『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~ 作:rairaibou(風)
朝のラッシュを少し過ぎた駅の構内には、まだ通勤や通学の余韻が漂っている。
改札を抜ける学生たちの数はまばらになり、制服姿の彼らはそれぞれのペースで歩いていくが、やはりこの時間帯に駅から小走りに駆けている男子生徒というのは、若干制服を着崩しているものだ。
一方で、カバンにポケモンのキーホルダーをぶら下げた女子生徒はもう遅刻とかどうでもいいと思っているのだろう。携帯端末を片手に歩きながら時折くすくすと笑う。
そのような風景が広がるライモン高校の最寄り駅に、一人の男が降り立った。
別段注目されるような男ではなかった。ふと気を抜けば、そのまま駅の喧騒に紛れてしまいそうな。
ただ一つ平凡ではないところを上げるとすれば、彼の腰元に六つのモンスターボールがあることだろうか。
だが、それも別段人の目を引くわけでもない。そういう人だっている、程度の違和感にしかならないだろう。
「えぇ、さてさて」
男はポケットから一枚のプリントを取り出した、駅構内のど真ん中で、今どき珍しく地図が印刷されたそれをしげしげと眺め、駅の案内板を指差す。
「ライモン高校は」
案内板のイラストでは、並木道の先に、赤い屋根の校舎が小さく描かれている。
「思ったより近いな、ここから南だな」
それだけ呟き、男は駅構内に差してくる陽の方向を確認してから歩き始めた。
☆
ライモン高校の校門にたどり着いた頃、男は立ち止まり、正門の立派な門柱を見上げた。
目の前の表札には『ライモン高校』と、くっきりした書体で刻まれている。手元のプリントと見比べてから、満足げに頷いた。
「ここで間違いないな」
そう小さく口にして、歩を進める。しかし、その瞬間に声をかけられた。
「すみません、どちらへ?」
彼が振り返ると、制服姿の守衛が立っていた。年の頃は四十代後半といったところだろうか。整った身だしなみに、鍛えられた体躯。
そして何よりも、腰には三つのモンスターボールが装備されている。その配置から、彼が過去にトレーナー経験を積んでいることが容易に見て取れた。
一方、守衛の視線は男の腰に注がれている。
彼の腰にも、モンスターボールが六つ並んでいる。守衛の表情に、わずかな警戒の色が浮かんだ。
男は表情を崩さず、手を軽く挙げる。
「今日、講演に呼ばれてましてね」
そう告げると、ポケットから折り畳まれたプリントを取り出そうとした。
だが、守衛はその言葉に眉を寄せ、手元のリストを確認し始める。
「講演、ああ、ナナモリさんですね」
男は首を傾げる。
「いえ、僕はモモナリです」
その言葉に守衛は再びリストを見下ろし、念入りに目を通した後、小さく頭を振る。
「いえ、予定されているのは『ナナモリ』さんです。ナナモリ=シノブさんですね。東の牧場の方です」
モモナリと名乗る男はその言葉を聞き、ゆっくりと顎に手を当てた。
「あれ? 確かに今日ライモン高校で講演があるとオークボさんから言われたんだけどな」
考え込むように目を伏せながら、彼はプリントを開き、何か確認するように指で文字をなぞる。
そして、ちらりと守衛のボールに目をやった。
守衛は腕を組み、少し困惑した様子で彼を見ていたが、モモナリのあまりにも無害そうな佇まいに、やがて深いため息をつく。
「まあ、ここで立ち話をしていても仕方ないですね。事務室に問い合わせてみましょうか」
守衛は校門横のインターホンを指さし、軽く手を差し出した。
「それはありがたい」と、モモナリは苦笑いしながら頷き、指定されたボタンを押す。
少し間を置いて、女性の落ち着いた声が応答した。
「ライモン高校事務室です」
「あのすみません、カントーから来ましたモモナリと言います。今日、講演だって言われてたんですけど」
インターホンの向こうから、微妙な沈黙が流れる。モモナリは苦笑を深めながら、静かに「あれ?」と、頬をかいた。
