『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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13-目の前のこと

 部室の窓を開けると、少しだけ暖かい風が流れ込んできた。

 三月の初めとはいえ、まだ冷たい空気が入り混じる中、スズモトは手をこすりながら外を眺めた。

 遠くの校庭では野球部が声を上げ、軽快な音が響いている。新チームの体制になって半年ほど経って、連携面はそれなりにものになっているようだった。

 

 プレハブ校舎、野球部第二倉庫の奥、ライモン高校ポケモンバトル部の部室は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。

 

「ツキシタ先輩、どうかな」

 

 スズモトがポツリと呟く。彼女の声はどこか上の空だった。

 

「さあな」

 

 イイダが戦術本のページをめくるものの、その視線は何も捉えていない。

 指先がページの端を何度も行き来しているだけであり、未だにむしタイプの技相性を覚えきれてはいない。

 

 部室の中央、机に肘をついていたモーリは、普段よりも静かだった。

 彼はペンを弄びながら、無造作にノートへ線を引く。途中まで書き込まれたトレーニングメニューも、どうにも集中して進まない。

 

 イイダがブニャットを避けながらソファーの背に寄りかかり、足を組み替える。

 

「一応、自己採点では合格ラインだったって言ってましたよ」

 

 その言葉に、部室の空気が少しだけ軽くなったが、それでも皆の表情は硬いままだ。

 

「でもさ、自己採点ってズレることあるじゃないですか。ちょっとミスっただけで、アウトだったり」

 

 ムラナカの言葉に、タケダが静かに首を横に振る。

 

「はいぃ、そういうことを言うと、縁起が悪いですわぁ」

 

 彼女は雑誌をぱらぱらとめくっているが、内容は頭に入っていなさそうだった。

 

「カントーの私大はいくつか受かってるらしいし、落ちたとしても良いところには行けるからなすでに」

 

 イイダが自分に言い聞かせるようにそういった。

 スズモトは頬杖をつきながら、何度も携帯端末をちらりと見た。画面に映る時間は先ほどと変わらない。それでも何かが変わるような気がして、目を落としてしまう。

 

「ヤマブキ大学、本当に合格するならすごいことだよね」

 

 モーリは、ペンの先でノートの余白を軽く叩きながら、ぼそっと呟いた。

 

「すごいよな」

 

 ヤマブキ大学は、カントーのみならずその近辺を含んだとしても最高レベルの学府と言っても過言ではなかった。格としてそこに並ぶのはタマムシ大学やエンジュ大学だろうか。

 とにかくそこは、いわゆる並の人間には挑戦すら許されない場所だった。

 ライモン高校は公立にしてはそれなりに学問に力を入れている学校ではあったが、それでも、もし合格することがあればそれは前代未聞なことだった。

 

 部室の時計が、静かに時を刻む。

 すると、廊下の向こうから足音が響いた。

 

 スズモトが顔を上げると、次の瞬間、部室の扉が勢いよく開いた。

 

「ツキシターッ!」

 

 飛び込んできたのは、三年生のホージョーだった。

 彼女は制服のブレザーのボタンを開け放ち、ネクタイもゆるく結び直されている。その片手には携帯端末がしっかりと握られていた。

 ブレザーの袖をぐいとまくり、携帯端末を掲げると、声を張り上げる。

 

「番号、あったってさ!」

 

 その一言が、部室を一気に揺らした。

 すべてを説明しているとは言えない短い言葉だったが、今更その意味を問う必要もない。

 

「やったぁ!」

 

 スズモトが飛び上がるように声をあげ、ムラナカはガッツポーズを作る。

 

「すげぇ!」

 

 タケダが手を叩きながら微笑む。

 

「当然の結果ですわぁ」

 

 イイダも安堵した表情を浮かべ、ブニャットにもたれかかるように全身から力を抜く。

 だが、ブニャットはそれにわずかに眉を動かすのみだ。

 

 ホージョーは興奮のあまり、椅子にドカッと腰を下ろす。

 

「今、ヤマブキの大学の前で泣いてるってさ。電話口でグズグズ言ってたけど、すげぇ嬉しそうだったよ」

 

 スズモトは両手を頬に当てながら、うるうるした目でホージョーを見つめる。

 

