岸辺露伴は揺るがない『健忘蝶』    作:甘草粥

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健忘蝶 その③

 住宅街から少し離れた小高い丘に建つある建造物(・・・・・)の中に露伴の姿はあった。

 その空間を一言で表すならば〈異質〉。床、壁、天井に至るまで、その全てがありとあらゆる〈言語〉で埋め尽くされていた。建物自体に文字が書き込まれている訳ではなく、式辞などの場面でよく見られる〈奉書紙(ほうしょし)〉のような蛇腹状(・・・)の折り目が付いた細長い紙にあらゆる言語の文字が無作為に記され、それが天井や壁から何百本と垂れ下がっていた。部屋を埋め尽くす〈言葉の蔓〉は、健忘蝶たちの〈巣〉であり、生態系の頂点に立つ者としての〈誇りの象徴〉でもあった。

「『本の虫(・・・)』なんて言葉もあるくらいだからてっきり図書館にでもいるのかと思ったがまさかこんな所(・・・・)に棲み着いてるとはな」

 半円の高い天井を持つ奥行きのある空間に露伴の声が響く。中央の通路で隔てられた両脇には木製の長椅子が対になるように置かれ、座面が向けられた先の壁には(だい)の大人三人分ほどはある大きな十字架が飾られていた。

「『教会』とは考えたな。人間の()を成す要素……『信仰心』は手を加えずとも無尽蔵に湧き出てくる……。多めに狩り取った(・・・・・)ところで食いっぱぐれることは無いってワケか」

 教会の中に露伴以外の人影は無い。露伴が教会に辿り着いた時点では〈司祭〉と〈修道女〉の計二名が中で作業をしていたが、〈一時間教会に近寄らない〉という命令を与えられたことで外に出払っていた。

高み(・・)の見物とはな。随分とらしい(・・・)立ち振る舞いだ」

 教会の奥に飾られた十字架に張り付いている〈女王〉は、露伴がこれまで見てきた〈個体〉とは大きさだけでなく体色も異なっており、黒を基調とした身体には白文字で世界各国の言語が書き連ねられていた。それは露伴がこれまで相手してきた健忘蝶たちの脱皮、或いは進化によって残される〈脱け殻〉によく似ていた。時折ゆっくりと開閉する翅の動きに合わせて落ちる白い鱗粉が白樺のフローリングを煌めかせる。

「ひとつ教えといてやろう。子供たち(仲間)の助けを待ってるなら時間の無駄だからやめたほうが良い。この教会の出入り口は全て閉じられている(・・・・・・・)。さっきぼくが閉めた正面の扉だけじゃあない。勝手口や窓、換気扇……要するに君たちが通れそうな、全ての出入り口(・・・・)は完全に封じた(・・・)。心休まる『我が家』が『陸の孤島』に変わった気分はどうだ?壁を食い破りでもしない限り、教会の中に入ってくることは不可能だろうな」

 身を削られ、疲労に喘ぐ心の内とは裏腹に、女王との距離を詰める露伴の語気は強い。

「ああ……それと、外から入ってくる人間を待ってるならそれも無駄(・・)だ。えーと……今は……『15時38分』。この教会は朝だけじゃなく午後の礼拝もやってるみたいだが、残念なことに今日の分は終わったようだ」

 

 午後の礼拝 14時から

       

 

 露伴が視線を送った先、掲示板に貼られたポスターが礼拝が終わったことを暗に告げていた。仮に健忘蝶が宿主(・・)に対して〈教会へ行く〉という命令を与えたとしても、礼拝の馴染みがない人間からすれば〈疑問〉の方が勝ってしまうため、宿主が元々教徒でもない限り実際に教会まで足を運ぶことはない。それに加え、教会の〈鍵〉を所有しているのは、命令(・・)によって外に出払っている司祭と、所用でS市の教会へ赴いている助祭の〈二人のみ〉で、S市からこの教会までは最短でも〈30分〉は要する。

