岸辺露伴は揺るがない『健忘蝶』    作:甘草粥

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ぼくを知らない君の名前を

 プロローグ 

 

黄昏時(たそがれどき)』とはよく言ったものだ」

 杜王町の北の外れにある〈水の杜キャンプ場〉の一角で、革張りのバタフライチェアに腰掛け、暮れ(なず)む空を見上げた漫画家──〈岸辺露伴〉が独りごちる。

 目にした者を魅了し、捕らえて離さない濃密かつ幽玄な空の色は、黄金の精神と星形のアザをその身に宿すジョースター家の子孫の一人で、かつて杜王町(この地)を訪れたこともある〈ジョセフ・ジョースター〉が有していた幽波紋(スタンド)──〈隠者の紫(ハーミット・パープル)〉を想起させた。

 黄昏時(たそがれどき)逢魔ヶ時(おうまがとき)大禍時(おおまがとき)……。名付け親こそ定かではないが、その時間帯にはいくつかの〈名前〉が与えられていた。日が沈み、目の前にいる存在の姿が闇に呑まれて誰なのか見分けることができず、『そこにいるのは(誰ぞ彼)誰ですか』と尋ねてしまうほどの仄暗さで満たされる昼と夜の境界線。そして、それとは別に〈人ではないモノに出逢うかもしれない時間〉という意味も込められていた。

 夏を鮮やかに彩る青葉を宿した木々は、日が落ちたことですっかり黒一色のシルエットとなり、(まだら)な黒の隙間から覗く空は、この世(・・・)なら(・・)ざる(・・)()を呼び寄せるに相応しい妖艶な色に染まっていた。

 露伴の前で揺らめく焚き火の灯りが、これまで知らなかった経験を得て満ち足りた表情を浮かべるその頬を赤らめる。

 編集者や出版関係者、ましてや東方仗助や虹村億泰たちに向けて『たまにはみんなで楽しくバーベキューなんてのもいいかと思ってね。どうだい?君たちも来るだろ??』などと露伴が誘いの声をかける筈もなく、彼がキャンプ場に来ていた理由は、例に漏れず作品に〈リアリティ(・・・・・)〉を持たせる体験(・・)を得る〈調査〉のためであった。

 『キャンプを題材にした巻頭カラーを書いてほしい』という担当編集者からの依頼を受けた露伴は、S市で一番大きいアウトドアショップに出向いて気になったキャンプ用品を見繕うと、はやる気持ちを抑えて、漫画家としての仕事を迅速かつ丁寧に終わらせ、そこから数日を経た今、街中の喧騒を忘れるほどに静かで落ち着いたキャンプ場の一角で実りある時間を満喫していた。

 焚き火から弾けた火花が、飽きもせず鳴き続ける蛙の声に合わせて拍をとる。黒く沈みゆく深緑に囲まれながら、露伴は一枚の〈名刺〉を見つめていた。名刺の名の通り、〈ソレ〉には接客した人物の名前や所属する店舗名、電話番号などが印字されていたが、露伴が気にしていたのは名前の上にある〈販売主任〉という四文字だった。そのときの接客が焚き火の揺らぎの中に浮かびあがる。

『このチェアが欲しいって言いましたああ??それは無い。ナンセンスッ。△△のバタフライチェア以外チェアとは言わないんですよォ~~。その他は単なる腰掛けですね。こ・し・か・け!腰置き(・・・・)でもいいかもね……ハハッ。いいですかああ~~?そもそもアウトドアチェアっていうのはですねぇ~~……』

 吹き込んだ風で炎が大きく揺らいだことで、忌まわしき幻影が消える。

 客を小馬鹿にしたような物言いの接客はその後も続き、あまりの苛立ちから〈岸辺露伴を認識できなくなる〉とでも書き込もうかと思ったが、知識をひけらかすだけあってキャンプに対する造形は深く、結局のところその独り善がりな演説(・・)を最後まで聞くに至ったのであった。

「知識が豊富なのは確か(・・)だ。ソレは認めよう。だが『接客』っていうのは結局のところ『総合評価(・・・・)』だ。知識、言葉遣い、対応力……。『接客』の良し悪しってのはこういった細分化された要素によって決まる。つまりこの名刺に書かれた『販売主任』の肩書きが彼に相応しいか否かで言えばそれはノー(・・)だ」

 『今となってはどうでもいいがな』物言わぬ焚き火相手に吐いた独り言を溜息と共に吐き出した露伴は、小さくなっていく目の前の炎に数本の小枝を焚べた。それはキャンプ場に落ちていた何の変哲もないただの小枝。バタフライチェアの横にはアウトドアショップで購入した薪が置かれていたが、それらを焚べずにわざわざ貧相な枝を燃料として焚べたのは例に漏れずまだ見ぬ体験を得るためだった。