どうやら、ライモン高校の一日は少しばかり波乱の予感を漂わせているようだった。
☆
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室内は一気に活気を取り戻した。
弁当を広げる生徒や、教室を飛び出して購買へ向かう生徒、携帯端末を取り出してゲームを始める者まで、それぞれが思い思いの時間を過ごし始める。
モーリは自分の席に腰を下ろし、机の上に弁当箱を置いた。蓋を開けると、昨夜の残り物を詰めただけの簡素な中身が目に入る。箸を手に取ろうとしたその時、前の席からミマが軽い調子で声をかけてきた。
「今日の昼休みの後に講演があるんだよな?」
ミマは弁当のフタを開けることもせず、興味津々な様子でモーリを見つめている。
「ああ」
モーリは短く答え、弁当に手を伸ばした。
「確か、東の牧場から人が来るんだってさ。毎年恒例らしいけど」
ミマは箸をくるくると指に回しながら、どこか気の抜けた声を出す。
「ナナモリさんだっけ? まあ、ウールーとかミルタンクとかの話なんだろ?」
「だろうね」
モーリが淡々と答えた瞬間、教室のスピーカーから校内放送の音が響いた。
それは珍しいことだったので、生徒達は一気にそちらに意識を向ける。
『生徒の皆さんにお知らせします。本日予定されていた講演の内容が変更となりました』
その言葉に、教室内のざわめきがぴたりと止まる。
『予定されていたナナモリさんではなく、カントー・ジョウトリーグトレーナーのモモナリさんによる講演に変更されました』
その後に二、三言続けられた後に放送が終わると、教室は一瞬の静寂のあと、一気に騒然となった。
「え、モモナリって、あのモモナリ?」
「マジかよ!? あのリーグトレーナーがうちの学校に?」
クラスのあちこちから驚きの声が飛び交う。
その意味を知っている学生たちからすれば、それはすごいことなのだろう。
ミマも放送の内容に驚いた様子で、モーリに向き直る。
「なあ、モモナリって知ってる?」
その問いに、モーリは箸を握る手を止め、わずかに表情を引きつらせ、少し沈黙した後に答える。
「名前くらいなら」
口調は努めて平静を装っていたが、視線は弁当の中身から離れようとはしなかった。
しかし、頭の中ではモモナリの名前が何度もリフレインする。彼が目の前に再び現れるとは、思ってもみなかった。
その時、廊下から軽快な上履きの音が近づいてくる。
「モーリ君!」
弾むような声とともに、教室の入り口にスズモトが飛び込んできた。フシギダネを肩に乗せ、興奮気味に息を弾ませている。
「今の放送、聞いた!? モモナリさんが来るって!」
モーリは顔を上げると、彼女の興奮した様子に気圧されながらも、無理に笑みを作った。
「まあ、聞こえたよ」
心の奥底で、小さな動揺が静かに広がっていくのを感じながら、モーリは弁当の蓋を閉じた。
☆
ライモン高校の東側、昼休みに生徒が集まりやすい自動販売機のあるフロアには、モーリ、スズモト、ムラナカ、タケダの四人が自然と集まっていた。
いつもなら談笑しながら飲み物を選ぶ和やかな場所だが、今日は明らかに空気が違う。モモナリの講演の話題が、彼らの頭から離れなかった。
スズモトは自販機で購入したジュースを両手で包み込みながら、興奮気味に話し始める。
「モモナリさんが来るなんて、本当に信じられないよね! だって、国内最高峰のカントー・ジョウトリーグのAリーガーだよ? 普通、こんな地方の高校に来るなんてありえないよ!」
その言葉にムラナカが大きく頷き、タケダがきょとんとした顔をしているのを見て、得意げに説明を続ける。
「カントー・ジョウトリーグってのは、国内で一番レベルの高いリーグなんだよ。ポケモンバトルの世界では誰もが憧れる場所なんだ。Aリーガーってのは、その中でもトップクラスのトレーナーしかなれないんだよ」
「へえぇ、そうなんですかぁ」
タケダはジュースの缶を開けながら首を傾げる。その様子に、スズモトがさらに熱を込めて続ける。
