【完結】吉良吉影は静かに暮らせない 作:ようぐそうとほうとふ
目が覚めると、毎日ずっと眺めていた天井が見える。変わり映えしない板目は湿気のせいかすこし黒ずんで見えて気分が憂鬱になる。
吉影は小学生になった時から個室を与えられていた。この家は3人家族にしては広すぎるので当然と言えば当然だ。襖で仕切られた部屋が大部分を占める中、吉影が選んだのはきちんとしたドアのついた家の隅の方にある個室だった。かつては使用人が使っていたか物置だったか、そんな感じの部屋だ。
母は当然反対した。しかし、父が母を宥めて吉影は個室を手に入れることができた。
「まあまあ、母さん。吉影の好きにさせてやろうじゃあないか」
吉影の『わがまま』を通す時、父が決まっていう言葉だった。わがままなんかじゃないごく普通の要望がこの言葉により『母が折れた』という形で最低限叶った。しかしその『負い目』…もちろん吉影からすればそんなふうに思ってはいないのだが…を理由に母はむしろ干渉を強める。
吉影は学んだ。母の思う通りの自分でいたほうが結局楽なのだと。荒波のような母の気分にいちいち逆らうよりも、その波に乗るか静かに収まるのを待つほうがマシなのだ。
だから、なのだろうか。自分が平穏を求めるのは。
そんな考えが頭によぎり、吉影はうんざりする。自分がそんなふうに過去に囚われて今を求めているだなんて思いたくない。それはあまりにも凡庸でつまらない。
吉影は握った紙袋に雨粒が滴ってないか再度確認した。本来ならばみぞれとカフェ ドゥ・マゴに行くはずだった金曜日の放課後、吉影はぶどうヶ丘病院へ訪れていた。
父、吉廣の着替えが入った紙袋。本来ならば母が持って行くはずのものだが、父の要望で吉影が持って行くことになった。おおかた母の目のないところで吉影の進路の話でもしたいのだろう。
高校生になってからは父の『吉影の望みを叶える』という自己満足に付き合うのも些か面倒になってきた。父の手助けは確かに時々吉影のためになった。しかしこれは裏返せば、父は母の世界から吉影を出す気はないということの証明だった。母の世界から逸脱しないように少しずつ自分を矯正して行くだけの父は、時々母より憎たらしい。
こんなことのためにみぞれとの約束を反故にしてしまったのは実にもったいない気がする。家の用事だと説明したら納得してくれたので日曜日にもう一度約束をした。
しかし一方で、間淵マヒルとの約束はどうやら果たせそうだった。ぶどうヶ丘病院には『ききょう病院』の院長、桔梗シンジが在籍しているはずだ。彼に接触できればあの病院にいた『犬』の正体や、かつての患者たちが今になって暴れ出していることについて聞けるだろう。
傘を畳んで受付へ。面会だと告げると看護婦は気だるげに、そしてわざと時間をかけ、まるで吉影が厄介な客だといいたげに父の病室を告げた。なんとも接客態度のなってない看護婦だった。看護婦だって一応は接客業ではないのか。
病棟は静かだった。遠くから雨や呼吸器や心電図の音が規則的に聞こえるだけで、患者たちは冬のナマズのようにおとなしく眠りについているのだろう。廊下を歩くと、病院特有のかすかなし尿の臭いと、それを上書きしようとする消毒の臭いがする。
死の、臭い。
いつか自分もこの臭いを漂わせながら、真っ白なシーツの上で穏やかに死ぬのだろう。
父の病室に近づくにつれ、死の臭いは強くなって行く。ああ、やっぱり父はそう遠くないうちに死ぬんだな。今になってそれがようやく沁みてきた。
吉良と書かれた病室のドアを開けると、四人用の病室だった。二床が埋まっていて、うち一つはカーテンが閉まっていた。窓側のベッドは空いていて、やつれた様子の父が雨を眺めていた。
「…父さん」
吉影の言葉に父は振り向いた。扉が開いたのに気づいてなかったようだ。吉影の姿を見ると嬉しそうに笑って手招きした。
「吉影、すまなかったなぁ。雨で濡れなかったかい?」
「大丈夫。着替え、母さんが詰めたから間違い無いとは思うけど、何かあったら電話を」
「ありがとう」
父は紙袋を受け取り、吉影の用事はもうこれで終わりだった。しかし父は紙袋の中を少し覗いて、なんだかもたもたとしている。話し相手でも欲しいのだろうか。普段ならそのまま帰るだろうが、桔梗医師について何か聞けるかもしれない。横の丸椅子に座ると吉廣の表情は少し綻んだ。
「入院生活はどう?慣れた?」
「ああ…。二回目だが、覚えることも少ないし慣れてしまったなぁ」
「そう。担当の医者はどう?」
「ああ。高垣先生っていうんだがな、まああんまり頼りにできなさそうな若造だが、悪い人ではなさそうだよ」
