ハリー・ポッターと金枝を手折る者   作:海野波香

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002 ポイント・ミー

 状況は最悪だった。

 魔法史の授業中にどうしてもトイレに行きたくなったハリーは、ひとりで授業を抜け出した。ところが、トイレに行って帰ってきたら途中の廊下で教室に向かう扉がなくなってしまったのだ。

 ホグワーツは素敵な城だが、時折こういった魔法で生徒を困らせる。いや、困るのは教師も同じだろうか。

 とにかく、ハリーは魔法史の教室に戻らなくてはいけなかった。

 しかし、当てずっぽうに扉を開けたり廊下を曲がったりしているうちに、ハリーはいよいよ迷子になってしまった。少しだけ泣きそうな気分で、心細くなりながらハリーは扉をまた開けた。

 そこは人気のない明るい部屋だった。窓にはレースのカーテンがかかっていて、陽射しがよく差し込んでいた。湿っぽくて薄暗い魔法史の教室とは正反対だ。

 

「――おや、誰かな」

 

 聞き覚えのある声に、ハリーは思わず息を吐いた。

 

「あの、オリバンダー先生、僕……道に迷ったみたいで」

 

 教室の奥から現れたのはベレニケだった。どうやら何か作業をしていたようで、いつも着ている乗馬服の上に厚手の革のエプロンをかけている。それに、手には小さなナイフを持っていた。

 ベレニケはハリーを見下ろして少し困ったように息を吐いた後、空いている方の手で手招きした。ハリーはそれに促されるように教室の奥へと進んだ。

 

「迷子か。わかるよ、この城はそういう意地の悪いところがあるからね。何の授業の時間かな?」

「えっと、魔法史です」

「あー、なら時間に余裕はありそうだ。座って。片付けをしてから君を連れていこう」

 

 言われるままに質素な木の椅子に腰掛ける。どうやら手作りのようで、少し傾いていた。

 もうひとつの椅子、きっとベレニケが座っていたであろう椅子の前には、木の削りかすが積み上がっていた。どうやら木材を削り出していたらしい。

 木の削りかすはハリーにとって馴染み深いものだ。なぜなら、バーノンが社長を務めるグラニングス社は穴あけドリルのメーカーだからだ。日曜大工がてら自社製品を確かめるバーノンの助手をやらされたことは一度や二度ではない。

 そんな嬉しくない馴染み深さを感じながら目線を移すと、そこには削り出された何かがあった。

 

「それ……杖ですか?」

「うーん、オリバンダーの人間として芯材も入っていないものを杖と呼ぶのは少し抵抗があるけど……これから杖になるもの、かな」

「じゃあ、杖を作ってたんですか? ここで?」

 

 ハリーが驚くと、ベレニケは木くずを手で集めながらクスクスと笑った。

 

「特別な工房で作ってると思ったかい?」

「だって……杖って、特別というか」

「そう思ってくれるのは嬉しいよ。柊と不死鳥の羽根、28センチ、良質でしなやか。いい杖だ、大事にしなさい」

 

 ますます驚いて、ハリーは不安定な椅子をひっくり返しそうになった。

 

「どうして知ってるんですか? その、僕の杖のこと」

「おや、私の家名を聞いて疑問に思わなかったかい?」

「オリバンダー……あっ、じゃあダイアゴン横丁の? 先生はあのおじいさんの孫ってことですか?」

 

 突然ベレニケが大きな声で笑ったので、とうとうハリーの椅子はひっくり返った。

 差し伸べられた手に掴まって立ち上がる。ベレニケはハリーを起こしながらまだ笑っていて、目尻に涙が浮かんでいた。

 

「孫! それはいいね、今度帰省したらこのネタでからかってやろう。ギャリックは私の父だよ、ちょっと老いぼれてるけど」

「それは、その……ごめんなさい」

「いいよ、気にしないで。あー、笑った笑った。面白い子だね、君」

 

 ベレニケが木くずを麻袋に詰めている姿を見ながら、ハリーは昨日聞いたある噂を思い出した。

 このベレニケ・オリバンダーという魔女は、杖が使えないらしいのだ。だから杖を使わなくていい魔法理論の教授をしているのだ。

 そういう噂がまことしやかに広まっていた。事実、ベレニケが杖を使っているところを見た者は誰もいないし、今も杖の一振りで済みそうな片付けを箒とちりとり、麻袋でやっつけている。

 ハリーは気になって、思わず彼女に問いかけた。

 

「あの、先生が杖を使えないって本当なんですか?」

「うん、そうだよ。あまり厳密ではないけれど、まあ噂話なんて厳密じゃないのが面白いみたいなところあるからね」

「えっ……」

「聞いておいて驚くのか、やっぱり面白い子だな。しかし、もう噂になってるか……気にしなくていいよ、有名な話だからね」

 

