タロと学園ラブコメするだけ 作:私利私欲
ブルーベリー学園にも『授業参観』というものがある。
要するに、授業の様子を保護者に見てもらおうというわけだ。
当然といえば当然だが、学園にはイッシュ地方出身の生徒が多いため、校内は意外に盛況していた。
「ヴェーラは親、来ねえのか?」
廊下の外に並んでいる保護者たちを見ながら、スグリがそんなことを切り出した。
「うん。すごく来たがってたけど、こんな状況じゃちょっとね……」
自分で言いたくはないが、今のぼくは炎上状態にあるわけで。
好奇の視線に晒される息子を見たい親など居ないだろうから、あらかじめ授業参観には来ないよう言いつけておいた。
「スグリは?」
「うちはわや忙しいから、どうしてもスケジュールが合わなくて……」
ま、こんなの慣れっこだけどな、と言って笑うスグリを、ぼくは無言で抱きしめた。
「わやーっ!?」
「スグリ……ぼくがついてるからね」
「へ、変なこと言うなって!!」
仕方なく解放してやると、肩で息をするスグリ。
「……なんか、最近距離感おかしくなってねえかヴェーラ?」
「え、そう?」
「明らかに俺んことべたべた触ってくるようになったべ!?」
……言われてみれば、スグリの頭を撫でたり、ハグしたり、背中を叩いたりするようになったかもしれない。
原因があるとすれば——タロさんがぼくの部屋にやってくるようになったから、だろう。
初めて部屋に上げた日から2週間、彼女は毎日欠かさずぼくの部屋へ夕食を作りに来ている。
その際、必ずスキンシップをして帰るものだから、他人との距離感がおかしくなっているのかもしれない。
「……もしかしてタロの影響?」
「いやあ、どうかな」
「だとしたらわや気分悪いべ!?」
スグリがあまりにも不憫なので、本当のことは黙っておくこととする。
「——お、おいヴェーラ! これ、どういうことだよ!?」
すると突然、クラスメイトのひとりがスマホロトムの画面を見せつけてきた。
「どういうことって——」
液晶に映っていたのは——タロさんがぼくの部屋の前に立っている写真。
それも1枚ではなく、日付をまたいで複数枚撮られてしまっているようだ。
「お、お前ら、もう部屋に上がるような関係だったのか……!?」
いつかこうなるだろうとは思っていたけれど、よりによって授業参観の日に写真が出回るとは。
ともすれば、それは誰かの悪意によるものなのかもしれないが。
「うわ……ちょっと生々しいかも」「ま、恋人なら当たり前のことじゃない?」「でもまだ付き合ってないって噂だよ?」「ヴェーラって意外にやることやってるよなあ」
ぼくを指さして好き勝手言いはじめるクラスメイトたち。
いつかはバレると思っていたことだから、さして思うところはない。
けれど、
「……みんないい加減にしたら?」
スグリは立ち上がると、いつになく低い声で語りはじめた。
「他人のことが気になるのはわかるけど、それって誰かを傷つけてまですること?」
「で、でもよ……」
「でも、何?」
スグリは男子生徒——ぼくに写真を見せつけてきた——の胸ぐらをつかむと、
「話ならバトルコートで聞くけど……?」
「う……わ、悪かったよ! もうこの話はしない!」
それだけ言い残すと、男子生徒は自分の席へと帰っていった。
これ以上騒ぎたててはスグリの不興を買うと判断したのか、他のクラスメイトも追及してくる気はないようだ。
もしかしたら保護者が見ているという状況も味方してくれたのかもしれない。
「はあ……ヴェーラも、あんま不用意なことすんなよ?」
「ごめんなさい」
いつか庇い切れなくなっからな、というスグリに対し、ただ頭を下げることしかできなかった。
***
始業前にちょっとしたトラブルはあったものの、授業参観自体は滞りなく進行した。
親が来ていないぼくたちからすれば、ただギャラリーが増えただけ。
気兼ねすることなく普段通りに授業を受けて、それで終わりだ。
――もっとも、何事もなく終わるだなんて最初から思ってはいなかったが。
「ヴェーラくん、ちょっといいですか?」
放課後。
ぼくが帰り支度をしていると、いつものようにタロさんが教室へやってきた。
普段ならこのまま部室まで一緒に行くところ、今日ばかりは用向きが違うようだ。
「何ですかタロさん?」
「ええと、ヴェーラくんに会いたいという人が居てですね……」
ものすごく嫌な予感しかしない。
「これからリーグ戦があるのでわたしは同席できないんですけど、ヴェーラくんは応接室に向かってもらってもいいですか?」
「……わかりました」
授業参観の日に? 会ってほしい人? 応接室で?