 一人と一匹。狩人としての足音を響かせながら露伴は女王の元へと近付いていく。相対(あいたい)する両者の狭間は緊張感で満たされ、時間の流れが鈍化しているような感覚が双方の周囲を取り巻いていた。

「最初に言っておくがキミに『お願い』を書き込むつもりはない。だから平和的に───……」

 『はッ!一体どうなってるッ!?』冷房によって冷やされた空気を裂くようにして吹き込んだ生暖かい風が露伴の首筋を撫でる。予期せぬ不穏な気配に髪を引かれて振り向いた露伴の目に映ったのは、開く(・・)筈の(・・)無い(・・)教会の扉が開き、虚ろな目をした群衆が教会内へなだれ込んでくる光景だった。

「まさかヤツらの『命令』によってここに集められたのかッ!?……だもしても……『命令』を書き込んだとしても礼拝の時間はとっくに過ぎて………い、いや!違うッ!この教会はッ───!!」

 露伴が再び午後の礼拝時間を知らせるポスターへと目を向ける。

 

 午後の礼拝 14時から

       第三日曜日は16時にも礼拝を行います

 

 そこで初めて露伴は小さな注釈が書かれていたことに気付いた。

「ちょっとッ!!皆さんどうしたんですかッ!?『お願い』ですから『落ち着いて』くださいよォォォ────!!!」

「はッ!」

 うつ伏せの状態で群衆の下敷きとなり、困惑と恐れが綯交(ないま)ぜになった声をあげていたのは、ここに(・・・)居る筈(・・・)のない(・・・)〈司祭〉その人だった。

 虚ろな目で『教会』と連呼する群衆が左右に崩れたおかげで身動きの自由を取り戻し、仰向けになって大きく息を吸った司祭の頬が本になって開く。そこにはヘブンズ・ドアーによって書き込んだ命令はなく、代わりに健忘蝶の嚥下交配(・・・・)によって作り出された〈三分カン外に居ル〉という一文が記されていた。

「『三竦み(・・・)』の法則(ルール)が『破られた』だとッ!?」

 共鳴によって流し込まれた情報を真っ先に疑った露伴だったが、力関係自体は依然として変わりはなく、誤っていたのは露伴の〈認識〉の方であった。

 司祭と修道女にヘブンズ・ドアーを使用した際、修道女に対しては直接本体に書き込めていたが、司祭だと思って書き込んだページの方は、本に(・・)擬態(・・)した(・・)健忘蝶(・・・)だったのだ。当の健忘蝶は、作り出した命令を司祭へと注入したコンマ数秒後に、肩代わりする形でヘブンズ・ドアーの攻撃をその身で受け止め、三匹に分裂した後に〈一時間教会に近寄らない〉という命令に(なら)って空中(・・)遊覧(・・)に興じていた。

 摂食分裂によって命令に対する免疫を得たにも関わらず、露伴(もとい)ヘブンズ・ドアーの命令を忠実に実行しているように見えたのは、勝利を確信した女王が、司祭に寄生していた健忘蝶に報奨(自由)を与えた結果が作り上げた〈偶然(・・)()産物(・・)〉によるものだった。かつて占いを揶揄したときに用いたソレ(・・)が、己を侮辱された恨みを晴らすが如く露伴の計画を大きく狂わせる。足元に転がる〈脱け殻〉を見れば露伴も真実に気付けたかもしれないが、この事を見越して先手を打っていたかのように床を埋め尽くす蛇腹状の()が露伴の警戒を彼方へ逸らしていた。

 今だ混乱の最中にいる露伴目掛けて、礼拝者たちの身体から一斉に飛び出した健忘蝶が襲いかかる。手に余るこの数を更に増やしてしまってはそれこそ一貫の終わりだと瞬時に悟った露伴は、ヘブンズ・ドアーに指示を送ってクレイジー・ダイヤモンドさながらのラッシュを健忘蝶たちにお見舞いしたが、当の健忘蝶は何食わぬ顔で羽搏(はばた)くと、再び露伴に向かって距離を詰め始めた。殻になったはずのパンドラの箱に逆流してくる〈厄災〉の流れはもう誰にも止められなかった。