「ホントに良かった」

 

 モーリは、騒ぎに乗じることなく、少しだけ息を吐いた。

 

「すげぇな、ツキシタ先輩」

 

 イイダが携帯端末を取り出し、すぐにツキシタにメッセージを打ち始める。

 

「みんなでお祝いしようって送っときますね」

 

 ホージョーは指をさして、にやりと笑う。

 

「お祝いだけじゃダメだろ! アイツの荷物、ちゃんとまとめてやんねーと!」

 

 モーリが腕を組みながら、少し考えるように呟く。

 

「ツキシタ先輩、いつ戻るんですか?」

「明後日だってよ。そっから準備して、月末にはもうヤマブキだ」

 

 ムラナカが苦笑する。

 

「急すぎません?」

 

 ホージョーは肩をすくめ、椅子の背もたれにだらしなく寄りかかった。

 

「仕方ねえ、大学受験っつうのはそういうもんなんだろ」

 

 モーリは窓の外をぼんやりと眺めたまま、小さく呟く。

 

「すごいな、本当に」

 

 ホージョーは携帯端末を見つめ、何かを思い出したように笑った。

 

「でも、ヤマブキって都会だからな。あいつ、絶対すぐホームシックになるぞ」

 

 イイダがにやりとしながら腕を組む。

 

「その時は、みんなで押しかけてやりますか」

 

 モーリはそのやりとりを聞きながら、心のどこかでぼんやりとした違和感を覚えていた。ツキシタは、バトル部を離れ、新しい世界へ踏み出す。では、自分はどうなのか。

 

 しかし、その思考はすぐにホージョーの次の言葉で遮られた。

 

「さぁて、打ち上げの計画でも立てるか!」

 

 部室の空気が一気に賑やかさを取り戻し、歓声が上がる。

 モーリはそんな様子を眺めながら、緊張を解き放つように息を吐いた。

 

 

 

 

 ツキシタのヤマブキ大学合格の知らせが広がると、ライモン高校は一気に活気づいた。もともと成績優秀な彼の名前は知られていたが、今やその名は学内の至るところで飛び交っている。

 職員室では教師たちが誇らしげに話し合い、校内放送では「本校初の快挙」として取り上げられた。後輩たちは憧れの眼差しを向け、すれ違う度に「すごいですね」と声をかける生徒も少なくなかった。

 

 ツキシタ本人はというと、そんな周囲の騒ぎをよそに、引っ越し準備に追われる日々を過ごしている。

 月末までにカントーへ移らなければならないため、教科書や生活用品の整理、入学手続きに奔走しており、校内に姿を見せることすらままならない。

 

 当然、バトル部にも顔を出せていなかった。

 モーリは、ふと部室の隅に置かれたツキシタの忘れ物の筆記用具を見つめ、彼の不在を実感していた。

 

 

 

 

  テスト期間の午後、ライモン高校の校舎はいつもより静かだった。普段なら部活動の声が響く時間帯だが、今日はどの部屋もひっそりとしている。プレハブ校舎の奥にあるポケモンバトル部の部室も例外ではなかった。

 

 モーリは、古びた机に座り、ノートを広げてペンを走らせていた。部活のない午後、わざわざここに立ち寄ったのは、ふとトレーニングのアイデアが浮かんだからだった。カチカチとペンの音だけが部屋に響く。

 

「タケダさんのメニューは、と」

 

 しばらく、それに没頭した。

 

 ペンを止め、ふと天井を見上げる。ツキシタ先輩の合格発表から、もう数日が経った。受験から開放されたというのに、最近は引っ越しの準備で忙しく、部室にも顔を出していない。

 別に来てくれてもいいのに、そんなことを考えながら、モーリはペンを回している手を止めた。

 

 その時、部室のドアが音を立てて開いた。

 モーリは顔を上げる。

 そこには、いつもの制服姿のままのツキシタが立っていた。

 

 久しぶりに見るツキシタの姿に、モーリは思わず背筋を伸ばす。部室の薄暗さに慣れていた目が、扉越しの光に照らされたツキシタのシルエットを捉えた。

 

「モーリ君か。いるとは思わなかったな」

 