 ベレニケは少しも気負った風ではなかった。

 しかし、それは不思議な話だ。魔法を使えないなら、一体どうやってホグワーツを卒業したのだろう。それに、杖を作るのだって何のためかわからない。

 続けて問いかけようか悩んだが、ハリーは結局口を噤むことを選んだ。それはきっと失礼なことだと思ったからだ。

 しばらく、箒が木くずを集める音だけが教室にこだましていた。

 

「ミスター・ポッター、魔法は好きかい?」

「え? 好きです。初めて見るものばっかりで、すごくワクワクして」

「うん、そんな感じがする。じゃあ、育ての親はマグルか」

「そうです。おじさんと、おばさんと、あといとこが」

「あまり仲は良くない?」

「えっ……なんでわかるんですか」

「質問する時、顔色を伺う癖があるね。質問を避けたり、質問してから後で反省したりしているタイプだ。授業でも咄嗟に質問してから私の顔を見たね? 質問したら怒られるのが当たり前だと思って育ったんじゃないかな?」

 

 思わずどきりとした。ずけずけとものを言う人だな、とも思った。

 バーノンは質問が嫌いだった。ハリーはいろんなことが気になって思わず質問するが、怒鳴られるだけで済む日はまだマシな方だった。

 だから、授業で手を挙げるのも少しだけ苦手だった。質問して呆れられたり怒られたりするのは嫌だし、見当違いのことを言ってみんなに笑われるのだって嫌だからだ。

 

「ホグワーツではそんなことを気にしなくていいんだよ。杖の使えない女だって卒業できたんだ」

「でも……僕、魔法のことなんて本当に何も知らなくて。ハグリッドが来るまで、全然違う世界で生きてたんです」

「マグル生まれは全員そうだよ。君の場合は……少し事情が特殊ではあるけどね」

 

 ふう、と息を吐いて、ベレニケは麻袋の口を結わえた。木くずがパンパンに詰まっている。

 

「君が抱えるその不安はすぐにどうこうなるものではないし、私はそのプロではない。まあでも、そうだね。質問したかったのにできなかったなーということがあったら……」

「あったら?」

「私のところへおいで。専門の先生方には及ばないけど、これでもそれなりに名の通った理論魔法学者だからね」

 

 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らしたのとは対照的に、モノクル越しに見えるアイスブルーの瞳はとても優しげにキラキラしていた。

 やっぱり不思議な人だな、とハリーは思った。どこか幼さが抜けきっていなくて、まるでそれほど歳が離れていない友達のように気安く話しかけてくる。それなのに、包み込むような温かさがある。

 ハリーはなんだか安心した気分になって、頷いた。

 

「よろしい。行くよ、ジプサム」

 

 なおん、と鳴き声が聞こえて、それで初めてハリーは猫がいることに気がついた。

 ジプサムと呼ばれたその猫は、石膏(ジプサム)という名前の通り真っ白で、眼だけが柔らかな黄金色をしていた。

 しなやかな足取りでハリーに近づいてきたジプサムは、何度かハリーのにおいを嗅いだあと、ハリーの足元に体を擦り寄せた。

 

「珍しいね、ジプサムが懐いてる。君は動物に好かれるタイプみたいだ。動物は好き?」

「わっ……え、動物ですか? 好きです。ふくろうも飼ってますし、あと蛇とか」

「蛇か。もしかして話せたり?」

「そうなんです、前にも動物園でガラガラヘビと話したことがあって。これって珍しいんですか?」

「えっ……うん、まあ、だいぶ珍しいかも。イギリスでは初めてだよ。インドだと蛇使いが多い関係でそうでもないんだけど、うーん……」

 

 ハリーは膝をついてジプサムを撫でていたが、ベレニケが困ったように呻いたので顔を上げた。

 どうやら蛇と話せるというのは本当に珍しいらしい。しかし、彼女の困りようを見るに、それだけの話ではないようだ。

 

「えっと……もしかして、よくないことなんですか?」

「そんなことないよ、私も実は教わったことがあって、簡単なのだけできる。『開け』とか『動け』とかね。インドの遺跡を調査してるときに、そういう仕掛けを解かなきゃいけないことがあって。半年修行したけど、会話までは無理だったな」

「じゃあ……僕みたいに元から話せるのは変なんですか?」

「変ではない。変ではないけど……一度マクゴナガル先生に話してみたほうがいいね。イギリスでは蛇語って偏見を持たれがちなんだ。ほら、スリザリンと言えば蛇でしょ?」

 