「特に『すなあらし』がすごくて! それに、モモナリさんって十代前半の頃からプロになってるんだよ! ポケモンリーグのチャンピオンロードを抜けた最後の世代なんだって。今じゃルールが変わっちゃったから、もうあの方法じゃプロになれないけど、すごいよね」
「へぇ、じゃあ相当な努力家なんですの?」
「そうそう、それだけじゃなくて、ずっとエッセイを書き続けてて、ポケモントレーナーの視点から見た世界とか、バトル哲学について書いてるの!」
そう言うと、スズモトは抱えていた一冊の雑誌を取り出す。
「ほら、これ! 『週刊ポケモン生活』のここにエッセイを書いてる! すっごく面白いんだよ」
ムラナカが腕を組みながら、エッセイのタイトルをちらりと見やり、隣に立つモーリに視線を向ける。
「モーリ、カントーにいたならモモナリのこと、直接知ってるんじゃないの?」
突然の問いに、モーリはわずかに目を伏せ、手にした缶コーヒーを軽く振る。
「まあ、名前くらいは」
それだけをぽつりと答えると、缶を開けて無言のまま一口飲んだ。
「えぇ、それだけ? カントーのすごいトレーナーなのにですか?」
タケダは少し不満げな顔をしながら、スズモトとムラナカに視線を移す。スズモトは眉をひそめ、ムラナカも首をかしげながらモーリを見つめた。
「なんか反応薄くない? カントーの有名人でしょ?」
「いや、まあ。そこまで興味ないし」
モーリは曖昧に笑いながら缶コーヒーを傾けたが、その微妙な表情に、ムラナカとスズモトは少し違和感を覚えたものの、それ以上深くは突っ込まなかった。
その場に漂う静けさを破るように、自販機のモーター音が低く響く。
モーリはもう一度缶コーヒーを口に運びながら、どこか遠くを見るような目をしていた。
☆
体育館の広々とした空間に、モモナリの落ち着いた声が響いていた。
すでに講演の半ばを過ぎ、生徒たちは真剣に耳を傾けている者もいれば、飽きてしまったのか小声で囁き合う者もいた。
だが、ステージ上のモモナリはそんな空気をまるで気にする様子もなく、静かにボールを取り出した。
「さて、僕の手持ちを一体だけ紹介しましょうか」
そう言って彼がモンスターボールを掲げると、体育館の天井に取り付けられた照明がボールの赤と白の境界でちらりと反射した。モモナリがボールを投げると、次の瞬間、巨大な影がステージ上に現れる。
鋭い目つき、力強い脚、そして滑らかな青紫の体躯、マッハポケモン、ガブリアスだった。
生徒たちの間からどよめきが起こる。カントー・ジョウトリーグのトップリーグで活躍するモモナリのパートナーを目の当たりにして、興奮を隠せない者もいれば、恐る恐る後ずさる者もいた。
しかし、ガブリアスは一瞬だけ眩しそうに目を細め、目の前に広がる多くの生徒達に一瞬ビクリとした。尤も、生徒達からみたそれは、自分達を睨みつけ、今にも襲いかからんとしているようにしか見えなかったが。
モモナリはそんな反応を気にも留めずガブリアスの横に立つと、彼女を落ち着かせるように微笑んで、首元の鱗を逆らわないように撫でる。
「この子とはタマゴの頃からの付き合いでね、僕達にとっては家族のようなものなんですが、ちょっと前に『事件』を起こしましてね」
そう前置きをすると、彼は袖をまくり、右腕の一部を突き出した。
よく見れば、そこには薄く残る歯型のような痕がある。
「まだこの子がフカマルだった頃に、僕の右腕に噛みついちゃいましてね、すんごい血が出ました」
生徒たちの間に驚きと悲鳴の声が漏れた。しかし、そのエピソードを知っているスズモトは身を乗り出している。
モモナリは苦笑しながら続ける。
「この話をするたびに痛くはなかったのかと聞かれるんですけど、めちゃくちゃ痛かったですよ。でもね、それでこの子を責めるのはお門違いなんです。この子にとっては何気ないコミュニケーションだったんですよね。ただ、僕の腕が柔らかすぎただけで」
それをユーモラスな発言だと思っていたのだろう。言葉を失っている会場に少しだけ首をひねった彼は、腕を組みながら視線を遠くに向ける。
