【完結】吉良吉影は静かに暮らせない 作:ようぐそうとほうとふ
炎天下、夏も盛りな昼下がりに吉影は杜王グランドホテルのラウンジへ足を踏み入れた。カフェ席の中でも一番豪華なソファーのある席に、1人の女が座っていた。
「やあ。吉良吉影くん」
「間淵…マヒル…」
それは再起不能と思われていた間淵マヒルだった。
もちろん、あの時のままの彼女ではなかった。
ガゼルのようにしなやかだった体は見る影もなかった。彼女はバットの代わりに杖をつき、痩せた足には厳重にサポーターが巻かれていた。コルセットもまた頑丈そうなもので、胸の下から腰までをカバーしている。肌は少し青ざめ、髪も伸びて横に垂らしている。
全ての運動部でエースだったあのマヒルが杖をついて歩いている。崩れかけた体をなんとか保つため、コルセットやサポーターで固めている。崩れた欠片をなんとか元の形に積み上げただけみたいだ。
こんなに弱々しく変わったのに間淵マヒルを見つけられたのは、杖がバットに見えたからだろう。
昨日、吉影は大学主催の就活セミナーの会場に向かう途中、自宅からバスに乗っているその時、信じられないものを見た。
間淵マヒルが、杜王町を歩いていた。
吉影は思わず立ち上がり、停車ボタンを押した。隣に座っていた高齢者が迷惑そうな顔をした。
間淵マヒルがここにいるはずがない。
確かめなければならないという一心で駆け出した。
吉影は間淵マヒルを追いかけ、捕まえた。
間淵マヒルが見間違いでないと分かった時、吉影は絶頂から転がり落ちるような気分になった。すぐにでも事情を聞き出し、場合によっては殺す必要があった。
しかしあいにくと吉影もマヒルもすぐ後に予定があり、時間がなかった。
だから、今日。
こうしてマヒルのとまっているホテルで待ち合わせとなった。
「生きてたとは驚きだよ」
「…まあ、ご覧の通りさ。ここまで回復するのに3年かかったけどね…」
「何があったか話してくれるか」
「もちろんさ」
間淵マヒルだ。見た目はまるっきり変わったが、声や喋り方、ウェイターへの注文の仕方も懐かしさを感じる。高三の春から梅雨までのほんの短い期間の付き合いしかなかったのに、鮮明に覚えている。
「どこから話すべきかな」
「任せるけど」
「うーん…そうだね。順を追っての方がいいか」
間淵マヒルは届いたアイスティーを一口飲んだ。
「まず…発見された時のボクはほとんど空っぽだった」
「空っぽっていうのは?」
「なんで言えばいいのかな。自分に関する情報…記憶とか人格…思考の癖とか、そういうのがなくなっていた。それで体も急激に弱ってしまって、手の施しようがなくて東京の大きな病院へ移されたんだ。そこで、慈善団体なのかな…ある財団が、ボクを治療してくれた」
「そんなことが可能なのか?」
「うん。財団ってのがなんていうか、超常現象とかを調べるためのものらしくてね。ボクの症状は彼らの興味をひいたってわけ。催眠療法だの、まあ保険適用できなさそうなそういう治療をしてくれたんだよ」
「変な団体がいたもんだな」
「ね。まあ運が良かったのさ」
問題はこいつがどこまで覚えているかだ。次あったら殺すとまで言ったのにこんなに弱った姿で現れるということは、いなくなった前後の記憶はないのかもしれない。
だったら
「それでなんとか体も持ち直して、以前の間淵マヒルを取り戻してきたところなんだけど…正直ボクにも本当に自分がちゃんと間淵マヒルなのか、よくわからない。記憶も思考回路もほとんど元に戻ったはずなんだけどね」
そう言ったマヒルの顔はどこか頼りなかった。以前は傲慢と自信が服を着て歩いているようなやつだったのに、今のマヒルはまるで普通の女のようだ。
溝呂木みぞれの攻撃は吉影の想像以上にマヒルを蝕み、破壊したらしい。
「…でも間淵マヒルとしての記憶があるなら、君は間違いなく間淵マヒルだろう?」
