不思議な人だな、と思った。
ハリーがこの世界に来てから、色々な視線がハリーに突き刺さった。憐憫。興奮。警戒。嫉妬。そのどれもがハリーにとっては不可解で、そしてそれがちょっとした息苦しさのもとになっていた。
しかし、今教壇に立っているベレニケ・オリバンダーという若い先生は、ハリーのことなど見てすらいなかった。誰もが一瞬視線を奪われる稲妻型の傷に気づきすらせず、ずり落ちた片眼鏡を押し上げて困ったように眉を曲げていた。
はっきり言って、彼女は明らかに緊張していた。
「あー……えっと、何から話せばいいかな。自己紹介? うん、そうだ、自己紹介。ベレニケ・オリバンダーです。君たちに魔法理論を教えることになりました。よろしく」
「よろしくお願いします、先生!」
少し離れた席でハーマイオニーが大きな声で返事をすると、ベレニケは少し安心したように頷いた。
「うん、よろしく。えっと、簡単に経歴を話させてもらうね。3年前にホグワーツを卒業して、それから在野で研究をしていました。専門は理論魔法学、君たちがこれから学ぶ魔法理論の先にある学問です」
ベレニケがチョークを手に取り、黒板に「
なんとなく、ハリーは研究者というイメージとベレニケが結びつかないでいた。テレビのニュースに出てくる研究者は皆年老いていて、堂々としていて、自信に満ちていたからだ。
しかし、その印象はすぐに覆されることとなった。
「魔法理論っていうのは、そうだな……さっき元気な返事をしてくれた君、名前は?」
「ハーマイオニー・グレンジャーです!」
「では、ミス・グレンジャー。もうフリペンドの呪文は習った?」
「はい、先生! 授業でも教わりましたし、自分でも練習しました」
「いいね。前に来て、黒板にフリペンドのスペルを書いてくれるかな」
ハーマイオニーが黒板にFlipendoと書いたのを確認して、ベレニケは小さく微笑んだ。自信なさげに泳いでいたアイスブルーの瞳が、今はしっかりと教室全体を見渡していた。
「ありがとう。フリペンド。シンプルな呪文だね。衝撃を飛ばすだけの、しかし便利な呪文だ。では、こうしてみたらどうだろうか」
ベレニケはチョークを手に、次々と呪文らしきものを記入していった。
Flipendio、Flipendas、Flipendia、Flipendat……。
立たされたままのハーマイオニーは混乱したように黒板を見上げていた。それもそうだろう、ベレニケが書く呪文はどれも間違っているのだから。呪文学の授業で、ハリーたちは確かに衝撃呪文をFlipendoと教わった。
指先についたチョークの粉を払って、ベレニケはハーマイオニーに問いかけた。
「これらの呪文が間違っていて、君の書いた呪文が正しい理由はなんだと思う?」
「なぜって……それが正しい呪文だからです。教科書にもフリペンドと書いてあります。フリペンディオとか、フリペンダスとかではなく」
「うん、それはある意味で正しい。伝統的にフリペンドと唱えて成功してきたから、その慣例に乗っかるというのは実用的で正しい判断だ。じゃあ、それを理論で説明しようとするとどうなるか」
ベレニケが黒板を軽くノックすると、そこに書かれた呪文がうねうねと生きているように動きはじめた。
その瞬間、ハリーはあっと声を上げそうになった。
フリペンド。意味のわからない呪文としてただ暗記していたそれが、
「フリップ、エンド、オー。最後のオーは一旦無視して、この呪文は『
ハーマイオニーが困惑しながら頷くと、ベレニケは教壇の裏から不思議な模様の入った真鍮の球体を取り出した。
台座の上でふわふわと浮かぶそれは、どうやらゆっくりと回転しているようだった。
ベレニケはそれを教壇の上に置くと、ハーマイオニーに手を差し伸べた。
「ミス・グレンジャー。君に最後のお手伝いをしてもらおうかな。呪文を唱えてみてほしい。ただし、フリペンドではなくフリペンディオだ」
「え、でも……それは間違った呪文です」
「そうだ。そしてこれから、君はこのクラスで最初の『なぜこの呪文が間違っているか』を説明できる人物になる。さ、唱えて」
ハーマイオニーはまだ躊躇っていたが、おずおずと杖を構え、そしてはっきりと唱えた。
「フリペンディオ!」
そのとき、不思議なことが起きた。
青白い光がハーマイオニーの杖から放たれた。真っ直ぐ突き進む矢のような光ではなく、ガラス窓を通したように広がるぼやけた光だった。
そして、その光が教壇の上の球体に届くと、球体は猛烈に回転しながら天井へと飛んでいった。
「フリペンドはシンプルながらもよく完成された呪文だ。音節数は3つ、つまりトライアドで最も完全な平面体……と、先取りしすぎるのもよくないね。よっと」
ベレニケがキャッチした球体はまだしばらく彼女の手の中で回転していたが、台座の上に戻されるとまた静かに浮遊しはじめた。
「ありがとう、ミス・グレンジャー。模範となってみんなの前で失敗を披露するのは勇気がいるよね。グリフィンドールに5点あげよう」
「ありがとうございます。でも、どうして……?」
「どうして魔法の光が拡散したか、そしてどうしてボールが上に跳ねたかかな。説明するよ、座って。あ、それからみんなミス・グレンジャーに拍手を!」
クラスのみんなが一斉に拍手したので、ハーマイオニーは恥ずかしそうに頬を赤く染めながら席に戻った。
それから、ベレニケは再びチョークを手にとって黒板に向かった。