「きっと人間同士のコミュニケーションも同じなんでしょうね。自分にとって自然な行動が、相手にどう伝わるかは分からない。僕はこの子が悪気を持って噛んだとは思っていません。ただ、それがこの子の流儀だったんです。今は僕の柔らかさを分かってくれたんでやりませんがね」
ガブリアスの頭をぽんぽんと叩いて続ける。
「だから、皆さんも覚えておいてくださいね。相手がどう受け取るかを考えること、それがポケモンとの付き合い方だけじゃなく、人間関係にも活きるはずです。きっと、たぶん」
生徒たちは少し考え込むようにうなずく者もいれば、友人同士で小さく話し合う者もいた。モモナリは彼らの反応を見ながら、ふと肩をすくめた。
「さて、そう言えば僕の代わりに来るはずだったナナモリさんは『ポケモン』の他に『夢』について語る予定だったそうですね」
その言葉に、会場の空気がふわりと変わる。モーリはその瞬間、微かに目を伏せた。
「僕はまあ、リーグトレーナーという立場にありますが」
モモナリは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「この立場を夢見ていたかと言うと、そうではなくて、どちらかと言うとなるべくしてなったという感じなんですね。好き勝手やってたら、なってたんです」
生徒たちの表情が変わるが、モモナリは続ける。
「リーグトレーナーになろうとして頑張っている人たちの存在も知っています。彼らは本当に努力を惜しまないし、僕も尊敬しています。でも、僕が常に思っているのは、リーグトレーナーに『ならない』という選択をした人のほうが、素晴らしいと思うんですよね」
ざわつきが起こる。スズモトが驚いた表情でムラナカを見やり、タケダも思わず身を乗り出した。モーリは静かに視線を落とし、講演を聞いているようで、聞いていないようでもあった。
モモナリは軽く笑いながら言葉を続ける。
「リーグトレーナーになることは、きっと魅力的なんでしょう。友人が言っていました『俺達はかっこよくなりすぎたんだぜ、ベイビー』とね。ですが、僕はそうは思いません。リーグトレーナーというのはね『成れの果て』なんです。僕達みたいな人間のね」
その言葉は、学生たちが思う、あるいは、彼らが自分達に語られるべきだと思っている『夢』の解釈とは随分違うものだった。
体育館のあちこちで、ざわつく声が漏れ聞こえた『ならない選択が素晴らしい』その言葉の意味をすぐに理解できた者は、きっと多くはなかった。
「例えば僕と、美味しい料理を作る料理人、どちらがより社会的に価値があるだろう、どちらがより人を幸せにしてるだろう。考えるまでもないと僕は思います。僕に負けて、医者になった人もいると聞いています。彼が救った人たちのことを考えると、彼に勝った僕にも価値があったのかな。とにかく、僕が言いたのは『夢』に振り回されちゃ駄目だよってことです」
モモナリはぐるりと生徒達を、そして、若干焦りの表情が見える教師たちを眺める。
「僕は高校どころかその前の学校にも行っていません。外国語はできないし、昔の本も読めない、微分積分なんか意味もわからないし、友達に言わせれば常識も無いそうです。僕は君達のようにはなれない、もうリーグトレーナーになってしまったから。君達は今貴重な経験の最中にある。君達は何にでもなれるでしょう、リーグトレーナー以外ならね」
モモナリはそう締めくくると、ガブリアスをそっとボールへ戻した。
「それでは、今日の話はここまでにしましょう。ありがとうございました」
静かだった体育館は、次第に拍手の音に包まれていく。
モーリはその音を聞きながら自分の中に渦巻く感情に気づかないふりをしていた。
心の奥にしまい込んでいたはずの記憶が、モモナリの言葉とともに浮かび上がる。
彼は握りしめられている自分の拳を見ることしかできなかった。
☆
「おっ、モーリ! ちょうどいいところにいたな!」
