【完結】吉良吉影は静かに暮らせない   作:ようぐそうとほうとふ

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霖雨の帳
日常は続かない


 最近雨の予報が増えてきた。

 そう思った頃にはとっくに梅雨入りで太陽の顔を見る機会が減り、梅雨寒で長袖を引っ張り出すこと数回。いつでも傘を持たなくてはいけなくて億劫な日々が続いた。

 梅雨は誰もが早く終わりを願う鬱陶しい季節だろう。しかし時にしとしとと続く雨が穏やかな時間を閉じ込めるように感じる場合がある。吉影にとっての放課後の図書室はまさにそんな場所だった。

 

 放課後の図書室。

 ぶどうヶ丘高校は私立校だ。しかし進学校というわけではない。本気で受験に臨むものは塾に通い、そうでもないものはとっとと帰るか、教室で駄弁っている。故に利用者は少なく、大変静かだ。

 

 五月になってから吉影はそこで勉強という名目で読書をしてから帰ることにしていた。理由はいくつかあるのだが、一番は『家にいたくない』からだった。

 

 間淵マヒルとの廃墟探索で母親の顔をした犬と対峙して以降、どうしても母と顔を合わせるたびに嫌悪感を持つようになってしまった。

 あの時掘り起こされた幼い自分の感じた『恐怖』。それは今の吉影にとっては腐った死体を見せられているような不快と嫌悪にすぎず、夜夢を見て叫ぶようなことでもなければ、また逃げ出したくなるようなものでもなかった。

 けれど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あの胃の底から湧き出す吐き気と全身の皮膚を逆撫でにするような不快感。覚えてなくても、体験していた。

 それが、我慢ならない。

 

「…吉良くん」

 

 はっと我に返る。目の前に座る溝呂木みぞれが心配そうな顔をしていた。

 

「大丈夫?眉間のしわ、すごいよ」

「…ああ。ほんとだ」

 吉影は眉間を揉みほぐした。今吉影の読んでいる本のせいだと思って欲しいが、みぞれはそこまでバカじゃない。しかし他人の事情にずかずかと踏み込んでくるほど礼儀知らずでもなかった。吉影は特に誤魔化すことも言わず、そのまま読書を続ける。

 みぞれはまだ心配そうな眼差しで吉影を見つめていたが、またすぐ自分のノートへ視線を戻した。

 

 放課後の図書室で溝呂木みぞれは古株だった。出された課題と予習復習はいつも図書室で終わらせてから帰るというのが彼女の習慣らしい。

 だから、というわけでもないのだが、吉影も放課後の時間稼ぎにここを選んだ。

 

 間淵マヒルはゴールデンウィーク最終日の無謀な廃墟探検以後、吉影に絡むことは一切なかった。

 どうやら運動部の三年生引退試合のスケジュールがギチギチだったらしい。マヒルのファンらしい同じクラスの生徒も観戦する試合を熱心に手帳に書き込んでいたのをみた。おそらく廃墟探検以降調査は進んでいないのだろう。

 吉影はあの後家で過去の診察券などを探したが、結局『ききょう病院』関連のものは出てこなかった。母に聞くのは論外だったし、父親は再入院でドタバタしてしまい、宙ぶらりんのままだ。

 

 そういうわけで、吉影は間淵マヒルにより乱された平穏を取り戻そうと溝呂木みぞれでチューニングを計っている。みぞれはまめまめしく変わらない平日を過ごしていて吉影はその真なる小市民的平穏さに安心した。

 

「…溝呂木さんは受験するの?」

「えっ…?ああ。うんっ!大学…お父さんが、どうせなら四年制に行きなさいって」

「そうなんだ。どこ目指してるの?」

「んー…受かりそうなところ、かな?でも志望は文学部だよ。本好きだし。吉良くんは?」

「家から通えるところ」

「吉良くんらしいね」

 

 みぞれはふふ、と笑う。

 

「ぼくらしいってどう言う意味?」

「んー。東京の大学とかに行けるくらい頭いいのに、そうしないところとか…かな?」

「大学なんて、たいして変わらないしね。どうせ地元に戻ってくるのにわざわざ東京に行ったりしないよ」

「そういうところ、しっかりしてるね」

 