 夜に揺蕩う炎の中で時折乾いた音が鳴る。枝に着火してから燃え尽きるまでの色の移り変わりと時間。熱と煙に紛れて(くゆ)る枝が燃える香り。小枝が紡ぎ出す物語(事実)を炎に照らされた碧い双眸は余すところなく記憶していく。

 (まぶた)を閉じた露伴が今度は音の情報に耳を傾ける。だが聞こえてきたのは炎の弾ける音でも、池を抜け出して散歩しに来た蛙の鳴き声でもなく、一人の時間を満喫している露伴には酷く耳障りな雑音だった。

「ケンちゃああ〜〜〜ん!ムシ、ムシッ!ほらそこッ!キモいのがアタシに寄ってきてるンだってばあああ~~!!」

「ケイコよォ……そんなヤらしい声で何度もキャンキャン鳴かなくったって聞こえてるっつーの。まァ、プリンセスを守るのが王子様(俺っち)の仕事なワケだけどよォ───」

 ()がもたれるほどの甘ったるい声。露伴は汚物でも見るかのような眼差しで声の出所を探る。それは少し離れたところで露伴と同じように焚き火に興じる若い男女の戯れ(・・)の音だった。胸の部分に印刷された二つ並びの〈K〉が特徴的なペアルックコーデに露伴は胸焼けを覚えたが、『これもまた貴重な資料(・・)だ』と自らに言い聞かせ、二人の言動に感覚を澄ませた。

 炎に魅入られた一匹の蛾が、ケイコ(・・・)と呼ばれた女の頭上で歪な円を描いて回っている。ケン(・・)ちゃん(・・・)と呼ばれた男は地面に突き刺さった火バサミを手に取ると、女に執心な蛾を目にも留まらぬ速度で捕らえ、火バサミからはみ出た大きな(はね)を世話しなくばたつかせるソレ(・・)を迷うことなく燃え盛る炎の中へ突っ込んだ。

「生半可な気持ちで俺の大事な『プリンセス』に近づいた(・・・・・)から火傷した(こうなった)んだぜェ───?言っとっけどよォ……悪いのはオマエの方だからなああああ───??」

 『これがホントの飛んで(・・・)火に入る(・・・・)夏の虫(・・・)ってやつよ』火バサミの先端に付いた蛾の燃え(カス)を吐息で払い、男は自慢げに呟いた。

「さっすがケンちゅわあ〜〜ん!頼もしい上に物知りィ〜〜〜!ますます好きになっちゃったあああ〜〜〜♡」

 貪るような口付けが露伴の視界の隅に映り込む。

 高い湿度と滲み出る汗によってベタつく熱帯夜のような一連のやりとりを観察しながら露伴は思う。きっとこの二人は互いのことさえ覚えていれば、例えその他全ての記憶を失ったとしても幸せであり、愛さえあれば無から有を作り出すことなど容易いことなのだろう、と。

 そういった考えを持つ人種(・・)が一定数いることは、経験則から理解していた。しかし、ふと我に返り、『せっかくのキャンプを後回しにしてまでこのようなことを考えるのやめておこう』と、首を振って頭に浮かんだそれらの思念と〈山岸由花子〉の顔を振り払う。

 視線を再び空へと戻し、誰に言うでもない言葉を胸の中で並べ立てる。 

(青空、曇天、寒空、夜空……。普段遣いされるこういった『空を表す言葉』の他にも、そういった類の言葉は山ほどある。暁天(ぎょうてん)秋旻(しゅうびん)幽天(ゆうてん)……天の原(あまのはら)なんかもそれにあたるか)

 サイドテーブルに置かれたステンレス製のカップに注がれたコーヒーを飲み干して露伴はさらに続ける。

(名前を持たない『未知の現象』への『畏れ』から名前を付けるに至ったのか、ただ単にその時代に名付け(・・・)たがり(・・・)のヤツがいただけなのか……。あるいは『何者か(・・・)』にそう『仕向けられた』のか……。理由はさておき、人間という生き物は往々にしてこの世の森羅万象全てに『名前』を付けたがる。遺伝子に組み込まれた『本能』ってヤツかもしれないな)

 『偉そうなことを言ってはみたが、それはぼくも同じか』露伴は誰にも聞かれぬよう、かつて自身が名付けた(・・・・)宿敵〉の名前を胸の中で独りごちる。

 先のカップルたちは不意に漏れた露伴の独り言を気にも留めず、蝉と蛙の混声合唱に負けないほどの愛のバラードを奏でている。

「『恋は盲目』……。知らない(見えない)方が幸せってのもあながち嘘じゃあないらしい」

 薪を焚べ、瞼を閉じ、鳴り止まない愛の囁きを忘れ、暑さに蒸れる木々の香りを嗜む露伴が記憶を捲る。それはキャンプ用品を買いに出掛けた日に起きた、()の〈宿敵〉との闘争記のページだった。

 

 

 

岸辺露伴は動かない

──健忘蝶── 

 

                  

 

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