「悪い人は医者になれないだろう」
「それもそうか」
父は楽しそうだった。家でもそれなりに会話はしていたが、入院生活で話し相手に飢えていたのだろう。
「そういえば、この病院に『桔梗先生』って人はいる?」
「…桔梗…?」
父の顔が少し曇った。眉が吊り上がり、吉影を探るような目になる。そんなに変な会話の流れだっただろうか。吉影もまた父を注意深く観察する。それは家ではみたことのない表情だった。顔にはまるで不意打ちでも喰らったような驚きと困惑が滲み出ている。そして同時にこちらを意図を探るかのような奇妙な沈黙。
何かを隠している?と、吉影は直感的に思う。しかし父も父で吉影の反応を注視していたからか、取り繕うように「ああ!」とやや大きな声で言った。
「桔梗先生なら確かにいる。精神科の先生だが、前に睡眠薬を出してもらったことがあるなあ」
「そうなんだ。ここに勤めているんだね?」
「そうだよ。だが、
「…友達が、探してて」
「……友達が」
「ああ。なんでかは知らないけど」
「…そう、か」
父は桔梗シンジを知っている?だとすれば、自分の既視感の正体もやはりかつてあそこに通っていたからか。だがこの反応、まるでやましいことでもあるかのようだった。しかし聞いたところで父が正直に全てを吐くとも思えない。はぐらかすか、とぼけるか。どちらにせよ自分が確信を持って父を問い詰めるような形でなければ話さない。そんな気がした。
「…じゃあ、父さん。お大事に」
「あ、ああ。吉影、今日はありがとうなあ」
吉影は立ち上がる。吉廣はまだ何か話したそうだったが吉影にはもうどうでもよかった。
ドアを閉めて深く息を吐く。肺に饐えた臭いが混じるが、かまわない。桔梗シンジを探さなくては。
勤務してるのならば精神科のフロアに手がかりがあるはずだ。早速そこへ向かう。途中、廊下に放置してあった車椅子を拝借した。
精神科のフロアは他の診療科よりもしんとしている。悲壮な面持ち、不安な面持ち、あるいは単に無表情な人が椅子に座っている。吉影は車椅子を押しながら待合室をそのまま通り抜けた。
誰にも声はかけられなかった。
この場において重要なのは、忍び込むとかそういう小手先の技術ではない。ある種の大胆さ、説得力だ。
父が「前に薬をもらった」と言っていた通り、おそらく精神科では外来患者だけでなく他の診療科の入院患者のケアも行なっている。ならばその身内になりすませば良い…というか、半ば真実なのだから堂々としていればいいのだ。
吉影は診察室の前をゆっくり通り過ぎる。診察室にはそれぞれ担当医の名札がかかっていた。そして一番隅の診察室に、『桔梗』と札がかかっていた。
立ち止まり、耳を澄ます。話している気配はなかった。
吉影はそっと扉に手をかけ、可能な限り音を立てずに開けた。中は暗い。誰も、いない。
そのまま車椅子を置いて部屋の中へ滑り込んだ。嫌に埃っぽく、カビ臭かった。壁を弄るとすぐにスイッチがあり、すぐに明かりがついた。蛍光灯の明かりは頼りなく、じじ…という音が静まり返った部屋に鳴った。
診察室の中はききょう病院よりも狭く、雑然としていた。扉を入って左右に本棚、正面に机があるのは同じだが、本棚には本よりも資料が多く、乱雑に詰め込まれた本の隙間から紙束が飛び出している。本と棚の間にも薄い本が突っ込まれており、深刻なスペース不足だった。
飛び出した紙束の上に積もった埃が吉影の入ってきた風でふわ、と舞った。
そして真ん中には大きめのテーブルが置かれており、そこには大きなドールハウスが置かれていた。
これはいわゆる箱庭療法というものだろうか?吉影は精神科の特に児童のセラピーで用いられる道具を連想した。しかしセラピーの道具ににしてはなんだか禍々しい空気を放っている気がする。
そのドールハウスは三階建で、一階に生活スペース、屋根裏を含めると5つの個室があった。その個室は無理やり後からベニヤ板を突っ込んだような粗雑な作りだった。個室はどれも空っぽで、中央に顔のない小さな指人形が置かれていた。いかにも病んでいると言いたげだ。
ドールハウスの置かれたテーブルの下に、もともと備え付けだったであろうミニチュアの家具が落ちていた。
「……」
吉影はそこで気がつく。床とドールハウスにはうっすらと埃がつもっている一方でミニチュアの家具の方は比較的最近床に落ちたようだった。
しばらく誰も来なかった部屋に、最近誰かが来て、これを落とした。
真っ先に浮かんだのは間淵マヒルの顔だったが、あいつは桔梗シンジについては調べられてないと言っていた。だったら一体誰が?
