【完結】吉良吉影は静かに暮らせない 作:ようぐそうとほうとふ
今、この場で間淵マヒルが獣に食い殺されたりしたら、やっぱり捕まるのは自分だろうか。
間淵マヒルの細い頸。運動部のエースといっても所詮は女だ。獣のひと噛みで簡単に折れて、裂けて、死ぬ。あの歪で不気味な雰囲気を漂わせるバットのないマヒルはより一層か弱く見える。
マヒルのライトが1番診察室の扉を照らした。
ライトを持つ手首だってこんなに細い。花の茎みたいに細い手首でバットを振り回して、いけない子だ。痛めてしまったらどうするつもりだ?せっかく付け根から拳までのラインが綺麗なのに崩れてしまうじゃあないか。
なんでだろう、そんな風に考えがどんどんエスカレートしていく。ダメだとわかっているのに。疼く。爪が?それとも。
「開けるよ」
マヒルの声にハッと我に帰る。
診察室のドアが、マヒルの手によって開けられた。
ざわ、と先ほどと同じように風でポスターがなびく。
埃が積もった部屋。さっきまで人がいたような机と椅子。そして開け放されたカーテンの向こうには獣の足跡。
「ふぅん。ほんと、廃墟なのに綺麗だね」
マヒルはずけずけと診察室の中に入り辺りをざっと見回した。獣の足跡をまたぎ、別の診察室を仕切るカーテンをどんどん開けて行った。別の診察室に獣が潜んでいるかもしれないのに。マヒルには恐怖心や躊躇いが一切ないのだろうか。
吉影は再度足跡をじっくり観察した。
長さはおよそ8センチ。幅は6センチ。やはり大型犬くらいの大きさだ。足跡があるのはこの診察室のすぐ前。そして、足跡の上から埃が積もった後はない。やはりついさっきつけられたものなのだ。
「何もいない。そして…うん。やはりここへ続く獣の足跡はない。獣は、そこだけにいたんだ」
マヒルは戻ってきてそう言った。沈黙。やはりこうなるか。
「お前がこれまでぶちのめしてきたものと同じか」
「そうだね。それにしては『人』の気配がなさすぎるけど」
怪異、とあえて呼ぼう。それらの背後には必ず人がいる。だがこの病院内には人の気配は一切なかった。少なくとも一階には吉影とマヒルしかいない。
「…上の階か?」
「かもね」
マヒルはふうっとため息をついて机の上にある犬のパペット人形をとった。吉影はそれをみながらマヒルに問う。
「でもどうして一瞬だけ現れたんだ?」
「…確かに。
「何と言われてもな。扉を開けて…辺りを見回して」
吉影は先ほどの自分を振り返る。そして、書類の詰まった卓上のファイルキャビネットを指差す。
「その中を見ようと…」
ちゃっ
あの音がした。
吉影は手を止める。
そして耳を澄ます。
マヒルは足跡のあったところを凝視していた。
そこにはこちらへ背を向けた犬がいた。
毛足の短い茶色の犬。背丈はおよそ65センチ。
犬だと確信したのはその背中がよく町で見かけるありふれた雑種犬のそれだったからだ。
ふーっ…ふーっ……
頭の方は、真っ黒。影になっているのか毛の色が違うのかわからないがよく見えない。
その犬から聞こえるのは、まるで人の鼻息だった。
犬は背中を向けているが、その注意は確実に吉影に注がれているとわかる。張り詰めた緊張感が満ちた。
少しでも動けばこの突如出現した獣は襲い掛かってくるだろうとわかる。直感する。マヒルも同様に。
吉影はファイルキャビネットに手を伸ばしたまま固まっていた。マヒルは吉影の方へ手を伸ばし、ゆっくり下げるようにジェスチャーをする。
吉影は従い、腕を下ろす。指のさす方がファイルキャビネットを完全に外れると、その犬は不意に消えた。
「…このキャビネットに見られたくないものがあるようだな」
「みたいだね。ただ、あの犬は少し厄介そうだ」
「日を改めるか?」
「うーん。そうだね。とりあえずここ以外のところを見てから後日出直すよ」
「ついては行かないからな」
「えぇ?…まあでも、吉良吉影くんが死んだらご両親が可哀想か…いいよ、別に。重要そうなもの見つけてくれたしさ」
マヒルは思ったよりもあっさり引いた。血気盛んなやつと思っていたが、やはり今日はバットを持ってないからか。
しかしこの口ぶりだと後日あの不気味な犬と戦うつもりらしい。よくそんな気になれる。何かを明らかにしたいだとか暴きたいだとか、そう言った欲望は身を破滅させるのだとこいつの
