【完結】吉良吉影は静かに暮らせない   作:ようぐそうとほうとふ

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青葉の陰
約束は守らない


 4月が終わり、ゴールデンウィークがやってくる。

 高校三年生、吉良吉影の予定はこれといってなかった。

 

 すぐそこの別荘地帯が賑わう中、吉影の住んでいる近所にはその喧騒は全く届かず、穏やかな時間が流れていた。

 癌の治療から帰ってきた父がいて、母はそちらにかかりきり。受験生ということもあり特段干渉もなく静かに過ごしている。

 そう、これこそが自分の望む静かな暮らしだ。

 

 父の容態は詳しくは知らない。

 多分、あまり良くないのだろう。しかし本人はその事を口にしないし、吉影もわざわざ聞いたりしない。

 仲が悪いわけではない。

 むしろ父は吉影には甘いところがあった。母の見ていないところでこっそり漫画本を買ってくれたり、母の嫌厭する脂っこい料理屋に連れて行ってくれたり、お小遣いを多めにくれたり。いわゆる父親っぽい甘やかしはたくさん受けたことがある。

 しかし、その優しさは吉影にとってそんなにありがたいものではなかった。

 

 父の優しさは、母の過干渉を見て見ぬふりをしていることへの贖罪だ。

 

 父はそれを感じ取らせないよう振る舞っているが、吉影にはお見通しだった。

 というか、母の虐待めいたしつけに父が気が付かないわけがない。いくら仕事で遅くても、休日ゴルフに駆り出されていても、だ。

 夜遅くまで玄関先に締め出され、父に家に入れてもらうこともあった。激しく頬を叩かれ、腫れが引くまで幼稚園を休まされた。友達から借りた漫画本を破かれ、その子の家に押し掛けてこんなものを見せるなと怒りに行った。

 そんなことを何十回何百回とされているのを気付かないはずがないのだ。

 

 母親はそれを愛だと思っていることも、きっと知っている。

 

 しかし、だからと言って吉影は2人を恨んでいるわけではない。むしろ何不自由なく育ててくれて感謝しているくらいだ。周りを見渡すと特にそう思う。

 母と父の教育は、結果として思春期特有のバカ丸出しの性衝動や、ちゃらちゃらしたアイドルへの憧れといった平凡だがものすごく陳腐なものから吉影を遠ざけてくれた。同級生たちのような自意識丸出しのバカにならずに済んだだけで僥倖だ。吉影は静かにそして平穏に暮らしたいと心から願ってはいたが、ありふれた凡人になりたいわけではなかった。

 

 そんなことを頭の片隅で思いながら、休憩がてら本を開いたその時。

 

 ぴーん…ぽーん…

 

 チャイムがなった。

 来客なんて滅多にないから珍しい。配達かと思ったが、今日はゴールデンウィーク最終日、祝日だ。玄関の方で母が応対する気配があった。そしてちょっとしてから、母の足跡が自分の部屋の前まで来た。

「吉影、お友達が来ているわよ」

「本当?すぐいく」

 友達?そんなものはいないはずだが。溝呂木みぞれか?たしか年賀状を出しているから住所は知っているはずだが。

 などと考えながら玄関へまっすぐ伸びる廊下に出て、その訪問者が誰か分かった瞬間に吉影は呆れて、思わず何も言わずにまじまじとそいつを見てしまった。

 

 

「吉良吉影くーん。君はどうせ暇だと思ったよ」

 

 

 間淵マヒル。もう関わらないと誓ったはずのイカれバット女だった。

 

 間淵マヒルはいつもの制服に運動靴といういかにも部活少女という出立ちではなく、私服だった。しかも普段のイメージと真逆のフェミニンなフレアワンピースに濃い紫のカーディガンで、しかもバットを持っていなかった。

 

「間淵マヒル…なぜ…」

「うん?」

「約束は…」

「それは道中説明するよ。さあ、出かけようっ」

「断る」

 

 何が、君とボクの関係はおしまい。だ!張り倒してやりたいのをグッと堪えて、間淵マヒルを玄関から立ち退かせようと手を伸ばした。しかしその時、背後から父親が声をかけてきた。

 

「吉影、友達かい?」

「あ、ああ…父さん」

 