それが誰かなんて、言われるまでもなくわかり切っている。
ぼくの予想が当たっているのであれば、断る選択肢などない。
「それじゃまたあとで!」
「はい」
タロさんと別れ、応接室に向かう。
ドアの前で深呼吸すると、そのまま4回ノックした。
「入りな」
「失礼します」
ドアを開くと、中には恰幅のいい男性がソファに腰かけていた。
テンガロンハットがよく似合う、壮年の男性だ。
「フン、よく来たなヴェーラとやら」
「……そういうあなたはヤーコンさん、ですよね」
彼の名前は『ヤーコン』。
イッシュ地方のジムリーダーであり、ホドモエシティを発展させた立役者でもあり――そして何より、彼こそが
「かけなさい」
「ありがとうございます」
ヤーコンさんに促されるまま、ぼくは彼の正面に腰かける。
「何、緊張することはねえ。腹割って話そうじゃねえか」
そんなことを言われても、好きな人の父親を前にして緊張しないわけがない。
「あの、ぼくはどうしてここに?」
「——タロが言っていた」
彼の重厚感のある声に気圧されつつ、言葉の続きを待つ。
「なんでも、あいつはおまえさんのことを男として好いているらしい」
おそらく夏休み中、帰省したときにでも話したのだろう。
それで気になってぼくのことを調べにきた、というわけか。
「その様子だと、自覚があるみてえだな」
「本人の口から聞きましたので」
「なら、どうして付き合おうとしない」
「は……」
てっきり二度と関わらないよう言われるとばかり思っていたので、拍子抜けしてしまう。
世の父親はみんな、娘に彼氏ができることを嫌がるものだと思っていたのだが。
「後期がはじまったら、折を見て告白しようと考えていました」
「気でも変わったか?」
「……ぼくが好きになった彼女と、今の彼女は違いすぎます」
真面目で優しくて、でもたまに意地悪で、大人っぽくて可愛い。
憧れのタロさんは、ぼくでは手の届かないような人だった。
それに比べて今の彼女はどうだ。
軽率に手を繋いでくるし、ハグもするし、毎日
まるで星が墜ちてきてしまったような、そんな感覚。
言葉を選ばずに言えば、少しがっかりした。
こんなのは理想の押しつけであって、よくないことだとはネモとの一件で痛いほどよくわかっている。
わかってはいるけれど、どうしても気になって仕方がないのだ。
だから彼女との関係を進めるわけにもいかず、かといって引き下がることもできないという膠着状態に陥っている。
「おまえさんにもわかるか」
「誰が見たって一目瞭然でしょう」
「違いねえ」
見た目も、性格も、きっとそれら以外の何かも変わった。
父親であればなおさら、その変化に気づかないわけがない。
「あいつ、林間学校に行ってから様子がおかしいんだ」
「そう、ですよね」
「目に見えて色気づいたし、料理を覚えたいだなんて言いだした。ただの恋煩いかと思いきや、寝る間も惜しんでバトルの勉強してやがるし、どうにも生き急いでいるようにしか見えねえ」
「——おまえが無理させてんじゃねえだろうな?」
射抜くような眼光。
額に脂汗がにじむのを感じつつ、声を絞り出す。
「部分的には、そうかもしれません」
「……」
「タロさんはぼくに相応しい人になりたいと言っていました。何をもって相応しいとするかは、わかりませんけど」
そもそも、ぼくがタロさんに勝っている部分などあるだろうか。
相応しい人になりたいというのはぼくのセリフであって、彼女から言われるようなことではない。
「聞けばおまえさん、随分とバトルの腕が立つみてえじゃねえか」
「タロさんには負けますよ」
そう答えると、ヤーコンさんは少し眉をひそめた。
「なあ、嘘はいけねえよ」
「何がですか?」
「タロに負けるなんざ、おまえはひとつも思っとらんだろう」
まさか、そんなわけがない。
ぼくはダブルバトルをはじめたばかりだし、タロさんと戦えば普通に負ける。
フルバトルなら持っていけたとして3匹――それがぼくの見込みだ。
「なんでもパルデア地方ではチャンピオン一歩手前まで行ったとか?」
「……どうしてそれを?」