 これまで健忘蝶が宿主から抜け出したところで宿主への肉体的(・・・)な異変は見られなかったが、今回ばかりは様子が違っていた。意識を失って床に横たわる宿主全員の身体が次第に透過していき、液状に変化してひとかたまりの大きな水溜まりとなると、溶けるように床へと染み込んでいく。

「体色が透明になっているだけ(・・・・・・・・)に見えるがそう(・・)じゃあない……これはッ……『存在(・・)』の『消滅(・・)』だッ!!()()宿主()をみすみす枯らすまいとこれまで手を付けていなかった『名前』まで狩り(・・)取った(・・・)のかッ!女王に『力』を与えるためにッ!!」

 〈名前〉とは己が己であることの〈存在証明〉である。誰にも認知されないということは、はじめから存在しないのも同じこと。証明するにあたって必要不可欠な前提条件(・・・・)が見る影もなく消えていく。信者たちを貪り尽くした毒牙が今度は露伴に迫る。

 彼らと違い名前こそ奪われなかったものの、〈バイク〉、〈六壁坂〉、〈トニオ・トラサルディー〉、〈クレイジー・ダイヤモンド〉、〈広瀬康一〉、〈エコーズ〉、〈泉京香〉、〈吉良吉影〉、〈キラー・クイーン〉……そして〈杉本鈴美〉の言葉が狩りの餌食となり、それらに纏わる一切の記憶が露伴の中から消失していく。

 迂闊に書き込むことは〈死〉への近道となることは露伴は十分理解していた。しかし、追い詰められた思考は浅薄な選択肢を選ぶ。

「『ヘブンズ・ドアァァ────ッ!!』アイツに書き込めッ!今すぐにッ!!」

 女王に書き込まれた〈岸辺露伴から奪ったすべてを返す〉という命令が即座に効力を発揮させたが、先の言葉狩りによって〈ヘブンズ・ドアー〉という言葉も半分近くを狩り取られていたことで、取り戻すことができたのは〈広瀬康一〉と〈エコーズ〉の僅か二つだけだった。

 勝利を捨てるにはあまりにも不釣り合いな対価。露伴が書き込んだ最後の(・・・)命令(・・)を狩り取って生まれた三匹の新たな女王の一匹に対し、〈時速50キロで拳で放つ〉と書き込んだ右腕で殴りかかったものの、翅の片側に小さな穴を空けるに留まり、渾身の一撃で与えた傷さえも致命傷とはならず、露伴の両足にへばりついた健忘蝶たちが狩り取った言葉をエネルギー源として僅か数秒で元の状態へと戻った。

 力任せに(もが)いて健忘蝶(兵隊)たちを振り払い、かろうじて自分の身体が見えるようになった折、露伴は随分と白紙が多くなった自分の右腕に見覚えのない〈文章〉があることに気付く。

「こ……これ(・・)は一体──ッ!?」

 

女王ヲ攻撃できナイ

ジョ王を攻ゲきできない

女オウヲコウ撃デキない

 

 見映えの悪い継ぎ接ぎのフォントで綴られた〈三行〉の文字列。

 江戸時代において、離婚に際して夫から妻へ交付される離縁状である〈三行半〉を思わせる希薄的(・・・)かつ簡潔(・・)に綴られたその言葉は、露伴に残された僅かな権利(希望)を打ち砕くには十分だった。

 露伴を覆っている健忘蝶たちに、宿主に〈命令〉を書き込む嚥下交配の能力は残っていない(・・・・・・)。信者たちに〈今すぐ教会へ行く〉と書き込んだためである。嚥下交配は〈女王を護る〉という〈意思〉に応じて発現した能力のため、女王自身はそれを有していなかった。つまり、教会内に嚥下交配を使える健忘蝶は一匹足りとていない(・・・)はずなのだ。そう、教会内(・・・)には。