「そりゃそうなんだけどね…。でもさ、一度破れた壺をいくらくっつけても水が染み出すみたいなそんな感じ」
「…そうか」
「がっかりしたかい、吉良吉影くん」
「いや。安心した。もうお前に怪異がどうとか連れ回されることもなくなるから」
「はは…。君には随分迷惑をかけたね」
「お前がそんなことを言うなんて…不気味だな」
「間淵マヒルらしくなかったかな?」
「らしくなくていい。お前のことがずっと嫌いだったから」
「ふふ、照れ屋さんめ」
マヒルは楽しそうに笑顔を作った。ふにゃっとした細目は以前のマヒルの笑みに似ていた。吉影も懐かしいやりとりに思わず気を許しそうになった。しかしマヒルに笑みなんて見せるのは屈辱的だ。
「で、君の方は何があったんだい。聞かせてくれよボクを助けてくれたのはどうせ君だろう?」
「そうだな…」
吉影は慎重に、言葉を選び3年前の顛末を話した。
マヒルの残した手がかりと自身で手に入れた情報から桔梗シンジの娘がみぞれであり、《人がいなくなるのに気づかない》現状の元凶だと突き止めたことをかいつまんで伝えた。
具体的には桔梗シンジの研究室のメモ、みぞれの幼馴染がききょう病院の近所に住んでいたこと、そもそもみぞれの住んでいた場所が桔梗シンジの家だったことをだ。
マヒルは大きなため息をついて、背もたれに体を預けて天を仰いだ。
「まさか溝呂木みぞれちゃんが犯人だったとはね…」
「捜査の進捗は覚えてないのか」
「うーん。あんまり…」
マヒルは体をのけぞらせたまま首だけこちらへ向けて吉影に聞く。
「で、溝呂木さんはその後どうなったの?」
「…彼女は自責の念に駆られて死んだ」
間違ってはない。嘘はついていない。間淵マヒルはじっとこちらを見つめた。その眼差しは至って真剣で、吉影は思わず身構えてしまう。
「あらぁ…そっか…。悲しいね」
マヒルは本当に悲しそうな顔をした。吉影は、それを見て驚く。
間淵マヒルはもっとドライな人間だったはずだ。同級生の人格を破壊してもあっけらかんとしていたし、町の脅威を排除した後、犯人の人生なんてどうでもよさそうだった。
お前が、よりにもよってお前が悲しむはずがない。
自分の正義感を暴力的に昇華するのが目的のエゴイスト。間淵マヒルはそんな人間のはずだった。なのに、どうしてそんな顔をするんだ。
「溝呂木みぞれちゃんは優しい子だったから、自分のしたことが許せなかったんだね…ボクがもっとはやく気づけたら、違ったのかな…」
「……お前…」
吉影は苛立ちのあまりマヒルを鋭く睨みつけてしまった。マヒルはそんな吉影を見て驚く。
「吉良吉影くん。…君は3年で変わったね」
「……そりゃあ変わるさ。そもそもお前との付き合いもたいして長くないだろう」
「いや。君の変化は年月なんかじゃあないか」
マヒルは、以前よりも冷ややかで真摯な眼差しをしていた。あの薄ら笑いはどこへやったのだ。あの人の不幸を嗅ぎつけた猫のような瞳は。
間淵はしばらく吉影を見つめてから、ふっと力を抜いて笑った。
「…いい男になったね。吉良吉影くん」
「心にもないことを言うのは前と同じだな」
「やだなあ本心だよ。本心だから、ここ奢ってくれないか?」
吉影はため息をついて伝票をこちらへ引き寄せた。マヒルはわざとらしく歓声を上げて喜んでみせる。
「…それじゃ、就活頑張れよ。吉良吉影くん」
間淵マヒルはそう言って、杖を持ってない方の手を振った。
吉影は何も言わずホテルから去った。
吉影は自分の心に湧いてきた喪失感に動揺した。間淵マヒルが戻ってきたことよりも、彼女が変わってしまったことを残念に思ってしまった。
そしてその動揺が、これまで万事が完璧に回っていた自分の平穏な日常に影を落とした気がしてならなかった。
このまま思い出の中で死んでいてくれればよかったのに。
