『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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15-イイダのリスト

 昼下がりの陽射しは、すでに春のものではなかった。

 教室の窓から見える桜の木々はすっかり葉を広げ、青々とした葉桜が風に揺れている。満開だった頃の華やかさは消え、代わりに濃い緑が初夏の訪れを告げていた。

 

 窓を開けると、ふわりと生ぬるい風が入り込む。どこか湿気を含んだその空気には、遠くのグラウンドから漂ってくる芝生の匂いや、校庭の土の匂いが混じっていた。

 

 時計を見れば、午後の授業が終わるまではまだ少し時間がある。陽が長くなったせいか、窓際の席は心地よい暖かさに包まれていた。うとうととまどろみそうになるほどの穏やかさだ。

 

 だが、教室の中では相変わらずざわめきが続いている。小テストの答え合わせをする者、選択科目の話をする者、ただなんとなく雑談をしている者。

 

 そんな中、モーリは前の席に座るミマが軽く伸びをするのを目にした。

 彼は何気なく振り返ってモーリに問う。

 

「そういや、バトル部の新入部員はどう? 増えた?」

 

 唐突な質問だったが、モーリはすぐに答える。

 

「あの二人だけ」

 

 ミマは意外そうに眉を上げる。

 

「少ないねぇ」

 

 だが、それほど驚いているわけでもないようで、すぐに肩をすくめる。

 

「まあ、これまでを考えればマシなのかなあ」

 

 去年の新入部員はモーリとスズモトとムラナカの三人。決して多くはなかったが、ゼロだった年に比べれば、まだ部活として機能していた。今年もなんとか二人が入ったことで、存続の危機は避けられている。

 

 そんなことを考えていると、ミマは話題を切り替えた。

 

「そういや、選択科目決めた?」

「ああ、だいたいはな」

 

 モーリが答えると、ミマはふと感慨深げな表情を浮かべる。

 

「自分で勉強する科目を決めるなんてなぁ」

 

 彼は窓の外に目をやる。風に揺れる葉桜を眺めながら、どこか遠い目をしている。

 

「なんか、責任感じるよな、自分の人生に」

 

 モーリは軽く笑いながら、机に肘をついた。

 

「今さらかよ」

「いやさ、今までは決められた勉強をしてればよかったけど、これからは自分で選ばなきゃならないんだぞ? なんかこう、逃げ場がない感じしない?」

「そんな大げさなもんでもないだろ」

「そうかなぁ」

 

 ミマは気の抜けた声で呟きながら、教室の天井を見上げる。

 

「お前ってなんか大人びてるよな」

「そんなことねーよ」

 

 モーリはそれを笑って否定するが、なんとなくだが、そう言われる理由がわかる。

 

 自分の人生に責任を持つ。

 それは彼が歩もうとした道であり、逃げた道でもある。

 そして、その道にはまだ幾多もの人間が残っている。

 わずか十と少しで自分の道を決め、その道を妄信的に猛追する存在を知っている。

 それに比べれば、今の生活はとても緩やかに時が流れているような気がするのだ。

 そして同時に、その時間の緩やかさは、自分が道を決めるべきタイミングを朧げにしているような気もする。

 モーリはまだ、自分がやりたいことを決められてはいない。

 

 選択科目も、彼は汎用性のあるものばかりを選んでいた。

 

 

 

 

 校庭に集まったバトル部の部員たちに向かって、サイトーが短く簡潔に指示を出す。

 

「よーし、まずは校庭十周だ」

 

 それだけの言葉で、全員が一斉に走り出す。

 グラウンドの端に沿って伸びるトラックを踏みしめながら、特に統一されていないジャージがそれぞれ揺らぎ、規則的な靴音が響く。

 

 春が終わり、空気は少しずつ夏の色を帯び始めていた。

 走るたびに地面から立ち上る熱が靴裏に伝わる。吹き抜ける風は心地よいが、日差しの強さは徐々に体力を奪っていく。

 

 二年生たちは一定のペースを守りながら進む。最初の頃はこの十周がきつかったが、今ではそれなりにこなせるようになっていた。

 それに比べると、新入部員たちの動きはぎこちない。

 

