『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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17-彼らの感情

 虫の声が、熱気に溶けるように響いていた。

 

 夏の空は青く、白い入道雲が高くそびえている。

 小さなスタジアムの観客席には、各校ごとに割り振られたスペースがあり、そこに生徒や関係者たちが集まっていた。

 全体の規模としては大きくはない。観客席には、選手たちの応援に来た仲間や、試合を観に来た地元の人々がちらほらいる程度だった。

 

 モーリたちライモン高校のバトル部も、観客席の一角に集まっている。

 五人の選手と控えのコウヌ、マネージャーのスズモト、そして顧問のサイトー。

 皆、それぞれのやり方で試合への準備を整えている。

 

「相変わらず暑いですね」

 

 スズモトが日陰を求めるように腕を組み、ぼそりと呟く。

 大会が行われるフィールドは、直射日光が照りつけるグラウンドだった。

 空を遮るものは何もない。夏の日差しがじりじりと地面を焼いている。

 

「夏の大会は毎年こんなもんだろ」

 

 イイダが水の入ったボトルを軽く振りながら言う。

 彼はさほど緊張している様子もなく、隣に座るムラナカと軽く談笑していた。

 

 一方で、一年生のコウヌとオーアサは少し硬い表情をしている。

 

「し、しっかりできるでしょうか」

「大丈夫だよオーアサさん! 俺と戦ったときみたいにやれば大丈夫だって!」

 

 コウヌとの練習試合に勝利してレギュラーを掴んだオーアサは、それでも初めての大会というものに若干ナーバス気味だ。

 対してコウヌのマリルはテカテカの毛艶を綺羅びやかにさせながらシュッシュとシャドーを繰り返している。

 

「大丈夫ですよぉ、意外となんとかなりますからぁ」

 

 ハチマキをつけたタケダもオーアサを励ましていた。

 

 そして、モーリは、腕を組んだまま、静かにフィールドを見つめていた。

 まるで、何かを考えているように。

 

「モーリ君、大丈夫?」

 

 スズモトが心配そうに声をかける。

 モーリは一瞬、視線をスズモトへ向けたが、すぐにまた前を向き直した。

 

「ああ、大丈夫」

 

 その言葉に、スズモトは納得したような、納得していないような表情を浮かべる。

 彼の中にある迷いが、まだ晴れていないことを感じ取っていたからだ。

 それでも、大会は始まってしまう。

 場内アナウンスが響いた。

 

「これより、夏季大会 団体戦を開始します!」

 

 そして、試合の幕が上がる。

 

 

 

 

 その年、ライモン高校の夏は暑かった。

 まずは一回戦目の公立高校との試合を、問題なく進める。

 

「『かいりき』!」

 

 タケダの指示に、ピンクの鉢巻を巻いたケッキングは自らの腹を攻撃するマンキーの尻尾をむんずと掴んだ。

 そして、横になったまま一度だけマンキーを振り回し、ポーンと空に放り投げる。

 不慣れな体勢で放り投げられ、そのまま少し危ない体勢で地面に落ちたマンキーは、明らかに戦意を喪失してトレーナーの足元に縋り付いた。

 

「やりましたわぁ」と、思わずタケダはガッツポーズをしてしまうが、すぐさまにそれが対戦相手に対する礼に欠ける行為だと、一つ咳払いをして「失礼しました」と、頭を下げた。

 

 そのまま、彼らは勝利した。

 

 

 

 

 二回戦目は、そこまでスポーツに力を入れていない私立高校。

 

「相変わらず、ライモンのアイツすげーよなあ」という声が、観客席から聞こえてきそうだった。

 

 先鋒のモーリとブニャットは、対戦相手のアメモースになんの問題もなく勝利していた。

 動きはシンプルで単純だった。『ねこだまし』でペースを握り、相手が焦って『でんこうせっか』してきたところを『ふいうち』で叩き落とし、主導権を握ったまま『のしかかり』で勝負を決める。

 危なげない勝利であり、対戦相手すら感心していたほどだ。

 

 だが、その試合で最も気を吐いていたのは大将のイイダだっただろう。

 

