「言い方が間違ってるわ。レヴィオーサよ。あなたのはレヴィオサー」
「そんなにお得意なら君がやってみろよ! さあどうぞ!」
ロンが顔を真っ赤にして怒っている。
どう口を挟むべきか、ハリーは悩んでいた。ハリーは
浮遊呪文、ウィンガーディアム・レヴィオーサ。この聞き慣れない呪文について、ハリーは魔法理論の教科書を使って少しだけ予習をしていた。
「くそっ、あとちょっとで上がりそうなのに……ハリー、何書いてるの?」
「ううん、なんでも」
ディーンの問いかけに対して曖昧に濁しながら、ハリーは呪文を単語に分解した。
この呪文は英語とラテン語の複合になっている。
英語の
そして、教科書曰くここが重要なのだが――
「母音の長短、かあ」
「え、何?」
「なんでもないよ、シェーマス」
羽根を2つも爆発させて煤だらけになっているシェーマスは、もう自分の立てる爆音で耳が遠くなっているようだった。
魔法理論の教科書に書かれていた歴史のコラムによれば、古英語には母音の長短を区別する手段がなかったらしい。その慣例が今も残っていて、英語は発音と綴り字で母音が乖離してしまう。
ところが、ラテン語は全く逆で、発音でも綴り字でも母音の長短によって単語の意味が変わってしまうのだ。
だから、ラテン語が入っている呪文では特に母音の発音に気をつける必要がある。
「……
杖の動きは正確に、発音は淀みなく。音節を意識し、長短、高低の区別をはっきりつけて。
魔法理論に従っただけで、ハリーの目の前に置かれた白い羽根はふわふわと浮遊しはじめた。頭上1メートルほどのところで留まった白い羽根が、クラス中の注目を惹いた。
「おお! ミスター・ポッターがやり遂げましたぞ! 皆さん、見てください! お見事です、グリフィンドールに2点差し上げましょう!」
隣でロンが自慢げに鼻を鳴らすのを聞いて、ハリーは少しだけ安心した。
ロンの発音ではどうやっても成功しない。だから、抜け駆けしたような気分がして少し居心地が悪かったのだ。ただでさえロンは今にもハーマイオニーに噛みつきそうなほど怒っていたのだから。
その後、ハーマイオニーも成功させたが、フリットウィックはハーマイオニーに点数をくれなかった。
少しだけ気まずい気持ちになりながら、ハリーはロンと並んで教室を後にした。
「だから、誰だってあいつには我慢できないっていうんだ。君がやってくれてスカッとしたよ」
「うん……」
「まったく、悪夢みたいなやつさ。だから友達がいないんだよ」
誰かがハリーにぶつかり、追い越していった。
ハーマイオニーだ。泣いている。ハリーにはその気持ちがわかるような気がした。しかし、ハリーには彼女を庇う権利があるのかわからなかった。
「今の、聞こえたみたい」
「それがどうした? 誰も友達がいないってことはとっくに気づいてるだろうさ」
そう言いながらも、ロンの表情は優れなかった。
よくないことだ。
ハリーはマグルの学校に通っていたころ、あまり友達がいなかった。ダーズリーの家では綺麗な服も買ってもらえなかったし、教科書もバザーのお古だった。それに、ダドリー軍団がハリーのことを悪く言って回った。
きっと、ロンにはそういう経験がないのだろう。兄弟とも仲が良いし、ホグワーツに来てからもシェーマスやディーンとうまくやっている。
友だちと過ごす時間は大事にしなさいとベレニケが言っていた。ロンはいい友達だ。だから、今を大事にしたい。
少し悩んでから、ハリーは口を開いた。
「ねえ、でも……泣いてたよ、あの子」
「うん、まあ……まずかったかな」
「だいぶまずかったかも。あとで一緒に謝ろうよ」
「あー……うん、そのほうがいいか。まあ、さすがに女の子を泣かせたってバレたらママがなんて言うか……」
