岸辺露伴は揺るがない『健忘蝶』    作:甘草粥

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健忘蝶 その②

 露伴を乗せたバイクが〈女王〉の棲む根城を目指して農道をひた走る。その背後に三匹(・・)の姿は無い。

 健忘蝶の移動速度は時速十三キロ程度で自転車よりも僅かに遅い程度であった。街中ならともかく、信号も車通りも少ない農道を飛ばすバイクとの差は瞬く間に間に広がっていく。ただし問題(・・)はそこでは無かった。

「またあの(・・)音だッ!!」

 黒板を爪で引っ掻いたような甲高い音が露伴の鼓膜を突き刺す。それは健忘蝶が仲間を呼ぶ〈声〉だった。仲間から仲間へと伝播する〈岸辺露伴ヲ駆逐シロ〉の声を受け、窓を開けた車のドライバーや、道路脇で畑の手入れをする農家の体内に棲み着いていた健忘蝶が宿主から飛び出して露伴に襲いかかる。

 迂闊に言葉を書き込めばそれに対する免疫(・・)を得た複数の分裂体が生まれてしまう。かと言って生物でもあり、現象でもある異質な身体を持つ健忘蝶を封じる方法はヘブンズ・ドアーで書き込む以外に存在しなかった。

 若干躊躇しつつも、並び立った一匹にやむを得ず命令(・・)を書き込んで僅かな猶予を得る。サイドミラーには地面に転がる抜け殻(・・・)と、三匹に増殖してバイクを追う健忘蝶の姿があった。

 

 アクセルを捻り、農道を抜けて県道へ出る。形式上は県道となっているが、車の往来が激しい幹線道路ではなく、それから二キロほど山側に寄った場所を通る道路のため通行量もそこまで多くはなかった。

 健忘蝶の存在に気付いた者だけに聴こえる音の無い鳴き声(絶叫)が閑静な住宅街に木霊する。

 十数メートル先で露伴を迎え撃つように立つ信号機の表示が青から黄色に移り変わる。一瞬ブレーキに手をかけた露伴であったが、周りを囲む全ての車の中と歩道上の歩行者の体内から飛び出した健忘蝶が宙に蠢く姿を見て、冷や汗を振り払うようにアクセルを撚りバイクを加速させた。

「普段はこんな事(・・・・)しないが悪いが急いでるんでね」

 『緊急車両(・・・・)なら問題は無いだろッ』いつもは安全運転を遵守していると言わんばかりの言い訳を置き去りにして露伴は先を急ぐ。独自のルールを適用して黄色の残像と煌々と灯る赤の下をすり抜ける露伴の頭にヘルメットは装着されていない。

 風に髪を靡かせる露伴が先程胸に湧いた違和感(・・・)を拾い上げて考察を始める。

(さっき信号で止まりかけたとき…………車の中にいた健忘蝶たちは何故攻撃して(・・・・)こな(・・)かった(・・・)んだ?歩行者から飛び立った個体は確かにぼくに向かって飛んできていた……。だが、ぼくから数メートル……いや、数十センチのところにいた個体は翅を忙しなく動かして攻撃(・・)の意思こそこちらに向けてはいたが、ソレ(・・)を実行に移すような素振りは一切(・・)見られなかった……)

 車線変更を繰り返しながら道路を縫うように走る露伴の前方から二匹の健忘蝶が迫っていたが、命令を書き込んで難なく処理する。健忘蝶の抜け殻が露伴の後ろを走るワンボックスカーのフロントガラスに叩きつけられたことで、運転手の目の前がペンキをぶちまけられたかのように黒一色に染まる。無論、健忘蝶の本体同様にそれら体液も普通の人間に視認することは不可能だったため、運転手は特に取り乱す様子もなくそれまでと変わらず運転を続けていた。