「『ちょうのまい』!」

 

 彼は対戦相手のポケモンがロゼリアであったことに気づくや否や『ねむりごな』の戦略を諦めて自己強化の方針にかじを切った。その後は相手より素早く『エアスラッシュ』を押し付けて怯みを誘発してそのまま押し切った。

 

 タケダのケッキングはもう仕事は終えたとばかりに働かなかったが、代わりにムラナカが危なげなく勝利し、ライモン高校は三勝を上げる。

 

 勝ち上がったトーナメント表の隣りにあるのは、当然の優勝候補、私立リオー高校であった。

 

 

 

 

 カザは観客席の一角に腰を下ろし、腕を組んでスタジアムを見下ろしていた。

 ライモン高校の試合が終わったところだ。

 

 モーリだけではない。他のメンバーもよくやっている。

 イイダのバタフリーは手堅く相手を封殺し、ムラナカの戦い方は慎重ながら確実だった。

 タケダのケッキングは相変わらず怠けているように見えたが、それでも明らかにレベルの高い佇まいだ、気まぐれに攻撃されれば吹き飛ばされてしまうだろう

 

 この試合の結果を眺めていたリオー高校の二年生の一人が、カザの隣でぼそりと呟く。

 

「また、あいつらか」

 

 声にはわずかに棘が混じっていた。

 

 彼はその先を続けようとしたが、その言葉を飲み込んだ。

 カザが「ズルい」という言葉を嫌うことを、よく知っていたからだ。

 

 代わりに、自分を納得させるように口にする。

 

「まあ、あいつ以外に勝てばいいんだよな」

 

 カザはその言葉を聞くなり、片手を振り上げ、二年生の背中を強めに叩いた。

 鈍い音が響き、二年生がわずかに顔をしかめる。

 

「全勝狙えよ、バカが」

 

 カザの口調は軽く、どこか楽しげですらあった。

 しかし、言葉には明確な意図がこもっている。

 

「やる前から負けんなよ。お前らだって雑魚なりにもがいてんだろうが」

 

 二年生は苦笑しながら、肩をすくめる。

 そして「ちょっと調べたいことがある」と言い残し、その場を離れた。

 

 彼の背を見送っていたカザの肩を、突然、丸めた雑誌が軽く叩く。

 

「ほらよ」

 

 いつの間にか隣に座っていたヤマサキが、無造作にそれを押し付けてくる。

 カザは肩を竦めながら、雑誌を受け取り、軽く笑った。

 

「暴力っすよ」

 

 ヤマサキはそれには答えず、「付箋のところだ」とだけ言う。

 

 カザは雑誌を片手で開いた。

 やや乱雑な動作だったが、その手の中で紙は正確に折れ曲がる。

 

 そこには『カントージムバッジ突破者』と記された欄があり、その中に『モーリ』と、間違いなく、そこにその名があった。

 

 カザはページを見つめたまま、低く息をつく。

 ヤマサキは腕を組みながら、観客席の向こう側へと目を向けた。

 

「十中八九、間違いない」

 

 その視線の先に、ライモン高校の一団がいる。

 

「ブニャットを使っていたという記録は見つからなかったがな」

 

 カザは雑誌を閉じ、椅子の背もたれに体重を預ける。

 虫の鳴き声が遠くで響き、太陽がスタジアムを照りつけていた。

 

「わっかんねぇなぁ」

 

 ぼそりと漏らすように呟く。

 

「なんでそんなやつが、この地方に来るんだよ。まさか本当に雑魚狩りしたいわけじゃあるまいし」

 

 雑魚狩り、という言葉に皮肉を込める、自分以外の生徒たちが、モーリを指してそう言っていたのだ。

 冗談めかした言葉だったが、カザの表情には考え込む色が混ざっている。

 

 ヤマサキは一瞬だけ黙り、それからゆっくりと口を開く。

 

「典型的な『蝋の翼症候群』だ」

 

 カザは顔を上げた。

 

「ローの翼?」

 

 眉をひそめながら、どこかで聞いたことがあるような、ないような言葉を口にする。

 彼の頭の中には、いくつかの漫画やゲームキャラが浮かんでいたが、それはヤマサキによってすぐに否定された。

 