講演が終わり、生徒たちが体育館の出口へと向かう中、モーリも人の波に紛れようと歩き出した。しかし、出口近くで担任の先生に呼び止められる。
モーリは内心、少し嫌な予感を覚えながら足を止めた。
担任はいつもの親しげな笑顔を浮かべ、軽くモーリの肩を叩いた。
「校長先生が、お前を校長室に呼んでるぞ。すごいじゃないか!」
モーリは一瞬、息を飲んだ。
講演が終わった直後のこのタイミングで、校長室に呼ばれる。理由はすぐに察しがついた。
だが、それをすぐに受け止めたくない彼の本能が、まるで察しが悪いかのように振る舞う。
「えっと、何の用でしょうか?」
努めて平静を装うが、心臓の鼓動がじわじわと速くなっていくのが分かった。
手のひらにはじんわりと汗が滲み、それを悟られないように握りしめる。
「お前、新人戦で優勝しただろ? 校長先生、モモナリさんに紹介したいんだとさ!」
「モモナリさんに、紹介?」
想像していた通りの展開に、胸の奥がざわつく。急に制服の襟元がきつく感じられた。
「お前、すごいな! なかなかプロトレーナーと直接話せる機会なんてないぞ! 俺もこんなこと滅多にないと思うんだよ」
担任は心底嬉しそうに言いながら、モーリの背中を軽く押そうとする。しかし、モーリの足は重く、すぐには前に進めない。頭の中では、何か言い訳を考えようとする自分がいる。
「あ、いや、僕なんかが行っても大した話は」
なんとかやんわりと断ろうとするが、担任は「なに言ってるんだ」と笑い飛ばし、さらに畳みかける。
「緊張してるのか?」
心配そうに覗き込む担任の顔に、モーリは慌てて首を横に振った。
「い、いえ、そんなことないです。ただ、急な話でちょっとびっくりして」
乾いた笑顔を浮かべながらそう答える。担任はそれを聞くと、安心したように頷いた。
「まあ、そうだよな。でも、せっかくのチャンスなんだ、モモナリさんから何か学べるかもしれないぞ!」
モーリは微妙な表情のまま、「そうですね」と曖昧に返し、内心のざわめきを押し殺す。
心の奥にしまい込んだはずの記憶が、またじわじわと蘇り始めていた。
結局、断る理由も見つからず、モーリは担任の背中を見ながら重い足取りで校長室へと向かうことになった。
☆
「失礼します」
モーリは扉をノックし、小さな声で挨拶をしながら校長室のドアを開けた。
冷たい汗が背中を伝うのを感じる。手のひらにじっとりと湿り気が広がっていた。扉の向こうに立つ人物の姿を視界に入れるのが怖かった。
あの人が、そこにいる。
それだけで呼吸が浅くなる。
広々とした校長室には、木製の重厚なデスクが鎮座し、校長がにこやかな笑顔を浮かべている。穏やかで人当たりの良さそうな校長の顔が、かえってモーリの焦燥感を煽った。
「おお、モーリ君! よく来たね」
校長の声が温かく響く。モーリはぎこちなく頷きながら部屋に足を踏み入れた。視線を上げると、やはりそこにいる。
ソファに腰掛けていた男が、ゆったりと立ち上がる。何の緊張感もない、余裕に満ちた佇まい。
彼の腰には、あの時と同じように、六つのモンスターボールがぶら下がっていた。何も変わっていない。
変わったのは、自分の方だけだ。
男、モモナリは、モーリの顔をじっと見つめ、首を傾げた。
「あれ、君は確か」
彼の声が耳に突き刺さる。表情に困惑の色が浮かんでいた。
モーリは、その曖昧な反応に息苦しさを覚えた。
覚えていないのか。あれほど徹底的に負かされたというのに。
いや、逆だ。
彼にとって、自分など数多くの敗北者の一人に過ぎなかったのだ。そんなことはわかりきっていたはずなのに、胸の奥が締め付けられる。
「お久しぶりです」
その言葉に、校長は驚いたようだった。
自分でも驚くほど固い声だった。気取られないように必死で口角を上げ、差し出された手を握る。
モモナリの手は、思ったよりも温かかった。そして何より、乾いている。
その触覚が、余計に心をざわつかせた。
あのときの屈辱が、頭の奥から這い上がってくる。
『ポケモンに頼りすぎている』
『座学ばかりを信用している』