 今日は顔色がいいみたいだ。来客なんて珍しいからか、それとも女子が訪ねてきたから何事かと思ったのだろうか。どちらにせよ吉影にとっては邪魔だった。

 

「こんにちは、吉良吉影くんの友達の間淵マヒルです。今日は吉影くんと約束をしてて」

「わざわざ家まですまないねぇ。遠かっただろう」

「いいえー、お散歩には気持ちのいい日ですし。ね?吉影くん」

「………」

 吉影は無言だった。口を開いたらありとあらゆる罵詈雑言が出てきてしまいそうだったからだ。そんな吉影を知ってか知らずか、父はマヒルにニコニコと応対している。

 間淵マヒルは普段の傲慢で人を舐めたような態度はどこへやら。愛想よく父にお世辞なんか言っている。

 

「吉影、これ」

 

 父は吉影に一万円札をそっと握らせた。

「間淵さんと美味しいご飯でも食べてきなさい」

「いや、父さん…こいつは…」

「わかった、わかった」

 何をわかってるんだ?

 しかし父は突っ込む余地を与えずそのまま家の奥へ引っ込んでしまった。

 

「ほら。お父さんもそう言っているわけだしさ」

「……間淵マヒル。お前…本気でぼくを敵に回したいのか?」

「ちがうちがう。とりあえず、ほら。行こう?」

 

 マヒルは微笑んだ。吉影は大きなため息をついてから、上着をとって外へ出た。

 5月にしては少し暑いいい天気だ。歩いてるうちに上着がいらなくなるかもしれない。間淵マヒルは目的地がはっきりあるかのようにどんどん進んでいく。

 どうして自分は素直にこの女の言うことを聞いてしまうのか。悔しいが、逆らえない本能のようなものが今自分を動かしてくる。

 ムラムラと自分の中で何かが湧き出してくる。その何かが絶対に良くないものだと吉影はなんとなく気付いている。

 ああ、一昨日母親に深く切られた爪が疼く。

 

 

「さて。吉良吉影くん、君は今めちゃくちゃ内心ブチギレてるけどまだ真昼間でどこに人の目があるかわからないからボクに手は出せないって感じだよね」

「…お前にはぼくがサイコキラーにでも見えているのか?今お前を殺したらぼくが第一容疑者になるだろう。そんな事するはずがない」

「ほら。やるかやらないかじゃなくて()()()()()()()()()で考えてる。…ま、いいけどね」

 

 本当に、今すぐどうにかしてやろうかと思った。しかし深呼吸して怒りをなんとかコントロールする。

 

「で、約束を破ってぼくにまた近づいてきた理由はなんだ」

「うん。ほら、君と初めて会ったあのバスと、畑のおじさんの件でね」

「…もうぼくには関係ない事だろう」

「いやいや、関係なくないでしょ。この町で起きてる事なんだぜ」

 だから、関係ないだろう。そう言いたかったがどうせマヒルは自分の意見なんて一切聞かない。反論するだけ無駄話が長引く。

 

「はあ。で?」

「いいかい、去年の年末からボクはだいたい15人ほどぶちのめしてる。…堀辺豊くんはまあ、ノーカウントだけどね。君がやったんだし」

「で?」

「ぶちのめした15人はみんな杜王町に住んでいる。だから共通点は結構いっぱいあった。この人とこの人は同じ泌尿器科に通ってるんだァとか、やっぱ買い物はカメユーだよねェとか、ね。ただし全員同じ共通点ってのはなかなか見つからなかった…」

「で?」

「君、相槌のレパートリーそれしかないのか?もう、話す気失せるんだけど」

「お前の話はくどくどと長いんだ」

「だって一から十まで説明しないとわからないんでしょ?まったく…」

 ムカつく物言いをしやがる。しかし自分が前言った事を覚えているのだけは少し感心した。

 

「結論から言うと、15人は全員ある病院に入院していた過去があった」

 

 

 マヒルはドヤ顔だった。しかし吉影からすれば本当にどうでもいいことなので、リアクションの取りようもない。

「…で?」

 吉影の相変わらずの反応にもめげずにマヒルは再度ドヤ顔をする。

「ボクたちは今、その病院に向かっている」

「はあ…」

 