 コウヌはすぐに息を荒くし、腕の振り方もバラバラになっていた。足元が重く、ひたすら前に進むだけで精一杯という様子だ。

 隣のオーアサもメガネを押さえながら、表情をこわばらせている。走ることに慣れていないのが見て取れた。

 

 先を行く二年生たちは、新入部員のそんな様子を横目にしながら、自分たちが最初に走らされた日のことを思い出す。

 

 十周。

 長いようで、意外とあっという間に終わる距離だ。

 

 最後の直線に差し掛かる頃には、三年生のイイダも少し肩を揺らしながらゴールに向かっていた。

 彼のペースは決して遅くはないが、二年生と比べると息が上がっているのがわかる。

 

 全員が走り終えると、それぞれ大きく息をつきながら歩みを緩める。

 コウヌとオーアサは膝に手をつき、肩で息をしていた。

 

 モーリはそんな二人を見ながら、自分たちが一年生だった頃のことを思い返す。

 去年は自分たちも、同じように息を切らしていた。

 

「はぁ、きつい。髪、乱れてない?」

 

 コウヌがオーアサに向かって言葉を絞り出すと、彼女は荒い呼吸を整えながらコウヌに答える。

 

「乱れています。夏に向けて、髪を切ることを提案します」

「いやだぁ」

「家が美容院なら良い感じにしてくれるでしょうに」

 

 呟くように言いながら、彼女はメガネを押し上げた。

 

 モーリは汗を拭いながら、ふと横を見る。

 イイダが額の汗を手の甲で拭いながら、大きく息を吐いていた。

 

「しんどい、慣れない、もう嫌だ」

「イイダさんいつになったら慣れるんですか」

「やりましたぁ、今日はイイダ先輩に勝てましたぁ」

「そりゃおめでとう。後輩を喜ばせることができて嬉しいよ」

 

 ムラナカやタケダに笑うイイダを眺めながら、モーリはふと思った。

 

 この夏が終わったら、この人はもう走ることもなくなるんだよな。

 

 当然のことだ。

 三年生は夏の大会が終われば引退する。

 それがいつもの流れであり、変わることはない。

 

 けれど、今のイイダの姿を見ていると、彼がその事実をどう受け止めているのか、少しだけ気になった。

 

 全員の息が整ったタイミングで、サイトーが次の指示を出す。

 

「少し休憩してから、次の練習に入る。水分しっかり取っとけよ」

 

 短くそう言うと、部員たちはそれぞれの水筒に手を伸ばし、水分補給を始めた。

 

 

 

 

 まず、新入部員達は校庭のすみっこのすみっこの更に一角に移動し、新しく導入されたサンドバッグを囲んだ。

 

 それは普通のサンドバッグとは異なり、タブンネの姿をした自立式のトレーニング用具だった。

 ほんのりとピンク色の丸いフォルム、柔らかな質感。しかし、可愛らしい見た目に反して、バトルトレーニング用に作られたそれは、当たるたびに起き上がりこぼしのように揺れ、内部の重りが移動することで予測のつかない動きをする仕様になっている。

 安いものではなかったが、モーリの知る中で最も実戦に近い動きをするものだった。故に、今年度の部費での購入をイイダとサイトーに強く推薦したものである。

 

 少し強めに叩くと、それはぐわんと揺れる。

 モーリはそれを見ながら、新入部員の二人に目を向けた。

 

「じゃあ始めようか、対戦をしたい気持ちもあるかも知れないけど、今はひたすらにこれを叩いて、経験値を貯めよう。バトルはその後、夏大会前に少しやる」

 

 コウヌとオーアサがそれぞれ頷く。

 

「コウヌは直接攻撃を重点的に鍛える。マリルの『たいあたり』や『たたきつける』をしっかり当てること」

 

 コウヌはテカテカと光を反射するマリルの毛並みを眺めながら小さく頷く。

 

「オーアサは特殊攻撃の精度を上げる。バネブーの『サイケこうせん』を正確に打ち込むことを意識して」

「わかりました」

 