「どうしても何も、おまえがタロに言ったんだろう?」
ぼくが実力を隠していることは誰にも言っていない。
それこそタロさんにも言ったことがないわけだが……可能性があるとすれば、ネモぐらいのものか。
林間学校では女子グループとして行動していたのだ、そのときに聞いていてもおかしくない。
「訂正します。……シングルバトルでなら、まず負けることはありません」
「だろうな。あいつもなかなかやるが、チャンピオン相当の人間には敵わねえよ」
林間学校にて、タロさんのシングルバトルを見る機会があった。
そこらのトレーナーよりよほど強いが、ネモに比べるとまだまだ、といった感じか。
彼女に食らいつくことすらできないようでは、ぼくに勝つことはできない。
傲りではなく、気が遠くなるほどネモとバトルしてきたからわかる事実だ。
「そんなおまえさんに1ヶ月で追いつこうなんざ、あいつもまだまだ考えが甘い」
「というと?」
「夏休み中にイッシュリーグを制覇する、なんて言うもんだから、諦めさせるのに苦労したぞ」
――ブルーベリー学園に戻ったら、真剣にチャンピオンを目指してみようと思うんです。
てっきりブルベリーグの話とばかり思っていたが、まさかイッシュ地方のポケモンリーグを指していたとは。
本気でぼくと対等になりたいのであれば、そう考えるのもわからなくもないけれど。
「しっかし、タロをそうまでさせる男ってのはどんなもんかと見に来てみりゃあ……」
上から下まで、ぼくを見回すヤーコンさん。
「まさか女じゃねえだろうな?」
「違います!」
これでも身長は伸びたし、声だって低くなった方だ。
そりゃあ、いかにも男らしいヤーコンさんからすれば、ぼくなんか女子みたいなものかもしれないけれど。
「まあいい。あんまり子ども同士の付き合いに口をはさむのは野暮ってもんだろうよ」
ただ、と続けるヤーコンさん。
「おまえさんの正直な気持ちが聞きたい――結局、おまえはタロとどうなりてえんだ?」
怒るでもなく、嘲るでもなく、ただ真っすぐな瞳。
真摯にぼくを見極めようとしている彼に向かって、適当なことを言えるわけもない。
「……」
どう答えるべきか、長考する。
ヤーコンさんは嘘や欺瞞を嫌う人。
嘘を吐かないまでも、意図的に情報を省くとか、中途半端なことをするのは悪手だろう。
ここはすべて――本当にすべて言ってしまった方がいいのかもしれない。
何より、ぼく自身がそうしたいと感じている。
「その、ですね」
目をつむり、一度深呼吸する。
「ぼくは今――モテ期に突入してしまいまして」
「は?」
ぼくの言葉を聞いて、目を丸くするヤーコンさん。
「……フッ」
しばらく黙りこんでいた彼であったが、やがてぼくが真剣に言っていることに気づいたのか、失笑した。
「何を言い出すかと思えば……フン、そりゃ羨ましい話じゃねえか」
「でも、そのせいですごく困ってるんです」
すごく困っているけれど、こんな話を学園内の誰かに聞かせるわけにもいかない。
だからこうして外部の、それも社会的信用のある大人とふたりで話せる時間ができたのは好都合だった。
「ぼくはタロさんが好きなのに、他の女子からも好意を感じていて……それで、本当は駄目なのにドキドキしてしまう自分が居て、すごく嫌なんです」
タロさんに感じるドキドキ。
ネモに感じたドキドキ。
……ゼイユに感じた、ドキドキ。
それらに差を見出すことができなくて、一歩踏み出すことを躊躇してしまっている。
もし全員に対して同じ気持ちを抱いてしまっていたら——ほんの少しだったとしても、揺らいでしまう自分が嫌だから。
「ぼくだって本当はタロさんとお付き合いしたい! でも……ぼくも、タロさんも、ふたりとも不安定な状況で告白するのは……いかがなものか、と」
「――フッ、ハッハッハ!」
何がおかしかったのか、ついにこらえきれず笑いだしてしまったヤーコンさん。
「そ、そんなに変なことを言いましたか?」
「悪い悪い……タロがおまえさんをまるで王子様みてえに言うもんだから、いや何、年相応な部分があって安心したぞ」
タロさんはぼくを何と言って紹介してくれたんだ……?