 『後方だけでなく進行方向から飛んでくる健忘蝶にも注意を向ける必要があるな』と頭の中で呟いたところで露伴はある事に気付く。

「窓…………そうか!『』だッ!!驚異的な力ばかりに気を取られてすっかり見落としていたッ!恐らくヤツらは物体を(・・・・)通り(・・)抜ける(・・・)ことが(・・・)できない(・・・・)!!『物体』は『言葉』を記憶して(持って)いないから棲み着くことができない(・・・・)のかッ!!」

 つい先程自身を襲ってきた健忘蝶が飛び出してきたのは、前方を走っている窓が空いていた(・・・・・・・)車の中からだということは露伴も認識していた。その数分前に農道を走行していたときに襲ってきた個体も全て空いた窓から飛び出していたことを今になって思い出す。

 繋がる点と点。確証を得た露伴は全方位に向けていた警戒を窓の空いている車と歩行者だけに絞る。一定の間合いを確保できれば対処するのはそこまで難しくはなく、ほくそ笑む露伴を乗せたバイクは更に加速し、車の群れを抜けて先頭へと躍り出た。

 信号機に灯る青い丸が露伴の碧い瞳に重なる。露伴を戒めるかのように待ち構える〈危ないぞ スピード出しすぎ 事故のもと〉と書かれた垂れ幕が下がった歩道橋が掛かる交差点を目掛けて、バイクはトップスピードを保ったまま進んでいく。

 信号機の色はそれぞれ意味を持つ。〈赤〉は言わずもがな〈止まれ(・・・)〉。これは命令(・・)である。そして黄色も赤と同じく止まれ。ただし、既に交差点の中央まで進入しており、停止位置で止まるのが困難な場合には進んでも良い(・・・・・・)という意味合いに変化する。そして多くのドライバーが誤認しがちだが、青信号の正しい意味は進んでも良い(・・・・・・)である。決して進め(・・)と命令しているわけではない。なぜならば───。

「『救急車が交差点に進入し……』緊急車両通りまァ──す。道を譲ってくださいァ───い。交差点進入しまァ───す

 録音された音声に重なる救急隊員の肉声。威嚇するように響き渡るけたたましいサイレンと警告を示す赤色灯が周囲に緊張感を走らせる。それらは露伴が進む道路と交差する道路の左から伸びていた。救急車のランプが放つ〈赤〉は(まさ)しく命が掛かった最優先すべき〈命令(・・)〉。このまま進入すれば直撃は免れないと、右手のブレーキレバーと右足のブレーキペダルを踏み込んで急ブレーキをかける。

 信号が青にも関わらず停止線から進もうとしない車の存在にサイレンが聞こえる数秒前に気付き、スピードを落としていたことも功を奏し、停止線を僅かに過ぎたところで露伴を乗せたバイクはなんとか停止した。

 救急車が交差点の中央に差し掛かったところで信号が青から赤へと変わり、否が応でも停車せざるを得なくなる。行き交う無数の車は、さながら緑地を求めてサバンナを大移動するヌーの大群のようであり、例え法律が〈信号無視〉を許したとしても、鬼気迫る鉄牛(・・)の隙間を縫って先へ進もうとは思うのは余程の命知らずか恐怖という感情が欠落した人間くらいのものであった。

 そのどちらにも当てはまらなかった露伴は渡ることを早々に諦め、深呼吸して気持ちを落ち着かせると、すぐさま辺りを見回して歩行者の数を確認した。碧い瞳が捉えたのは四つの人影。そのうちの一人から既に健忘蝶が飛び出していたが、その他の通行人からは出てくる気配は無かった。続けて周囲の車両を確認するも、夏を語るに相応しい気温の高さもあり、エアコンの冷気を逃がさないために全ての車の窓は閉じられていた。

