岸辺露伴は揺るがない『健忘蝶』    作:甘草粥

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健忘蝶 その①

「二度と俺の愛車に乗るんじゃねえぞこのゲロカス野郎ォォォォ───ッ!!」

 ささくれだった言葉と共に排気ガスを撒き散らしながら非情に走り去るタクシーの背中を露伴は見つめていた。降ろされた場所は露伴が指定した通り自宅前(・・・)ではあったが、見ず知らずの場所へ置き去りにされたかのような遣る瀬無い感情によって露伴の表情は歪んでいた。

それなり(・・・・)の運賃は払ったんだから玄関先まで運んでくれたっていいんじゃあないのか?」

 僅かに肩を落としながら届くことのない小言を溢す露伴の傍らにはキャンプ用品が山積みになって置かれている。それらを家の中へと運び込む露伴の肩から下がる鞄の中には、本来(・・)払う(・・)べき(・・)だった(・・・)乗車料金を大きく超えた〈二万七〇〇円〉の値が印字された〈領収書〉が入っていた。

 季節は夏。焼け付いたアスファルトから立ち昇る殺気すら感じさせる茹だる熱気が露伴の気力を奪っていく。荷物の山と玄関を何度も往復する露伴の足取りは重かったが、歩みを鈍らせる原因は領収書に刻まれた金額でも暑さのせいでもなく他のところにあった。

 時は十数分前に遡る。

 

 S市での買い物(用事)を済ませた露伴はタクシーを拾い帰路についていた。市内へ来る際は、駅構内の雰囲気や客層、そして彼らの言動を〈観察〉するために電車を利用したのだが、思いの外荷物が多くなってしまったため、帰りはタクシーを利用する運びとなった。

 途中で立ちよった本屋で購入した図録に目を通そうかとも思ったが、所謂人疲れによってその気力も最早残っておらず、座席に身体を預けた露伴は特に意味もなく窓の外を眺めていた。

 見慣れたはずの街並みは、まるでそこだけ時の流れが加速しているかのように日々目まぐるしく変わっていく。再開発によって拡充された駅前のバスロータリー。駅東口にあった駐車場は再開発に伴って整地され、新たに建てられる大型家電量販店別館の下敷きとなってしまった。街で一番大きな交差点の角ビルにへばりつく真新しい大型ビジョンには、来月公開予定のフラッシュモブを題材にした映画の広告が流れている。

 自身の予想を超えて進化していく街を眺めていた露伴を、落ち着かない様子でバックミラー越しに覗いていた運転手が口を開く。

「もしかして……漫画家の岸辺露伴先生ですかあああ───?」

「ああ。確かにそうだが…………」

 『前にどこかで会ったか?』喜色に満ちた問い掛けに、車内に掲示されている運転手のネームプレートを一瞥(いちべつ)してからルームミラーに映った運転手の顔に目を向ける。しかし、プレートに印字された〈富谷(とみや)恭平(きょうへい)〉という名前にも、見るからに人当たりの良さそうなふくよかな人相にも見覚えは無かった。

「とんでもないッ!ただ単に僕が露伴先生のファンってだけですよォ」

 運転手の男──富谷恭平は、ミラー越しに向けられた露伴の怪訝な表情に対し、機嫌を損ねてしまったと思ったのか慌てて情報を付け加える。

これ(・・)を見れば僕がそこらのミーハー(・・・・)なヤツらとは違う……って分かってもらえると思うんですがねェ?」

 したり顔の富谷はそう言うと、吊り革を握るかのように左腕を曲げて露伴によく見えるように手首を後部座席の方へと近付ける。〈ソレ〉は自身の代表作である〈ピンクダークの少年〉の連載十周年を記念して百本だけ作られた極めて希少な〈腕時計〉だった。

 露伴がデザインを手掛けた文字盤は、紫を基調として同作品の人気キャラクターの意匠があしらわれたものとなっており、腕時計にあまり執着の無い人間からすると、従来品のラインナップのひとつに見えるかもしれないが、ファンが見れば即座にピンクダークの少年とのコラボ商品だと分かるような、ファン心理を(くすぐ)る巧妙なバランスを保ったデザインとなっていた。

 話を聞くに抽選には当たらなかったものの、どうしても諦めきれず、亡くなった父親の遺産の殆どと愛車を売り払って得た金をオークションに注ぎ込んでなんとか勝ち取ったのだという。

 予期せぬ邂逅(かいこう)に対し、二者二様の反応を示す二人を他所に、カーステレオから流れる杜王町レディオでは同番組のメインパーソナリティー──〈カイ原田〉が〈星座占い〉の結果を告げていた。

 

今日最も運勢がいいのはああ~~……『かに座』のあなた~~ッ!大好きな(・・・・)あの人と(・・・・)急接近(・・・)できちゃ(・・・・)うかも?(・・・・)『ラッキーアイテム』は『紫色の腕時計』……というわけでェ、え~~何を隠そう(わたくし)、カイ原田。時計には少々──……

 