今考えても答えは出ないだろう。
吉影はドールハウスは無視し、正面の机の上を物色する。そこには書類が燦然と広がっており、ききょう病院の整頓された診察室とは打って変わって、持ち主の混乱と無秩序が見て取れた。
書類の中身は論文のようで、これがまた意外なことにサイコキネシスについて書かれていた。これではききょう病院にいた岩渕徹医師の研究内容だ。だが論文の半分までのところで読むのをやめてしまっているようだ。
他に目ぼしい情報をさがそうと引き出しも漁った。文房具、腕時計。ロールシャッハテスト用の図版などが収められていた。個人情報はないのかと一番下の引き出しを開けると、ファイルにまとめられた絵があった。
今度はクレヨンではなく色鉛筆で描かれた白衣の男の絵…おそらくは桔梗シンジだろう。その下も何枚もあったが、一枚一枚見るのは後にするべきだろう。吉影はそのファイルを自分のカバンに突っ込んだ。
吉影は廊下に人のいない気配を見計らい、そっと出た。そしてきた時と同様堂々と正面から帰る。ナースはおや?という顔をしたが、吉影は呼び止められる前にさっさと退散した。
そして吉影は入り口すぐの総合受付に行き、ナースに尋ねた。
「すみません。桔梗シンジ先生は本日いらっしゃいますか?」
ナースは吉影をじろっと睨みつけ、ため息をつきながら受付カウンター上の週間カレンダーを指差した。診療科別に曜日ごとに担当している医師の名前が書かれていた。
「あんた、目が見えないの?うちに眼科はないっての…まったく…」
どうやら指先の荒れた醜い手でも平気な女は口まで悪いらしい。
カレンダーを確認すると桔梗シンジはたしかに金曜日に精神科に出勤している。
だがあの診察室は埃の積もり方から推察するに、少なくとも数ヶ月は人が来ていない。休職しているかいなくなったかしていたらカレンダーに名前はないはずだ。つまり、桔梗シンジはもしかしたらすでに怪異に飲み込まれているのかもしれない。
吉影は病院を出た。降り頻る雨は来た時と同じ調子で、これから夜まで降り続けるであろうことは容易に想像ついた。傘を広げると、ちょうど自分の視界の上半分が塞がる。残りの視界は地面から跳ね返る雨でぼんやりと霞む。
帰ろうという気になれなかった。家へ帰れば母がタオルを持って、自分の頭からつま先まで丹念に拭くだろう。吉影の不快感を上から
気づけば吉影の足は校舎へ向かっていた。
図書室にはみぞれがいる。持ち出した資料について突っ込まれるのも面倒だ。吉影は自身の教室へ向かった。いつもなら運動部の荷物がいくつかあったりもするが、今日は雨のせいかほとんどなかった。
好都合だ。吉影は自分の席に座り、鞄に押し込んだ資料を机に広げた。
子供の描いた絵が何枚も挟まってゴワゴワしている。しかし下の方に行くにつれ絵は減り、手紙の割合が増えていた。残念ながら封筒はなかった。
お父さんへ
ちゃんとごはんを食べていますか?しんぱいです
わたしは小学校できゅう食がかりになりました
でも、いつもさいごにごはんがあまってしまいます
先生は「さいしょにクラスの人ずうぶんをわけましょう」っていいました
でも、たくさん食べる人と食べない人がいるから、たいへんです
お父さんに会いたいです
お父さんへ
この前は美味しいケーキをごちそうしてくれてありがとう。
中学受験の話はお母さんが許してくれませんでした。でも、高校なら受験していいって言ってます。
杜王町の学校に行きたいな。
お父さんが送ってくれたマンガをいくつか読んだよ。とちゅうで新しいお父さんに没収されちゃった。ごめんなさい
お父さんに会いたいな。私にはやっぱり、お父さんは1人だけだから。ごめんね、困るよね
お父さんへ
高校の合格祝い、ありがとう。しばらく絵は描いてなかったけど、また描いてみようかな…。でももう描き方を忘れちゃった気がする。ねえ、だって10年以上前とかじゃないかな。
苗字が変わってから、もうそんなに経つんだね。
ぶどうヶ丘高校はお父さんの病院の近くだし、時々ご飯を一緒に食べたりしたい。
お母さんはあんまりいい顔しないけどね。
お父さんに会いたいよ
普通だ。普通の、娘からの手紙。
内容から桔梗シンジには離婚して離れ離れになった娘がいることがわかった。キャラクターものの便箋から淡い色の花があしらわれた大人っぽい便箋に変わっているし字もどんどん綺麗になっているが、同一人物からの手紙だった。残念ながら署名はないため名前はわからない。
絵と手紙の下には桔梗シンジのものと見られる筆跡でメモ書きが見つかった。
もう空きはない。
どうすればいい?