 しばらく歩くと目的地に着いた。

 吉影の家から北西。杜王町と隣町の狭間にある森の中に村くらいの規模の住宅地がある。商店とバス停、そして浄水場なんかのある田舎だ。しかし大きな家屋敷が多く、古くからここに住んでいる人と喧騒を離れて過ごしたい金持ちが住んでいる場所、と言う印象だ。

 

「あの森から少しはみ出て見える建物。あそこが目的地の『ききょう病院』だよ」

「…丘の上じゃあないか」

「そうだよ」

 1時間近く歩いて少し疲れていた。そんな吉影を見てマヒルは呆れた顔をした。運動部エースは疲れなんてものを感じないらしい。そして自分以下の体力の人間に気を使うつもりもないらしく、無視してどんどん歩いていった。畜生。

 丘の方へ伸びる道の途中で喫茶店を見つけた。吉影はもうマヒルを無視して入ることにした。マヒルはため息をついて引き返し、吉影に続いて喫茶店に入る。

 

 喫茶店はなかなか雰囲気がよかった。東京銀座にありそうな高級感のある内装と家具。ほどよく暗くて店内には控えめに洋楽が流れている。他に客は二組ほどいた。

 店主は早期退職っぽい若さの男性で、見慣れぬ客に少し驚いてからお冷とメニューをテーブルまで持ってきた。

 

「Queenだね。ボク結構好きなんだ」

「ふうん…」

「吉良吉影くんはあんまり音楽聞かない?」

「ああ。あまり…」

「じゃあ今度カセット貸してあげるよ。音楽に興味ないならCDプレイヤーは流石に持ってないよね?」

「…なんでお前はぼくの友達みたいな感じで約束を取り付けようとしているんだ」

「溝呂木みぞれちゃんとは本を貸し借りしてるだろう?」

「お前みたいに目立つやつとは関わりたくないと何度も何度も言っているだろう」

「たしかにボクってちょっと成績優秀スポーツ万能美少女すぎるよね⭐︎…すみませーん。注文いいですか?」

 

 店主が注文をとりにきた。マヒルはアイスティー。吉影はアイスコーヒーとたまごサンドを頼んだ。それを聞いたマヒルはナポリタンを追加で頼む。

 

「で、目的地なんだけど、ききょう病院はもう10年くらい前に閉鎖しているみたいなんだ」

「よく調べたな」

「まあね。ボクこういう調査とか好きだから。ただ通っていたことしかわからなかったから、実際に行って診察記録か何か残ってないか探すって感じ」

「…間淵マヒル。廃墟探索なら初めからそう言ってくれ。君もそうだが、こんな軽装で大丈夫なのか?ライトとか要るんじゃあないか?」

「え?……ああ。確かにそうだね」

 なんと、なにも考えていなかったようだ。たしかにこれまでの間淵マヒルの行動に計画性なんてものが少しでも垣間見えた瞬間があっただろうか。

「ちょっと待ってて」

 マヒルは席を立った。トイレにでもいくのかと放っておいたらマヒルは店主に話しかけていた。

 

「すみません。ききょう病院にいくにはこの道であっていますか?」

「え?ききょう病院に行くのかい?あそこはもうやってないよ」

「ああ、そうなんですね。実は私たち部活で、このあたりの最近の郷土史を作ってるんです。写真を撮りに行きたいんですが、危ないですかね」

「いやーどうだろうね。それなりに荒れているとは思うけど変な奴がいたりとかそう言うのは聞かないし、外から見る分には問題がないと思うけど…」

「そうなんですね。ありがとうございます〜」

 

 間淵マヒルは朗らかに笑い戻ってきた。ついでに店主が作った出来立てのサンドイッチとナポリタンも自分で運んできた。

 

「だってさ。まあ、大丈夫だよ」

 

 マヒルの外面の良さには感服する。吉影にはあまりない才能だったからだ。しかし結局は目立つからこそ必要な処世術。そもそも人と必要最低限の関わりしか持つつもりのない吉影には必要がない。

 

 吉影はコーヒーを飲み、サンドイッチを口にした。なかなか美味い。マヒルもアイスティーを手に取りごくごくと飲んだ。ナポリタンもがつがつと食べる。アスリートらしく大食いだ。

