決闘騒ぎから数日が経った。
一躍話題の人となったベレニケは、決闘のことを訊かれるのを避けるかのように姿を消し、授業のときだけ現れるようになった。
ハリーはもどかしい思いを抱えたまま数日を過ごした。
色々なことが起きた数日間だった。ハリーはグリフィンドールのクィディッチチームに選ばれ、マルフォイに決闘を申し込まれ、騙されてフィルチから逃げ回った末に三頭犬を目撃した。
だから、久しぶりにベレニケの雑然とした部屋で紅茶を渡された時、ハリーはようやく一息ついたような気分になった。
「どうやら大冒険だったようだね?」
「えっと……?」
「教師のいいところはね、夜のホグワーツをうろついていてもフィルチさんに捕まらないことだよ。実は一度君らと入れ違いになったんだ。気づかなかっただろうけど」
ハリーはドキリとしながら、表情を隠すように紅茶のカップを口元に運んだ。
数日来ないうちに、部屋はますます散らかっていた。デスクには木の削りかすが散らばっていて、今度は中央に何か生き物の像ができている。
「それ、なんですか?」
「きっと君も知っていて、でも知らない生き物だ」
ベレニケが台座に手をやってぐるりと回して初めて、ハリーはその像の正体がわかった。
ドラゴンだ。
よくできていた。鋭い流線型の鱗が連なり、何ものをも拒むような冷たさを纏っている。翼膜は繊細に削り込まれていて、明かりが薄っすらと透けていた。開いた口からは鋭い牙が見えていて、今にも火を吐きそうだ。
「すごい……」
「この間話した、グリフォンライダー時代にやりあったドラゴンを彫ってみたんだ」
「この何日かでですか? これを?」
「うん、まあ、魔法でちょっぴりズルもした。こういう芸術っぽいことをするときにすぐ手を抜くのは私の悪い癖かもね」
少し照れくさそうに肩をすくめるベレニケは、今確かに口にした。魔法を使ったと。
ハリーはカップを膝の上に置いたまま、ずいと身を乗り出した。
「先生、やっぱり魔法を使えるんじゃないですか! 決闘のときだって!」
「そうとも。私は一言も魔法を使えないなんて言ったことはないからね」
「でも……杖は使えないんですよね?」
返事のかわりに、ベレニケはパチンと指を鳴らした。
すると、ベレニケの頭上にふわりと浮かぶ帯のようなものが姿を現した。よく見ると、そこには色とりどりの杖が刺さっていた。まるでオリバンダー杖店が移動販売に来たかのようだった。
ベレニケはその中から一本、深い茶色の角張った杖を引っ張り出した。
「ブナノキにユニコーンの毛、25cm、しなやかで変身術に最適。見ててごらん、ポッターくん……
ぱっと白い光が放たれ、ドラゴンの像を覆った。
一見すると、何も起こらなかったようだった。数秒間、部屋はあちこちに置かれた機械や植物、標本が立てる音で埋まった。
しかし、少し経ってから、ハリーは驚きに目を見張った。ドラゴンが首を動かしてハリーの方を見たのだ。
「うっわあ……」
「うんうん、やっぱかっこいいな。ドラゴンの像に仮初の命を吹き込む呪文だよ。変身術の呪文では特にお気に入りでね」
「はい、かっこいいです……じゃなくて、杖!」
ベレニケの指先がドラゴンの喉を撫でると、くるると甘えるような声でドラゴンが鳴いた。
その反対の手で、不思議なことが起きていた。つい先程魔法を使ったばかりの杖が、先から音もなく灰になっていくのだ。
少し困ったように笑って、ベレニケは杖を握っていた手を開いた。白い灰がさあっと床に落ちた。
「見ての通りだ。私は杖を使える。ただし、1本につき1回だけね」
「そんな……どうしてですか? 魔法の力が強すぎるから、とか?」
「はは、そんなかっこいい理由だったら私は今頃魔法戦士で生計を立てているよ。ちょっと呪われているんだ。伝染るものじゃないから安心してね」