 みぞれとの会話はだいたいこんな風に平凡で退屈な内容だ。だがみぞれという普通の人を通して見る吉良吉影という人間を見るのは面白かった。

「そういえば、この間行ったカフェ。梅雨の期間限定のパフェがあるらしいよ」

「えっ。本当?今の季節だとさくらんぼかな?桃かな?ぶどうは早いかな…?」

「溝呂木さんがよければまた一緒に行ってくれないか」

「い…いく!いきたいなっ」

 みぞれの耳がパッと赤くなったのがわかった。少なからず自分に好意を持っているであろうこの無害な小動物じみた女を観察するのは、日々の憂さを少し忘れるくらいには吉影の自尊心を満たす時間だった。

 

 

 

「みーぞろーぎみーぞれー…ちゃんッ」

 

 

 そしてそんな時間をぶち壊すのは、間淵マヒルだった。

 みぞれは突然抱きつかれて「ひゃあぅ?!」と悲鳴をあげて縮こまる。そんなみぞれを撫で回しながら、間淵マヒルはにやりと笑って吉影を見た。

 

「溝呂木みぞれちゃん。みぞろぎみぞれ。とっても語感がいい名前だね。でも図書室では静かにしなくっちゃあいけないよ」

「あう…あう…」

「うさぎみたいでかわいいなァ〜。ふふふふふ…」

「間淵マヒル…」

 吉影が忌々しげにつぶやくと、マヒルはより一層ニヤニヤとする。

「吉良吉影くんじゃあないか。悪いけどボクは溝呂木みぞれちゃんに用があるんだよね。咲き乱れる二輪の百合の間に挟まると、死ぬぜ」

 マヒルはなぜかドヤ顔だった。ここが図書館でなければ手をあげていたかもしれない。

 

「ま、まぶちさん…私になんのご用ですか…?」

 みぞれはマヒルの腕の中で怯えながら聞いた。

「いやね。ちょうど君たち受験の話をしていただろう?ボク、古典が苦手なんだよ。ベテラン図書委員の溝呂木みぞれちゃんならひょっとしてわかりやすい古典の訳が載っているちょうどいい本を知っているんじゃあないかってね」

「ふへ…こ、古典ですか…えっと…タイトルは…?」

「うん。なんでもいいから探してきてくれる?」

「は、はい…!」

 

 みぞれはマヒルから逃げるように書架へ走っていってしまった。小市民代表溝呂木みぞれは町の有名人間淵マヒルによりあっさりと退場させられた。マヒルはそのままみぞれの席に座り、吉影の方へ身を乗り出す。

 

「さて、放課後お勉強デート中にすまないね」

「…次は一体何だ」

「いやさ。ようやくボクの引退試合ラッシュも終わりが見えていてね。調査を再開したんだけど…」

「ぼくはもう協力しない。お前は約束を守らないし、変な場所へ連れていかれるのももううんざりだ」

「そう言わないでくれよ。ボクだって好き好んで君を巻き込んでいるわけじゃあないんだぜ。…まあ病院の方は、巻き込んだけど」

()は?」

「とにかく、病院の件は一度忘れてくれよ。今日は初めましての時と同じだ。君に危険が迫っているかもしれない…」

「………お前の言葉を何度も信じるほどお人好しと思われているとはね」

「まったくきみってやつは疑い深いね。信じられないなら、明日の朝礼前に教室の人数を数えてくれ。それでわかると思うから」

「は?教室の人数…?」

「ああ。ボクが何を言っても君は信じないだろ?だったら自分の目で確かめてくれ。それじゃ」

 

 マヒルはそういうと立ち上がり、図書室を出ていった。随分とあっさりした引き際だった。それが一層不気味だった。

 マヒルが去るのと同時にみぞれが本を抱えて戻ってきた。

 

「あれ?間淵さんは…?」

「帰った」

「そ、そんなぁ〜」

 

 みぞれはがっかりと項垂れながらも、持ってきた本を数冊借りることにしたらしい。吉影も残りを借りることにして、今日は解散になった。

 

 

 また間淵マヒルが日常に踏み入ってきたことに不快感を覚えたが、むしろ心の何処かでそれを待っていたような気もした。相反する感情だが、やはり自分なりにこの町に潜む脅威との根本について気になっているということなのだろう。