ロンが謝ることに同意してくれたので、ハリーはほっと胸を撫で下ろした。
別に、ハーマイオニーが好きだとか、可哀想だとか、そういうわけではない。まだ彼女のことは口うるさい真面目ちゃんとしか知らない。
ただ、同じ寮で7年間やっていくのだから、それ以上のことを知ることだってあるだろう。ダドリーだってハリーのジョークで笑い転げたことがあった。そういうことを逃すのは、少し寂しい。
しかし、ふたりの謝るという決意に反して、ハーマイオニーは姿を現さなかった。
今夜はハロウィーン・パーティーだというのに、ハーマイオニーは出てこない。パーバティがラベンダーに話していたことを聞く限りでは、女子トイレにこもっているらしい。
「いくらなんでも寝るときには帰ってくるだろ」
ロンがかぼちゃのサラダを頬張りながらそう言った。少し心配ではあったが、ハリーもそれに同意してチキンにかじりついた。
金色の皿から皮付きポテトのおかわりをよそっていたちょうどその時、大広間の扉が開け放たれた。
「――トロールが……地下室に……!」
呼吸を引きつらせたその声は聞き取りづらかったが、教員席の中央に座っていたダンブルドアはすっと笑みを消した。
クィレルが手を震えさせて訴えようとしている。恐怖。絶望。
「お知らせ、しなくてはと」
そこまで口にして、クィレルは崩れ落ちた。気絶したのだ、と誰にでもわかった。
直後、悲鳴と怒号が大広間を包んだ。もはやハロウィーン・パーティーどころではなかった。
ハリーもなんとなく、トロールというものが恐ろしいものであることは理解していた。隣に座るロンの恐慌状態を見ればわかる。
杖先から生み出した爆竹を何発か爆発させてようやく、ダンブルドアは皆を静かにさせることができた。とはいえ、それは恐慌状態が怯えに震える状態に移行しただけとも言えた。
「監督生はすぐさま自分の寮の生徒を引率して寮に帰るように」
ハリーとロンはグリフィンドールの集団の最後尾について、足を震わせながら寮へと向かった。
「いったいどうやってトロールは入ってきたんだろう」
「僕に聞いたって知らないよ。トロールって、すっごく馬鹿なやつらしいよ。もしかしたらハロウィーンの冗談のつもりでピーブズが入れたのかも」
他愛のない会話にも怯えと苛立ちがあった。
ハリーは段々と教科書に書かれていたトロールのことを思い出しはじめた。体臭のきつい巨体の化け物で、粗野な木の棍棒を持っている。身長4メートルの怪物だ。
もしそんなものに襲われたらひとたまりもない。トロールは肉食だ。それも、人間の肉だって食べる。
「もし襲われたら……ちょっと待って、ハーマイオニーだ!」
「あいつがどうかした?」
「トロールのこと知らないよ!」
ロンは一瞬迷ったように唇を噛んでから、頷いた。
「わかった、行こう。パーシーに気づかれないようにしなきゃ」
人混みに紛れ、ハリーは杖を抜いた。
ホグワーツにはたくさんの女子トイレがある。どこにハーマイオニーがいるかはわからない。だから、教わった「とっておき」を使おう。
「ハリー、何するんだ?」
「見てて……
できるだけ目立たない光をと念じた思いが通じ、ハリーの杖先からおぼろげな光の糸が現れた。
これを手繰っていけば、ハーマイオニーに辿り着けるはずだ。
「すっげえ……」
「行こう!」
ハリーとロンは静かに駆け出した。
右往左往するハッフルパフ生の集団をかいくぐり、喚き立てる絵画の横を素通りし、大階段の手すりに指を滑らせる。
3階まで登ったところで、ハリーとロンは立ち止まった。見知った影を見つけたからだ。ハリーとロンは咄嗟にグリフォンの像の陰に隠れた。
「スネイプだ。何してるんだろう……他の先生と一緒に地下室に行かなくていいのかな」