聞いたこともない呪いだった。
「まるで杖が燃え尽きてるみたいだ」
「いい勘してるね。そのとおり、私が杖を使うと本気を出しすぎてしまうんだ。どんな杖も燃え尽きるまで全力を出してしまう」
「じゃあ……それで杖作りを?」
「まあ、家業でもあるからね。よっと」
ベレニケは慣れた手つきでデスクの脇から箒を取り出し、灰の上に立てた。
金の金具がついた高級そうな箒は、ベレニケが掃かずとも自分から勝手に掃除を始めた。魔法の箒だ。それも、空を飛ぶためではない、本来の用途の。
「フリントのやつに1週間掃除を申し付けようと思った矢先、これを送りつけてきてね。金で解決しようって魂胆が気に入らないんだよなあ」
「あの……先生はなんで決闘を?」
ハリーの問いかけに、ベレニケは意外そうに眉を上げた。
「気になるかい?」
「なんというか……先生はもっと、穏やかな解決手段を選ぶと思っていたので。フリントからふっかけたって話は僕も聞いたんですけど」
「ああー、うん、そうだね……君、口は堅い?」
カップを膝の上に置いて両手で口を塞いでみせると、ベレニケはくすりと笑った。
「わかった、信じてあげる。あのね……ホグワーツは結構危ないところだと思うでしょ?」
「はい、思います」
「未来のお嫁さんが怪我をしたら嫌だから、家で大人しく待っててほしかったんだって」
数秒、いや、数分だろうか。
ハリーの思考は完全に停止した。
お嫁さん? それは一体誰が、誰に対して言っているのだろうか。ベレニケが、フリントのお嫁さん?
ハリーが完全に混乱しているのを見て、ベレニケは声を上げて笑った。
「純血の家にはよくあることなんだよ、学生のうちからの婚約。私は結婚なんてするつもりないから、お断りしたいんだけどさ」
「ど、ど、どういう」
「というか、君もそのうち考えなきゃだめだからね? ポッター家なんてすごく歴史の長い家だし、たぶん君の次の代くらいからしれっと純血扱いされると思うよ」
「な……なんなんですか、その、純血とか」
「あれ、ウィーズリーとつるんでるから聞いてるもんだと思ってたよ。まあ簡単に言えば、先祖代々魔法使いかどうかみたいな感じかな。マグル生まれが入っていない血のことを言うんだよ」
混乱をまぎらわすように冷めはじめた紅茶を飲み干したが、まだ思考ははっきりしなかった。
結婚というのは、好きあった男女が愛しあって、その果てにするものだと思っていた。あのバーノンとペチュニアですら、仕事に行く朝には愛を囁いてキスしているのだから。
それなのにベレニケときたら、あんな野蛮で、陰険で、性格の悪そうな男と結婚するのか? それも、純血だからというだけで?
「んー、ちょっと君には早い話だったかな?」
「えっと……え、先生はフリントのことが好きなんですか?」
「可愛いなあ君は。好きあった男女が結婚するって思ってるんだろ。純血の家はね、血を絶やさないために結婚するんだよ。まあ、たまに駆け落ちする人もいないことはないんだけど……」
「え……じゃあ、先生は好きでもないのにフリントと結婚するんですか!」
「したくないってずっと言ってるんだけどね」
ひどくモヤモヤしながら、カップの底を覗き込んだ。沈んだ茶葉がまるで三日月のように固まっていた。月がハリーを笑っているようだった。
ベレニケは素敵な人だ。好きでもない人と結婚するのはよくない。そう思いながらも、それを口にするのはなんだか恥ずかしくて、ハリーは押し黙ってしまった。
しばらく俯いて黙っていると、突然視界の端に動くものが現れた。魔法で命を吹き込まれたドラゴンがハリーの膝に飛び乗ってきたのだ。
「う、わ」
「実はその子はとても人懐っこくてね。ある人に頼まれて作ったんだけど、その人はドラゴンを子犬か何かだと思ってるみたいなんだ。だから、性格をゴールデンレトリバーくらいにしてみた」