 富谷がカーステレオのボリュームを左に捻る動きに合わせて、含みを持たせたカイ原田の言葉が尻すぼみになっていく。

「この『占い』ときたらいつもはてんでダメ(・・・・・)なんですがね?今日ばかりは『ど真ん中・特大ホームラン』ってところですかねェ~~ヘヘッ」

 高揚感による多少の支離滅裂さ(・・・・・)は見られたが、その喜びが一入(ひとしお)であることは誰が見ても一目瞭然だった。

 露伴は占いを信じる(たち)ではない。それはこうしたラジオ番組や地上波の朝のニュース番組の繋ぎ(・・)として設けられる箸休め的な意味も併せ持つチープな星座占いに限らず、対面形式で行われる本格的な占星術やタロット占いといった類いも含まれる。それ故、そういった占いを盲信する人間のことを今日(こんにち)に至るまで理解できずにいた。しかし、此度の富谷のように、こうも偶然が重なってしまうと、さもそれが占いに従ったことによって幸運が(もたら)されたのだと錯覚してしまうのも無理はないように思えた。

 こうした些細な幸運が積み重ねられることで、占いによって導き出された天啓(・・)(すが)るようになり、度を越した傾倒の最中(さなか)で己を見失い、終いには身を滅ぼす人間が出てくることにも頷けると露伴はそれまでの自身の考えを改めた。

 〈占い〉とは〈偶然の産物〉である。そうした思いが未だ根底にあったものの、ファンの至福の喜びに資することができるのであれば、占いという〈仕組み(メカニズム)〉を成立させるための〈歯車〉となるのも(やぶさ)かではなかった。

 

 ここで出逢えたのも何かの縁だと思い、露伴は熱狂的なファンである富谷の思いに応えてピンクダークの少年の制作秘話などを交えながら帰宅までの時間を潰すことにした。

 制作秘話とは言ったものの、それは二週先に発売される週刊少年ジャンプに掲載される特集の内容を先んじて話しただけに過ぎない。とはいえ、未だ世に出ていない情報なのは確かであり、そこには少なからず〈リスク〉が存在していた。しかし、そのリスクを取るに値するだけの〈熱量〉を富谷は持っており、むしろこれこそが漫画家・岸辺露伴を取り巻くあらゆるしがらみ(・・・・)に折り合いを付けた上で、選ばれし百人(・・)の内の一人に示すことができる〈誠意の形(最適解)〉だと思い、話すに至ったのだった。

 〈百本の腕時計〉が販売されたことで、新人漫画家であれば目が眩むほどの大金が露伴の口座に振り込まれたが、当の露伴は金額云々よりも、それほどまでに自身の作品を愛してくれる読者が居たという事実の方が喜ばしく、漫画家としての矜持も刺激された。

 相手を〈本〉に変化させて心の中を読み、任意の命令(・・)を書き込むことができる能力──〈ヘブンズ・ドアー〉を用いれば、情報が公に解禁されるまで富谷の口に()を掛けることは容易だったが、男が軽率に口外するとは露伴には微塵も思えなかったし、もし仮に情報が流出したとしても、全ての責任を負う〈覚悟〉があった。それは腕時計の所有者に対する〈敬意〉から派生した感情であり、露伴にとって腕時計はそれほどまでに重要な〈ファンの証〉だった。

 

 露伴がピンクダークの少年について話し始めてから数分が過ぎ、信号待ちで停車したタイミングである異変(・・・・)に気付く。

 車窓から見える街並みが、どう見ても帰路周辺の風景とは違っていた。露伴は大型バイクの免許を持っており、S市周辺を走ることも度々あったため、タクシーが走行する現在地が自宅ではなく、明後日の方向に向いていることに気付けたのだ。自身のファンを自称する富谷が〈小銭〉を稼ぐためにわざと遠回りしているとは考えにくかったが、どうしても拭えない〈違和感〉の正体を確認しないわけにはいかなかった。

 そんな露伴の心境を知ってか知らずか、信号が青に変わるのを待っていた富谷が露伴の言葉を遮るように疑問符を投げ掛ける。

「ところお客さん……『定禅寺(・・・)』でいいんでしたよねェ?」

 これまでの会話の流れを断ち切る富谷からの脈絡のない問いかけに思わず声が詰まる。信号が青に変わり、走り出したところで漸く行き先(・・・)のことを指しているのだと理解する。

「『定禅寺(・・・)』じゃなくて『勾当台(・・・)』だ。勾当台の───」

 住所を伝えると、小気味良いウインカーの音と共にタクシーが左折し、勾当台方面へと繋がる大通りに向けて進んでいく。杜王駅の北東に位置する〈勾当台〉に対し、運転手が向かっていた〈定禅寺〉は南東に位置していた。『話に夢中で伝え忘れていたのか?』と考えていた露伴だったが、『ハイハイ、そうでしたねェ───』という返事からその線はすぐさま否定された。

 違和感を胸に抱いた露伴を乗せたタクシーは勾当台に向かって迷いなく進んでいく。

「さっきの話の続きだが、10話から登場する〈アーティカル・ファルマ〉という怪人は───」

 作者本人の口から語られる、腕時計の盤面を飾ったモチーフのひとつであるキャラクターの裏話に対し、富谷は始め、酷く大げさな相槌を打っていたが、次第にその反応や口数は減っていき、数分後には『エェ……』やら『はぁ……』など、人格が変わったかのような覇気のない冷めきった態度を返すようになっていた。

 一口に〈読者(ファン)〉と言ってもその形態は様々である。最新の情報が載る本誌を毎週買って購読する者。単行本が発売されてからまとめて読む者。アニメ化を機に作品に興味を持った者。細分化すればキリがないが、不正にアップロードされたリーク情報を嫌悪する者もいるということは確かだった。原作者である岸辺露伴自身が語っているため、リークとはまた少し条件が異なるが、露伴は富谷のことを〈公にされていない情報を自分だけが知ることを良しとしない〉タイプであったかもしれないと思い始めていた。