「一時はどうなるかと思ったが……この数なら問題は無い(・・・・・)ッ。このまま信号が青に変わるのを待っていれば───」

 言い終わる前に口を(つぐ)んだ露伴の意識はある一点(・・)に向いていた。

 自身が乗るバイクの真横に位置するやや背の高いトールワゴン型の軽自動車の後部座席。固く閉ざされた窓ガラスの向こう側には六歳程度と思われる双子の男の子が座っていた。露伴から見て奥に座っている子供は酷く機嫌を損ねており、ファストフード店で買ったドリンクのストローに息を吹き込み、ブクブクと泡が弾ける様子を仏頂面で眺めていた。それに対して手前に座る子供は同じファストフード店のおまけで付いてきた飛行機のおもちゃを飛ばして遊んでいる。顔の造りに反して対照的な行動を取る二人だったが、露伴が気になったのはそこではなく、手前の子供の頭の上に乗った一匹の健忘蝶だった。

 健忘蝶は最早聞き慣れた耳障りな声で短く鳴くと、本になって開いた子供に記された言葉を貪り始めた。露伴がいる場所からはどういった言葉を狩り取っているのかまでは分から(見え)なかったが、健忘蝶は食事を終えると渦巻状の半透明の口吻(こうふん)を同じページへと突き刺して静止した。

 露伴は始め、奥に座っている子供の真似事をしているのだと思ったが、健忘蝶の体内で生成された〈どす黒い液状の何か(・・)〉が、本に突き刺さった口吻の中を通って子供の頭の中へ注がれていく光景を目にしたことで、その考えが誤りであったことに気付く。その〈液体〉には明確な敵意(・・)が込められており、一連の行動は露伴に対する〈攻撃〉の予備動作(・・・・)だった。

「まさかッ!!」

 本に浮かび上がる〈まドをヒラく〉の文字。異なるフォントを継ぎ合わせて作られた命令文はさながら刑事ドラマなどでよく見られる新聞紙の見出し文字を切り貼りして作られた〈犯行声明〉のようであり、文字から滲み出る底気味悪さは露伴の背に悪寒を走らせた。

 モーター音と共に固く閉ざされていた窓が開き、子供が握っていた飛行機のおもちゃが車外へと飛び立つと、健忘蝶も子供の頭部から離陸(・・)して先行する飛行機に追従する構えを見せた。しかし、再び閉じていく窓ガラスを前にして引き返すと、車内に腕を引っ込めた子供の右肩へと不時着した。健忘蝶は忙しなく羽ばたかせていた翅を閉じ、恨めしそうに露伴を見据えている。

「予想通りッ!試すだけの『価値』はあった(・・・)ッ!!」

 咄嗟に思い付いた検証(・・)によって仮説が実証され、露伴は高らかに声を上げた。

 露伴と健忘蝶、そしてヘブンズ・ドアーに命令を書き込まれた人(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)の力関係は三竦(さんすく)みの上に成り立っていたのだ。健忘蝶は自分自身がヘブンズ・ドアーによって命令を書き込まれたとしても、免疫を得た上でその都度再生して命令を無効化(・・・)することが可能だが、ヘブンズ・ドアーの能力の対象(・・)が〈人間〉であった場合、既に書き込まれた──或いは後から書き込まれた──命令に対しては、今見せた命令を(・・・)与える(・・・)能力(・・)を行使したとしても強制力(権限)()を取ることはできなかった。

「カッハッハッ!せっかくお似合い(・・・・)の『虫カゴ』を用意してやったってのに随分と不満そうじゃあないかあ~~??」

 〈見えない何か〉に向かって煽り散らす露伴を後部座席に座る子供だけでなく前方に座っていた両親も気味悪がっていたが、父親が忠告するよりも先に露伴の高笑いは止むこととなる。

 背後から響く幾つものモーター音。恐る恐る振り返った露伴が見たのは、視界に入る全ての車のパワーウインドウが徐々に開き、それぞれの車内で羽ばたいていた健忘蝶たちが外に這い出てくる姿だった。

 街の大型ビジョンで見た〈フラッシュモブ〉の映像さながらに、どこからともなく流れてきた楽曲に合わせて全員が車から降り、息のあった軽快なダンスやショーが始まるかのような異様な雰囲気が辺りに立ち込めていた。