「えっ、あの、これって火を吐いたり」
「するよ?」
ちょうどその時、ドラゴンが大きく口を開いたのでハリーは思い切り上半身をのけぞらせた。
小さな炎の塊が吐き出され、天井へと飛んでいく。そしてそれが天井にぶつかって花火のように散るのを、ハリーは呆然と眺めていた。
木のドラゴンが火を吐いた。
魔法界はめちゃくちゃだ。ホグワーツはすぐ生徒を迷子にさせるし、ベレニケは好きでもない男と結婚の約束をさせられているし、挙句の果てに木のドラゴンが火を吐く。
嫌になって、ハリーは考えるのをやめた。
「まあ、魔法の火だから熱くもないし、何かを燃やしたりもしないんだ。そういう風に作ったからね」
「変身術って、そこまでできるんですか……」
「うん。マッチを針に変える授業はもうやったよね? 実力がついてくれば、まち針に変えることも刺繍針に変えることもできるし、上等な金製の細工入り針にすることだってできるんだから」
「……あれ? でも、呪文も杖の振り方も同じですよね?」
ハリーがふと浮かんだ疑問を口にすると、ベレニケが目を輝かせた。
「君は……ほんっとーに面白い子だ! よくそこに気がついたね!」
伸ばされた手がハリーの髪を崩すように撫でた。ベレニケの腕は見た目よりも力が強く、ハリーは目を回しそうになった。
「わ、先生……」
「そうなんだよ、呪文も杖の振り方も同じなのに想像力だけで結果が変わってくる魔法はたくさんある。心という力のモデル化は理論魔法学で長年議論されてきたテーマだね」
「心という力、ですか」
「愛とか、怒りとか、願望とか。魔法はそういうもの全てと結びついている。強い気持ちと正しいイメージがあれば、魔法は呪文や杖なしでだって使えちゃうんだよ」
「じゃあ……先生が決闘のときに使ったのもそうなんですか? あの、指先で招いたやつ」
ハリーの髪を撫で回していたベレニケの手が、ぴたりと止まった。
決闘の時、一瞬だけベレニケは魔法を使った。フリントの杖が振られている最中に軌道を曲げられたのを、ハリーは確かに見たのだ。
腕の動きとは異なる不自然な杖の乱れ。あの時唱えられた呪文は知らないものだったが、あの杖捌きがフリントの意図したものでないことはハリーにもわかる。
「……君、すごく目がいいね。それとも勘がいいのかな」
「先生?」
ベレニケは笑うのをやめて、興味深そうにハリーの目を覗き込んだ。
「大抵の生徒はね、フリットウィック先生が撒いてくれたほうの餌に食いつくんだよ。本当は杖を使えるんですかー、ってね。あのときの妨害方法まで聞いてきたのは君が初めてだ」
「ありがとうございます、先生」
「でも、教えられない。あれは私のとっておきでね。……まあ、調べる分にはいいとしよう。君は冴えてるから、もしかしたら答えに辿り着くかもね」
もう一度わしゃわしゃとハリーの頭を撫でてから、ベレニケは腕を下ろした。
木彫りのドラゴンを抱えながら、ハリーはぼんやりとベレニケが言ったことについて考えた。一体彼女のとっておきとは何なのだろうか。
「それに、もう出した宿題もあるからね。ボトルシップの謎は解けたかい?」
「あっ!」
「ふふ、いつでもいいから答えにおいで。そろそろ寮に戻ったほうがいい、友達との時間も大切にね」
たくさんの謎ともやもやに包まれて、ハリーは自分がどこを歩いているのかはっきりしないまま寮まで帰った。
ベレニケはあまりにも謎だらけの人だ。
杖の呪い。杖を使わない不思議な魔法。ボトルシップ。ハリーにはすべての謎を解ききれる自信がなかった。それでも、ベレニケの謎に挑むのは楽しくて、ワクワクさせられた。
しかし、今日は前に訪ねたときよりも気持ちが沈んでいた。
決闘のときに見たフリントの顔が、妙にちらついて離れない。