自分を否定するように聞こえた言葉が、そして、その実、自分というトレーナーを恐ろしいほど端的に表していた言葉が。
モモナリは、にこりと笑って手を握り返した。
「ああ、思い出した思い出した」
軽い調子のその言葉が、モーリの心をさらに深く抉る。
「ポケモンたちは元気かな」
無邪気な問いかけだった。しかし、モーリにはその言葉が皮肉のように響いた。
かつての敗北から、逃げるようにバトルから距離を置いた自分。
モモナリが知っている自分のポケモンは、今、自分の腰にはセットされていない。
「まあ、それなりに」
モーリは視線を逸らしながら短く答えた。口の中が渇いていく。
「ガブリアスと一緒に大会に出ているのかな」
モーリの腰元を眺めたモモナリの問いに、校長が小さく首をかしげた。
「いや、彼のパートナーはブニャットですよ」
校長のその言葉に、モモナリの目が驚きに見開かれる。
だが、すぐにその驚きは納得へと変わり、笑顔が広がった。
「そうか、そうかあ」
モモナリは深く頷き、まるで自分の思惑が当たったかのように満足げに微笑む。
「僕のアドバイスなんですよ。一度、初めてゲットしたポケモンと向き合ってみなさいってね、言ったんです」
その言葉に、校長は感心したように「なるほど」と頷く。
だが、モーリの心の中は、それとはまるで正反対だった。胃が縮こまり、背筋に冷たいものが走る。
向き合おうとしているのは事実だ。だが、それが成功しているとは思えない。
ブニャットとは少しずつ距離を縮めようとしている。けれど、それが「戦うため」なのか、それとも「ただの罪悪感を埋めるため」なのか、自分でもわからないままだった。
モモナリの言葉は、まるで自分がその道を選んだことを肯定するように聞こえた。
だから、その笑顔が、重圧にしか感じられない。
まるで、自分が正しい道を歩んでいると誤解されているようで、そして、その誤解を、訂正する勇気すらない自分が、何より情けなかった。
「きっと、いい経験になるさ」
モモナリの言葉が、モーリの中に鈍く響いた。期待と励ましのその一言が、彼にとってはただの重圧にしか思えない。彼は、目の前のモモナリと校長のやり取りをぼんやりと眺めながら、こみ上げる息苦しさを必死に飲み込む。
そして、僅かに震える手を無理やりポケットに突っ込み、曖昧に笑ってみせた。
☆
校門を出ると、モモナリはゆったりとした足取りで歩き始めた。
校長が何度も名前の間違いを謝罪してきたが、彼にとってそれは大した問題ではない。怒る気にもならなければ、侮蔑されたと感じるプライドもなかった
むしろ、懐かしい再会を思い出しながら気分は上々だ。
「高校かあ、いいなあ」
制服姿の生徒達を思い出しながら、モモナリは独り言を漏らす。
教室で友人たちと肩を並べ、同じ、あるいは全く違う目標に向かって過ごす日々。
自分が知らなかった世界が、すぐそばにある。
リーグトレーナーとしての誇りはあるが、それでも心の片隅で、ああいう日常に憧れを抱かずにはいられなかった。
モモナリは軽く息を吐き、目の前の路地に差し掛かる。
その時、ふと足を止めた。
「へえ」
肌を撫でる風が、微かに重たく感じる。
誰かの視線、あるいはそれ以上に濃密な「気配」が、路地の奥から漂ってくる。
敵意にも似た空気を感じ取ると、彼は口元をわずかに持ち上げた。
「なるほど」
旅先で、あるいは、穏やかな午後の風景に、違和感を抱くのは久しぶりだった。
彼はポケットから手を取り出し、釣り上がる口角を隠すこと無く、ゆっくりと角を曲がった。
対峙。
路地の先に、一人の少年が立っている。
モーリだ。
彼は両手をポケットに突っ込んだまま、モモナリを見据えていた。表情は固く、何かを言おうとするたびに唇を噛んでいる。
モモナリは軽く首をかしげた。
「どうしたのかな?」
聞くまでもない、答えは決まっている。
久しく覚えはないが、Tシャツにサインを求めるファンが、自分に敵意を向けるだろうか。
モーリは答えない。
モモナリの声を聞いた瞬間、彼の中に沈めていたはずの記憶が鮮やかに蘇る。