 健忘蝶との戦いを記録した闘争記(もとい)ネタ帳には、この瞬間のことを『刑務所が見えた』と綴られていた。死刑を言い渡された凶悪犯が多数収容された懲罰隔離房棟の檻が看守である自身の手違いによって開き、〈悪意の塊〉が再び世へ解き放たれたような幻覚から生じた〈焦り〉が露伴の首を絞める。

 〈法〉が通用しない無法者が集うアングラな〈ファイト・クラブ〉にルールがあるとするならば、『相手を()(のめ)せ』という唯一つだけであろう。

 そんな殺意を一身に浴びた露伴の額から大粒の汗が流れ落ちる。

「オイオイオイオイ。冗談じゃあないぞッ!!」

 女王に仕える健忘蝶(兵隊)たちに同時多発的に発現した〈突然変異〉。岸辺露伴という外的要因(・・・・)によって発現したそれは、生まれ変わることで免疫を得る〈摂食分裂〉と同じく、女王へ仇なす外敵を駆逐せんとする彼らの〈忠義の精神〉が変化した〈もうひとつの武器〉だった。しかし、新たに会得したその能力は〈完全〉とは言い難く、作り出すことが可能な文章は簡素的(・・・)かつ強制力(・・・)()低い(・・)ものに限られ、それに加えて能力を使用する際に膨大なエネルギーを消費するため、個体ごとに一度しか発動させることができず、更には能力を使用した直後は動きが著しく鈍るという欠点があった。摂食分裂によって新たな個体として生まれ変われば再び使用することは可能だが、健忘蝶の摂食分裂はヘブンズ・ドアーで攻撃された場合にのみ発動する受け身(・・・)の能力であったため、彼らとしても使いどころを慎重に見定める必要があった。

 同種(・・)の能力を持つ者同士の邂逅は副次的な効果として両者に〈意思の共鳴〉を齎し、健忘蝶に新たに発現した能力──嚥下交配(えんげこうはい)〉の子細も露伴の脳内へと届けられた。能力の子細を知ったところで嚥下交配に対抗する(すべ)がヘブンズ・ドアーに付与される筈もなく、未だ変わらない信号機の〈赤〉が露伴の焦燥感を知らせるかのように煌々と光っていた。

 信号が青に変わるきっちり一秒前にアクセルを捻り上げ、唸り声を上げるバイクと共にまだ誰もいない交差点に侵入するも、振り払いきれなかった健忘蝶たちによって〈虹村億泰〉、〈チェス〉、〈ぬいぐるみ〉、〈セロハンテープ〉、〈亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)〉、〈大阪〉、〈コーヒー〉、〈カフェ・ドゥ・マゴ〉、〈杜王グランドホテル〉、〈絆創膏〉、〈オカミサマ〉の言葉が狩り取られていく。

 背中に張り付いたそれらに命令(・・)を書き込んでなんとか引き剥がすことには成功したが、露伴の当初の予想以上に事態は困窮を極めつつあった。

「油断していた……おぞましい演劇の『観覧料(・・・)』は『記憶(・・)』ってワケか……」

 露伴の心象風景を映し出すかのように、何処からともなく流れてきた暗雲が青一色の空を埋めていく。

 健忘蝶たちの攻撃は、痛みこそ無いものの、失くした物のことさえ分からない〈果てしない喪失感〉は決して心地の良いものではなかった。

「『スズメバチ』は幼虫のエサ用(・・・・)に、捕えた獲物を噛み砕いてミンチ状にして『肉団子』を作り出す……。さっきのはこれ(・・)に近い。『言葉』を噛み砕いて(・・・・・)『命令』という形に『成形』する…………」

 『ハッ……。それじゃあまるっきりぼくの『ヘブンズ・ドアー』と『同じ』じゃあないか』諦めの色に染まりつつある乾いた笑いが湿り気を帯びた風と結び付いて杜王町の彼方へと流されていく──。

 

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