マヒルと吉影は二階へ上がった。案内板を見るとレクリエーションルーム、面会室、診察室。そして調理室などかあるようだった。入院用の設備のようだ。3階に閉鎖病棟があると思っていたが、全部が全部3階に詰め込まれているわけではないらしい。
また精神科の札がかけられているところから、1階は内科や小児科、2階は精神科と分けられているようだ。
マヒルはナースステーションの方へ。少し迷ってから吉影はマヒルについていくことにした。
ナースステーションにはブラウン管の小型モニターがずらっと並んでいた。また何らかの操作盤がそのモニターの下についていた。
「なんだろう、これ」
マヒルはよくわかってないようだった。吉影はなんとなく、このモニターは上にある病棟用だと思った。
ナースステーションには他に3階に入院してる人のリストと伝達事項のメモ、勤怠管理表や代理業者のチェックリスト、献立の案など雑多な情報があった。
「うん…ボクがぶちのめしたやつの名前がちらほらあるね」
マヒルは満足げに頷いた。自分の調査が間違っていなかったので嬉しいのだろう。吉影はロッカーを漁り、もう一つの懐中電灯を見つけ出した。
2人は診察室に行く。先ほどの犬の件があったので2人とも慎重になった。
2階の「診察室」は一階のものと全然違っていた。一つ一つが6畳ほどの大きさの個室になっており、本棚が運び込まれ、空いたスペースに机と椅子、荷物置きが詰め込まれている。
研究室兼診察室という感じだ。
「何だか妙に迫力があるな…」
「うん、そうだね…」
机の前には革張りの椅子があり、そこに白衣がたたまれてかけられていた。桔梗シンジという名札がつけられている。つまりここはききょう病院院長の診察室らしい。
「精神病に関する本ばかりだね。専門は精神科だったのか」
「そのようだな」
英語やドイツ語の本も多く詳しくはわからないが殆どが専門書、それも心の病に関することばかりだ。しかしカルテなどの書類は見当たらない。
犬の気配はなかった。
本以外に目立つのは、額縁に入れられてデスクの上に飾られた子供の描いたらしい絵ぐらいだ。
白衣を着た髭面の男がクレヨンで描かれている。いかにも幼児が描いたらしい平面的な絵だ。男の後ろにはこの病院と町らしき四角い建物群があり、子供ながらに頑張って描いたのだと伝わる。
これが桔梗シンジなのだろうか。吉影はやはり、強烈な既視感に襲われる。この壁を覆い尽くす本棚。少し高級感のある机、椅子。そして額縁で飾られた子供の絵。
先ほどの待合室よりも
しかしここは精神科のはず。自分がかかったとは思いたくないが、ではこの既視感は一体何なのだろう。
「静かにしてて」
マヒルが言った。マヒルはそっと引き出しを開ける。
獣の息遣いも爪の音も聞こえなかった。
引き出しの中は、空っぽだった。
「…一番何かありそうなところに何もないっていうのもそれはそれで…だね」
「まだ3階がある」
「そうだね。じゃん」
マヒルは白衣のポケットから鍵束を取り出した。
「ナースステーションで見つけた。上の病棟の鍵だ」
「…そういう重要そうなものに触れる時は、一言言ってからにしてほしいものだね」
「おっと失礼。吉良吉影くんは犬が嫌いなんだね。猫派なの?」
「動物なんて好きじゃあないね。まあ、猫か犬かなら猫だな。静かだし」
「猫も話しかけてると鳴くようになるよ。犬も猫と育てば猫っぽくなるし。育つ環境の違いさ。犬は社会性の生き物だしね」
「そうは思えない。犬は、犬だ」
「まあ確かに、抗えない本能ってやつはあるかもしれないけど。それを乗り越えるために知性や思いやりってやつがあるんじゃあないかな」
犬に知性なんて大してないだろう。人にだって。
マヒルと吉影は診察室から出て、隣にあるもう一つの診察室へ向かった。マヒルがノブを握ると
「おーい」
と。
先ほどと違い、警告じみた足音は全くしなかった。
吉影は、背後を見るようなことはしなかった。なぜなら声がしたのはこの扉の向こうからだった。
「おーい」
道で声をかけるような、ごくごく平坦な抑揚の男の声だった。
犬と別の、何か?それともあの犬を使役している何かだろうか?