 

 翌日、吉影は言われた通りに朝礼前に教室にいる人数を数えた。吉影のクラスは36人。教室にいるのは25人だった。遅刻者が欠席者か知らないが思いの外少なくて驚く。いや、そりゃあ少ない日もあるだろうが、吉影の記憶にある限り最近欠席者はおらず、遅刻してくるものも多くて二、三人だったからだ。

 

「席すわれー。出席取るぞー」

 

 チャイムがなり教師が来る。そしてやる気のなさそうな顔をしながら一人一人の名前を呼び出欠をとる。いつもの流れだ。一体これで何がわかるというのか。

 

「井上〜」

「はぁい」

 いつも通りのやる気のない点呼。生徒たちも教師の気の抜けた声に引っ張られるように気怠げだ。天気が悪いのも相俟って朝からなんだか怠い気持ちになる。

「吉良ぁ」

「はい」

 次々に名前が呼ばれていく。この時間はいつも少し儀式めいて感じる。ただ出欠をとるならばもっと合理的な方法がある。しかし学校という空間はいつでも点呼という儀式を繰り返す。

「溝呂木ー」

「はい」

 名簿の最後の生徒、和久井が呼ばれて点呼が終わった。

 

「よし…()()()()。偉いぞお前らー。受験生らしく、今日も頑張ろうなー」

「……え?」

 

 全員出席?

 

 吉影は思わず周囲を見回した。教室には空席が目立つ。それにさっき教室全体の人数を数えてから誰一人遅刻して教室に入ってきたりしていない。

 

 吉影は朝礼が終わり席を立ち出す生徒を慌てて数える。やはり、25人しかいない。11人も足りないのに全員出席だと?

 

 吉影はクラスメイトの顔と名前を必死に思い出そうとした。しかしなぜか思い出せない。いや、ぼんやりとは浮かぶのだが名前と顔が一致しそうになると急に目の前が霞むようにして全体像がぼやけるのだ。

 11人も数が足りないのに、誰がいないか、わからない。

 そしてクラスの全員と、あろうかとか出欠をとったはずの担任教師すらその異常に全く気がついていない。

 

「…吉良くん?どうしたの?」

 

 横の席の溝呂木みぞれが心配そうに声をかけてきた。

 

「なんでも…ないんだ」

 

 

 

 

 吉影は放課後、四月に呼び出された時と同じ屋上へ行った。マヒルがいるという確信はなかったが、扉は開いていた。

 

「わかっただろ?」

「…ああ」

 

 マヒルは柵を背にして立っていた。お馴染みのバットは足元に置かれている。

 

 昼休みが終わる直前にも数えた。やはり教室にいるのは25人だった。しかし奇妙なのは、今回は着席している状態できっちり数えたにも関わらず誰が欠席しているのかわからなかったことである。

 座っている人間と名簿の名前を付き合わせて数えていっても、最後にはなぜか()()()()()()()()()ようになっていた。クラスメイトたちは出席番号順で座っているわけではない。しかし11人もの不在を数え間違えることなんてあってはならない。

 

「うちのクラスは5人いない。なのにだれもその5人の不在に気づけていない」

「うちは11人だ」

「おや、結構多いね」

 マヒルはにまっと笑みを浮かべる。それはどこか楽しそうで、町のみんなのために脅威を潰すとか宣う口と同じなのかと揶揄いたくなるくらいに吊り上がっていた。

「間淵、これはいつからなんだ?」

 吉影の質問にマヒルは頷いた。

「はっきり言って、わからない。ボクがこれに気づけたのは、本当に偶然でね。古典の授業中に自分のノートが真っ白なことに気がついたんだよ」

「…それが?」

「古典の授業なんてわざわざ受けなくてもそれなりにわかるだろ。だからボクは教師が解説する時に、なんかこの人この文が好きそうだなって箇所だけメモってテストの問題を予測して遊んでいたんだ。それが、五月の授業を期に真っ白だった」

「まさか古典の崖川が()()()のか?」

 吉影は絶句する。なぜならついさっき受けていた授業はまさに古典だったからだ。なのに吉影には『古典の授業を受けた』という認識がある。しかしマヒルに言われて気がついた。

