪物?ぼくが?一緒に踏み外す?
なんて烏滸がましいんだ、みぞれ。
この吉良吉影が君と同程度な訳ないだろう。
「そして君は気づかせてくれた。…ぼくは全然異常なまま、普通の顔をしながらなんてことない日常を送れるんだと。そしてぼくは心底」
でもそんな愚かさも可愛いよ。女はそれくらいの方が愛嬌があるし、何より、君の手は小鳥のように愛らしくて、それで美しくて。
こんな手を前に我慢するなんて、そんなもったいないことできるはずがない!
「喋らない
吉影は手に、口付けする。
みぞれは手を振り払い、部屋から出ようとかけだした。
吉影はそれを遮るように腕を突き出す。みぞれはその腕にあたり、ドア枠に頭を打ちつけて廊下に倒れ込んだ。
「う…うぅ…」
「殺されたがってるんじゃあなかったのか、みぞれ」
「き…らくん…。すごいね…吉良くんは私が思ってたより…すごく…怖いよ…」
「かなりみくびられてたみたいだね」
「そうみたい…」
ばん
ばん
ばん
病室の扉が一斉に開いた。いや、扉だけではない。さあああ…という音が聞こえてきた。窓が開いたのだ。
「私…怖いよ、吉良くん」
「君は殺されたいんじゃないのか?」
「わからない…終わりにしたいけど、殺されるのは怖い…」
ひた…
足音が、した。
吉影は後ろを振り向く。院長室の窓が開け放たれて雨が吹き込んでいた。そしてその吹き込んだ雨雫が、まるでそれ自体が足跡のようにひた、と広がり一歩近づく。
「この雨に触れられると、ぼくもいなくなる?」
「…そうかも…私の恐怖とか不安とか…敵意とかに反応してるんだと思う…」
「困ったね。近づいて殺せない」
みぞれは立ち上がり、走り出した。よろよろとした走りは頼りなく、本気で追いかければすぐに捕まえられそうだ。吉影は小走りで追いかける。みぞれは一階にまで降りて、自分が逃げきれないと悟ってか待合室へ向かった。
そこは板が打ち付けられていたはずの窓が開け放たれ、雨が吹き込んでいた。
「ああ…」
みぞれは頭から流れる血を手で拭い、呆然とした声を出した。
血に汚れた手も乙なものだ。ああ、本当にどうして杉本鈴美の手をとり忘れてしまったんだろう。でもいい。過ぎたことは仕方がない。
ずっとずっと欲しかった手が今自分のものになるのだから。
吉影は腰にさしていたナイフを取り出した。
雨に濡れるみぞれはそんな吉影をただ眺めていた。
「……吉良くん」
みぞれは観念したように床に座り込んだ。
「私、どうすればよかったのかな…」
「どうすることもできなかったから今ここにいるんだろう?」
そんなのぼくに聞いてもわかるわけない。
みぞれは初めから誰かに危害を加えることが生理的に無理な人間だった。そして吉影は人に危害を加えることになんの抵抗もない人間だった。それだけのこと。
みぞれは自分のしたことを受け入れることができないほど純真だったのだ。
そう言う意味では彼女を平凡のイデアとしていた吉影も正しかったのだろう。彼女は普通が故に、自分の周りで起きている異常事態に怯えることしかできなかった。普通が故に恐怖し、妬み、共犯者を望んだ。破滅へ向かおうとして怖くて躊躇い、逃げて、自分が救われる道なんてもうないことに崖っぷちで気づく。
普通の、善良な人間だったというだけなのだ。
彼女は限界を迎え、絶望している。自分は新しい自分を発見して幸せだ。
間淵マヒルなら、君を救えたかもしれないな。
そう思ったが言いはしなかった。何故かわからないけど。
みぞれは雨に濡れながら、ぼくを見つめていた。
まるで迷子の子供のように。
「お母さんも…義理のお父さんも、義理の兄弟も…いなくなっちゃえって…本当は思ってたの…」
「ぼくも、家族なんて消えればいいとおもってる」
みぞれの表情が緩む。
ぼくらはたった今はじめて本音で対話している。
「本当はね、吉良くんのこと滑稽だなって思ってたよ。だってどう見たってきみは異常だったから……」
「ぼくはきみをずっとずっと、下に見ていた」
涙が雨かわからないけど、みぞれの顔はぐちゃぐちゃだ。
ああ本当に、感情むき出しの女なんて醜いったらありゃしない。
「人が消えてくのはすごく、怖かった…でももしかして、私ってちょっと神様みたいとかおもってたよ。特別なんじゃないか…って思い始めてた…」
「ぼくも自分は特別だと思ってるよ」
でも初めて見るみぞれのそんな顔は、悪くはない。
