「『
杜王町の北の外れにある〈水の杜キャンプ場〉の一角で、革張りのバタフライチェアに腰掛け、暮れ
目にした者を魅了し、捕らえて離さない濃密かつ幽玄な空の色は、黄金の精神と星形のアザをその身に宿すジョースター家の子孫の一人で、かつて
夏を鮮やかに彩る青葉を宿した木々は、日が落ちたことですっかり黒一色のシルエットとなり、
露伴の前で揺らめく焚き火の灯りが、これまで知らなかった経験を得て満ち足りた表情を浮かべるその頬を赤らめる。
編集者や出版関係者、ましてや東方仗助や虹村億泰たちに向けて『たまにはみんなで楽しくバーベキューなんてのもいいかと思ってね。どうだい?君たちも来るだろ??』などと露伴が誘いの声をかける筈もなく、彼がキャンプ場に来ていた理由は、例に漏れず作品に〈
『キャンプを題材にした巻頭カラーを書いてほしい』という担当編集者からの依頼を受けた露伴は、S市で一番大きいアウトドアショップに出向いて気になったキャンプ用品を見繕うと、はやる気持ちを抑えて、漫画家としての仕事を迅速かつ丁寧に終わらせ、そこから数日を経た今、街中の喧騒を忘れるほどに静かで落ち着いたキャンプ場の一角で実りある時間を満喫していた。
焚き火から弾けた火花が、飽きもせず鳴き続ける蛙の声に合わせて拍をとる。黒く沈みゆく深緑に囲まれながら、露伴は一枚の〈名刺〉を見つめていた。名刺の名の通り、〈ソレ〉には接客した人物の名前や所属する店舗名、電話番号などが印字されていたが、露伴が気にしていたのは名前の上にある〈販売主任〉という四文字だった。そのときの接客が焚き火の揺らぎの中に浮かびあがる。
『このチェアが欲しいって言いましたああ??それは無い。ナンセンスッ。△△のバタフライチェア以外チェアとは言わないんですよォ~~。その他は単なる腰掛けですね。こ・し・か・け!
吹き込んだ風で炎が大きく揺らいだことで、忌まわしき幻影が消える。
客を小馬鹿にしたような物言いの接客はその後も続き、あまりの苛立ちから〈岸辺露伴を認識できなくなる〉とでも書き込もうかと思ったが、知識をひけらかすだけあってキャンプに対する造形は深く、結局のところその独り善がりな
「知識が豊富なのは
『今となってはどうでもいいがな』物言わぬ焚き火相手に吐いた独り言を溜息と共に吐き出した露伴は、小さくなっていく目の前の炎に数本の小枝を焚べた。それはキャンプ場に落ちていた何の変哲もないただの小枝。バタフライチェアの横にはアウトドアショップで購入した薪が置かれていたが、それらを焚べずにわざわざ貧相な枝を燃料として焚べたのは例に漏れずまだ見ぬ体験を得るためだった。
夜に揺蕩う炎の中で時折乾いた音が鳴る。枝に着火してから燃え尽きるまでの色の移り変わりと時間。熱と煙に紛れて
「ケンちゃああ〜〜〜ん!ムシ、ムシッ!ほらそこッ!キモいのがアタシに寄ってきてるンだってばあああ~~!!」
「ケイコよォ……そんなヤらしい声で何度もキャンキャン鳴かなくったって聞こえてるっつーの。まァ、プリンセスを守るのが
炎に魅入られた一匹の蛾が、
「生半可な気持ちで俺の大事な『プリンセス』に
『これがホントの
「さっすがケンちゅわあ〜〜ん!頼もしい上に物知りィ〜〜〜!ますます好きになっちゃったあああ〜〜〜♡」
貪るような口付けが露伴の視界の隅に映り込む。
高い湿度と滲み出る汗によってベタつく熱帯夜のような一連のやりとりを観察しながら露伴は思う。きっとこの二人は互いのことさえ覚えていれば、例えその他全ての記憶を失ったとしても幸せであり、愛さえあれば無から有を作り出すことなど容易いことなのだろう、と。
そういった考えを持つ
視線を再び空へと戻し、誰に言うでもない言葉を胸の中で並べ立てる。
(青空、曇天、寒空、夜空……。普段遣いされるこういった『空を表す言葉』の他にも、そういった類の言葉は山ほどある。
サイドテーブルに置かれたステンレス製のカップに注がれたコーヒーを飲み干して露伴はさらに続ける。
(名前を持たない『未知の現象』への『畏れ』から名前を付けるに至ったのか、ただ単にその時代に
『偉そうなことを言ってはみたが、それはぼくも同じか』露伴は誰にも聞かれぬよう、かつて自身が
先のカップルたちは不意に漏れた露伴の独り言を気にも留めず、蝉と蛙の混声合唱に負けないほどの愛のバラードを奏でている。
「『恋は盲目』……。
薪を焚べ、瞼を閉じ、鳴り止まない愛の囁きを忘れ、暑さに蒸れる木々の香りを嗜む露伴が記憶を捲る。それはキャンプ用品を買いに出掛けた日に起きた、
岸辺露伴は動かない
──健忘蝶──