「神話の話だ」

 

 ヤマサキは腕を組み直し、語り始める。

 

「蝋で作った翼で空を飛んだ英雄が、太陽に近づきすぎて翼を失い、地面に落ちる。蝋を溶かす灼熱の太陽と、翼を失い落下した恐怖を、蝋塗れの腕を見るたびに思い出し、二度と飛ぼうとはしなかった」

 

 カザは黙ったまま、ヤマサキの言葉を聞いていた。

 

「憧れに近づきすぎて、心を焼かれたんだ」

 

 その言葉が落ち着くまでのわずかな沈黙。

 

 カザはゆっくりと首を傾げ、軽く笑う。

 

「全部聞き取れたんだがなぁ」

 

 意味は分かる。けれど、それがどういう感覚なのかは理解できなかった。

 ヤマサキは短く息を吐く。

 

「要は、強すぎる相手に負けて挫折したんだ」

 

 あまりにもわかりやすい要約に、カザは不満げに沈黙した。

 

「おそらく今、彼のモチベーションはゼロに近い。だが、こういうレベルの大会では勝ててしまう。ブニャットというポケモンを使おうがな」

 

 ヤマサキの言葉には、どこか冷静な分析が滲んでいた。

 

「悲しい話さ。遊ぶ相手がいない」

 

 カザは小さく舌打ちしながら、雑誌を丸めて横に置いた。

 どこか引っかかる。ヤマサキの言葉に納得しきれないものがあった。

 

「あんたに、あいつの何がわかるんだよ」

 

 低く、しかしはっきりとした声だった。

 ヤマサキはわずかに目を細める。

 

「わかるさ」

 

 まるで当たり前のことのように、彼は続ける。

 

「俺が、そうだったからな」

 

 カザは眉をひそめ、ゆっくりと視線を上げた。

 

「マジで言ってんのか」

 

 ヤマサキは遠くを見ながら言う。

 

「お前も知ってる話だが、俺は昔、カントー・ジョウトリーグに所属していた」

 

 その言葉に、カザは無意識に息を止める。

 それは有名な話だった、むしろスポーツ強豪の私立高校の体育会系を纏めるには、それなりの実績というものが必要で、ヤマサキのそれは跳ねっ返りの新入部員達が萎縮するには充分なものだったのだ。まあ、カザのような例外はいるが。

 

「それなりに努力して掴んだ席だと思っていた。昇格が叶わなくとも、努力を続ければいつか上り詰めることができると信じていた」

 

 ヤマサキの目が、少しだけ細くなる。

 

「ぶち抜けた強さでバッジを八つ揃えた、鳴り物入りのルーキーにコテンパンにやられるまではな」

 

 静かな口調だったが、その奥には悔しさが滲んでいる。

 

「お前よりも、年下だったんだぞ」

 

 カザはしばらく黙ったままだった。

 そして、ゆっくりと立ち上がる。

 

「それでも、わからねぇよ」

 

 彼にはそれがわからない。

 彼にとってバトルとは生きることだったから、人生を歩むため、何も知らぬ自分が人生を歩くために突く杖のような存在だったから。

 

 カザの言葉には、確かな自信があった。

 

「俺は勝つ。あいつに」

 

 

 

 

 モーリはゆっくりと立ち上がった。

 遠くで虫の鳴き声が響き、周囲のざわめきと混ざり合っていた。

 風はほとんど吹いておらず、空気は湿り気を帯び、まとわりつくように肌を焼いている。

 

 視線を巡らせると、ライモン高校のメンバーがそれぞれの時間を過ごしていた。

 イイダはペットボトルの水を軽く振りながら、ムラナカと談笑している。

 タケダはハチマキを締め直し、オーアサは緊張した様子で自分のシューズを見つめていた。

 コウヌはオーアサを励ましながら、彼女にマリルを撫でさせようとしていた。

 

 そんな中、モーリは観客席の階段を一段ずつ降り、イイダとサイトーのそばへと歩み寄る。

 その動きに気づいたスズモトが、少し不安げな表情で彼を見た。

 