マヒルは、ノブを回す。
吉影は思わずその腕を掴んだ。
やめろ。
と声を出さずに言う。しかしマヒルは例の薄ら笑いを浮かべたまま、恐怖の片鱗も見せずに吉影を見た。ああそうか、ぼくはビビってるのか。吉影は悔しいが、自覚する。
そして間淵マヒルはビビってない。
マヒルが扉を開ける。
中にいたのは犬だった。そう、確かに犬だ。
体高はおよそ80センチ。茶色の毛だ。やはり大型犬。しかしその犬の胴体からは肌色の、脂っこくて張りのない皮膚が露出していた。そしてそんな頸から続く頭部はもう
「おぉーーいぃ」
と言った。
中年の男の顔。目は半月型に歪んでとろんとしている。唇は薄く、無精髭が口の周りを囲んでいる。やや太り気味の輪郭は犬の胴体にはやや大きくアンバランスだ。当然耳も人間のものだ。犬耳でもついていればまだ可愛げがあったかもしれないのに。
「マヒルちゃあーーん」
それは…名をつけるなら、人面犬は。そう言うとちゃっと爪の音をたてて間淵マヒルめがけて走りだした。
マヒルは扉を一度閉める。どん!と激しい音と衝撃で扉にヒビが入る。
「吉良吉影くん。これ」
マヒルは扉を押さえながら吉影に先ほどの鍵束を投げ渡した。
「ボクがこいつの注意を引きつけているうちに、君は3階で何かないか探してくれ」
「なんでぼくが」
「何人もぶちのめしてきたボクにはわかる。こいつは罠を張り、かかった獲物を執拗に追いかけるタイプのやつだ。ほら、堀辺豊くんのお人形さんみたいなやつと同じだよ。今回罠にかかったのはボクだけどね」
「…なんでぼくがお前に協力すること前提なんだって意味だよ」
「そりゃ君、ボクらがこの病院へ行ってることはさっきの喫茶店のマスターが知ってる。ボクが死んで君だけ帰ったら警察がなんて言うかな」
「……このッ…」
「なんて嘘だよ。ボクは吉良吉影くんを信じているよ」
そう爽やかに言うとマヒルは「行って」と言った。ドアのヒビからはぢゃりぢゃりという音が聞こえ、バキッと音を立てて犬の前脚が飛び出てきた。その脚はさっき見た時よりも大きく、爪も伸び筋肉がついているように見える。
「おぉぉおおおおおおーーーーいぃぃいいいいい」
だんだん扉を破壊しようとする力が強くなっている。このままではすぐに扉はぶっ壊れる。
吉影は背を向け、上へ走った。
階段の一段目を踏み締めた時、大きな破壊音が聞こえた。
間淵マヒルは吉良吉影が階段の上に消えていくのを見届けてから、扉を抑える力を弱めた。犬は明らかにこれまでマヒルが対峙してきたものと同じだ。自分の読みが当たって嬉しい。それも真相にうんと近い位置に来たって感じがする。
1階の診察室のキャビネット、そして2階の診察室の中。ここに必ず手がかりがある。
扉が壊れた。扉の破片が着ていたワンピースを台無しにするのがわかった。せっかくおろしたてなのに勿体無い…。そう思いながら、マヒルはすう、と前へ手を伸ばす。いつも持っているバットをイメージして。
犬が暗がりから飛びかかってきた。マヒルには中年男性の頭が見えていたわけで、その人間離れした動きと反して、どこにでもいそうな男の顔という組み合わせは普通ならゾッとするはずだ。
マヒルはそんな光景を見て、笑う。
犬がちょうどバットがあったらぶつかるくらいの位置で飛び上がると
「ぎゃん」
悲鳴をあげて吹っ飛んだ。顔は人間でも悲鳴は犬のそれだった。
そしてじわり、と空気から滲み出すようにマヒルの腕の先から機械のようなものでできた異形の腕が浮き上がる。そしてその異形の手にはマヒルがいつも持ち歩いているバットによく似たものが握られていた。
「頭が人間でよかった。さすがのボクも犬を殴り殺すのはためらうからさ」
間淵マヒルはこのそばに佇むビジョンをAtom Bomb Babyと心の中で呼んでいた。
父がよく聞いていた曲の名前で少し不謹慎な歌詞だが、軽快なメロディは聴いてると楽しい気分になる。マヒルにとって悪い奴をぶちのめすことは、少し不謹慎で楽しいことだからだ。
幼い頃よりなんとなく、自分を守るような存在がそばにいると感じていた。しかしこの《能力》に目覚めたのは中学三年生になってからだった。
そしてその姿を見た時理解したのだ。これは自分の魂の形であり、理想の姿なのだと。
「マヒルちゃんは自慢の娘だねぇー」
ぶっ飛ばして地面で痙攣していた犬の口から若い男の声がした。
マヒルにとっては忌まわしい、
「そうでしょッ!」