 そんなふうに黙々と食べていると、もう一組の客が声をかけてきた。

 

「あなたたち、郷土史研究会かなにか?」

 

 いかにも暇そうなおばちゃん、という風体の女だった。ぶくぶくと太って萎れた醜い手だ。向かいに座っている女性は大人しく上品だったが、あいにく手は見えなかった。

 

「そうです。ぶどうヶ丘高校の」

「へぇーそうなの。ききょう病院はね、私昔勤めてたのよ〜」

「そうなんですか。どんな病院だったんですか?」

「普通の病院よぉ!まあ精神科があったから、ちょっと周りからは煙たがられていたけどね。でも精神科っていったって患者さんはみんなおとなしかったし、先生方の腕は良かったみたい。まあ私は小児科だったけどね」

 

 精神科と聞くとおどろおどろしい想像をしてしまう。しかしその女とマヒルの会話を聞いていると、どうやらききょう病院は小児科と内科があり市民も多く利用していたらしい。精神科は閉鎖病棟で、患者は外に出てくることはなかったそうだ。

 しかし杜王駅周辺の開発が進み人口がそちらに集中し始め、あっさり閉鎖。医者はほとんど杜王町のぶどうヶ丘病院に移ったらしい。患者は散り散りになってしまったそうだ。

 

 マヒルはしばらくその女と喋ってから礼を言ってアイスティーを飲み干した。

 

「情報収集もできたし、行こうか」

 

 ちなみに会計は別だった。奢らされるかと思ったが、その辺はしっかりと線引きがあるらしい。

 

 

 

 喫茶店から出て坂を上ると、道はどんどん荒れていった。この先にあるのは病院だけだから使う人がおらず荒れていくのだろう。

 十分歩かないうちに、ききょう病院が見えてきた。

 

「思ったより綺麗だね」

「廃墟にしては、な」

 

 3階建ての病院。

 その3階の窓には鉄格子がはまっており、そこが閉鎖病棟なのだとすぐにわかった。入り口はさすがに荒れており、枯れ葉や枝、ゴミが散らばっていた。壁には古ぼけた落書きもたくさん残されており、ちょっと前は不良の溜まり場だったのだろうと思われる。

 マヒルはズンズン進み、封鎖されている扉を揺らした。内側から鎖か何かで封じられているようだ。

 裏口を探せば入れるかもしれない。しかしがちゃん、と音がして急に扉が開いた。

 

「何をした?」

「ふふ…サイキックパワ〜」

 

 マヒルはテレビ番組の司会者のようにふざけて言うと、扉を開けて吉影を招いた。

 中は暗い。しかし埃は積もっていたが外と違って誰かが入ってた形跡はなく比較的綺麗だった。マヒルはまず受付を飛び越え、早速その奥にある控室を荒らし始めた。

 可憐な服装をしていても行動は強盗や空き巣そのものだ。

 

 吉影はマヒルを差し置き、当たりをぐるっと回った。

 待合室にある観葉植物は枯れ果て朽ちている。そばにある本棚の中にはいくつも絵本が入っていた。小児科にくる子供たちのためか、マットが敷かれて遊べるスペースがあった。そこにはついさっきまで誰かが遊んでいたかのように積み木とボールが転がっていた。

 天井には空調と、少しモダンなデザインの照明があった。どうやら内装には少し凝っていたようで、壁紙もそのライトに合わせた幾何学的な模様がそれとなくあしらわれている。

 

 どこか既視感がある。

 

 そう思った。自分はかつて、ここに来たことがあるのか?確かにぶどうヶ丘病院よりも近いし、小児科があるのならここに罹っていたこともあるかもしれない。

 

 吉影は裏口がありそうな方へ回った。救急受け入れはしてなさそうだから、きっとあまり目立たないところだろう。案の定リネン室や休憩室などの並ぶ廊下の奥に裏口があった。

 しかし裏口も正面口と同じように内側から鎖でぐるぐる巻きにされて施錠されていた。

 

 妙だ。内側から施錠されていたら誰も外から開けられない。というか、誰かが中に残っていないとおかしいじゃないか。それとも他に出口があるのだろうか。

 

 