 露伴に命令を書き込んだのは、司祭に寄生して見事囮作戦を遂行し、その功績を称え女王より賞を与えられて空中遊泳に興じていたはずの三匹の健忘蝶たちであった。大一番の仕事を任されていたことからも分かるようにこの個体は女王から全幅の信頼を置かれており、この個体もまた女王に対する〈忠誠心〉が他の個体と比べても異様なまでに高く、それがこうして再び戦地に舞い戻ったたった一つの理由だった。

 

 『諦めなければ夢は叶う』と誰かが言った。

 俳優に憧れて高校を中退して上京したクラスメイトの別れの言葉だったか、駅前の路上ミュージシャンが歌っていた歌詞の一部であったか。はたまた難病を克服した少年を追ったドキュメンタリーに感化された担当編集者──泉京香の何気ない独り言であったか。言葉の薄さから気にも留めず、海馬の奥深くに沈めたはずの言葉が何故か今、勢い良く逆流して露伴の耳朶(じだ)を揺らした。

 夢とは〈願い〉であり、諦めとは〈権利の放棄〉である。

 不意に甦った出所不明な言葉が意味する所は『権利を放棄しない限り、挑戦する機会は無限にある』ということだったのかもしれない。誰とも分からぬ純粋無垢な(めし)いた目では権利が無い者の姿を捉えることができず、希望であるはずの無邪気な言葉はいつの間にか、世界が階級制度によって成り立っていることを証明する邪悪な光へと変貌していた

 信者たちが消え去った今叶うことはないが、彼らに必殺の拳(・・・・)を授けて女王を含む健忘蝶を一掃しようとしたところで、それは間接的(・・・)な〈攻撃の意思〉と受け取られ、書き込むことはできなかったであろう。攻撃どころか触れる権利さえ与えられない圧倒的な〈身分の差〉を埋める術を露伴は持っていない。

 健忘蝶が再び露伴を包み込む。隠しきれない焦りの色を浮かべながらも、露伴は自分自身に〈岸辺露伴の言葉はシビれる〉という文字を書き加えた。健忘蝶たちは牙を立てて露伴に蓄積する言葉を狩り取ろうとしたが、露伴によって加えられたスパイス(・・・・)によって次々に痺れてその場に倒れ込んでいった。

 そう思ったのも束の間。免疫を得て三倍の数に膨れ上がった健忘蝶の大群が完全に露伴の全身を覆い尽くす。やっとの思いで取り戻した〈広瀬康一〉と〈エコーズ〉の言葉を始めとして、露伴が生きてきた人生の記憶が次々と狩り取られていく。

 武力での対抗に限界を悟り、意味が無いと自覚しつつも、まるでサイン会の如く目に求まらぬ速度で奥の手である命令(・・)を次々と書き込んでいく露伴であったが、その一方で自由を求めて伸ばした左手は本へと変わり、鮮やかに花開いた紙製の花弁に健忘蝶が群がって数少ない言葉を狩り取っていった。

 健忘蝶との邂逅と同時に巡らせた権謀術数の数々が、呆気なく瓦解していく音が響く。

 女王は読んで字の如く、手の届かない遥か高みから〈持たざる者〉の最後を見下していた。 

 『誰ぞ彼』と問うほどに色と輪郭を失った露伴をかろうじて現世に繋ぎ止めていた〈岸辺露伴〉の名前が完全に狩り取られ、その存在が杜王町から消失していく。

 

〈岸辺露伴〉は生まれなかった。

〈杉本家惨殺事件〉から生還した者はいなかった。

〈藤倉奈々瀬〉は〈この世で最も黒く、最も邪悪な絵〉のことを誰にも話さなかった。

〈ピンクダークの少年〉という作品は存在しなかった。

ボーイ・Ⅱ・マン(大柳賢)〉は誰とも戦わなかった。

〈東方仗助〉は一人で〈ハイウェイ・スター(噴上裕也)〉を倒した。

〈乙雅三〉は誰にも背中を見られなかった。

第三の爆弾(バイツァ・ダスト)〉が初めて爆破したのは〈空条承太郎〉、〈東方仗助〉、〈虹村億泰〉、〈広瀬康一〉の四人。

〈健忘蝶〉の存在を脅かす〈天敵〉など初めから存在しなかった───…………。

 