 ツキシタが笑みを浮かべながら、片手を軽く上げる。

 

「先輩、久しぶりですね」

 

 モーリは立ち上がり、自然と尊敬の念を隠さずに声をかけた。

 ツキシタは部室に足を踏み入れると、ロッカーの奥を探り始める。

 

「忘れ物取りに来たんだ。前に使ってたノートとか、荷物とか。引っ越し前に整理しとこうと思ってさ」

 

 手際よく荷物を漁りながら、ツキシタは懐かしそうにロッカーの奥から一冊のノートを取り出した。

 

「ほら、これ。昔、僕が作ったトレーニングメニューのノートだ。懐かしいな」

 

 ツキシタはノートをめくりながら、部活の日々を思い出すように目を細める。モーリはツキシタの隣に立ち、そのノートを覗き込んだ。

 それは、びっしりと書き込まれている。

 

「おかしいよね」と、ツキシタは苦笑いした。

 

「こんなに真っ黒になるまで考えてたのに、僕らの実力はずっとあんなのだった」

 

 モーリは、それを瞬間的には否定できない。

 そして、そのノートを手に持ったまま、ツキシタは、表情から微笑みを消して、モーリの方を見る。

 

「イイダくんから、君のこと、聞いたよ」

 

 それが、モーリの過去のことを指していることに、彼はすぐに気づく。

 不快感はなかった、受験に忙しく直接説明することは叶わなかったが、ツキシタはそれを知る権利があると思っていたから。

 

「月並みなことしか言えないけど、大変だったね。何もかもが、僕には想像もできないことだ」

「それは、ツキシタ先輩も同じですよ」

 

 モーリはしっかりと彼の目を見据えて、恥ずかしげもなく続ける。

 

「先輩がやったことだって、俺には何もかも想像できないことです。勉強してヤマブキ大学に受かったことだってそうですし、こんなになるまでノートにトレーニングを書いたり」

「まあ、トレーニングの方は結果がついてこなかったからね」

「それが一番苦しいじゃないですか、結果が出ないことを、ずっと続けるって」

 

 彼の言葉に、ツキシタはハッとしたように目を見開く。

 その言葉は、彼にとっては何よりの救いであった。

 

「そうだね、そうだと思う。ポケモンバトルに関しては、頑張ったよ、僕は」

 

 それは、頭脳明晰な彼が久しぶりに見せた、謙遜抜きの照れだった。

 その様子を眺めながら、モーリは一つ息を吐く。

 聞いてみたかった、しっかりと自分の足で人生を歩む彼に。

 

「先輩」と、モーリはわずかに声を震わせながら問う。

 

「俺、ずっとバトルばっかりやってきたから、こういう状況になったときに、自分が何をしたいのかがわからないんです」

 

 ツキシタはノートを手に持ったまま、モーリをじっと見つめる。

 

「そうか」

 

 それだけ言って、部室の椅子に腰を下ろす。

 

「ヤマブキ大学、すごいですね。でも、先輩はなんで進学しようと思ったんですか? 何がしたくて、進学したんですか?」

 

 モーリの問いに、ツキシタは少し考えてから答えた。

 

「正直なところ、特別やりたいことがあったわけじゃない。親や先生に勧められたのもあるけど、ただ、できることをやるしかないって思ったんだ」

 

 モーリはツキシタの言葉に少し驚いたようだった。ツキシタなら何か明確な目標があって、それに向かって進んでいるのだとばかり思っていた。

 

「でもさ、モーリ。やりたいことって、無理に見つけるものじゃないんじゃないか?」

「え?」

「僕だって、未だに手探りだよ。とにかくやれることをやって、今できることに全力を尽くす。自分にできることを必死にやって、選択肢を広げていけば、そのうち、何かが見えてくるかもしれないだろ?」

 

 ツキシタの言葉は軽く、それでいて力強かった。

 モーリはそれを聞いて、少し考え込むように俯く。そして、そっとペンを握り直し、ノートに目を向けた。

 

「そっか」

 

 ツキシタは立ち上がり、ノートをまとめながら荷物を手に取る。

 

「今はいいんだよ、今は目の前のことに全力を尽くして、必死に生きればいいと思う」

 