 モーリは足を止め、一度息を吐く。

 それから口を開いた。

 

「次の試合、大将をやらせてくれませんか」

 

 短く、それだけを伝えた。

 その瞬間、空気がわずかに変わる。

 

 イイダはペットボトルを傾ける手を止め、サイトーは腕を組み直した。

 スズモトの眉がわずかに寄る。

 

「なんで?」

 

 イイダが率直に問いかける。

 それはただの疑問ではなく、モーリがなぜここでその提案をするのかを測るような響きを持っていた。

 

 モーリは即答できなかった。

 

 カザの顔が頭に浮かぶ。

 校門の前での挑発的な視線。

 橋の下での言葉。

 握りしめた拳の感触が蘇る。

 

 戦えば、何かが変わるかもしれない。

 その思いだけは確かにあった。

 けれど、具体的に何を求めているのか、それを自分の言葉にできなかった。

 

 沈黙が生まれる。

 

 まずそれを破ったのは顧問のサイトーだった。

 

「モーリ、向こうの大将はおそらくカザだ。お前を大将以外に置いた方が、確実に一勝を取れる可能性が高くなる」

 

 試合全体の流れを考えれば当然の話だ。

 

「それは分かっています」

 

 モーリは静かに答える。

 胸の奥にくすぶるものを押し殺すように、落ち着いた声を作る。

 

「でも、彼と戦いたいんです」

 

 口に出してから、自分の言葉の曖昧さに気づく。

 彼と戦いたい。

 それは本当に戦いたいのか、それとも、確かめたいだけなのか。

 戦って何をしたいのか、何が変わると思っているのか。

 自分でも分からないまま、けれど、その意志だけは変わらなかった。

 

 イイダは、しばらくモーリの顔を見つめる。

 その視線は探るようなものではなく、ただ彼が何を考えているのかを感じ取ろうとするものだった。

 

 そして、肩をすくめる。

 

「まあ、言ってもしゃーないか」

 

 軽く、しかしどこか納得したような口調だった。

 イイダは細かい理由を問い詰めることはしなかった。

 それが、彼なりのモーリへの気遣いなのだろう。

 

「俺が決めたことだから、いいでしょ」

 

 そう言ってサイトーへと目を向ける。

 

 サイトーは何かを言いかけたが、イイダの言葉にわずかに驚いたように口を閉じた。

 イイダがこうして明確に意志を示すことは珍しい。

 他の部員たちもまた、イイダの言葉に強さを感じていた。

 

「お前が良いなら」と、サイトーは頷く。

 

 スズモトは、モーリをじっと見ていた。

 その表情には、不安と、少しの戸惑いが混じっている。

 だが、何も言わなかった。

 

 モーリは、静かにその場を後にした。

 

 

 

 

 ライモンとリオーの一戦は、観客の誰もが予測していない展開であった。

 

 先鋒戦、イイダのバタフリーは軽やかに舞い、大胆な動きを見せる。

 序盤に『ちょうのまい』で能力を上げ、相手のペースが整う前に『エアスラッシュ』で怯みを誘発し、圧倒する。

 危なげない勝利。部長としての実力を見せつけるような試合運びだった。

 

 次鋒戦、ムラナカは慎重な試合展開を維持しながら、確実に勝利を掴む。

 彼の戦い方は派手さはないが、一つ一つの行動に迷いがない。

 リオー高校の選手も懸命に応戦するが、ムラナカは相手の動きを冷静に読み切り、勝利を収めた。

 

 これでライモン高校は二勝。あと一つ勝てば、団体戦の勝利が決まる。

 観客席の他校の生徒は大番狂わせの予感に沸き立っていた、何より、ライモン高校にはあのモーリが残っている。

 

 しかし、ここから流れが変わった。

 

 中堅戦、オーアサは果敢に挑むが、リオー高校三年生の勢いがある攻撃に翻弄される。

 初の大舞台という緊張もあり、普段通りの動きができなかったのかもしれない。

 粘りを見せるものの、最後は相手のペースに飲まれ、敗北。

 