 そう。つい先ほど、なのに。どんな授業を受けたのか、思い出せない。

 

「そうだよ。古典の担当、崖川康弘先生は今日も学校に来ているのに()()()んだ」

 マヒルは地面からバットを拾い上げて、素振りを始めた。

 

「いつ職員室へ行っても、崖川先生は『席を外している』んだ。授業も1ヶ月近く自習のはずなのに、それを誰も不思議に思わない。そして多分出席しているのにいない人たちも似たようなことになっている」

「じゃあお前もクラスに誰がいないのかわかっていないのか?」

「そうだよ。多分君も体験しているだろうけど、名簿と付き合わせた途端度の合わないメガネをかけたみたいに認知がぼやけるんだ。厄介な脅威だよ」

「認知がぼやける、か。なるほど。いるのにいない状態を不思議とも思えないとは…」

 吉影が考えている以上に事態は深刻なのかもしれない。まるで幽霊の逆だ。肉体はここに存在しないのに、情報は、認識はそこに『存る』のだから。

 

 

「学校全体で…いや、町全体で一体何人が()()()のか、想像したくないね」

 

 

 マヒルのバットが空を切る音が止む。そういえば空は珍しく快晴だ。朝は厚い雲に覆われていたのに、間淵マヒルという女が雨を吹き飛ばしたかのように。そう思ってしまうあたり、吉影は随分と間淵マヒルに対して思い入れができてしまったようにも感じる。大変ムカつく。

 

「何が原因か、いや。誰が犯人かはわからない。どうやっていなくなるのかも。でもとにかく用心するんだ」

「わざわざお前に言われなくてもわかっているが」

「本当かな…言わなきゃ気づかなかったくせに。とにかく、ボクらはもう一度手を取り合って町を脅かす脅威に立ち向かうべきだと思うんだよね。どうせ吉良吉影くんのことだから受験も適当にやるんでしょ?付き合ってよ」

「断る」

「じゃあ早速、放課後崖川先生の家へ行こう!隣の駅だから、杜王駅のホームで集合だよッ」

「ききょう病院の件はどうなったんだよ」

「それは同時並行でさ、調べようよ。ボクの探偵としての勘がこれは関連した事件なんじゃないかって囁いているんだ」

 何が探偵だ。吉影は頭の中で突っ込むがマヒルに人の話を聞くよう期待するのは無駄だともう十分わかった。吉影は深いため息をついた。

 

「馬鹿馬鹿しい…」

「馬鹿馬鹿しくないよ。だって現に、ボクと君は出会った。ううん。君だけじゃあないよ。この特殊能力はきっと引き合う力があるんだ。じゃなかったら、こんなに奇妙な事に巻き込まれ続けるのはおかしいだろ?」

「お前は忘れているかもしれないが、事件に対してお前が自分からどんどん首を突っ込んでいっているんじゃあないか?」

「…チッ。勢いで誤魔化しきれなかったか」

 自覚はあったらしい。というか元々マヒルはどこか演技過剰な部分が多々見受けられた。吉影の勘だが、マヒルは根は普通なのではないかと思う。バットを持ち歩くのも妙な一人称も他人をフルネームで呼ぶのも、まるでキャラ付けだ。

 ああ、やっぱり間淵マヒルは自分と正反対なのだ。

 

「だが気付いてしまった以上、素知らぬ顔で過ごすのも癪に障るのは確かだ」

 

「おおっ…!吉良吉影くん!君もついに正義の心に目覚めたか」

「違う。…お前はお前、ぼくはぼくでそれぞれ動く。何もわからないんだ。一緒に動くよりそれぞれで調べたほうが効率がいいだろう」

「うーん…確かにそうだね」

「ぼくは…そうだな。父がぶどうヶ丘病院に入院しているから桔梗シンジ院長について調べよう。何かわかったらお前に連絡する。それでいいか」

「わかった!じゃあ崖川康弘先生についてはボクに任せてくれよ」

 