 モーリはその言葉を胸の中で反芻しながら、小さく頷いた。

 ツキシタは出口へ向かい、手を軽く挙げる。

 

「じゃあね、モーリ君」

「ええ、ありがとうございました」

 

 その背中を見送りながら、モーリはノートにそっとペンを走らせる。

 

 新しく書かれた一行は、これからの自分への小さな指針のように思えた。

 

「『目の前のことに、全力を尽くす』」

 

 部室の窓の外、夕焼けが少しずつ赤みを増していた。

 

 

 

 

 春休みの昼下がり、ライモン高校の校舎は静まり返っていた。

 普段なら部活動の声が響く時間帯だが、今日はどの部屋もひっそりとしている。

 その中で唯一、プレハブ校舎の奥にあるポケモンバトル部の部室には、部員たちの賑やかな声が響いていた。

 

 本来、春休みに学校へ来る必要はない。

 だが、今日は特別だった。

 

 机の上には、持ち寄ったジュースやお菓子が山のように並び、少し肌寒さが残る部室には、どこか心温まる空気が流れている。

 この場所で行われているのは、部員たちが心待ちにしていた『ツキシタ先輩おめでとう&さようなら会』だった。

 最も、彼らの手持ちのポケモンも繰り出されているため、ただでさえ狭い部室内が更に狭くなっていたが。

 

「ツキシタ先輩、本当にここでやりたかったんですか?」

 

 スズモトが、手作りのクッキーが詰まった箱を手にしながら、改めて問いかけた。

 

「ファミレスとか、もう少しちゃんとした場所でもよかったんじゃ?」

「いいんだよ、ここが一番落ち着くからな」

 

 ツキシタは笑いながら、少し薄暗い部室を見回す。

 剥がれかけたポスター、壁際に積まれたコミックの山、そして隅に置かれた使い古しのバトル用トレーニング機材、それらすべてが彼の目には懐かしく映る。

 

「ここに一番思い出があるんだ」

 

 その言葉に、スズモトは小さく頷き、テーブルの端にクッキーの箱を置いた。

 

「まあ、そうですよね」

 

 タケダも隣で微笑みながら、手作りのポフィンを皆に配っていた。

 彼女の作るお菓子は、見た目だけでなく味も一級品だった。

 

「このポフィン、ほんとおいしいですよ!」

 

 ムラナカとエビワラーがそれを頬張りながら、感動したように顔をほころばせる。

 

「嬉しいですわぁ。お父様のレシピでございますのよ」

 

 タケダが微笑みながらティーカップを揺らし、その優雅な仕草にイイダが頷く。

 

「いや、本当に美味いな。通販とかすればいいのに」

「それは言い過ぎですわぁ」

 

 タケダが控えめに笑うが、スズモトとタケダのお菓子を周囲は口々に「うまい」と頬張っている。

 

 ツキシタはそんな光景を眺めながら、ジュースの缶を手に取った。

 

「アパートは決まったのか?」

 

 おいしい水を傾けながらそう問うたサイトーに、ツキシタは頷いて答える。

 

「大学の近くにあるアパートに決まりました。築年数はちょっと古いけど、部屋の広さはまあまあですし、買い物も便利です」

「一人暮らし、楽しみですね」

 

 スズモトが目を輝かせると、ツキシタは苦笑した。

 

「いや、どうだろうな。正直、初めてのことばかりだから、不安のほうが大きいよ」

「そんな時は私達に頼ってくださぁい。お母様が『カントーには何人か舎弟がいるから、いつでも頼れ』と申しておりましたわぁ」

「今完全に舎弟って言ったよね?」

 

 いつもの流れに部室に笑いが溢れる。

 それが静まった頃に、モーリが問うた。

 

「ヤマブキ大で、何をするつもりなんですか?」

 

 ツキシタは、それに一拍おいてから答える。

 

「ヤマブキ大は世界最先端のポケモンエネルギー工学が有名なんだ。せっかく合格したし、とりあえずエネルギー工学を学んでみたいと思ってるんだよね」

 

 へえ、と、モーリはそれに感嘆の声を上げる。意味はわからなかったが。

 

「バトルは、続けるんですか?」

 

 それには、すぐさま返事が帰ってきた。

 

「いや、バトルはもうやらないよ」

 