一人戻せば、一人を閉じ込められる。それだけの話。理屈は。
だが、誰を?
誰なら「戻しても大丈夫」と言える?
何を基準に? 危険度? 予後? 可能性? それとも——罪の軽さ?
止められるのは、今だけだ。
このまま放っておけば、また誰かがいなくなる。
“いなくなって”、それに誰も気づかない。
今夜決めるべきか?
明日には遅いかもしれない。
だめだ。頭が回らない…
少し寝て、朝に考え直す
これだ。このメモが吉影が探していた情報だ。
吉影は思わずごくりと唾を飲んだ。
桔梗シンジの走り書きのメモ、これは明らかにいま町に起きている異常に関するメモで、さらにこの内容は
二段落目、
少し寝て、朝に考え直すなんて悠長なことを言っているからお前も消されたんだ。なんて頭によぎった。
しかし一段落目に戻ると、これは何を言ってるのかよくわからない。「1人戻せば、1人閉じ込められる」。直感的に浮かんだのはききょう病院の閉鎖病棟だった。そして、あのドールハウス。
吉影はふうっと息を深く吐く。
これまで出会ってきた町の異常、それを引き起こす人々。彼らは皆かつてききょう病院に通っていた。
ききょう病院は精神科病棟を備えていたが、そのどれも使用された形跡がない。
1人戻せば、1人閉じ込められる。
桔梗シンジはいなくなって数ヶ月経っている。
もしかして桔梗シンジもまた間淵マヒルや患者たちのように何か異形に立ち向かう能力を持っていたのかもしれない。しかし人が消えるこの怪異により桔梗シンジの能力も消滅し、患者たちがおかしくなっていった…。
吉影は自分のたどり着いた筋書きに満足し、資料をしまった。それは同時に間淵マヒルへの報告を意味するのだが、そんなのは聞かれたら答えればいい。わざわざ律儀にあいつの言うことに従うつもりはなかった。
しかし…なぜこの普通の手紙の束と一緒にこのようなメモが仕舞われているのだろう。そして、桔梗シンジは結局次の日の朝何をしたのか。
「…」
吉影はもう一度メモを取り出し、裏面を見た。
雨だ
と、それだけ書いてあった。
吉影たった1人の教室には窓越しの雨音がホワイトノイズのように充満していて、そのいつ書かれたかもわからないたった一言がなぜか不気味に感じた。
そして不意にからーん、と。どこか遠くで音がした。まるで金属バットが転がるような音だった。吉影は廊下へ顔を出す。すると数メートル先の廊下の窓が開いていて雨が吹き込んでいた。
吉影が教室に行く時窓は開いていなかった。それどころか誰かいたような気配もなかったというのに。
吉影は荷物を鞄にしまい、廊下へ出る。よく見ると廊下の窓は所々開いていて、雨が床を濡らしていた。
なんだか嫌な予感がした。吉影は濡れた箇所を避けて廊下を進み、図書室へ向かった。途中、見慣れた金属バットが落ちていたので拾い上げる。持ち手のバンデージ。そして何かを殴って歪んだ芯は間淵マヒルのものだった。
さっきの音はこれが落ちた音だったようだ。しかし、持ち主はどこへ行ってしまったんだろう?バットの周りに出来始めている水溜りには足跡らしきものはない。まるでバットだけがここに急に現れたかのように。
不思議に思いながらも吉影はそのままバットを持ち、廊下を進んだ。
明かりはともっているはずなのにどこか薄暗い。階段から向こう側の廊下の窓は開いていなかった。一体どこの不良がやったんだか。発見した教師はきっとカンカンに怒るだろう。
図書室へ向かったのは、きっとみぞれがいるはずだから。みぞれを見ればきっとざわつく心が落ち着くはずだから。