 室内にいた人々全ての言葉は消失し、〈歪められた事実〉と健忘蝶の羽音が魔窟と化した教会に充満する。数奇な巡り合わせによって交わった〈文字〉と〈記憶〉を司る二つの傑物。健忘蝶という繊維仕立ての仕組み(メカニズム)に組み込まれた規格外の歯車は、圧倒的な力によって擂り潰され、輪郭と色を欠いて、文字通り世界に溶け込んでいく。

 〈  〉が消え去ったことを哀しむ者は誰一人としていなかった。存在の完全消滅(・・・・)は、残された者たちに〈喪失感〉を覚えることすら許さなかったのだ。

 健忘蝶と揉み合った際に〈  〉の身体から離れた鞄から一冊の本が飛び出して赤い絨毯の上で開けている。バラ科の植物が記されたその図録には薔薇そのものの項目も無論設けられており、流石に約四万種を越える品種の全てが載っている訳ではなかったが、交配の歴史において重宝された有名処は粗方網羅されていた。

 健忘蝶と見紛うほどに不自然に床でページ(羽根)を広げた図録は、見目麗しい深紅色が特徴的な〈クリムゾン・グローリー〉という品種を虚空に魅せつける。静寂の中、四角に区切られた空間に張り付いた小さな額縁(・・)の中で咲く一輪の薔薇が放つ〈深紅〉の輝きは、〈  〉の〈死〉を暗喩し、持ち主が没したことを悼んでいるようにも見えた。

 図録が〈  〉を弔う数秒前。〈  〉は薄れ行く意識の中で心に留めた確信にもうひとつの確信を付け加えた。自身にとっての凶兆は〈富谷の腕時計〉だけでなく、この世を彩る〈全ての赤〉も含まれていたのだ、と。

 〈  〉は指ひとつ動かせなくなった身体を重力に任せて地に伏し、〈アンラッキーカラー〉で染められた眼下に広がる荘厳な赤絨毯を頬で感じながら、富谷恭平が運転するタクシーの中で聞いた杜王町レディオの占いを否定する。

 

 ──やはり信じる気にはなれないな 

 

 負け惜しみともとれる妙に強気な言葉は音になることも叶わず、〈  〉の舌の上で(うずくま)ったまま終わりの時を待っていた。

 

 勝ち残った女王とそれに隷属する健忘蝶。()を唱える者など誰もいない……はずだった(・・・・)

「数にモノを言わせて実力行使とは『言の葉の王』が聞いて呆れる」

 静寂を破ったのは他でもない〈岸辺露伴〉その人だった。 

「大層な『口』を持ってるクセに人の話を聞く『耳』は持ち合わせていないようだから教えてやろう……」

 覆い被さる無数の健忘蝶を押し退けて立ち上がる露伴は亡霊や幻影の類いには持ち得ない明確な〈存在感〉があった。

「見ることのできない言葉にも『重み』が存在(・・)する。康一くんが『ACT(アクト)(スリー)』を使うときの気持ちが少しだけ分かった気がするよ。どうだ?ぼくの言葉の『重み』をちゃんと感じて(・・・)いるか(・・・)

 活力が戻った瞳に鋭い眼光を滾らせながら露伴が見下ろしていたのは、十字架から落下し、フローリングの板材の上で力無く翅を震わせる三匹の〈女王〉であった。生まれたばかりということもあってか、大きさは〈先代女王〉には遠く及ばず、〈一般個体〉と同程度に留まっていた。