一度咳払いすると、ヤーコンさんは口を開く。
「オレさまから言えることがあるとすりゃ――おまえがどれだけ悩んでいようと、世間は知ったこっちゃねえし、待ってもくれねえぞってこった!」
「そう、ですよね」
ヤーコンさんの言葉が深く突き刺さる。
だってこれは、ぼくの問題だ。
ぼくが勝手に悩んでいるだけであって、他人には一切関係がない。
それで告白を先延ばしにしてしまっているのだから、タロさんには歯がゆい思いをさせてしまっていることだろう。
彼女のアプローチが激化したのも、きっとそれが一因。
「悩むのは悪いことじゃねえ。だが悩むばかりで行動を起こさねえのは論外だ。掘ってみねえと、何が出るかはわからねえ」
それはわかっている。
わかっているけれど、どうしてもアクションを起こすことができない。
「なら、とりあえずタロさんと付き合ってみろと?」
「それもひとつの手段だ」
「……上手くいかなかったら、どうするんですか」
「馬鹿野郎、最初から何でも上手くいくわけねえだろうが。みんな嫌になるほど失敗して、そうやって成長していくもんなんだよ」
失敗するのが怖い。
自分がそう思っていることに、ぼくは初めて気づいた。
考えてみれば当然のこと。
ネモに失望されたくないという一心でポケモンバトルを続けてきたのだから、必然的に自分を追い詰めるようにもなる。
「それともなんだ、おまえは生まれてから一度も失敗したことがねえのか?」
「……」
タロさんとのことに限っても、すでにたくさんの失敗を重ねている。
ゼイユに抱きつかれて鼻血を出したり、ゾロアにセクハラさせたり、口をついて告白してしまったり。
それに、今だって歯痒い思いをさせてしまっていることだろう。
「失敗するのが怖いなら、いつも自分に正直でいることだ! そうして選んだ先の失敗なら、嫌でも受け入れるしかねえからな」
いつも自分に正直でいること。
つい他人の目を気にして、世間ではこうだからとか、一般的にはああだから、とか。
そういうことばかり考えてしまうぼくには、まぶしすぎる言葉だ。
「——タロは、それはもうわがままな子どもだった」
「はい?」
突然、タロさんの過去について語りはじめるヤーコンさん。
「あれが欲しい、これが欲しいってよ、それが大層かわいいもんで、つい財布の紐を緩めては、よくカミさんから怒られたもんだ」
幼いタロさんからおねだりされては、仕方のないことだ。ぼくだって断る自信がない。
「次第にわがままを言わなくなって、
「……」
「そんなあいつが、最近は子どものころに戻ったみたいでよ、どこかおかしいとは思いつつも嬉しかったんだ」
だからよ、とヤーコンさんは続ける。
「おまえさんの愛想が尽きるまではどうか、あいつのわがままに付き合ってやってほしい」
頼む――そう言うと、ヤーコンさんはぼくに向かって深く頭を下げた。
「や、ヤーコンさん!? そんな、ぼくなんかに頭を下げることは」
「
経営者としてたくさんの人間の上に立つヤーコンさんが頭を下げること。
それがとんでもない重さを持つことぐらい、ぼくにだってわかる。
「おまえさんはタロが認めた男だ。ワシはおまえさんを——タロのことを信じたい」
そんなことを言われて、断れるわけがない。
自惚れでなければ、タロさんはぼくがきっかけでああなってしまったのだ。
であれば、最初からぼくが責任を取るべき話であった。
「……わかりました。ぼくなりにタロさんと向き合うことをお約束します」
「男と男の約束だ。違えたら承知しねえぞ」
強く握手を交わすと、ヤーコンさんは腕時計を確認し、立ち上がる。