もちろん、美しい手を持っているという点を加味してだけれども。
「間淵さんのこと、嫉妬してたの…私なんて敵うわけないのに…」
「あいつがいれば、ぼくはまだ人を殺してなかったかもしれない」
「私、吉良くんを人殺しにしちゃった…?」
「君のせいじゃない。自惚れるな」
きっとみぞれが居なくても、マヒルが居なくても、吉影は人を殺す。生来の癖なのだ。そこから逃れることはできなかっただろう。たまたまいろんな出来事が絡まり合い、縺れ、拗れ、そしてバラバラに千切れて解けた。
みぞれはホッとしたように笑った。
「…本音の吉良くんの方が魅力的だね」
みぞれは両手を胸の前で組んだ。それは祈りのように見えた。
「吉良吉影くん。あなたが好きです」
「…ありがとう、溝呂木みぞれさん」
弱まった雨は、もう窓から吹き付けることもなかった。
雨が止みかけてオレンジ色に染まる空が雲の合間から見える。
吉影はナイフを突き出しながら、座り込んだみぞれに視線を合わせた。
「ごめんなさい」
夏休みで誰もいない学校。夕暮れと、雨上がりの湿った空気が流れ込んだ廊下に1人の女子生徒が倒れていた。吉影は近づき、その顔を見た。
間淵マヒル。いつも薄ら笑いを浮かべていた顔は無表情で、目には光がなく、ただ空を眺めていた。
吉影はその視界に入る。マヒルはゆっくり、瞬きする。
「溝呂木さんがちゃんと君を攻撃していて助かったな」
呼吸をしている。少し痩せてるように見えたが、二、三ヶ月ぶりに見るから正直痩せてるのか見る角度が違うせいかよくわからない。
「彼女の能力はどうやら、君みたいに生きたまま
「………れ?」
「なんだ?救急車は学校から出て一番近い公衆電話からしてやるよ。事情を聞かれちゃ困るからな」
「…ぼくは……だれ……」
「おっと…自分のこともわからなくなる…のか?凶悪な能力だったな…」
「……きみは……だれ………」
「…………二度とぼくの前に戻ってくるなよ、間淵マヒル。じゃないと、君を殺すからね」
ああ。どうやら自分は絶望的な状況ほどついてるらしい。
宿敵間淵マヒルが完膚なきまでに叩きのめされて、手を下すことなく脱落した。
ぼくは自分のポケットにしまった手を繋ぐ。切り取りたての、まだ温かい手を。
誰の手だっけ?
なんてね。
溝呂木みぞれは、自分の存在を雨に沈めてそのまま死んだ。間淵マヒルだけを殺せてなかったのは誤算だが、あれは再起不能だろう。
ぼくは安全にはじめての恋人を可愛がれる。
ああ…まあ腐ってしまったらそれまでだが、とにかく今は心ゆくまでこの手を愛でたい。
ぼくはもう何かに縛られたりしない。日常は、自分の手で守れるのだ。どんなに破滅的な欲望を抱えていても自分の理想通りに生きる覚悟ができた。
自分を受け入れるってのは結構爽快な気分だ。
もう、ぼくを止めるものは何もない。
1986年、夏
吉良吉影は大学3年生になっていた。希望の私立大、文学部へ進学。成績も良好、適当なサークルに所属し、適当な人付き合いを形成しつつ、程よい大学生活を楽しんでいた。
3年前のあの夏、初めての恋人と出会い別れてからも何度か
犯行はどれもばれていない。警察を出し抜くのなんて余裕だ。
人生の絶頂期を迎えつつあると感じたその時のことだった。
間淵マヒルが、帰ってきたのは。
スタンド名: Dear Hearts and Gentle People
本体名:桔梗シンジ
能力: 対象者のスタンド能力を自身の所有する『部屋』に閉じ込める。部屋の定義は本体の解釈次第。
破壊力: E
スピード: D
射程距離: D
持続力: A
精密動作性:B
成長性: D
スタンド名: Orange Colored Sky
本体名:溝呂木みぞれ
能力: 攻撃した相手を『誰にも見えないが、不在に気付かれない』状態にする。制御できてない場合対象者を殺してしまうが、制御できた場合攻撃者は死なずにじわじわと自分自身の情報を消される
直径2センチほどの水滴の中に胚が浮いている。雨に交じって大量に降り注ぎ、地面に落ちると群体となって攻撃する。並のスタンド使いなら少数の場合撃退できる
破壊力: E
スピード: D
射程距離: A(町一帯)
持続力: E
精密動作性:E
成長性: C
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