 オーアサはメガネを押し上げ、手持ちのボールを構える。

 モーリは一歩下がりながら、二人に向かって告げた。

 

「それじゃあ、始めよう。コウヌから」

 

 その言葉に、待ちきれなかったと言わんばかりにマリルが動く。

 丸い身体を弾ませながら、目の前のタブンネ型サンドバッグに向かって飛び込んだ。

 その勢いに気圧されながら、わずかに遅れてコウヌが指示を出す。

 

「『たいあたり』」

 

 それは指示というより後出しに近かっただろう。

 マリルの勢いは十分だった。小さな身体を思い切りぶつけ、サンドバッグを大きく揺らす。

 

 だが、次の瞬間、その反動でサンドバッグが不規則に右左に揺れた後に、逆襲するかのようにマリルの方に倒れてくる。

 

「うわっ」

 

 その軌道を読めていなかったのだろう、コウヌはそれに驚くばかりで指示を出せない。

 マリルもまた、その軌道が読めていなかったのだろう、立ち向かうように足を止めてそれへの迎撃体制を見せたが、それは迎撃を意識していたわけではなく、他の行動を諦めているように見えた。

 

「よけろって!」

 

 コウヌがそう叫び、マリルはようやくそれをかわすために足を踏み込んだが、それは間に合わず、サンドバッグが直撃した。

 

「ああ」

 

 別に満タンに砂が入っているわけではない、それは大した衝撃ではなかったはずだが、マリルが攻撃を食らったという事実にコウヌは慌てているようだった。

 逆にマリルは明らかに不機嫌な様子で、ぐわんと自分から離れるサンドバッグを睨みつけている。

 

「大丈夫か!?」

 

 コウヌは彼女を抱えあげると、乱れた毛並みを整えるように撫でた。

 マリルはサンドバッグを睨みつけながらも、コウヌに甘えるように体を密着させる。

 

「息が合ってなかったな」

 

 モーリは首を振りながら揺れるサンドバッグを手で止め、コウヌと、それを眺めるオーアサに呟く。

 

「コウヌ、お前のマリルは直線的だ。悪いことじゃないが、それに対してお前の感覚が少し合ってない」

 

「そうッスか」と、コウヌは明らかに声のトーンが落ちていた。これまでの一連の動きで、彼は自分でもなんとなくそんな気がしていた。

 

 だが、モーリはそれに笑って続ける。

 

「仕方のないことだよ、一人と一匹だ、どうしても合わないときもある。大事なのは、マリルの性格を理解して受け入れることだ」

 

 その言葉に、彼自身がなんとなく思うことを覚えながらも続ける。

 

「サンドバッグが戻ってきた時、マリルは迎撃の体勢を取って、コウヌは退避の指示を出した。自分の考えと違う指示が出たから、マリルの一歩目が遅れるのは当然だ。少し難しいけど、あそこはマリルの性格と体勢を見てから『ずつき』や『まもる』の指示を出すべきだった。それに、気持ちはわかるけど退避の指示はあまり良くない」

 

 モーリは「ちょっと見ててね」とボールからブニャットを繰り出した。

 

「『ひっかく』」

 

 その指示に、ブニャットはすぐさまサンドバッグに襲いかかる。

 攻撃を食らったサンドバッグは一度地面に強く叩きつけられ、素直に起き上がってくる。

 すでにブニャットは迎撃の構えだ。

 

「『ひっかく』」

 

 サンドバッグがブニャット側に傾くよりも先に、ブニャットが再度攻撃する。

 もう一度叩きつけられたサンドバッグは、中のオモリが移動したのかグルリと地面を這うようにしてブニャットに向かう。

 それは予測しにくい角度からの攻撃であった。

 モーリはブニャットが後ろ足を踏み込んだことを確認し、何も指示を出さない。

 ひらりと、ブニャットは見た目にそぐわぬ動きでそれをジャンプしてかわした。

 

「『のしかかり』」

 