「知るもんか」
「4階の方に向かってる。……待って、何か臭わない?」
あたりに漂いはじめた悪臭に、ハリーは眉をひそめた。
治安の悪い公衆トイレのような、金気まじりの饐えたにおい。鼻につんと来る、えづくようなそれがじわじわと近づいてくるのを感じた。
低い唸り声、引きずるような音、
ふたりが物陰に隠れて身を縮めていると、月明かりに照らされてその大きな怪物が姿を現した。
「トロールだ」
そう、トロールだった。それも、
墓石のような鈍い灰色の肌を錆まじりの鎧が覆っている。その鎧の縁は赤く光り、何か魔法を帯びていることを感じさせた。
木の棍棒ではなく金属製のメイスを手にしている。それをずりずりと引きずって歩いているので、床に傷がついているのがハリーたちからも見えた。
トロールはドアの前で立ち止まり、しばらくしてその中に前屈みで入っていった。無骨な兜が石製のドア枠を削った。
「ハリー、見て! 鍵穴に鍵がついたままだ!」
「よし、それじゃあ……待って」
ハリーは気付いた。
杖先に灯した魔法の糸は、そのドアの先を指し示している。
ここが女子トイレだ。
「ここだ、ロン……大変だ、中にハーマイオニーがいる!」
その瞬間、中から悲鳴が聞こえた。甲高い、恐怖で立ちすくんだような悲鳴。
ついで聞こえた残酷な破砕音に、ハリーとロンは部屋の中へと駆け込んだ。
「助けて! 誰か!」
奥の壁に貼りついて縮み上がったハーマイオニーに対して、トロールはもぎ取った洗面台を投げつけようとしていた。
咄嗟にハリーは杖を構えた。
「
トロールが投げようとした洗面台はハリーが放った青白い閃光に貫かれ、見当違いの方向へと飛んでいった。
「こっちに引きつけろ!」
ハリーは叫んだ。
無我夢中だった。作戦などありはしない。なんとかこの状況から脱して、全員無事で逃げ出すことだけを考えていた。
へし折れた蛇口を拾って力いっぱいトロールに投げつけた。鎧に当たって金属どうしがぶつかる嫌な音がした。
「やーい、ウスノロ!」
ロンが投げた金属パイプが、鎧と兜の継ぎ目、ほとんどない首に当たった。それでようやく、トロールはゆっくりと振り返った。
兜の隙間から眼が見える。充血している。飢えているのだ。柔らかい肉を前にしてトロールは興奮している。
「早く、走れ! 走るんだ!」
恐怖に竦みそうになりながらハリーは叫んだが、ハーマイオニーはもはや一歩も動けそうになかった。
トロールは唸り声を上げて、ロンに向かってメイスを振りかぶった。
ハリーは頭が真っ白になって、気づくと走り出していた。
巨大な背中に飛び乗る。金具を伝って這い上がり、異臭を放つ首に掴まる。そして、ハリーは杖をトロールの鼻に突き刺した!
「ハリー!」
痛みにトロールが呻いた。そして、振り下ろそうとしていたメイスをめちゃくちゃに振り回した。
ハリーはもう何もわからなくなりながら、それでも杖に力を込め、叫んだ。誤ったフリペンド、外皮をなぞるように衝撃を放つフリペンダスの代替となる呪文。それをハリーはベレニケから教わっていた。
鼻の穴に刺さった杖を振る方法はない。正しく呪文を唱える自信もない。ただ、強い気持ちだけがハリーを突き動かしていた。
「
赤い衝撃が、トロールの頭から兜を吹き飛ばした。
ココナッツのような小さい頭が露出して、一瞬トロールは眩しさに怯んだ。メイスを振り回していた腕が、メイスを振りかぶったまま止まった。
「ロン! 今だ!」
ロンが杖を構えた。
唱え方はもうハーマイオニーに教わっている。手本はハリーが示した。ならば。
「
浮き上がったメイスがトロールの手から抜け、そして脳天を貫いた。
これが、ハリー、ロン、ハーマイオニーにとって最初の冒険の記録だ。