 そういった複雑なファン心理によって引き起こされる感情の機微を読み取れなかったことを悔い、不自然なまでに急に口を噤んだ露伴だったが、特に言及する素振りを見せないことからも、推察は的中していたのだと思った。

 

 犯してしまった失態に居心地の悪さを感じつつ、気分転換のためにふと外へ意識を向けると、視界の右から左へと〈杜王グランドホテル〉の外構が流れていく。

 タクシーは再び帰路から大きく外れ、杜王町東端の海岸線沿いを走っていた。苦笑を浮かべながら視線を前方へと移し、フロントガラスに目をやると、車体のフレームの端から〈ボヨヨン岬〉がフェードインしつつあった。

 僅かに空いた窓から入り込んだ潮風が車内に充満していく。露伴は悪い夢だと思いたかったが、爽やかさと肌に纏わりつく不快感が混在する海の香りは間違いなく〈現実〉そのものだった。露伴の心に埋め込まれていた小さな〈苛立ち〉が、潮風を浴びて芽吹きはじめる。

「おいッ!あんた本当に大丈夫かッ!?さっきも言ったがぼくが行きたいのは『勾当台(・・・)』で『()』なんかじゃあないッ!なァ、もしかして会話を長引かせるためにわざ(・・)と遠回りしてるんじゃ……」

 『いやなんでもない、忘れてくれ。だが()はないからな』富谷の左手首に巻かれた腕時計に太陽光が反射し、まるで己がファンであることの揺るぎ無い証明であることを自覚しているかのように眩い光を露伴に突き付ける。富谷に対して湧き上がった予てからの疑惑(・・)は、腕時計の所有者に抱く〈敬意〉によって削がれ、喉まで出かかった言葉も再び呑み込まざるを得なくなり、結局は忠告として釘を刺すだけに留まった。

  ヘブンズ・ドアーを使って富谷の真意(・・)を探ろうかとも思ったが、運転席と助手席に跨がって設置されたアクリル製の防護板が障害となって露伴の目論みを阻んでいた。唯一、精算用の小窓だけは双方の空間に通じていたが、そこから富谷の身体を引き寄せて中身(・・)を読むことは至難の技であった。

 ヘブンズ・ドアーの大きな強みのひとつである使用(・・ )()同時(・・)()相手(・・)()意識(・・)()奪う(・・)能力も、〈運転中〉という状況下においては致命的(・・・)な欠点に他ならず、例えそれが形勢を逆転させる切り札であったとしても切るわけにはいかなかったのだ。

 

 死へ誘う引鉄(ヘブンズ・ドアー)から意識を離し、アクリル板に映り込む自分自身に目を向ける。

 露伴には目の前に立ち塞がる厚さ1センチメートルにも満たない無色透明なアクリル板が、両者の間に漂う得体の知れない〈(おり)〉が結晶化し、『これ以上足を踏み入れるな』という警告文紛いの〈最後通牒〉として具現化した物のように思えてならなかった。

 ほんの一瞬、アクリル板に映ったもう一人の自分が笑っているように見えたが、単なる目の錯覚だと言い聞かせ、唾を飲み込んでから窓の外に目を向けた。疑念の目を向けられていたアクリル板は〈領域不可侵〉の象徴の役に徹し、どちらに与することもなく沈黙を貫いている。

 やけに耳障りな静寂から逃れるように、露伴の左人差し指がパワーウインドウスイッチへ向けて静かに動き出す。

 露伴の額に汗が滲む。

 半分近く開いた窓から吹き込んだ生暖かい風が車内を満たしていた冷風と混ざり合い、あらゆる〈境界線〉を曖昧にしていく。

 このとき露伴はまだ気付いていなかった。既に魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)する魔境の深部へと足を踏み入れていたという事実と、〈見えざる警告〉が意味する本当(・・)()恐ろしさ(・・・・)に──。

 

 露伴の忠告(・・)が効いたのかどうかは定かではないが、それ以降富谷が道を間違えることなかった。それどころか、露伴さえ知らなかった脇道を巧みに駆使し、最短ルートで露伴の自宅へ向かっていく。それは間違いなく〈プロ〉の仕事だった。

 富谷の様子もすっかり元へと戻り、露伴が乗車したときと同じ熱量のまま矢継ぎ早に質問を投げかけるようになっていた。

 全てはただの杞憂に過ぎなかったのだと露伴は安堵し、質問に答えていたが、自宅まで残り数キロとなったあたりから富谷の様子に再び異変が現れ、信号が赤に変わりタクシーが停車すると(おもむろ)に口を開いた。

「お客さァん……さっきからいったい何の話(・・・)をしてるんでスかい?」

「何の話……だって?『ピンクダークの少年』の話に決まってるじゃないか」

「ピンクダークの少年?…………ハッハッーン!ナルホドォ───!!こんな昼間っから随分と呑んだ(・・・)ってわけですかああ~~!どれだけ呑もうとお客さんの勝手ですがね、『戻す』のだけは勘弁してくださいよおお?」

「話が()に食い違っている……君の方こそ一体何の話(・・・)をしているんだ??」

 噛み合わない会話にもどかしさを感じながらも、話のすり合わせをしようと声を発した露伴だったが、所詮酔いどれの戯言と決めつけているか、富谷はその声を聞こうとはしなかった。

 