 そして、起き上がろうとしていたサンドバッグに『のしかかり』、ごろりと寝転がってそこから下りた。

 ようやく起き上がるサンドバッグを手で止めて、モーリは二人と二匹に告げる。

 

「こんな感じだね、経験を積めば、避ける指示はわざわざ出さなくても良くなる。ただし、自分のポケモンがどういうことをしたいかを読めるようになる必要があるね」

 

 なるほど、と、感嘆するコウヌと、仕方なく納得していると言った風のマリルに鼻を鳴らしながら。モーリはオーアサに視線を向けた。

 

「じゃあ次はオーアサ」

「はい!」

 

 モーリの号令に合わせて、オーアサとバネブーが動く

 オーアサが手を上げると、バネブーはそれに呼応するように飛び上がり、額の宝石を光らせる。

 

「『サイケこうせん』」

 

 淡いピンク色の光が、一直線にサンドバッグへと放たれた。

 衝撃を受けたそれが揺れるが、バネブーはすぐに飛び上がって次の攻撃の準備に入る。

 モーリは頷いた。

 

「『サイケこうせん』」

 

 サンドバックが起き上がるより前に、高い位置からのバネブーの攻撃が直撃した。

 

「よし、いいよ、いいよ」と、モーリが声を上げる。

 

「オーアサ、お前はバネブーとの息が合ってるな。ちゃんと指示が通ってる」

「ありがとうございます」

 

 手短に答えながら、オーアサはすぐに次の攻撃を指示する。

 

「次はもう少し軌道を調整しましょう。狙いを少し下に」

 

 バネブーがわずかに視線を下げる。

 

 そして、次の瞬間、再び『サイケこうせん』が放たれた。今度はサンドバッグの下部に当たり、揺れが少し抑えられる。

 モーリは静かに観察しながら、口元に手を当てた。

 オーアサとバネブーはそつなくこなしている。このレベルではまだ無理は出ないかも知れない。

 

「よし、じゃあ続けて、なにか問題があったらサイトー先生に言ってね」

 

 はい、と、いい返事が帰ってきた。

 

 

 

 

 休憩が終わると、タケダはケッキングとともに校庭のすみっこのトレーニングエリアへと向かった。 ケッキングは相変わらずのんびりとした様子で、グラウンドに足を踏み入れた瞬間、ゆったりと大きなあくびをする。

 

 モーリはその様子を見ながら、改めて考える。

 

 ケッキングは動かない。

 

 それは特性である『なまけ』によるものも大きいかも知れないが、それ以上に彼がタケダをトレーナーとして認識していないのが大きな理由のような気もする。

 だが、凶暴なボーマンダに強烈な一撃を与えたあの姿があるように、少しでも良いから指示に従うことがあれば強力な戦力になるだろう。

 だからこそ、工夫が必要だった。

 

「モーリさん、今日はこのハチマキを使ったトレーニングですねぇ」

 

 タケダはモーリの隣に立ち、手元の袋から布を取り出す。

 彼女はマメだ。モーリが提案したものを理解し、時間を惜しまずそれを行ってくれる。

 

「そう。タケダもケッキングも、これをつけてもらう」

 

 タケダはゆっくりと袋を開けると、そこから二本のハチマキを取り出した。 一つはケッキングの頭に巻くのに十分な長さ、太さのハチマキ、もう一つはタケダ自身がつけるための細めのものだった。 勿論それは『気合』のものでもなければ『こだわり』のものでもない。

 

 どちらも純白の生地に淡いピンクの模様が入っており、全体的に柔らかな雰囲気があった。

 

「言われた通り、作ってきましたぁ」

 

 タケダは誇らしげにハチマキを掲げる。

 

「お父様にデザインをお願いしましたぁ」

「お父さん、ピンクとか使うの?」

 

 モーリが少し意外そうに尋ねると、タケダは微笑んで頷く。

 

「意外とセンスがあるんですぅ」

「まあ、いいデザインだな。目立つし、バトルの時間を明確にするにはちょうどいいかもね」

 

 一拍おいて、彼は続ける。

 