 モーリが少し驚いたように顔を上げる。

 

「もう、やらないんですか?」

「うん。もう十分かなって思ってる。でも、ポケモンには関わっていきたいから、研究とか、教育とか、そういう道を考えてるよ」

 

 モーリはその言葉に少し寂しさを感じたが、同時に彼の新しい挑戦を心から応援したいと思った。

 何より、そのほうが良いと確実に思える。

 

 そんな中、ホージョーが缶ジュースを片手に、ぽつりと呟いた。

 

「カントーかあ、すごいな。あたしは資格取るまでは、ここで頑張るしかないけど」

 

 いつも通りのぶっきらぼうな言い方だったが、その声には少しばかりの寂しさが混じっているように思える。

 

「カントーの美味い飯を食って、かっこいい服を着て、賢い本を読んで」

 

 そこまで言ったところで、ホージョーはふいに顔を手で覆った。肩が震え、喉が詰まるような音が漏れる。

 

「ホージョーさん?」

 

 スズモトが心配そうに近づくと、ホージョーは涙を隠せないまま小さな声で言った。

 

「カントーのいい女と結婚するんだ」

 

 その場が一瞬静まり返る。

 それは、ホージョーという、常に強気にツキシタをリードしていたイメージのある彼女とは全く違う姿であった。

 しかし、それは仕方のないことだ。

 ツキシタとホージョーの関係は、それこそこの高校の前からのものなのだろう。

 彼がカントーに行くことによって、最も生活が変わってしまうのは彼女自身なのかも知れない、彼女もまた、不安であるに違いないのだ。

 そして何より、彼女はまだ若く多感な時期でもあった。

 

「おい、落ち着けホージョー」と、サイトーが彼女の肩に手を回してなだめる。

 

「ツキシタがそんな事するわけないじゃないか」

 

 しかし、ホージョーはしゃくりあげながらそれに首を振る。

 

「カントーの女がツキシタをほっとく訳ないんだ。だってツキシタ、かっこいいし」

 

 ホージョーとて、今この場でそれを言うことがふさわしくないことくらい分かってる。

 だが、一人で抱えていた不安が、この朗らかな空気で、ツキシタが本当にカントーに行くのだという現実感となって襲いかかってきたのだ。

 止めようとすればするほど、それはとめどなく流れてくる。

 一気に、なんとも言えない空気感が部室を包んだ。

 

 しかし、そんな空気を破ったのはツキシタだった。

 

「ホージョー」

 

 静かで、しかし強い声だった。

 

「そんなこと、あるわけないだろ」

 

 ホージョーは大きく目を見開いた。

 その言葉に、彼女は嗚咽を飲み込んで答える。

 

「ほんとか?」

 

 ツキシタはまっすぐに彼女を見つめ、力強く頷く。

 

「本当だよ」

 

 そう言って、ツキシタはしばらく沈黙した。

 そして、一つ息を吐いて「二人きりのときに言おうと思ってたんだけどなあ」と続ける。

 

「なあ、ホージョー」

 

 彼は少し顔を赤くし、それでも彼女の目を見つめながら言った。

 

「結婚しよう」

 

「おいまじか」と、思わずイイダが思ったことをそのまま呟いてしまった。

 

 だが、それを責めることのできる人間はこの場にいなかっただろう。

 皆、ほとんどおんなじことを思っていたのだから。

 そしてそれは、それを受けたホージョーも同じであった。

 

 彼女は泣くことも忘れてぽかんと呆けていたが、少しずつ時間をかけて自分を取り戻していった。

 そして、嗚咽によるもの以上に顔を赤くした彼女が、絞り出すように呟く。

 

「本気?」

「本気」

「だって、あたしら学生じゃん」

「卒業したらすぐに同棲しよう」

 

 それは、彼らが考えられる限りの最大限の誠意であった。

 ホージョーは再び涙をぽろぽろこぼしながら「ツキシタぁ!」と、飛びつく。

 パイプ椅子が倒れそうになるほど力を込めながら、彼女は叫ぶ。

 

「資格取ったら、あたしが一生食わせてやるからなぁ!」

 