 再び湧いて出た違和感の正体を突き止めようとする露伴を他所にタクシーが露伴邸の前で停車する。座席に乗り切らずにトランクへ置かれたテントセットを富谷が下ろしている間も露伴による原因究明(質問)は続く。全ての荷物を下ろし終えると、それまで黙って聞いていた富谷の表情が一変し、裂けんばかりに口が大きく開いた。

「何遍言わすんだこのクソったれがああああ────!!」

 激昂した富谷が露伴を押し倒す。あまりに突飛な状況に理解が追いついていない露伴を見下(みお)ろしながら息を荒げる富谷は続ける。

「いいかァ〜〜?絶望的(・・・)に物わかりが悪いオマエのためにマリア様も腰抜かすほどの慈悲の心でもういっぺんだけ言ってやる……。耳の穴かっぽじってよォく聞いとけよ?俺は『キシベロハン』なんて人間は『知らねェ』。アンダースタァァーンン?オゥーケェー??」

「オーケーも何もさっきから君の言ってることは尽く矛盾して……」

「口答えしてんじゃねェェェェエエエエ」

「『ヘブンズ・ドアァーァァッ』」 

 露伴の声に応じて現れたスタンドが、硬く握りしめた拳を振りかざした富谷を〈本〉に変化させると、顔と胸が左右に開き、立ち膝のような形でその場に座り込んだ。吹き付けた風によって音を立てて靡くページを押さえつけながら露伴は〈体験の記憶〉に目を通す。

 

 富谷恭平(とみやきょうへい) 

 一九七六年七月十六日生まれ 三二歳 独身

 血液型:B型 星座:かに座

 職業:タクシードライバー────……

 

「生い立ちなんかはこれといって気になるところはないな」

 読み進めていくと、算数の〈虫食い問題〉のように文の途中に空いた空欄に紫色のマーカーで線を引いたような跡や、まるで落丁(・・)しているかのように一切文字が記されていない紫色の無地のページが度々見られたが、他に特筆するような目ぼしい情報は無く、ソレ(・・)らが気にはなったものの、顔のページに記された体験をあらかた読み終えた露伴は、間髪を容れずに胸のページへと手を掛けた。

 

チクショ───……厄介な客を乗せちまった。最初は酔っ払ってんのかと思ったが、別に酒くせェわけじゃねぇし…………待てよ……もしかすると葉っぱ(・・・)でもキメ(・・)てんのかァ───?オイオイ勘弁してくれ……厄介事は困る。すげェー困る。フザけたヘアバンドみたく角張っ(イカれ)た脳ミソを刺激しねェように適当に話を合わせるか……

 

 最新(・・)のページには露伴に対する不平不満が綴られていたが、過去を遡ってもピンクダークの少年や露伴との会話の記憶は見当たらなかった。富谷の真髄を探り、違和感の正体(答え)を探る露伴のページを捲る速度が早まっていく。

無い(・・)……この『岸辺露伴』の『名前(・・)』が富谷恭平のどこにも無い(・・)ぞッ!?」

 違和感の〈輪郭〉を捉えた露伴の額から一滴の汗が垂れる。それは決して暑さのせいではなく、恐怖に近い感情によるものだった。

 ページをいくら捲れども〈岸辺露伴〉の四文字が出てくることはなかった。初め露伴は、この男が自分の興味を引くために(からか)うフリをしているのだと思っていたが、ある筈の自身の名前が一切無いことからそうではないと知る。

 

問:ヘブンズ・ドアーの能力の前に知らないフリ(・・・・・・)は通用するか?

 

 答えは、否。天国(・・)の名を冠する能力の前に、虚偽や邪な思惑といった〈不純物〉が介在する余地は一切無い。心の扉を押し開けた先にあるのは〈真理〉へ誘う一本道、ただそれだけである。

 そうした前提があるからこそ露伴は唸り、困惑していた。そして数秒考えた(のち)、記憶の片隅に置かれた一冊の医学書を開く。それは富谷がある病(・・・)に冒されている可能性を調べるためだった。

 病の名は〈健忘症候群〉。健忘症とも略されるその病は、新たな情報を学習しにくくなる〈前向性健忘〉と、既に学習したことを思い出しにくくなる〈逆行性健忘〉の大きく二つに分けられる。露伴はこの内の逆行性健忘(後 者)であると推察したが、肉体と精神に刻まれた嘘偽りの無い人生の体験を語る本に、ついさっきまで意気揚々と話していた相手、つまりは岸辺露伴の名前が無いことなど有り得るのか?という素朴な疑問が障害となって思考の行く手を阻んでいた。

 厚顔無恥な政治家の常套句である『知らぬ・存ぜぬ』といった言い訳じみた弁明も、こと健忘病患者においては、己を縛り付ける〈自己暗示〉へ変化して、無意識の内に記憶を〈改竄(かいざん)〉する可能性も十分に考えられる。流石の露伴もそうした人物(患者)にヘブンズ・ドアーを使用した経験はなかったため、断言するには些か情報が欠けていた。

 能力が解き明かすのは本になった対象の体験の記憶。体験(・・)とは即ち身を以て(・・・・・)経験(・・)すること(・・・・・)を指しており、脳が覚えていようとも肉体が忘れてしまえば最強の呼び声高いヘブンズ・ドアーとて為す術は無い。

 

 ヘブンズ・ドアーを以てしても解き明かせない謎に困惑しつつ、このまま能力を解除してただ殴られるのは御免だと、富谷の顔に〈岸辺露伴を攻撃できない〉の命令を書き込んだ上で能力を解く。