「この間も言ったけど、ケッキングは『なまけ』るし、集中力も悪い、こういうものでバトルの時間であることをわかりやすく提示して、後は短く簡潔にやってみよう」

「はいぃ、わかりましたぁ。さあ、ケッキングさん、頭を出してくださぁい」

 

 ケッキングは興味があるのかないのか、ぼんやりとタケダを見つめている。 次の瞬間、ゆっくりと体勢を変えて、タケダに頭を向ける。

 

「よし、ケッキングさん、これをつけてみましょうねぇ」

 

 タケダは優しくケッキングの頭にハチマキを巻き、自分の額にも同じように巻く。

 

「おそろいですねぇ」

 

 ゆったりとした動作だったが、ケッキングは特に抵抗することもなく受け入れる。

 不思議なことだが、懐いてはいるのだ。

 

「じゃあ、始めるぞ」

 

 モーリはストップウォッチを取り出し、準備を整える。

 

「1分間だけ指示を出して、その間に技を出せたらOK。成功したら、ちゃんと褒めてやってくれ」

「ケッキングさんを褒めるのは得意ですぅ」

 

 タケダは嬉しそうに微笑み、ケッキングさんの背中をぽんぽんと軽く叩いた。

 ケッキングは気持ちよさそうに喉を鳴らす。

 

「じゃあ、いくぞ」

 

 モーリがストップウォッチを押し、おっとりと指示を出す。

 

「ケッキングさん『じごくづき』ですぅ!」

 

 しかし、ケッキングは微動だにしない。

 モーリはタケダに視線を向ける。

 

「もっと短く、勢いをつけて」

 

 タケダは少し考え、「『じごくづき』!」と、いつもの語尾を省いて言い直す。

 

 すると、ケッキングがほんのわずかに動いた。

 

 重い体を持ち上げるように腕をゆっくりと突き出す。 まるで億劫そうな仕草だったが、確かに指示に反応していた。

 

「すごいですぅ、ケッキングさん!」

 

 タケダが目を輝かせながら声をかけると、ケッキングはのそのそと上体を起こし、拳を振り上げる。

 しかし、完全に技を出す前に再び動きを止めた。

 

「ああ、ダメダメ」と、モーリが呟く。

 

「集中が途切れるから、指示は簡潔に、他のことは喋らないように」

「あぁ、わかりましたぁ」

 

 タケダは息を整えてから再度指示を出す。

 

「『じごくづき』!」

 

 今度は、ほんの少し早く拳を振り上げた。 そして、一瞬の間の後、シュッという音と共に、ケッキングの抜手が空を切る。 少し軌道はズレていたが、確かに技を繰り出した。

 

「やりましたぁ!」

 

 タケダが満面の笑みを浮かべる。 ケッキングも、ほんの少し誇らしげな表情を見せる。

 

「あと5回に1回くらいは成功すれば、バトルでも十分戦えるはず」

 

 モーリは手応えを感じながら、次の試行に備えた。 このトレーニングを続ければ、ケッキングの『なまけ』の隙も少しずつ縮められるかもしれない。

 

 こうして、タケダとケッキングのトレーニングは、新たな一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 バトル部の練習が続く中、モーリとムラナカはグラウンドの片隅に立ち、それぞれの手持ちポケモンを前にして向かい合った。

 ムラナカとエビワラーは、基礎的な部分はすでに高いレベルにあった。

 後はどれだけ実践経験を積むか、そして、引き出しを増やすか、という段階にある。

 

「待たせたな」

「良いよ、アップの時間がしっかり作れたから」

 

 エビワラーはその言葉を聞きながら、軽くその場でシャドーボクシングをするように拳を繰り出す。打撃ポケモンらしい無駄のない動きだった。

 

 対するモーリのブニャットは、後ろ足を軽く伸ばしながら尻尾を揺らす。

 その体には、ずっしりとした重みのある『きょうせいギプス』が巻かれていた。

 

 評判の良いタマキモデルとはいえ、ある程度動きに制限がかかるのは仕方がない。ブニャットの俊敏性は、これで大きく下がっている。

 

「ま、やってみよう」

 