敗北の記憶だ。
かつて、彼のガブリアスは、ファイアローは、モモナリの操るポケモン達に徹底的に敗北した。
それは、彼の人生そのものを否定されたも同然の敗北だった。
八つ目のバッジを取りそこねた時、彼はたまたまそこにいたモモナリに助言を求めた。
そしてモモナリは、惜しげもなくそれに答えた。
曰く『座学に比重を置きすぎて、生きているポケモンを知らなさすぎる』
曰く『すべてを捨てて、もう一度一からポケモン達と向き合ってみるべきだ』
曰く『今のままじゃ絶対に強いリーグトレーナーにはなれないだろうね』
思えば、それは正しい指摘だったのかも知れない。
だが、これまでの生き方すべてを否定するようなその言葉は、まだ十四であった当時のモーリには、何が何でも否定しなければならない言葉のように思えた。
故に、彼は今日と同じように、彼を待ち伏せた。
モモナリが否定した自分が、如何にしてバッジを七つ集めることができたのか、知らしめようとした。
敵意があったわけではない、知ってほしかった。
自分というトレーナーを、知ってほしかった。
自分という生き方を、知ってほしかった。
だが、モーリは敗北した。
何もできなかった。
何かを封じられたのではない、ただただ、何もできなかったという記憶だけが残っている。
その敗北が、彼をリーグへの挑戦から遠ざけた。
敵うはずもないものの存在を感じた。自分が読み込んできた書物には乗っていない存在、端的に言えば『才能』の違いを感じた。
そして、逃げるようにこの地へ来た。祖父が死に、父親と険悪になった。全てから逃げ出したくて、この地に来た。
それなのに、再びモモナリと対峙することになるとは。
モーリは目を伏せた。胸の奥から込み上げる後悔が、足元をすくいそうになる。
それでも、彼は意を決して言葉を紡ぐ。
「何をすれば良いのか、わからなくなりました」
語るたびに喉が渇く。
冷静に伝えようとするが、声がかすれていくのを感じた。
モモナリは彼の言葉を受け流すように、目を細め、遥か見下ろすようにモーリを眺める。
「何が言いたいのかな?」
その問いかけに、モーリの表情が硬直する。
彼は、逃げるためにこの場所に来た。モモナリの言葉から逃れ、安穏とした生活を手に入れるつもりだった。けれど、ずっと引きずっている。あの言葉も、あの敗北も。
「あなたと、戦いたい」
絞り出すように告げると、モーリは首からかけていた笛を取り出し、強く息を吹き込む。
それは無音だった。
「ほお」と、モモナリはなにか珍しいものを見たかのように声を上げる。
「この辺に、広い場所はあるのかな」
「少し歩いたところに広い公園があります」
「どうする、一応僕は六体持ってるけど」
「三、三でお願いします」
「ああ、そうしようか」
モモナリはカチャカチャと手慣れた動きで腰元のモンスターボールの順番を入れ替えた。
そして、呑気に鼻を鳴らしながら、問う。
「何を悩んでいるんだい?」
その脳天気な問いに、モーリは笛を服の中にしまいながら答える。
「全てです。僕はあなたに負けた後、もう何もかもがどうでも良くなって、この地に来ました。バトルも、しないつもりでした」
彼は腰元に一つだけあるモンスターボールを撫でて、続ける。
「どうしてあなたの言う通りにブニャットを連れてきたのか、わかりません。そして、何故かポケモンバトル部に入って、バトルをしています。もうバトルはしないつもりだったのに、対戦相手が前に立つと、体と頭が、相手に勝とうとします。わかりません」
震えるボールから逃れるように指を遠ざける。
「何もかもがわからないんです。あなたに負けたとき、全部捨てるつもりだったのに。なのに、結局僕はバトルから離れられなかった」
それを聞いて、モモナリはもう一度鼻を鳴らし「難しいことを考えているんだねえ」と頭を振る。
「それって、理由がいることなのかい?」
モーリがその言葉に目を見開いたその時。
重い羽音と、地面を踏みしめる音。
彼の背後の空気が巻き上がり、彼の髪を揺らす。