「目には目を、言葉には言葉を、()には()を……」

 手をかざす露伴の動きに応じて本に変わって捲れ上がる女王たちのページには、狩り取られる運命にあった〈岸辺露伴から奪ったすべてを返す〉の命令が一文字も欠けることなく残っていた。

「ぼくのことを目の敵(・・・)みたいにしつこく付け回していたが、おまえは意識を向けるべき『相手』を間違えていた(・・・・・・)。おまえが真に警戒すべきだったのはぼく(・・)なんかじゃあなく兵隊(子供)から送られてくる『言葉そのもの』だ」

 言い放った露伴は女王の一匹に近付くと、しゃがみ込んでページを捲る。そこには幾度となく書き重ねたような〈岸辺露伴の命令は絶対〉という〈言葉(命令)〉が記されていた。版画板を彫刻刀で彫ったようなその文字は、書き(・・)込んだ(・・・)というよりも、刻み(・・)込んだ(・・・)という表現の方がよく似合っており、それは一匹だけでなく、他の二匹も同様だった。

「『お願い(・・・)を書き込むつもりはない』ってぼくの話を聞いてなかったのか?さっき今際(いまわ)(きわ)でぼくが書き込んだのはただの『お願い』じゃあない。拒否することなど認められない絶対(・・)厳守(・・)の『命令(ルール)』だッ!」

 女王たちは露伴の言葉をただ黙って聞いていたが、その顔に納得の色は無かった。露伴は彼女らの表情を一瞥すると、その中の一匹に〈この文字を食べることを許可する〉という言葉を書き込んだ。例のごとく女王の内側から湧き出た三匹の幼虫はその文字を残さず食べ尽くし、瞬く間に成長したが、敵である露伴に敵意を示すどころか平伏すようにその前に沈み込んだ。

 力を失って横たわる〈旧個体〉と新女王の姿を重ねながら、露伴は干からびて縮んだ〈先代女王〉を拾い上げ、回収した鞄の中にしまい込む。

書き込んだ言葉は必ず食べられる(・・・・・・・・・・・・・・・)。これも『気まぐれ』なんかじゃなく『法則(ルール)』のひとつだろ?」

 『仕組み(メカニズム)って言葉の方が正確(・・)かもしれないがな』共鳴(・・)によって知り得た〈情報〉という言葉の刃を女王へと突き付け、更に続ける。

「攻撃を受けるほどに際限なく強くなる子供(兵隊)は確かに厄介だったし、正直ぼくには為す術がなかった……。途中、マジ(・・)に目の前に『死』がちらついたさ。だが『問題』はそこ(・・)じゃあなく、女王である『おまえたち自身』にあったッ!ヘブンズ・ドアーで書き込まれた命令をただ単に『超越』して生まれ変わる兵隊(・・)と違って、女王(おまえ)たちの身体にはそいつ(・・・)らが狩り取ったすべての(・・・・)言葉(・・)が積み重なって『集約』される」

 女王への攻撃を封じられた露伴であったが、直接触れられずとも、誰かに頼まずとも、露伴はただ兵隊たちの分裂に力を貸してやるだけでよかった。直ぐに免疫を獲得して無意味となる言葉の羅列は、悪意(・・)など(・・)無い(・・)単なる〈献上品〉として女王に贈られる。それが遅効性の〈爆弾〉であるとも露知らず、逆らえないルールに従って兵隊たちは気付かぬ間に露伴の手駒となっていたのだ。

 

 暗雲が去り、十字架が張り付いているステンドグラスから差し込んだ西日が露伴の輪郭を捉え、教会の中央に伸びる赤い絨毯に深く影を落とす。露伴の頬を照らす色彩豊かな光の粒の中に露伴の〈ラッキーカラー〉が在るかどうかはその場にいる誰も知らなかったが、かつて自身を窮地に追い込んだ〈赤〉を含む全ての色が今は自分に味方している、露伴は不思議とそう思えた。