 待合室を抜けて「診察室」と書かれた廊下へ。そこには車椅子と診察さんへの扉が5つ。1番と書かれたところを開けるとそこには看板通りに診察室があった。

 扉を開けた風をうけてざわ、と音がする。

 中には机と書類のキャビネット。医者用と患者用の椅子、合計三脚があった。壁には剥がれかけたたくさんの健康ポスターが貼られていた。それが風でたなびいたらしい。

 

 なんてことない、普通の診察室だった。

 正面にあるカーテンの向こうから紙の目張り越しに日が差し込んでいるため、廊下よりも明るい。埃が光を反射している。

 机の上には子どもを安心させるための犬のパペット人形があった。横には聴診器が置かれたまま。まるでちょっと席を外しただけのようだ。

 そう。まるでこの病院全体から、たった今急に人が消えてしまったようだ。そんな時の止まった部屋全体に埃がうっすら積もっている。

 

 これならカルテなんかもあるかもしれない。

 マヒルに手を貸すのは癪だが、彼女を手助けすると言うことすなわち、早めに彼女から解放されると言うことを意味する。

 

 キャビネットに手を伸ばすと、「ちゃっ」という音がした。

 聞き慣れない音だった。

 まるでタイルの床になにか硬いものが当たるようなそんな音だ。

 

 手を引っ込めて音の方を向く。そちらには診察室とバックヤードを仕切るカーテンがかかっていた。多分診察室の全てがこのカーテンの裏で繋がっているのだろう。

 

 近づき、手を伸ばす。

 

 廃墟の病院というシチュエーションというのもあり、ほんのちょっぴり怖いとも思った。

 しかしそんな小さな恐怖をかき消すようにそこを開ける。

 

 しゃっ

 

 その先には、何もいなかった。薬棚と新聞紙で目張りされた窓があるだけだ。

 気のせいか。

 そう思い再びキャビネットに手を伸ばそうとして、気付く。

 

 

 埃の積もった廊下にびっしりと、獣の足跡がついていることに。

 

 

「……………」

 

 息を呑み、耳をすませた。

 

 獣の足跡、そうか。先ほどの硬い音は獣の爪が床につく音だ。

 

 

「……………」

 

 

 聞こえるのは自分の息遣いと、遠くでマヒルが家探しをする音だけだ。獣の息や気配は感じない。

 

 だが、いる。足跡から推察するに大型の犬か、それよりでかい。野犬だと厄介だ。狂犬病は1960年にはもう根絶されてるはずだが、何か別の病気を持ってるかもしれない。いや、そもそも人間が獣に素手で勝てるわけがないのだ。

 

 吉影はゆっくりと後退り、診察室を出た。扉を閉め、足早にマヒルの元へ向かう。マヒルは汚れないようにかどこからか引っ張り出した白衣を着て椅子に座っていた。さらに見つけてきたらしい懐中電灯を使って受付にあったリストをめくっている。物あさりがうまいやつめ。

 

「間淵マヒル。ここを出るぞ」

「ん?お化けでも出た?」

「バカなのか?野犬か何か、大きな獣がいる」

「えー?全然そんな痕跡ないよ」

「診察室の方に足跡があった。危険だ。今日お前はバットを持っていないだろう」

「まさか…心配してくれてるの…?!」

「チッ…」

「いよいよ突っ込んでもくれないってわけ。…ふむ。でも妙だね。野生生物が入り込んでるにしてはこの廃墟はあまりにも綺麗すぎる」

「…確かに、そうだ」

 吉影はここでようやく違和感の正体がわかった。仮にどこかの入り口があいていたり窓が割れていたりして何かが入り込んでいたとしても、あの足跡はやはり異常なのだ。

 あの診察室はまるで突然人が消えたみたいだった。つまり何もかもが手付かず。野生動物がカーテンの向こうまで入ってこれる状況ならもっと荒れていてもおかしくない。

 ならば、あれは。

 

「この町を襲う脅威の正体に近づいてきてる気が、するね」

「…ぼくには」

「関係ないことだ、なんて言わないでくれよ。だってもう、ここまできたんだからさ」

 

 間淵マヒルは書類をバンっと机に叩きつけてから立ち上がる。

 

 

「さあ、吉良吉影くん。狩りの時間だね」

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