 確かに、グリフィンドールの談話室で蛇と喋ることができるなんて言ったらからかわれてしまうかもしれない。

 このことは当面内緒にしようと決めて、ハリーは頷いた。

 本当は、少しだけ嬉しくもあった。

 生まれつき蛇と話すことができたおかげで、ハリーは少なくとも友達がいない子どもではなかった。バーノンが憤慨する庭の厄介者たちは、ハリーにとって確かに友達だったのだ。

 その力が特別なものだと知れたことで、ハリーの胸の奥は少しだけ温かくなった。

 

「さ、行こうか。……そうだ、いい呪文を教えてあげよう。私の頃から変わっていなければ、これは授業ではやらない呪文なんだ。杖を出して」

 

 促されて、ハリーはポケットから杖を出した。

 

「わっ」

 

 冷たい感触に、ハリーは声を上げた。

 ベレニケの手が杖を握るハリーの手に添えられている。まるで後ろから抱きかかえられるようにして添えられたその手からは、ふわりと森のような濃い香りがした。

 添えられた手に促されるままに杖を振るう。優しく、導くように引かれた手が自分のものでなくなったようで、ハリーの心臓は早鐘を打っていた。

 

「振り方はこう。小さく四つの点をなぞって、それを中央に運ぶように。この4は4つの方位を意味するとともに、最も完全な立体を意味するテトラドで3次元世界のトラッキングを試みているんだ。詳しくは今夜にでも教科書の118ページを読んで」

「は、はい」

「よし、呪文を唱えよう。私に続いて……我が方角示せ(ポイント・ミー)

 

 耳元に近づいたベレニケの唇から伝わった音を、ハリーは何も考えずに唱えた。

 

「ぽ、我が方角示せ(ポイント・ミー)

 

 すると、杖先に光が灯った。

 光は杖先に留まったまま細長い三角形に形を変え、しばらくふらふらと動いたあと、窓の反対側を指し示して止まった。ハリーは直感的に、これが方位磁針と同じ呪文であることを理解した。

 

「もし光らせたくないときは、掌の上に杖を乗せて同じように唱えるといい。光るかわりに杖が回転するからね。終わらせるときは終われ(フィニート)だ。やってみて」

終われ(フィニート)

 

 途端に光は靄となって消え去った。

 これはとても便利な呪文だ。校内の大まかな配置さえ覚えてしまえば、自分がどの方角に進めばいいかだいたいわかる。もちろん、ホグワーツはそんな生易しいところではないことをハリーは身を持って知ったばかりだが。

 呪文が終わったのにベレニケがハリーの手を離さないので、ハリーは照れくささともどかしさの両方を感じながら身を捩って彼女を見上げた。

 

「あの……先生?」

「ね、とっておき教えてあげようか。成功させたらグリフィンドールに3点」

「とっておき? それって……」

「教科書には載ってないやり方なんだけど……北じゃなくて、目的地のほうを指し示すようになったら便利だと思わない?」

 

 ハリーは大きく頷いた。

 確かに方位磁針があるのは便利だが、ホグワーツの中で迷子になったときに見慣れない部屋ばかりだと方角がわかってもどうしようもない。誰か上級生が通りがかるのを待つしかなくなる。

 しかし、たとえば大階段を一旦の目的地に指定すれば、本当の目的地にはたどり着けなくても迷子の状態からは立ち直ることができる。

 

「少し難しい動きをするよ。平面四角形じゃなくて、杖先で正四面体を描くように。底面の正三角形を描いて、それから上へ……うん、上手だ。君の杖捌きはなかなかのものだよ」

「あ、ありがとうございます」

「よし、呪文を教えるね。そもそもpoint meのmeがいらなかったんだ。道を示せ(ポイント)でいい。今回は魔法史の教室だから、道を示せ、魔法史の教室へ(ポイント、魔法史の教室)だ」

「……やってみます」

 

 ハリーはぐっと集中して、杖先を睨んだ。

 杖先で素早く、しかし丁寧に正四面体を描く。そして、呪文を唱える。

 

道を示せ、魔法史の教室へ(ポイント、魔法史の教室)

 

 すると、今度は杖先から光が迸った。

 まるで地を這うように駆けていった稲妻が、廊下へと出ていく。そして、まるで転がった毛糸玉を追いかけるようにしてジプサムが廊下へと飛び出した。

 ハリーがそれを呆然と見守っていると、背中がとんと叩かれた。

 

「大成功だ! グリフィンドールに3点! 驚いたなあ、一発でうまくやるとは思わなかった」

「その……僕……先生のおかげです」

「うん、まあ、ちょっとは私も教え方がうまくなったかも。さ、呪文の光はまだ遠くまで行っていないはずだ。追いかけよう」

 

 ベレニケに手を引かれながら、ハリーは小走りで呪文の光を追いかけはじめた。

 心臓がドキドキしているのは、きっと急いでいるせいだった。

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