 その光景に、部員達は全員呆気にとられていたが、サイトーが一言「いやぁ、若いってすごいな」と、呆れと驚きを交えてその場を総括すると、ようやくそれを受け入れた部員達が、次々に歓声を上げる。

 

「すげえ、プロポーズ成功!」

「いい話じゃないですか!」

 

 モーリは静かに二人を見つめながら、ふと、心のなかで思う。

 これもまた、目の前のことに全力を尽くしたのだろうか。

 顔を赤くしたスズモトが自分を見つめていることに、彼は気づかない。

 

 窓の外には、春の光が柔らかく差し込んでいた。

 

 

 

 

 春休みの午後、ライモン高校の最寄り駅は、旅立ちを迎える人々のざわめきに包まれていた。

 ホームの端から差し込む春の日差しが、静かに床を照らしている。

 駅構内はスーツケースを引く学生や、旅行に向かう家族連れで賑わい、改札を抜けるたびに自動ドアが小さな音を立てていた。

 

 ライモン高校ポケモンバトル部の面々も、その雑踏の中にいた。

 

 スズモトはコートの袖を引きながら、ちらりとツキシタのスーツケースを見つめる。

 その上には、どこからともなく現れたブニャットが丸くなって座り込んでいた。

 

「おまえも一緒に行くつもりか?」

 

 イイダがくすっと笑いながら言うと、モーリが腕を組みながら真剣な顔をする。

 

「それは困るなあ」

 

 ツキシタは苦笑しながら、そっとブニャットの背を撫でる。

 

「さすがに、お前は連れていけないよ」

 

 ブニャットは名残惜しそうに鳴いたが、すぐにスーツケースから飛び降りると、モーリの足元にすり寄った。

 

 イイダが小さく咳払いしながら、ツキシタを見上げる。

 

「忘れ物はないですか? カントーは遠いですよ」

 

 ツキシタはスーツケースの取っ手を握り直し、穏やかに微笑む。

 

「たぶん、大丈夫。ホージョーがちゃんと確認してくれたからな」

「当たり前だろ」

 

 ホージョーは腕を組み、そっぽを向いたままつぶやく。

 イイダが肩をすくめながらニヤニヤとしつつ、彼女の顔を覗き込むようにして言う。

 

「先輩、昨日は泣きすぎて全然寝てないんじゃ?」

「うるせぇ! 今日は泣かねぇんだよ!」

 

 そう言いながらも、ホージョーの手は無意識に目元へ伸びていた。

 その様子に鼻を鳴らしながら「昨日は言えなかったけど」と、ツキシタが呟く。

 

「僕も、君を一人にしたくはないんだよ。本当に」

 

 ホージョーの目が一気に見開かれる。

 

「……バカ」

 

 その一言に、ツキシタは目を細めながら小さく笑った。

 

「僕もそう思うよ」

 

 ホージョーは何も言わず、ツキシタのコートの袖をぎゅっと握った。

 

 駅の構内に電車の到着を知らせるアナウンスが響く。

 ツキシタはスーツケースを持ち上げると、最後にみんなの顔を見渡した。

 

「じゃあ、行ってくる」

 

 モーリはじっと彼を見つめ、深く頷いた。

 

「また帰ってきてください」

 

 スズモトが少し寂しそうにしながら、笑顔を作る。

 

「ヤマブキ土産、忘れないでくださいね!」

 

 ホージョーが拳を軽く振り上げ、「夜にはメール確認しろよ!」と叫んだ。

 ツキシタは微笑み、改札へと足を踏み出した。

 

 

 

 

 しばらくホームに立ち尽くしていた部員たちだったが、やがてホージョーがふと口を開いた。

 

「カントー、意外と近いよな」

 

 イイダが怪訝そうに眉をひそめる。

 

「いや、遠いでしょ」

 

 ホージョーは苦笑しながら、空を見上げる。

 

「心の問題だよ」

 

 モーリはその言葉に微笑む。

 目の前のことに、全力を尽くす。

 

「今日は、少し練習しますか」

 

 それを聞いたスズモトも、イイダも、ムラナカも、タケダも、それぞれの思いを胸に抱きながら頷いた。




感想、評価よろしくお願いします。

次回は未定です。2年生編を書き終えたらまたまとめて投稿すると思います

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