 モーリが軽く息を吐き、指示を出す。

 

「『ひっかく』」

 

 ブニャットはすぐに駆け出したが、その動きは普段よりもわずかに鈍い。

 それでも攻撃は鋭かった。エビワラーの肩を爪がかすめ、わずかに後ずさる。

 

 しかし、ムラナカはすぐにカウンターを指示する。

 

「『メガトンパンチ』!」

 

 鋭い拳が空を裂く。ブニャットは回避しようとしたが、いつもより遅れた一歩が致命的だった。拳が脇腹に入り、ブニャットは地面を滑るように後退した。

 

 いい判断だ。

 モーリが冷静に分析する。

 素早さが落ちたブニャットに対して、適切に大きなダメージを奪える攻撃を選択した。

 

 だが、次はそうは行くかな。

 

 モーリはブニャットを見やる。ブニャットは起き上がり、前脚を振るって砂を払うと、鋭い目つきでエビワラーを睨んでいる。

 

「『でんこうせっか』」

 

 その指示に、ブニャットが一気に駆け出す。『きょうせいギプス』で素早さは下がっているが、それでも『でんこうせっか』の速度は十分だった。

 

 ムラナカはその動きを見極め、カウンターを狙う。

 

「『カウンター』!」

 

 しかし、その拳は空を切った。

 

 ブニャットの動きがいつもと違う。普段の速度に慣れたエビワラーにとって、そのわずかな違いが誤差となった。拳を振るうタイミングがわずかに遅れ、ブニャットの『でんこうせっか』を防ぐことができなかった。

 

 ムラナカは彼らしくなく舌打ちする。

 だが、相手は待ってはくれない。

 ブニャットはもう一度同じことを繰り返した。

 

「『でんこうせっか』」

 

 再び駆け出すブニャット。ムラナカは今度こそ、と拳を握る。

 

「『はやてがえし』!」

 

 その瞬間、エビワラーの身体が鋭く旋回した。

 

 次の瞬間、エビワラーの拳がブニャットの突進の軌道を正確に捉え、真横から打ち込まれる。衝撃を受けたブニャットは、バウンドするように地面に転がった。

 すぐに立ち上がって体勢を整えるが、その視界はわずかに歪んでいる。

 

 その成果に、ムラナカは大きく息を吐いた。

 

「やっとだ!」

 

 エビワラーは静かに拳を握り、確かな手応えを感じたようだった。

 モーリはブニャットに近寄りながら、ゆっくりと呟く。

 

「ついに当てられちゃったか」

 

 そのコマンドは、年度が変わる前から練習していたものだった。

 鈍足なポケモンの先制技に対する対策としての『はやてがえし』

 覚えるポケモンの少ない、エビワラーという種族の強みの一つであり、もし操ることができれば優秀なコマンドとなる。

 

 だが、エビワラーが『はやてがえし』を身につけるまでの道のりは長かった。今までも何度か試していたが、タイミングが合わず決まらなかった。

 そして、今回ようやく成功した。

 

 ムラナカはエビワラーの頭をポンと叩く。

 

「よくやったぞ、お前」

 

 エビワラーは満足そうに腕を組み、静かにその場に座った。

 

 

 

 

 バトルを終えたブニャットとエビワラーは、それぞれのトレーナーのそばで落ち着いていた。激しい動きのせいか、どちらも肩で息をしている。

 ムラナカはエビワラーの頭をポンと叩く。

 

「よくやったな」

 

 エビワラーは少し誇らしげに胸を張っていた。

 モーリもブニャットの背を軽く撫でながら、相棒の健闘を労る。

 

 そこへ、スズモトがふらりと歩み寄ってきた。手には二つのボトルが握られている。

 

「はい、頑張ったから回復タイム」

 

 彼女がそう言いながら差し出したのは、ほんのりと白みがかった液体が入ったボトルだった。ラベルには手書きで『ミックスオレ』と書かれている。

 

「ああ、粉のやつか」

 

 ムラナカがボトルを受け取りながら、ラベルをまじまじと見つめる。

 