ドス黒い感情がまた湧いてくる。爪を切らなくては。
もう前の
それにスペースは限られている。このままのペースで殺し続けたら、隠し場所から死体が溢れてしまう。
どろ、どろ、と腐った肉が染み出す光景が脳裏に浮かぶ。連動するかのように女を殺したいという欲望が溢れそうになる。
家に帰ると、しみったれた匂いがした。
死にかけの人間が放つ嫌な匂いだ。
吉影は小さなため息をついてから家に入った。
かつては自分にとって重荷であったこの家も今となっては完全に自分の領域だった。母の恐怖から解き放たれた吉影にとって、もう家族なんてものは守るべき日常の外にあった。
父は最近母とともに『最後の旅行』へ行った。母は効果もよくわからない高い水を、父が死ぬまでに飲み切れないほど買い込んでいる。
死に瀕した父はしきりに吉影を心配する。母はその横で呆然としている。吉影は作り笑いを浮かべることもない。破綻している、けれども父も母もその現実を見ていない。癌の痛みと、従順な子供を失った痛みを和らげるのに精一杯。
それでいい。せいぜいそうやって残りの寿命を耐え忍んでいれば。
自分は絶対にこんな風にはならない。派手ではないが安定した仕事について、出世も望まず、心乱すような家族もなしに慎ましやかで穏やかで静かな日常を手に入れる。
このまま、完全犯罪を成し遂げ続けて。
溢れだす死体が脳裏によぎった。
ああ、でも本当の自分を今更押さえつけることなんてできない。一度知った肉の味を忘れることはできない。
…なぜ戻ってきたんだ?間淵マヒル。
世間は早くも盆休みで、この期間は就活生も必死になる必要はない。とはいっても元々吉影は就職に必死こくつもりはさらさらなかった。地元のカメユーなんて、大学に行ってなくても入れる。時々あるセミナーへ行くのはゼミの教授の付き合いだったり、それ自体が単位を取る条件だったりするからだ。
吉影は家にいるのも気が乗らず、盆休みでも営業しているカフェへ行くことにした。
これまでの夏はゼミの合宿などがあったが、今年は就活優先でみな企業主催の夏合宿なんかに行っているのだろう。吉影は浮かない程度にイベントごとに参加していたが、就職する気もない企業のために休みを潰すのは論外だった。
ジャズの流れる喫茶店でゆっくり読書をしながら、最近乱された心を落ち着けよう。そう思った時、駅前でまた間淵マヒルを見かけてしまった。
杖をついて、日差しに耐えられなさそうな顔色をして、地図を見ながら立っていた。
あんな体で散歩か?
弱って変わってしまったマヒルを見るとたまらなくムカつく。
もし自分が怪物になったら、それを止めるのは間淵マヒルなんじゃないかと思っていた。しかしマヒルは消えた。そして、裁きはいまだに訪れないまま、むしろ幸運が舞い込み続けている。
ちょうどいい獲物、狩場、そして死体置き場。
何もかもうまくいっていた。そうやって3年も過ごせば、もう自分が止まるビジョンが見えない。
間淵マヒルを殺すべきか?答えはイエスだ。しかし穏便に済むのならそれに越したことはない。
どんどん殺しのペースが上がっている。計画的にやらなければ、いずれ死体置き場が満杯になってしまう。かつては悪くないと思っていた間淵マヒルの手も、今はもう魅力を感じない。ただの死体のために死体置き場のスペースを埋めるのは嫌だった。
喫茶店で本を一冊読み終えた。帰りのバスに乗り込むと、乗客は1人だけだった。
間淵マヒルが、座っていた。
「また会ったね。しかもバスなんて…初めて話した時と同じじゃあないか」
このバスはマヒルの泊まっている杜王グランドホテルも通る。本数も休日運行で少ないし、乗り合わせてもおかしくはない。
吉影はマヒルと離れた席に座った。するとマヒルは無遠慮に隣へ移動してきた。間淵マヒルの体温を感じる。やっぱりこいつはタチの悪い幻覚でもなんでもなくて、生きている。