「なんだァ〜〜〜?今確かに妙な(・・)感じがしたんだが……」

 振りかざした拳を下ろした富谷が不思議そうに辺りを見回す。富谷の記憶に自身が存在していない(・・・・・・・)理由を突きとめるため露伴が口を開く。

「いいか?一度状況を整理して話をまとめ……」

「状況が分かってねぇのはテメェだけなんだよおおお───!!」

 〈岸辺露伴〉の名前よりも先に、荒唐無稽な発言を繰り返す名前も知らない男に対する〈怒り(・・)〉の方を思い出した富谷の拳が露伴の顔面にめり込んだ。

「何ィ──ッ!?」

 吹き飛ばされ、口から血を垂れ流しながら動揺する露伴を富谷が見下ろす。露伴を殴った左腕の手首で、例の腕時計が皮肉めいた煌めきを放つ。

「なんだ……!?何が起こった……!?さっき確かに書き込んだはず……」

 真実を確かめるために再度顕現させたヘブンズ・ドアーによって本に変えた富谷のページ()には、今さっき書き込んだ文字(命令)が一字一句欠けることなく確かにあった(・・・)

 時を止められたかのように静かに眠る富谷とは対象的に、腕時計の秒針は休むことなく動き続けている。それは何か(・・)タイム(・・・)リミット(・・・・)を知らせているかのようだった。

 岸辺露伴は占いを信じない。先の一件によって考えを改め(・・)はしたものの、こと自分においてそれが変わることはない。だがこのときばかりは、富谷に幸運を齎した〈ラッキーアイテム〉である腕時計こそが、自身にとっての〈アンラッキーアイテム〉であると信じて疑わなかった。

 ヘブンズ・ドアーによって本に変えられた人間は、その間(・・・)目覚める(・・・・)ことは(・・・)決して(・・・)無い(・・)。その事実を誰よりも知るからこそ露伴は恐怖(・・)していた。自身の右腕を掴んで睨みを効かせる富谷恭平の双眸(・・)に。

「ははッ……一体どうなってるんだ……?」

 理解を超えた一連の出来事に、無意識に空いた口から乾いた笑いが漏れる。露伴の右腕を掴む富谷の左手は徐々に力を帯び、無骨な指が露伴の腕の肉に食い込んでいく。

物言いたげ(・・・・・)な目ェしてるが一言言いてぇのはこっちの方だからなああ?下手(したて)に出て黙って聞いてりゃ、狂った鳩時計みたく『ピンクダーク』だの『キシベロハーン』だの訳わかんねぇ言葉で何度も鳴きやがってよォ───」

「そもそも『ピンクダークの少年』の話を切り出したのは君の方……」

「それだよ……その言葉(・・・・)なんだよォ……さっきから俺がムカついて(・・・・・)んのはよおおお───!てめェの頭ひん剥いて、ぶっ飛んだネジ締め直してやるぜェェェェエエエエ」

 〈命令〉を無視して再び迫りくる富谷の拳に対し、露伴が避ける様子はない。露伴の顔にもう一つのクレーター(・・・・・)を作らんとする五本指(・・・)の隕石は、露伴の顔の目の前で止まるとゆっくりと引き返していった。

「や〜〜〜〜めた。貴重な時間を削ってまでここにいる意味は無ェし帰ることにするぜ。テメェと話してるとコッチまで頭がオカしくなりそうだからよォ〜〜〜〜」

 左腕を小刻みに捻り、腕時計を鳴らしながら運転席に戻る富谷の背中には〈今すぐこの場を立ち去る〉の文字が書き込まれていた。そして時は冒頭へと戻る。

 

 照りつける太陽に身を焼かれながら、乱雑に置かれたキャンプ用品の半分を運び終え、タクシーから降ろされた歩道で先程のことを考えながら小休止している露伴に向かって一台の自転車が近付いてくる。

「アラッ??ちょっとヤダっ何よこれッ!?誰か止めてえええ〜〜〜〜」

 親に後ろを支えられながら公園で自転車に乗る練習をする子供のように、危なっかしく右往左往する自転車が露伴の身体をクッションにして漸く止まる。その衝撃に押されて荷物に倒れ込んだ露伴の瞳には、〈それ(・・)〉と同じように制御を失ったまま露伴目掛けて突っ込んでくる一台の〈バイク(・・・)〉が映り込んでいた。

「オイオイ!冗談じゃあないぞッ!?」

 露伴と同じく顔面蒼白となった運転手を乗せたバイクは、露伴の数センチ横を通り抜けて、勢いそのままに露伴の自宅の正面玄関に向かって進み、玄関の戸を突き破って音を立てて豪快に駐車(・・)した。

 今日の出来事を全て忘れてしまいたいと思うほどに露伴は心身共に酷く疲弊していた。幸か不幸かそれでもやはり露伴の探究心が尽きることはない。次々と襲いかかる〈不運〉の正体を探るべく、救急車の手配をしつつ、事故の衝撃によって既に気絶しているバイクの運転手の記憶を覗き見る。

 

何なんだよこの〈乗り物〉はッ!?確かさっきまで俺は……ってアレッ?思い出せない…………数分前のことなんだけど……ヤバイっ!!ぶつかる────ッ!!