「もう行く。時間をとらせてすまなかった」
「いえ……おかげさまで、ぼくもやるべきことが見えましたから」
いい加減、タロさんと向き合わなければならない。
かつてネモにそうしたように、一度腹を割って話すべきだろう。
「——自分に嘘を吐くな。ただ正直に生きろ」
それだけ言うと、ヤーコンさんは応接室を出ていってしまった。
「……かっこいい」
一方、ぼくは初めて会ったヤーコンさんから骨抜きにされてしまっていた。
***
負けるかもしれない。
そんな風に思ったのは、何年振りのことだろうか。
仮面武闘会とは違い、今回はリーグ戦でフルバトル——つまり
これで負けたら、本当にオイラが格下ということになってしまう。
「ふふ、どうですか? 一手ずつ追い詰められていく恐怖のお味は」
「……とても食えたもんじゃないねぃ」
オイラをチャンピオンから引きずり下ろすと宣言したタロ。
そのときは話半分に聞いていたけれど、この状況を目の当たりにしては信じざるをえない。
「キングドラ、戦闘不能!」
「さあ、あとはブリジュラスだけですね、チャンピオン?」
こいつは本当にオイラの知っているタロなのだろうか。
元々才能があるとは思っていたが、まさかこれほどとは。
「ほーんと、やんなっちゃうねぃ」
状況は絶望的。
こちらには手負いのブリジュラスが1匹、タロにはほぼノーダメージのポケモンが2匹。
どんな奇跡が起こったとしても、ここから逆転することはないだろう。
「……悪いなあブリジュラス」
負けるとわかっていても、だからといって諦められるものではないのだ。
「ブリジュラス! "エレクトロビーム"!」
「ミミッキュ、"まもる"で受け止めてください」
ああ、やっぱり無理なのか。
「ブリムオン、"マジカルシャイン"です!」
やっぱりオイラでは、
「――ブリジュラス、戦闘不能! タロ選手の勝利です!」
オイラの負けが確定し、観客席にどよめきが巻き起こる。
なんせチャンピオンが入れ替わるのは数年振りのこと。みんなが驚くのも無理はない。
「あーあ、負けちまった……さすがはタロ、しばらく見ねえうちに強くなったねぃ」
「……」
どうやら新チャンピオン様は
ポケモンをボールへ戻すと、タロは何も言わずにバトルコートを出て行ってしまった。
「……ちくしょう」
キングドラの"あまごい"で降らせた雨が、オイラの肩を叩いた。
***
「私、ご褒美が欲しいです」
突然、タロさんがそんなことを言いはじめた。
「ご褒美、ですか?」
「はい!」
ぐっと距離を詰められ、肩と肩が密着する。
「私、今日からチャンピオンとなりましたので」
「……はい?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまう。
「勝ったんですか、カキツバタに」
「はい! 思ったより呆気なくて、びっくりしちゃいましたけど」
こんなことならもっと早く頑張っておけばよかったなあ、と独りごちるタロさん。
リーグ戦があるとは聞いていたけれど、その相手がカキツバタだった上に、まさか勝ってしまうとは。
ヤーコンさんと話した後はさっさと帰ってしまったので、何も知らなかった。
「なので、ご褒美を要求します!」
そう言うとタロさんはぼくの正面へ移動し、下腹部の上にまたがる。
「あ、あの?」
「……」
そのままぼくの頬に手を当てると、徐々に顔を近づけ――
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「むー!」
この人、今キスしようとしなかったか……!?