「言葉には重み(・・)の他にも『毒』や『トゲ』があるって習わなかったか?たったひとつでは力を持たない言葉も、繰り返し浴びせられる内に神経に入り込み、強烈な『自己暗示』となって自分自身に『呪い』をかける。君たちに関する記憶を読んでからここに来るまでに出会った個体すべてに『岸辺露伴の命令は絶対』と書き込んでおいた」

 『もちろんヤツらはぼくの言うことなんて聞かなかったがな』王様ゲームさながらに健忘蝶たちを従えていた女王が無意識のうちに露伴を主と認めたことで、自分たちが仕える王を超える存在となった露伴の言葉に重み(・・)が宿ったのだった。

 健忘蝶が天敵である露伴を遠ざけようとその身体に触れる度に、逆に露伴から〈記憶(名前)〉を刻み込まれ、いつしか露伴のことを誰よりも深く知る〈理解者〉となっていた。

 健忘蝶が露伴を覆い尽くした瞬間に〈攻撃〉は既に終わっていた(・・・・・・)のだ。

 本物の蝶々さながらに甘い言葉()に誘われ、まんまと敵の術中に()まって抜け出せなくなる様は、〈王〉の名を冠する者にあるまじき失態であった。

「料理人が『食材』と『調味料』を掛け合わせて『料理』を作り出すように、ぼくら漫画家も『絵』と『言葉』を組み合わせて『漫画』を作り出す。セリフが無く、絵だけで物語を描く『サイレントマンガ』ってジャンルもあるにはあるが、ぼくのスタイル(・・・・)じゃあない」

 女王に刻まれた歴史を読み解きながらも露伴の独白は続く。

「少し話がそれたが、要するに漫画家であるぼくにとって『言葉』とは『必要不可欠(・・・・・)』な存在で、そこには『魂』が宿る(・・)、ってことを伝えたかったんだ。俗に言う『言霊』ってヤツさ。……にも関わらず、おまえたちはその力を(ないがし)ろにし、侮り続けたことでついにはこうしてまんまと呑み(・・)込ま(・・)れた(・・)……」

 『それがおまえたちの敗因(・・)だ』露伴が自身に書き込んだ〈岸辺露伴の言葉はシビれる〉という言葉の効力が増大し、その言葉に免疫(・・)を獲得したはずの健忘蝶たちでさえも痺れて動けなくなっていた。

「与え続けた言葉()致死量(・・・)を超える前にこっちがくたばるところだったが、なんとか間に合った……。さてと……それじゃあ書き込ませてもらうよ」

 〈今日奪ったすべての言葉を持ち主に返す〉露伴の命令を聞き入れた計五匹の女王の身体から放射線状に放たれた光が壁を突き抜けて四方へ飛んでいく。それは完全に消滅した礼拝者にも届けられ、次第にあるべき(・・・・)姿へと戻っていった。

 数時間の内に起こった度重なる〈変化〉に身体が耐えきれなくなったのか、五体にまで増えた女王たちは、最新式(・・・)の三匹の内一匹を残して他は脱け殻のように動かなくなっていた。

「それともう一つだけ」

 

   マンガを愛する権利を奪うな   

 

 丁寧かつ力強く書かれた揺らぐことのない優しい命令。踵を返して出口へと向かう露伴が蹴り上げた鱗粉がその言葉を煌めかせる。

「『人の好奇心を妨げるな』とでも書こうかと思ったが、それだと何も食べられずに絶滅する可能性があったからな。多様性を重んじる優しさ(・・・・)だよ、ぼくなりのな」

 厚く重い扉を開いて振り返った露伴が別れの言葉を告げる。

「大事な読者を一人(・・)奪った『罰』だ。死ぬまで背負って生きるんだな」

 〈岸辺露伴〉という唯一無二の〈王〉が去り、閉鎖空間に残されたもう一匹の〈女王〉が翅を震わせる。再び開いた扉から吹き込む風が雨上がりのような空気を押し流す。

「そういや死なない(・・・・)ンだっけか?まッ、『言葉の綾』ってヤツさ。分かるだろ?なんたって君は『本の虫』なんだからな」

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