 

また(・・)だ……この男の記憶からも『バイク(・・・)』の文字が消えている(・・・・・)……」

 富谷の記憶から〈岸辺露伴(・・・・)〉の文字が失われていたのと同様に、その男の記憶からも〈バイク(・・・)〉の文字が失われていた。ページをいくら捲ろうと、穴が空くほどに隅々まで見渡そうとバイクの三文字が現れることは無い。目の前で起きた事故に青ざめつつも、心配して駆け寄ってきた女性の記憶も調べたが、やはり彼らと同様に〈自転車〉に関する知識(・・)記憶(・・)消失(・・)していた。

 連続する未解決事件を前に、現場に残された証拠から露伴の推理が始まる。健忘症患者による突発的かつ偶発的な事故、最大級の厄日、あるいは───。

「『』による『スタンド攻撃』……」

 ページを捲る手を止めて呟いた言葉が不穏な粒子となって露伴にまとわりつく。辺りを警戒してから再び本に視線を落とした露伴が何かに気付く。

「このページ、何かの粉(・・・・)でもまぶしたみたいにやけにパサついてる(・・・・・・)な……」

「ギィ」

 本自体に何かが付着しているのだと思った露伴が親指と人差し指でページ挟んだまま擦り合わせようとした瞬間に〈ソレ〉は、鳴いた。古い扉が軋むような小さく耳障りな()だった。大きく見開かれた露伴の目に飛び込むように、本の中に隠れて(・・・)いた(・・)〈声の主〉が宙へと舞い上がる。

「こ、コイツはいったいッ!?」

 露伴は一瞬、千切れたページが風によって舞い上がったのだと思った。そう錯覚するほどにソレ(・・)は〈ページそのもの〉の姿をしていた。

 四角い翅を持つ蝶のような見た目をした〈ソレ〉は、ヘブンズ・ドアーで変化させた本のページに〈擬態〉していた。芋虫の背に蝶を縫い付けたような姿をした〈異型の生物〉。芋虫の方の頭部と思われる部分にはヤツメウナギのような円形で吸盤状の〈口〉が付いており、口器形態だけで言えば間違いなく円口類に属する形状をしていたが、その内側に等間隔で円周状に生えている〈歯〉だけはヤツメウナギのそれ(・・)とは大きく異なり、人間が持つ歯と全く同じ形をしていた。

 蝶が持つ翅の大きさはそれぞれ掌ほどで、身体自体は白を基調としていたが、それらを塗り潰すように黒い模様(文字)が隙間なく記されている。ゆっくりと羽ばたく度に、黒い鱗粉が舞い散り、周囲を微かに染めていく。

「『ヘブンズ・ドア───ッ!!』」

 考えるよりも先に涌き出た防衛本能(スタンド)によって本にされた謎多き生物は、奇抜な模様を失い、黒一色の物体となって露伴の前に力無く落下する。

 名前を持たず、露伴に

健忘蝶(けんぼうちょう)〉という仮名を与えられたソレは、生物(・・)であると同時に現象(・・)でもあった。黒一色になったページに浮かぶ白い文字を目と指でなぞりながら健忘蝶の正体を探っていく。

「生物が記憶(・・)した『言葉』を『餌』として取り込み、活動エネルギーへと変換する…………言葉がある限り死ぬことは無い……。まさしく『言葉狩り(・・・・)』ってわけか」

 富谷に殴られたことで負傷した鼻から垂れる血が健忘蝶に付着しないよう注意しながらページを捲る。

 

狩りの『餌食(・・)』となった『言葉(・・)』は、齧り取られた範囲に比例して、言葉の所有者の脳内から消えていく(・・・・・)。言葉とそれにまつわる記憶は、完食しない限りは時間の経過につれて元の状態へと戻る。

 

「なるほどな。『ヘブンズ・ドアー』の命令に反して富谷がぼくを殴ることができたのは、彼の中に『岸辺露伴』という言葉が存在(・・)しな(・・)かった(・・・)からか……」

 腫れ上がった頬を撫でながら露伴は推察を続ける。

「……待てよ?だとすると物忘れに限らず、今朝食べたばかりの朝食が何故か思い出せなかったり、テレビに出ている俳優の名前が喉に突っ掛かったままいつまでも出てこないのは、コイツらが食事中(・・・)だったからっていうフザけた理由なのか?それに『死なない』だって?」

 『面白い。お手並み拝見といこうじゃないか』狂喜に満ちた笑みを浮かべつつ、富谷に書き込んだものと同じ〈岸辺露伴を攻撃できない〉の命令を健忘蝶に書き込む。

 能力を解かれた健忘蝶の身体は、電源を入れた電灯のように再び純白を取り戻すと、角ばった翅を広げて空へと舞い戻った。変化が現れたのはそれから数秒後のことだった。

 健忘蝶の腹にあたる部分に一本の縦線が伸び、本へと変化してひとりでに両側へと捲れ始める。変化はそれだけに留まらず、露伴がヘブンズ・ドアーを想起したのとほぼ同時に、〈岸辺露伴を攻撃できない〉と書き込まれたページを食い破って三匹の〈幼虫〉が姿を現した。〈幼虫たち〉は書き込まれた命令(文字)に群がると、一本の線すら残さずそれらの文字を狩り(・・)取った(・・・)

 ヘブンズ・ドアーが引き起こす現象と全く同じ光景を目の当たりにしたことで、露伴の警戒心は最大限まで引き上がった。記録用のメモ帳を取り出すよりも早く言葉を狩り取った〈幼虫たち〉は、瞬く間に成長と変態を重ねて元の個体と同程度の大きさまで成長すると、数秒前の怒濤の変化が嘘のようにただ静かに宙を泳ぎ始めた。〈元の個体〉は再び模様を失い、黒一色となって〈新個体(三匹)〉の足元に力無く転がっている。