「なんだか運命的だね」
「お前はいちいち大袈裟だな…」
「そうかな。ボクは時々人と人との間にはお互い引き合う力があるんだと感じることがあるよ」
変な財団のせいで怪しい自己啓発セミナーでも受けさせられたのか?いや、元々こんなことを言ってたような気もする。どうもこいつと話していると調子が狂う。
「杜王町には何日いるんだ?」
「決めてないよ。用事が済んだらすぐ東京に帰るけど」
「用事…?」
「そ。里帰り的なね?…ボクがまたいなくなるのは寂しいだろうから、1日ぐらいならデートしてあげてもいいよ」
「とっとと失せろ」
「冷たいなあ、吉良吉影くん。ボクはこんなに嬉しいのに」
マヒルはグランドホテル前の停留所で立ち上がった。しかし杖をついた足が危なっかしくふらつくものだから、吉影は仕方なくマヒルの体を支えて一緒に降りた。バスは吉影たちが降りた途端ドアを閉め、走り去ってしまう。
「用事が済んだら、ボクはアメリカに移住するんだ。前話した財団に就職するつもり」
「そうか。二度と戻ってくるなよ」
「またまたぁ。本当はボクに会いたくてたまらなかったくせに」
「お前の自信過剰さはいったいどこから湧いてくるんだ?」
「ボクって生きてるだけで肯定されてる気分でいられるんだよね」
「本当に頼むから早く消えてくれ、間淵」
「そんなこと言ってくれるの君だけだよ」
吉影は結局マヒルをロビーまで送ってやった。マヒルは帰り際吉影に向けてひらひらと手を振っていたが当然無視した。
吉影は帰宅後風呂に浸かりながらマヒルのことを考えた。
高三の春から初夏までの短い付き合いだった。だから彼女のことをどれだけ知ってるかと言われると、多分下手なクラスメイトよりもはるかに知らない。
けれどもおそらく、間淵マヒルの本性に一番近づいていたのは吉影だったはずだ。
それから2日後、間淵マヒルから電話があった。
明日でもう杜王町を発つから最後に付き合って欲しい場所があるらしい。場所を聞くと「それは当日のお楽しみ」と言って一方的に切ってしまった。
翌日マヒルに指定された夕方四時に家を出ると、すぐそばにタクシーが止まっており、後部座席にはすでにマヒルが乗っていた。
着いた先は寺だった。思いがけない行き先に吉影は少々戸惑うが、険しい石階段を前にして納得した。マヒルは少々苦労しながら階段を登った。
「その脚、悪いのか?」
「え。見てわからないかい?」
率直なツッコミに吉影は自分の迂闊さも含めて苛立った。そんな吉影を見てマヒルは笑いながら脚を叩いた。
「あ〜怒らないでくれよ。悪い悪い。骨が脆くなってた時に無理して走り込んだら壊れちゃったんだよ」
「そんな体で杜王町のどこをほっつき歩いていたんだ?」
「学校と病院と親戚と…いろんなところをね」
境内に入り参道を抜けるとマヒルはお参りもせずに奥へ進んだ。神や仏を信じてるわけではなく安心する。マヒルの行き先は墓地だった。
マヒルは周囲を少し見回してからある区画の方へ向かっていった。吉影もそれを追いかけた。
マヒルは立ち止まり、立ったままだがその墓に手を合わせていた。
その墓には他の墓と比べてもたくさんの花が備えられており、まだ線香の香りが残っていた。
「…お前の家の墓か?」
「ちがうよ。杉本さん家のだ」
吉影の背筋に冷たいものが走った。間淵マヒルの横顔はいつも通り、涼しい顔。墓をじっと見つめて何か考え事をしているようだった。吉影は動揺を悟られないように言う。
「…杉本さん?」
「あれ?知らないかな。3年前の一家殺人事件の被害者だよ」
「ああ、その杉本か。…でなんでお前が?」
「そりゃ、ボクの町が危険に晒されてたんだぜ。犯人も捕まってないしさ」
「だからって…」
「それに杉本鈴美ちゃんは、ボクの部活の後輩だったから」
そうだ。彼女の部室のロッカーに間淵の借りた本が入っていたのだった。