「保存が効くし、すぐに作れるんだよ」

 

 スズモトはいつも通りの緩やかな口調で説明する。

 モーリはブニャットの喉元を撫でながら、手元のボトルを軽く振った。液体がとろりと揺れる。

 

「味は?」

 

 彼が尋ねると、スズモトはほんの少しだけ考え込むように首を傾げ、それから微笑んだ。

 

「不味くはない」

 

 その言葉に、モーリとムラナカが無言で顔を見合わせる。

 

「なるほど、つまり美味しくもないと」

「まあ、そういうことになりますね。ちなみにフシギダネは飲まなかったよ」

「いやそんな誇らしげに言われても」

 

 スズモトがあっさりと認めたところで、ムラナカは肩をすくめながらボトルの蓋を開け、エビワラーに差し出した。

 

「まあ、疲れた体には染みるだろ」

 

 エビワラーは少し鼻をひくつかせながらも、おとなしくボトルに口をつけた。続いてモーリも、ブニャットの鼻先にボトルを寄せる。彼女は一瞬だけ警戒するように匂いを嗅ぎ、それから諦めたようにゆっくりと口をつけた。

 

 スズモトが満足そうに頷きながら、両手を合わせる。

 

「これで、みんな元気になるね」

 

 ムラナカが微妙な顔でボトルを見つめながらぼそりと呟く。

 

「もうちょっと美味しくならないのかね、これ」

「どうなんだろうね。モーリ君なにか知ってる?」

 

 その声に、モーリは蓋についていたそれをぺろりと舐めた後に答えた。

 

「うーん、俺が現役だった頃より美味しくなってる気すらする」

 

 春の終わりの風が、校庭のすみっこに集まるバトル部の面々をそっと撫でる。

 ブニャットとエビワラーは、まだぎこちないながらもそれぞれボトルを傾け、ゆっくりとミックスオレを飲み干していった。

 

 

 

 

 部活動が終わり、モーリはグラウンドから校舎へと戻った。

 トレーニング用のメモを机の上に置きっぱなしにしていたことを思い出したのだ。普段なら忘れたまま帰っても問題ないが、今日の練習で思いついたことをメモしておきたかった。

 

 部室のドアを開けると、まだ誰かが残っている。

 イイダだ。

 

 机に向かい、紙の束を手に取っている。部室の電気は消されているが、窓から差し込む夕日の光が彼の横顔を浮かび上がらせている。普段の気楽な雰囲気とは違い、何かを真剣に考えているようだった。

 

 モーリは自分のメモを取るついでに軽く声をかける。

 

「イイダさん、まだ残っていたんですね」

 

 イイダは紙から目を離し、顔を上げた。

 

「おう。ちょうどよかった、お前に聞きたいことがある」

 

 彼は手に持った紙をモーリに向ける。

 

「このリスト、合ってるか?」

 

 モーリは紙を受け取り、一読する。

 

「ねむりごなが効かないポケモンの一覧、ですか」

「そうだ。うちのバタフリー、こいつが苦手な相手をまとめてみたんだけどな」

 

 モーリは紙の端に指を滑らせながら、一通り目を通す。

 リストは、特性『ふみん』『やるき』『マイペース』を持つポケモンと、くさタイプのポケモンに分けられていた。手書きながら整理が行き届いており、初心者向けの戦術書に載せても違和感がないほどだった。

 

「俺の分かる範囲では抜けはなさそうです。よく調べられていますね」

 

 イイダは軽く鼻を鳴らす。

 

「そりゃそうだ『ねむりごな』で戦う以上こういうのはちゃんと押さえとかなきゃな」

 

 普段の調子で言いながらも、どこか誇らしげな様子だった。

 モーリは、少し意外に思った。

 イイダは気楽で、バトルにそこまで執着しているようには見えなかった。だが、こうして細かく分析し、対策を練っている。勝つための努力を続けていた。

 

「イイダさんって、意外と真面目なんですね」

 

 モーリの言葉に、イイダは肩をすくめた。

 

「意外は余計だっての」

 

 モーリは小さく笑い、もう一度リストを見つめる。

 やはり、良くできている。

 