 露伴にはそれら一連の動きが健忘蝶たちがそうした行動をとっているのではなく、逆らえない〈性質〉に従っているだけのように見えた。

 露伴の推察通り健忘蝶の捕食動作(・・・・)は、反射(・・)によって引き起こされていた。何者であろうと干渉することができない筈の自分たちに訪れた危機。健忘蝶に対して露伴が無意識の内にヘブンズ・ドアーを発動したのと同じように、種の存続を脅かす天敵──〈岸辺露伴〉に対して発露した〈防衛本能(・・・・)〉。抑えられない好奇心から軽率に使用したヘブンズ・ドアーによって、皮肉にもまさにこの瞬間、健忘蝶は生物として〈進化〉を遂げた。

(あくまで『超常現象』である『健忘蝶』の一連の捕食動作に生態(・・)という言葉を用いるのはあまり適切ではないか……)

 露伴は胸に沸いた所感を独りごちたが、健忘蝶がそうした〈仕組み(メカニズム)〉で動いているということだけは本能的に理解し、断言することができた。

 突如として組み込まれた〈岸辺露伴〉という規格外(・・・)()歯車(・・)を前に、健忘蝶という仕組み(メカニズム)は一瞬躊躇いを見せ、動きを止めた。精密な機械仕掛けの蝶であったならば程なくして壊れ、そこで全ては終わっていたかもしれない。しかし、不幸なことに〈超常現象〉であったソレは、排すべき露伴(異品)の輪郭を見定めると、噛み合わせなどお構いなしに再び動き始めたのだ。

 変態、脱皮。或いは進化。健忘蝶に(もたら)された変化(・・)に〈摂食分裂(せっしょくぶんれつ)〉という名称こそ付けたものの、今の露伴にとってそれは然程重要ではなく、最短距離かつ着実に窮地へ追い込まれつつあるこの現状をどう切り抜けるべきかが彼にとっての喫緊の最重要命題であった。

 文字通り脱け殻となって動きを止めた一匹と新たに命を与えられて大きく翅を広げる三匹。大きさに見合わない羽音が重なり合い、不協和音となってみるみる膨らんでいく。露伴の周囲を漂う三匹にも()の個体に使用したヘブンズ・ドアーの効力が及んでいるらしく、身体の一部が本になって捲れ上がり、内側が露になっていた。しかし、そこには元の個体に書き込んだ筈の〈岸辺露伴を攻撃できない〉の文字は無く、それに代わる〈岸辺露伴を攻撃(・・)〉といった元の命令とは真逆(・・)の一文が記されていた。露伴はそれを見て直ぐに、かつて戦ったスタンド使い──大柳賢との戦いの一幕を思い出し、今、自身を中心に巻き起こっていることの〈重大さ〉を理解した。

 

 壊れて長らく動かないままとなっていた古びた時計が、新たな部品を得て再び時を刻みだしたかのように、富谷に端を発した負の連鎖は尚も続く。三匹の健忘蝶は露伴へ襲い掛かると、ヘブンズ・ドアーに酷似した能力によって露伴の身体を本へと変化させた。自身のページを食い荒らそうと迫る健忘蝶の攻撃を、玄関から飛び出して家の前に広がる芝生に転がり込むことで回避しようとしたが、僅かに判断が遅れたことで不気味に渦を巻く円形の歯の餌食となってしまう。

 この攻撃により〈木曜日〉、〈雨〉、〈洗濯〉という三つの言葉と、それにまつわる一切の記憶と情報が露伴の身体の中から完全に消失(・・)したが、露伴自身はそのことに全く気が付いていなかった。弱肉強食の弱者に成り下がった露伴が知り得たのは、自身の中から〈何らか〉の言葉が消えた後に残る〈得体の知れない喪失感〉のみである。

「『不死』の意味を履き違えていた……こいつらは与えられた運命さえも狩り取る(・・・・)ッ!『己』を超越して『新たな(・・・)個体(・・)』として生まれ変わる『特性(能力)』を持っているッ!!」

 それはヘブンズ・ドアーを使えば使う程に、事態は悪化(・・)していくということ。

 

       掃除機       百日紅(さるすべり)

    キャンドル       スズメ          アンジェロ岩

    煙突  ニコライ・リヴォーフ

      薔薇    縫腋袍(ほうえきのほう)    スポンジ     

  トリートメント       シャボン玉      

 

 為す術なく逃げ回る露伴から次々と言葉が(むし)り取られていく。

 

 高島麗水(れいすい) 毛布   シャワー  

            スーパーファンタン

    サウジアラビア     イチジク  

  カーテン        

        木工用ボンド   植物防疫官

       マルファン症候群     乾電池

  アメンボ 畝傍山(うねびやま)  バスケットボール     ホワイトメランチ

 

 露伴が車庫を開いてバイクのエンジンをかけている間にも、深く刻まれた筈の言葉と記憶が健忘蝶の毒牙の前に儚く散って消えていく。

話し合い(・・・・)で解決できるならそれに越したことはないが……クッ!!」

 健忘蝶を殴り飛ばし、苦悶の表情を浮かべる露伴の左腕には〈時速50キロで拳を放つ〉と書き込まれていた。拳を受けた健忘蝶の身体は水風船のように勢いよく弾けると、体液ともインクとも分からない黒い液体を辺りに撒き散らして絶命した。