それに目線を向けるモモナリは、若干つまらなさそうだ。
モーリが振り返ると、そこにはガブリアスとファイアローがいた。
「どこに隠していたんだい?」
「祖父が持っていた山に放し飼いにしています」
「なるほどねえ、おんなじだ、僕と」
彼らの首には、ペンダントのようにモンスターボールがかけられている。
モーリがそれを取り外して、二体をボールに戻す。
モモナリはモーリに呟く。
「君は二度、僕に挑んでいる。その気概は嫌いじゃないよ」
そうして彼は、見せつけるように両手を広げてみせた。
「十分だ。僕達を相手に十分持てば、君達の勝ちということにしよう」
モーリは、その言葉に生唾を飲み込んだ。
それは、現役のAリーガーを相手に、かなり厳しい勝利条件だった。
☆
午後の授業終了を知らせるチャイムが鳴ると同時に、教室内はざわめきに包まれた。
生徒たちはそれぞれに雑談を交わしながら、授業の疲れを癒している。
「なんか一組のモーリが授業サボってるらしいよ」
ふと誰かが口にすると、数人が顔を見合わせた。
「モーリが?」
「授業サボるようなやつだったか?」
教室のあちこちで、小さな声が飛び交う。
バトル部のエースにして、彼がその実力に見合わぬ生真面目さで学業に専念しているのは隣のクラスでも有名だ。
滅多にないことに、皆の関心は自然と彼の話題へと向かっていた。
「聞いたんだけど、モーリ、校長室に呼ばれたらしいよ」
「まじで? じゃあやっぱりモモナリさんと話してるのかもな」
「すげえな、バトル部のエースだもんな」
期待と羨望が入り混じる声に、教室内の雰囲気は少しずつ高まっていく。
ドラゴンを操る、妙な『夢』を語るプロのトレーナーは、少なくとも彼らの心を掴んでいる。
「新人王とプロのトレーナーかぁ、良くわかんねえけど、どんな話してんだろ」
その言葉に、スズモトは手を止めた。
机に広げていた教科書を閉じ、椅子の背にもたれかかる。
モーリが校長室に呼ばれていたことを今、初めて知った。
あのモモナリと一対一で話しているのかもしれないと思うと、胸の奥がざわつく。
勿論それは、彼女個人がモモナリのファンであることだけの問題ではない。
モーリがモモナリに対して微妙な感情を抱いていたことは会話から何となく感じ取っていた。
モモナリの話題になった時、モーリはどこか言葉を濁し、話を逸らしていた。
それを思い出すたびに、不安が膨らんでいく。
机に肘をつきながら、スズモトはため息をついた。
その時、窓際に座っていたクラスメイトが、遥か遠くを眺めながら声を上げる。
「なんか、近くの公園で『すなあらし』起きてないか?」
「え、こんな晴れてるのに?」
「なにそれ怖い」
何気ない声だった。
だが、スズモトの胸に突き刺さる。
『すなあらし』
その言葉を聞いた瞬間、全身が凍りついた。
モモナリの、あのリーグトレーナーの得意な戦法。
彼のバトルスタイルの象徴とも言えるもの。
スズモトは急いで窓際に駆け寄る。
目を凝らすと、遠くの公園の一角に、薄く立ち昇る砂煙が見えた。
周囲の生徒たちは「珍しいな」などと気軽に話しているが、スズモトは喉の奥がカラカラに渇くのを感じる。
考えがまとまるよりも先に、体が動いていた。
「ちょ、スズちゃん!? どこ行くの!?」
教室を飛び出し、廊下を駆け抜ける。
スズモトの心臓は高鳴り続けていた。
モーリがどんな気持ちでモモナリと向き合ったのかは分からない。ただ、彼が抱えているものが小さくないことだけはわかる。
お願いだから、無茶だけはしないで欲しい。
いつもそうだ。
自分達がオニドリルに襲われていたときも。
サファリパークでボーマンダに襲われたときも。
彼は、涼しい顔で、無茶をする。
助けてあげないと、と、彼女は本気で思った。
正直皆さん気づくの早いなと思いました
感想、評価よろしくお願いします。
次回は2/16、18:01予定です
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