「今、ミス・グレンジャーはフリペンディオと唱えた。接尾辞がoではなくioだっただけで、呪文の効果が全然変わってしまったね。実は、接尾辞はどれでもいいんだ。どの接尾辞でも魔法は使える」
「どれでもいい? じゃあ、正しい呪文は誰が決めてるんですか?」
ハリーが思わず声に出すと、ベレニケはくるりと振り返った。
一瞬、ハリーの背筋に冷たい汗が伝った。てっきり怒られると思ったからだ。
しかし、ベレニケは我が意を得たりとばかりに満面の笑みを浮かべた。アイスブルーの瞳がキラキラと輝いて、ハリーのことをじっと見つめていた。
「とてもいい質問だね。答えは、全ての魔法族。みんなが魔法を使っていく中で、一番適した接尾辞が一番よく知られるようになっていったんだ。言い方を変えれば、君たちが教わる呪文は歴史の中で生き残った呪文ってこと」
「生き残った、呪文」
「そう。えーと、君は流石にわかるよ、ミスター・ポッターだね。次は君に答えてもらおうかな」
ベレニケは黒板に向きなおると、先程書き込んだ「間違った呪文」の隣に何か文章を書き足しはじめた。
フリペンディオは上に弾く。フリペンダスは外側をなぞるように衝撃を与える。まるでそれぞれの呪文が個別の呪文として効果を持っているかのように書かれたそれを前に、ベレニケはハリーに問いかけた。
「たとえば、君が厄介なレタス食い虫を追い払いたいとしよう。単純に吹き飛ばすなら、どれを選ぶ?」
「えっと……」
レタス食い虫というのはよくわからなかったが、ハリーは黒板をしばし眺めて、それから答えた。
「僕ならフリペンドを選ぶと思います。だって、上に吹き飛ばしても落ちてくるだけだし、外側をなぞっても追い払うのにはあんまり役に立たなそうですよね?」
「大正解だ。グリフィンドールにもう5点あげよう。そう、上に飛ばしたければ浮遊呪文のほうがいいし、外皮や防具を剥くのにも専用の強力な呪文があるんだよ。衝撃呪文に求められている役割を果たしてくれるのはフリペンドだ」
ロンが肘で軽くハリーの脇を小突いて「やるなあ!」と囁いたので、ハリーは思わずニヤリとした。
「そういうわけで、衝撃呪文はフリペンドと定まった。でも、新しい呪文と出会った時や自分だけの魔法を作ろうとした時、無数にある接尾辞の全部を試すのは馬鹿馬鹿しいよね?」
ハリーは改めて黒板に書かれた「間違った呪文」たちを眺めて、それから頷いた。
呪文学の授業でフリペンドを成功させるのにだってやっとの思いだったのに、全部のパターンを試さなくてはいけないとなったら途方に暮れてしまう。
しかも、それが全部の呪文にとなったら、ハリーはもうお手上げだ。きっと期末試験で落第して、荷物をまとめてダーズリーの家に帰ることになるのだろう。そんなのは絶対に嫌だった。
「接尾辞だけじゃない。この呪文はどこを伸ばして、どこで区切ればいいのか。杖の振り方と呪文の唱え方はどう合わせればいいのか。きっとみんな悩んだと思います。私も入学したてのころはすごく悩んだよ」
後ろの席でネビルが猛烈に頷いた。ネビルは呪文学の授業で唯一フリペンドの呪文が成功せず、居残りを食らったばかりなのだ。
ベレニケが黒板に書いた「理論魔法学」を軽く叩いて、それから教科書を持ち上げた。
「理論魔法学は、そういった魔法の『なぜ?』に理論付けを行う学問です。そして魔法理論では、その理論を学んでいきます。この教科書には新しい呪文はひとつもない。でも、君たちはこの授業を通じて考える力を得ると思います」
考える力。
ハリーははっとさせられた。ダイアゴン横丁で本物の魔法の世界を見た時には「あれはなんだろう」「どうしてそうなるのだろう」と考えていたのに、ホグワーツに来てからだんだんそれを当たり前だと思うようになっていたからだ。
呪文がなぜそうなっているかなんて、少しも考えたりしなかった。もし正しい呪文がなぜ正しいかを説明できれば、魔法を失敗させることだってうんと減るに違いない。
それに、ハリーの脳裏にはもうひとつ可能性がちらついていた。
もし「どうやったら正しい呪文になるか」を理解できたならば、「どうやったら正しい呪文を作れるか」だってわかるのではないか?
「もしかしたら気づいている子もいるかもしれないけど、魔法理論をちゃんと学べばオリジナルの呪文を作ることだってできます」
やっぱりだ。ハリーは声を上げそうになるのをぐっとこらえた。
ダーズリーの家で階段下の物置小屋に押し込められていたころ、ハリーはたくさんの想像をした。もし自分がダドリーの読むコミックに出てくるような魔法使いなら、どんな魔法を使いたいか。
その夢が叶うのだ。
オリジナルの呪文というその一言に誰もがワクワクしていた。シェーマスは自分の杖を見ながらニヤニヤしているし、パーバティーとラベンダーはヒソヒソとどんな呪文を使いたいかを言い合っている。
「もっとも、君たちの場合はまず教わった呪文を完璧にしてからね。失敗した呪文の魔法事故は、場合によっては痛いじゃ済まないんだから。まだ五体満足でいたいでしょ?」
その脅し文句はざわめいていた教室をすっと静かにさせた。
ベレニケは少し困ったように微笑んで、それから黒板をクリーナーで消しはじめた。
「あのー、あれね、極端な場合だからね! ちゃんと勉強してれば大丈夫だから、たぶん。それじゃ、授業を始めよう! ミス・グレンジャーの疑問に答えないとね。まず、8ページにある接尾辞のリストを――」
ハリーはノートを取り出しながら、胸の中で小さく呟いた。
やっぱり、ちょっと不思議な人だ。