 『理詰め(・・・)を得意とするならば、単純な力押し(・・・)には弱いのではないか?』という露伴の見立て通り、ある程度の〈衝撃〉を与えることで戦闘不能にできることは今の一撃を以て実証されたが、その見立て(・・・)は露伴自身にも言えることであり、プロボクサーの中でも数えるほどしかいない人体の臨界点に迫る力を無理矢理引き出したことで露伴の身体は悲鳴を上げていた。

 左腕を中心に左半身にリアル(・・・)な痛みが走り、筋肉痛という鎖で身体を縛り付ける。

 リアリティ(・・・・・)リアル(・・・)は似て非なるもの。とある一件(・・・・・)により、東方仗助が持つスタンド──〈クレイジー・ダイヤモンド〉のラッシュをその身を以て実際に経験した露伴は、そのことを殊更深く理解していた。露伴のスタンド──ヘブンズ・ドアーは、〈スタープラチナ〉や〈クレイジー・ダイヤモンド〉といったジョースターの系譜を継ぐ者に多く見られる近距離パワー型とは異なり、近距離型という部分的な共通点はあったものの、基本的には操作型であるため破壊力(・・・)には乏しかった。 

 描写だけならいざ知らず、全くの専門外である純粋な殴り合いは露伴の望むところではなかった。もしこの場に先の二人が同席していたら、瞬く間に勝敗は決していたのかも知れないが、承太郎はサメの生体調査のためにハワイ島で暮らしていたし、露伴が仗助の連絡先を知っているわけもなく、結局のところ露伴自身の手で収拾をつける他なかった。

 しかし、無限に湧き出る暴徒(・・)相手にドーピング(・・・・)に頼って拳で応戦し続けたとして、直ぐにやってくる激しい筋肉痛によって身動きが取れなくなって自滅するのは自明の理であり、増殖させるリスク云々を鑑みても総合的に考えて〈命令〉を与えて対抗する手段が一番シンプルで妥当であろうという結論に行き着くのに時間はかからなかった。

 バイクに群がる健忘蝶に対し、再度確認のために今度はヘブンズ・ドアー本体で打撃を食らわせてみたが、数十センチ後方に弾いただけで致命傷には程遠く、失意の溜め息を吐き出してから命令を書き込んで一時的にその場を制圧する。

 

 健忘蝶の記憶には続きがあった。健忘蝶はハチやアリなどが分類される〈社会性昆虫〉と同じように〈群れ〉で活動しており、そのすべてを束ねる〈女王〉が存在していた。その個体こそが、運命(・・)()超越(・・)する(・・)力を持った健忘蝶たちを生み出している元凶(・・)であり、女王から見て子にあたる個体たちが狩り取った言葉と、それらが持つエネルギーの大半は女王の元に送られ、新たな子を生むための栄養源として使われていた。

 露伴には時間が無かった。女王が蓄えた力がヘブンズ・ドアーの力を完全に上回った時点でタイムリミットは強制的にゼロとなる。こうしている間にも時計の針は終末を目指して時を刻んでいた。

 バイクのエンジンをかける露伴の心が〈怒り〉によって戦慄(わなな)く。

 富谷の体験の記憶に挟まれていた〈無地紫のページ〉。恐らくあれは健忘蝶によって狩り取られる以前は、漫画家・岸辺露伴と〈ピンクダークの少年〉をはじめとする岸辺作品についての記憶が記されていたのだろう、と露伴は今頃になって理解する。

 精神と才能が混ざり合い、人の形を得て具現化した超能力──〈幽波紋(スタンド)〉に匹敵する力を持つ健忘蝶に対し、一介の人間が見せた僅かばかりの抵抗(・・)。『決して忘れてなるものか』という富谷の覚悟と作品愛の深さは、ピンクダークの少年の主人公の前に立ちはだかる敵──〈アーティカル・ファルマ〉のイメージカラーであり〈腕時計〉の盤面にも使用された〈紫〉として本の中身に反映されていたのだ。

 露伴は当初富谷のことを『すぐに物事を忘れてしまう健忘症であるかもしれない』と推察したが、実の所富谷は、自身が忘れて(・・・)いること(・・・・)すら(・・)忘れて(・・・)いる(・・)〈認知症〉に近い状態であった。認知症において、認知の歪みによって周囲と会話が噛み合わないストレス(・・・・)が、怒りっぽくなる易怒性(いどせい)として発露し、感情のコントロールが困難となり、時に爆発して暴言や暴力といった行動をとってしまう事例は医療の現場において実際に多々ある。富谷もその状況下にあり、客として乗せた露伴に声をかけた当初の口調からも察することができるように、本来の富谷は誰にでも分け隔てなく接する温厚な性格であった。

 己の浅薄さを恥じ、とうに姿の見えなくなった富谷の背中に謝罪の意を投げる。

 掛け替えの無い〈読者〉を弄んだことに対しての怒りが露伴の闘争心に着火し、激しく燃え上がった。

「君たちじゃあ話にならないからな。上のヤツ(・・・・)に話をつけることにするよ」

 女王の存在を知ったところで、知識の密度が薄くなり始めた露伴の頭の中に〈言葉狩り〉に終止符を打つ方法は思い浮かんでいなかった。それでも露伴はエンジン音を置き去りにして走り出す。僅かな希望に一縷の望みをかけて──。

 

 

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