咄嗟に口元を手でふさいだから事なきを得たが、危ないところだった。
「――ぷはっ! もうっ、なんで止めちゃうんですか!」
「だ、だって、付き合ってもないのにそういうことは……倫理的でないというか」
ぼくがそう言うと、タロさんの眉根が寄る。
「……ネモさんとはキスしたくせに」
「なっ」
……やはり見られていたのか。
誤解なきよう言っておくが、ぼくは頬にキスされただけであって、間違ってもこちらから求めたということはない。
「ヴェーラくんは私とするの、嫌ですか?」
「い、嫌なんかじゃないです、けど」
「けど?」
「……」
続きを促されるも、答えに窮してしまう。
「やっぱり、ヴェーラくんはネモさんのことが好きなんですね」
「っ、そんなわけない!!」
あいつは家族のようなものであって、異性として好いているのではない。……断じて。
恋愛対象として優先順位をつけるとすれば、間違いなくタロさんの方が上だ。
「それともゼイユさん?」
「だから、もうこれ以上は――」
「なら私とキスしてください。今、ここで」
……ぼくは一体どうするべきなのだろうか。
キスをしてみたくないと言えば嘘になる。
付き合っていないから、なんて理由は投げ捨ててしまっても構わない。
けれどこんな強引なやり方を認めてしまえば、それは彼女の人格に悪影響を及ぼすのではないだろうか。
……いや、それは言い訳だ。
タロさんとキスするのが怖くて、向き合う勇気が出なくて。
結局、ぼくは逃げるための口実を探してしまっている。
——自分に嘘を吐くな。ただ正直に生きろ。
ヤーコンさんの言葉が脳裏をよぎる。
「……」
そう思ったから、ぼくは――何も言わないまま、距離をゼロにした。
「っ、……ん」
「……」
唇に伝わってくる柔らかい感触。
頬のあたりに彼女の息遣いを感じながら、ゆっくりとベッドへ体勢を崩していく。
「……ふふっ、やっとその気になってくれましたね」
ぼくに覆いかぶさられながらも、妖麗に微笑むタロさん。
「……」
「……ヴェーラ、くん?」
そんな彼女を目の当たりにして――ぼくの心臓は、普段と変わらないリズムを刻み続けていた。
ああ、やっぱりそうだ。
ぼくはこのタロさんのことが
「もう、やめましょうよ、こんなこと」
「え……?」
異変を察してか、タロさんの表情に翳りが差す。
「ぼくが好きだったタロさんは……ぼくを誘惑したりしない」
されるがままに、ベッドへ横たえられたタロさん。
すごく煽情的なはずなのに、今のぼくにはいっそ醜くすら思えた。
「タロさんは真面目で、優しくて、可愛くて、そんな中にもちょっとずるい部分があって……ぼくは、そんなタロさんが好きだった」
こんなことを言うべきでないのはわかっている。
でも、言わなければわかり合えないこともあるから。
「なのに、何なんですか。ぼくが男だからって、ちょっと誘惑すれば自分のものになると思ってるんですか。だとしたらそれは大きな間違いだ」
最初はドキドキしたし、嬉しくも思った。
けれどずっと誘惑されていると、かえって気持ちが萎えてしまう。
だって、あまりにも安直なやり方だから。
肌を見せれば、手をつなげば、ハグしておけば――そんな風に思われているのだとしたら、ひどい侮辱だ。
そんな真似をしなくたって、ぼくはずっとタロさんのことが好きだったのに。
「……ヴェーラくんまで、私を否定するんですね」
「タロさんではなく、そのやり方を否定しています」
「同じことですよ」
タロさんは身体を起こすと、色のない瞳でぼくを見つめる。
どこまでも昏い、暗澹たる瞳。
何も映さないそれに、憧れようもない。
「私は……ただ自分に正直でありたいだけなんです」
ぽつり、とこぼすタロさん。
「たまにはかわいい以外の格好もしてみたかったし、カキツバタを超えて一番になりたいと思っていたし、素敵な男の子と付き合ってみたかった……でも、それはみんなの望む
「——私は、そんな現状を打ち砕きたかった」
思うに、タロさんは自意識が強い人なのだろう。