マヒルは本当なら目に見えず、存在しないバットを振る。犬は避けるのに間に合わず、そのバットがめり込んだ。なんて醜い顔。マヒルは笑う。
この犬に張り付いた男の顔はマヒルにとって初めて相対した
マヒルは左手を握りしめる。左手のケロイド状の傷跡はまさにこの男につけられた傷だった。
間淵マヒルはキャビンアテンダントの母親と飛行機整備士の父親の間に生まれた一人娘だった。父親はマヒルが小学校へ上がる頃に車の事故で亡くなり、マヒルは小さい頃から鍵っ子だった。
国内線とはいえCAの母は忙しく、なかなかマヒルの相手はできなかったがそれでも運動会や授業参観にはかならず駆けつける良い母だった。
マヒルはそんな母を喜ばせようといつでも成績は上位だったし、平日の夕方に家にいないことをなるべく母が気にしないようにあらゆる部活に入っていた。
そんな母にカレシができたときいてマヒルは喜んだ。
中学2年になっていたマヒルは多少「おえ」と思いながらも、嬉しそうにカレシの隣で笑う母を祝福した。
マヒルにとって母の幸せが一番で、父も草葉の陰から祝福するに違いないと思っていたのだ。
カレシは父と少し似た、真面目な男だった。何度か食事をしたのち、いつの間にか一緒に暮らすようになっていた。
しかし中学3年生になってから母のカレシは次第に豹変し始めた。
奴は陰で母に暴力を振るっていたのだ。それも、タバコの火を押し付けたり熱いやかんを押し付けたりという酷い暴力を。
マヒルが気づいた時には母の服の下は酷い有様で、マヒルは母を連れて警察に行こうとした。
しかし男は2人の逃亡を許さなかった。逃げようとする母の髪を掴み、マヒルにアイロンを押し付けた。マヒルはそれを左手で振り払い、そして激しい痛みと恐怖を感じた。
怖い。
逃げなきゃ。
逃げられない。嫌だ。
痛い。
頭の中がぐちゃぐちゃに爛れていく。
泣きながら漏らしそうになって、体が震えて動かなくなる。
振り払ったアイロンのそばに、バットが落ちていた。
マヒルはとっさにそれを拾い、構えた。
その時だった。
頭の中で暴れ回る恐れ、動揺、不安、怯え、戦慄。そういったもの全てに火がついて燃やし尽くすほどの憎悪がわいてきた。
こんなくだらない人間が、私の母親とこんなに完璧な私を傷つけるなんてあってはならないんじゃあないか。
こんな安っぽい欲望で、私の生活を、人生を滅茶苦茶にするなんて絶対に許さない。
私も母もただ幸せになりたいだけだ。
お互いの幸せを祈っているだけだ。
そんなささやかな願いを踏み躙るやつは、私が
自分の中の恐れを打ち砕くように、マヒルはその男めがけてバットをフルスイングした。
そうしてマヒルはバットを持ち歩くようになった。
「マヒルちゃんはお母さんそっくりだねェーー」
年末からの連戦でマヒルはこの脅威たちの特性を理解しつつあった。
まず、これら脅威たちは一部を除いてマヒルのAtom Bomb Babyでしか始末できない。時々実物と同化してバットでもボコせるものがあるが、基本的に物理攻撃は効かない。マヒルはいつも自分のバットと同期させるようにAtom Bomb Babyを出してやつらを殴っている。
そして、脅威そのものを叩きのめすと操っている人間を無力化することができる。
さらに脅威たちにはマヒルが欲望を粉々に砕くのと同じようにそれぞれ特殊能力がある。
ハリボテのバスを作り出したりだんだん引き寄せたり。そしてこの犬も、触られたくない場所に触れるとこうして追ってくる。
最後に、脅威たちにはいくつか種類がある。
マヒルのようにパワーがあるが近距離でしか使えないもの。そしてこの間の堀辺豊のように遠くから操るもの。そしておそらくこの犬は…
「マヒルちゃんはしっかりしてるねェーーー」
犬はマヒルのラッシュがまるで効いていないかのようにぬらりと立ち上がった。その体には数ひとつない。
そう。こいつは言うなれば
この種類の脅威は厄介だ。操ってるやつをぶちのめせば倒せるのだが、そいつがそばにいるとも限らない。それになんといっても、単純であるが故兎に角しつこい。
解除の方法はあるはずだ。しかし3階にも罠があった場合、今解除してしまえばそちらが作動するかもしれない。
つまりは吉影がブツを手に入れるまで、ずっとこの犬の相手をしなくてはならない。
間淵マヒルはもう一度、ホームラン予告をするようにバットを掲げた。
「おいで、ワンちゃん」