しかしそれだけでわざわざ墓参りをするだろうか。それも、吉影を伴って。
「…吉良吉影くん。君がボクの代わりにしっかりこの町の治安を守ってくれないと困るよ」
「誰がそんなことするか」
間淵マヒルは笑った。吉影に馴染まない、少し寂しそうな顔で。
その笑みはかつての薄ら笑いから程遠い、思慮深げな優しさをもったものだった。
マヒはよく人を試すような目をしていた。人を煽って、その反応を見て駆け引きをしていた。リスクは度外視、ただ突っ込んで立ちはだかるものを全て破壊する。それは吉影に対しても同じだった。
しかし今のマヒルは違う。じっと吉影を観察している。
マヒルは変わった。だが、それはもしかしたら成長なんじゃないか。
嫌な感じだ。とてつもなく嫌な感じがする。
間淵マヒルの用事は墓参りだけで、もうホテルに帰って荷物をまとめなくてはならないらしい。マヒルはタクシーで吉影の家まで送ると提案したが、吉影は断った。マヒルは「ばいびー」と言い残し去っていった。
吉影はマヒルを見送った後、家とは反対の方向へ向かった。盆休み、町は明かりが少なく、店の多い駅前は殊更静かだった。そんな繁華街の片隅のアパートへ。
今なお、いなくなったことに気づかれないまま放置された桔梗シンジの家。溝呂木みぞれが過ごした家へ。
玄関扉の前に立つ。何もおかしなことはないように思えた。みぞれの力で消されたものは、みぞれが死んでからもずっと『いないのにいる』ものとして、日常の中へ埋もれ、次第に人々の記憶の記憶から消えて行った。不在は認識されないまま、かれらの存在はゆっくり、書類上のミスや見間違いでなかったことにされていく。
だから何故かいまだに桔梗シンジを覚えている自分以外にこの家を訪れる人間なんていないはずだ。
ノブを、握った。
鍵は壊されていた。
吉影はひりついた気持ちのまま夕暮れの町を歩いた。あの家に侵入したのは間淵マヒルに違いないという確信があった。
もちろん誰かがあの家へ侵入ったからと言って、直ちに吉影がみぞれを殺したことに結びつくはずがない。あそこにあるのは1人の医者のカルテと、1人の少女の生活のあとだけ。
だが間淵マヒルなら、違った結論に辿り着くかもしれない。
吉影は必死に自転車を漕いで『ききょう病院』へ。
扉は、開け放たれていた。
吉影は足元が崩れ去るような気分なった。
ゆっくりと病院の中へ入り、懐のナイフを抜いて握りしめる。
普段この場所で感じるのは興奮と、情欲と、安堵。しかし今は暗くて冷たい殺意とひりついた警戒。
間淵マヒルを殺す。
それだけが頭に浮かんだ。
以前の間淵マヒルならばもしかしたら取っ組み合いで負けるかもしれなかった。お得意のバットもない間淵マヒルならば絶対に勝てる。
一階から、三階へ。病院をくまなく探しても間淵マヒルはいなかった。
そして、3階の閉鎖病棟で吉影は見てしまう。これまで遺棄した死体が病室から引き摺り出され、廊下に並べられている光景を。
死体はどれも腐敗が進み、奥に行くにつれ白骨化していた。まるで九相図だ。
一番奥にある白骨はぶどうヶ丘高校の夏服を着ていた。
ああ、久しぶりだな溝呂木みぞれ…。君が桔梗シンジと自分を『いないのに気づかなく』してくれたおかげでこの病院は吉影にとって最適な狩場となっていた。
だがもう、ダメだ。
間淵マヒルが来る。
とにかく、あいつは警察を呼んでいない。元から間淵マヒルは正義のために異常者を探して回っているのではない。ぶちのめすために探しているのだ。
ならば吉影にできることは武装か。
とにかく、先に間淵マヒルを見つけて殺す。先手必勝しかない。
ようやく形になりつつある平穏な生活を奪われてなるものか。
吉影はとりあえず家へ帰った。玄関扉を開けると、そこには見慣れない靴があった。
間淵マヒルの履いていた靴だった。