他人がどう思っているかわかってしまうからこそ、みんなの望む自分であろうとし続けてしまった。
そうやって身に着けた
「ヴェーラくんなら、本当の私をも受け入れてくれると思っていました」
そう言って立ち上がると、タロさんはぼくの前へ。
「ねえ、どうすれば私を好きになってくれますか?」
「夏休み前のタロさんに戻っていただければ」
「残酷なことを言いますね」
ぼくだってそう思う。
変わろうとしている人に、変わろうとするな、なんて言うものではない。
けれど本当に思っていることだから。
タロさんがありのままで居たいと言うのなら、ぼくもありのままの気持ちを伝えるだけのこと。
そうしなければ、落としどころを探ることすらできない。
「私の
そう言ってぼくに抱きつくと、ふたたび唇を合わせてくるタロさん。
身体を密着させて、彼女の芳香を感じて……以前のぼくなら大きく動揺していたことだろう。
「……」
「っ、どうして……!?」
けれど、今は何も感じない。
好きでもない、今や信頼すらできない人に何をされたって、ぼくの心が揺れ動くことはない。
肩を押して、退けると、少し怯えた様子のタロさんに、ぼくは問いかける。
「タロさん——あなたは一体誰なんですか?」
「私……?」
林間学校からずっと感じていたことだ。
タロさんが変わりたいという気持ちは理解する。
けれど、それにしたって変化が急激すぎた。
彼女は何事もコツコツと一歩ずつ進めていく人であって、こんな強引なやり方をする人ではない。
それは彼女の性分で、人間としての根幹を成すもの。
根っこすら変わってしまったというのなら、それは果たして本人と呼べるのだろうか。
「誰、って、言われても」
「……」
「わ、私……わたし、は……」
突然、頭を抑えながらよろめくタロさん。
「っ」
「タロさん!?」
彼女は部屋の扉を開けると、勢いよく走り去ってしまった。
「くそ、地雷を踏んだか……!」
今、タロさんをひとりにするわけにはいかない。
放っておけば消えてしまいそうな、そんな危うさを感じるから。
そう考えたぼくは、彼女の後を追って部屋を飛び出す。
「――校則違反を確認」
すると、そこにはタロさんを抱きとめるネリネさんの姿が。
……いや、一体何が起こったんですか?
「あ、あの?」
「廊下を走るのは、危険」
「それはそうでしょうけど……タロさんは?」
「気を失ってしまったようです」
目を閉じて、ぐったりとネリネさんに寄りかかるタロさん。
ネリネさんの足元がぷるぷると震えているあたり、本当に気を失っているのだろう。
このままではふたりとも倒れてしまいかねないので、ぼくが代わることにする。
「医務室に連れていきましょう。ぼくが背負います」
「不可能」
「可能です。……多分」
そう言ってタロさんを背負おうとするも――
「ぐえっ!?」
廊下の地面に向かってあっけなく押しつぶされてしまう、ぼく。
いくら背が伸びたとはいえ、脱力状態の人間をおんぶできるほどの筋力はなかったようだ。
決してタロさんが重かったとか、そういった事実はない。本当のことだ。
「タロの”ボディプレス”。……こうかはばつぐんだ」
「ボケてないで助けてください……!」
結局、タロさんの上半身と下半身を手分けして持つことに。
生徒の少ない時間帯だからよかったものの、危うくタロさんの尊厳が失われるところだった。
「はあっ、はあ……そういえば、どうしてネリネさんはここに?」
「ふっ……噂。ふ……不純異性交遊の疑いが、ふうっ、あったため、確認に参りました」
なんせタロさんがぼくの部屋に入ろうとする写真が出回っていたのだ。
生徒会長であるネリネさんが動くのは当然、か。
「ふう……何があったのかは、ふっ、訊きません。ですが、ふうっ、節度を持った付き合いを……っ、するように!」
「は、はいっ!」
珍しく声(と息)を荒げるネリネさんを見て――人間はこんなにも重たいものなのだと痛感した。
それをひとりで背負おうなどというのは土台無理な話。
ぼくは大きくなったつもりで、ひどく思いあがっていたようだ。