 マヒルは爽やかな笑顔で言うと、協力的になった吉影に満足してか立ち去った。吉影は内心しめたと思いながらその背中を見送った。

 これで放課後古典教師の家に行くなんていう面倒すぎる約束は消滅し、間淵マヒルからの突然のコンタクトはなくなる。また目立つ女と二人行動という日常が崩れ去る危機も回避できた。

 

 まあ、肝心の日常がすでに自分の気づかない間に異常へと変わり果てている点はどうしようもないが…。

 

 そういうわけで吉影はいつも通り、放課後になると図書室へ向かった。溝呂木みぞれも吉影に少し遅れてやってくる。相変わらず自習席はガラガラでこの学校の進学率や偏差値に要らぬ心配をしそうになった。バカ高校というほどではないのだが、あまりに評判が悪いのも将来就職に不利そうだ。

 クラスメイトが自分の知らぬ間にいなくなっている。そんな異常を知ってなお吉影の頭に浮かぶのはそんな些細な心配ごととも呼べぬ考えだった。それが認識をぼやけさせるというこの怪異の特性なのか自分の異常性なのかわからなかったが、どちらにせよ自分以外の誰が消えようとかまわないというのは確かだった。

 それがたとえみぞれであったとしても、吉影は『もったいない』としかきっと思わない、はずだ。

 

「…どうしたの?吉良くん、今日ずっとぼんやりしてるね」

「ああ。低気圧のせいかな」

「昼晴れたのにまた降ってきたもんね。…頭痛薬持ってるけど、いる?」

「大丈夫。心配ありがとう」

 

 みぞれは昨日借りた更級日記の続きを読むようだった。吉影はふとみぞれは古典の崖川の不在に気がつくのか試したくなった。

 

「溝呂木さんは古典が得意だっけ?」

「うん?うーん…普通かな…?話は読んで覚えてるから訳文とかはなんとか答えられるけど…」

「へえ。いや、昨日間淵マヒルに本を持ってきてたからてっきり得意なのかと」

「ああ。…っていうか間淵さん、学年一位なのに私に聞くことなんて絶対ないよね?なんだったんだろう」

「溝呂木さんがかわいいから揶揄いたくなったんだろうね」

「かッ…?!」

 

 かわいいという言葉に反応してみぞれは顔を赤らめる。マヒルがそう言っていたから何気なく使ったのだが、意味深になってしまった気がする。まあいいか。

 みぞれに好かれるのは悪い気はしない。

 中学時代は目立たないようにしていても顔がいいという理由だけでモテていた。しかし高校生になるとそういう単純なバカ女たちは派手さや懐具合も加味するようになる。

 そのため自分の純粋な日常の振る舞いから好意を持たれるというのは吉影にとってほとんど初めてだった。それが自分が取り繕った仮面の人格だったとしても、いや、だからこそ少し嬉しい。平穏な生活の代表であるみぞれに見破られないのなら自分はまだその枠の中にいられるということなのだから。

 

「そういば、古典って今何をやってるんだっけ」

「…え?」

「いや、ほら。今やってる作品ってなんだっけ…?」

「……やだな、吉良くん。今日授業あったじゃない。たしか…」

 

 みぞれは首を傾げる。しばらく考えて、閃いたように言う。

「そうだ、平家物語。一学期は平家物語と方丈記だって言ってたよね」

「平家物語の、どのあたりだっけ」

「え…」

 みぞれの顔がどんどん曇っていった。

「えっと…あれ?方丈記…だっけ…。今日……授業あった…よね?」

「…ああ、そうか。方丈記だった。ありがとう溝呂木さん」

 みぞれはまだ混乱しているようだった。どうやら普通の人でも指摘されれば違和感に気づくらしい。だがみぞれをいたずらに不安にさせてしまった気がする。誤魔化しておこう。

 

「そうだ。金曜日、カフェに行かないか」

「え…。あ、うん!季節のパフェ…!」

「そうそう。話をしたらもう我慢できなくなってね」

「吉良くんって甘いの好きだったっけ?」

「それなりにね」

 

 みぞれは微笑んだ。吉影とみぞれは雨の降りしきる中、なんとなく辺りが暗くなってきたところで勉強を切り上げた。

 

 五月雨に沈むように町に夜が訪れる。

 そして町のどこかで、誰かがまた『いなくなる』。

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