 モーリはリストをイイダに返し、それを再び眺める彼をしばらく眺めた。

 そして、少し考えてから口を開いた。

 

「イイダさんは、どうしてバトル部に入ったんですか」

 

 それは、前々からわずかに思い続けていた疑問だった。

 イイダは天井を見上げ、腕を組んだまましばらく動かない。

 だが、やがて自分で納得したように一つ二つ頷くと、ポツリと呟く。

 

「俺ら、強いと思ってたんだよな」

 

 モーリはその言葉をそのまま受け取ることができなかった。

 

「思っていた、ということは」

 

 イイダは視線を戻し、少し笑う。

 

「いや、強いと思い込んでた、が正しいかもな」

 

 彼は手を伸ばし、机の上に置かれたバタフリーのモンスターボールを軽く叩く。

 それは返事を返すように揺れた。

 

「バタフリーの『ねむりごな』ってさ、決まれば相手は何もできなくなるんだよ。高校に入るまでは、それだけで負けなしだった。『効率よく、最小の努力で勝つ』俺らの戦法は、俺らなりに完成してたんだ」

 

 モーリは何も言わず、ただ聞いていた。

 

「それで、ジムにも挑戦したんだよ。そしたら、勝てたんだ」

 

 彼はポケットから小さなケースを取り出し、モーリの前に置いた。

 中には、一つのジムバッジが収められている。

 

「高校に入るまでは、これが誇りだった。そりゃ勿論プロになれるわけじゃねえと思ってたけど、それでも、例えばプロになることを諦めた連中の中じゃそれなりの強さなんじゃねえかって本気で思ってたんだよ、まあ、十五のガキの考えることなんてそんなもんだよ」

 

 モーリはそれを見つめながら、何かを言おうとして言葉を飲み込んだ。

 イイダはバッジをケースに戻し、机の上に置いたまま続ける。

 

「でもな、高校に入って地区大会に出て、すぐに思い知らされたんだ。俺の戦い方が、どこまで通用するのかって」

 

 窓の外の夕日が、イイダの横顔を赤く染める。

 モーリはその言葉を聞いて、心の奥で何かが引っかかった。

 

 自分と似ている。

 

 自分もかつて、ジムバッジを集めることで強さを証明できると思っていた。

 だが、最後のひとつを取れなかった。

 それはもしかしたら、何時それをやめたかの違いだけであって、意外とその内容は大なり小なりではないだろうか。

 

「今は、強いとは思ってないんですか?」

 

 モーリの問いに、イイダは短く笑った。

 

「思えるわけねぇだろ。お前が新人戦優勝してるんだぜ? 俺の戦法なんて、今となっちゃ通用するかどうかも怪しいさ」

 

 彼は自嘲的に笑って続けた。

 

「結局、強いってのは何なんだろうな」

 

 モーリはイイダが持つリストに目を落としながら、小さく息をついた。

 

「イイダさんの戦い方は、ちゃんと考え抜かれています。『ふくがん』を持つバタフリーの『ねむりごな』は、確かに効率がいいです」

 

 イイダは目を丸くした。

 

「お前、そういうこと言うのな。そう見えるのなら、まだまだ俺も捨てたもんじゃないかあ」

 

 彼は椅子の背もたれに体を預け、しばらく何も言わなかった。

 

 モーリはジムバッジのケースに視線を戻す。

 イイダは、自分が強いと思っていた。けれど、より強い相手と出会い、それを否定された。

 

 自分もまた、同じ経験をしている。

 

 最後のバッジを取れなかったこと。あのときの自分は、イイダと似たような気持ちだったのではないか。

 

「俺はもう帰るわ。お前も、あんまり遅くならないようにな。鍵、よろしく」

 

 イイダが椅子から立ち上がり、モンスターボールを拾い上げ、同時にポケットの中に合った部室の鍵をそこにおく。

 

「おつかれさまでした」と、モーリは小さく頷いた。

 

 部室のドアが開き、イイダの足音が廊下に響く。




次回4/5 18:01 予定

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