 そして、副将戦、タケダのケッキングは相変わらずのマイペースぶりを見せる。

 相手はケッキングの強大なパワーを警戒し、巧妙に立ち回っていた。

 ケッキングは腹部に攻撃を食らったときに一瞬だけ鋭い目で相手のポケモンを睨んだが、すぐさま相手が引く指示を出して距離を取られた。

 その後ケッキングが動くことはなく、戦意喪失の判断をされる。

 

 これで戦績は二勝二敗。勝負は大将戦、モーリ対カザへと持ち込まれる。

 

 

 

 

 ライモン高校のメンバーは、静かだった。

 先鋒戦、次鋒戦と勝ち進み、あと一勝でリオー高校に勝てるという状況。

 けれど、誰も浮かれてはいなかった。

 それはもちろん、もしかしたらリオー高校に勝つかもしれない、そして、あるいはその先があるのかもしれないという期待、そしてプレッシャーが大きいだろう。

 

 モーリは立ち上がる。

 視線を感じた。

 

 彼こそがそのプレッシャーを一身に背負っていることを、皆が感じている。

 

 彼らは「頑張れ」という言葉が適切ではないような気がしていた。

 

 そのとき、イイダが立ち上がり、モーリの肩を軽く叩く。

 

「まあ、悔いのないようにやってこい」

 

 何かを探るような言葉ではない。ただ、それだけの一言。

 

 モーリは頷いた。

 

 そのとき、不安そうな視線を感じた。

 スズモトがじっとこちらを見ていた。

 

 彼女は何も言わなかった。

 けれど、その沈黙が、モーリの胸の奥に小さく響く。

 

 モーリは目を逸らし、観客席の階段を降りた。

 

 

 

 

 フィールド中央に、カザが立っていた。

 相変わらずの余裕を見せる立ち姿。

 リオー高校の観客席からは、何かを期待するような視線が注がれている。

 

 学生審判が、二人を見渡し、手を挙げた。

 

「両選手、握手をお願いします」

 

 モーリは一歩前へ出る。

 カザも、軽く肩を回してから、自然な動作で手を差し出した。

 

 その瞬間、モーリは熱を感じる。

 

 カザの手は、驚くほど熱かった。

 灼けたアスファルトの熱を吸ったような、血の通った温度。

 その手が、強く握られる。

 

 モーリは、自分の手のひらを意識する。

 冷たい。

 

 カザは、ゆっくりと口の端を上げる。

 

「逃げなかったことは褒めてやるよ」

 

 軽く挑発するような口調。

 けれど、ただの言葉ではない。

 

 モーリは、その手の温度を感じながら、言葉を返せなかった。

 カザはゆっくりと顔を近づける。

 

「お前、ちゃんと本気でやる気あんのか?」

 

 冗談のような声だったが、その瞳は真剣だった。

 その視線の奥に、「お前なら、もっと強くあるはずだろう」と言いたげな何かがあった。

 

 モーリは、握られた手を意識する。

 熱が、じんわりと伝わってくる。

 少しの沈黙を挟んで、それに答えた。

 

「もちろん」

 

 だが、その言葉に、自分で違和感を覚える。

 

「そうかよ」

 

 カザは握手を解いた。

 

「この試合、俺にはチャンスしかねえ。覚悟しろよ」

 

 モーリは口を開きかけたが、何も言えなかった。

 カザの言葉が、何かを突きつけるように響く。

 

 握手を解かれた手のひらに、わずかな熱が残っている。

 

「いい試合をしよう」

 

 何かを守るかのように、それだけを絞り出す。

 

 だが、カザは鼻を鳴らした。

 

「俺は、勝てればいい試合じゃなくてもいい」

 

 そう言い残し、くるりと背を向けた。

 モーリも、ゆっくりと後ろへ下がる。

 

 フィールドに静寂が広がる。

 観客席には、事情を知らぬ他校の生徒たちのざわめきだけがあった。

 

 

 

 

 試合開始の合図が響くと同時に、カザが声を張り上げた。

 

「『ハサミギロチン』!」

 

 繰り出されたシザリガーがブニャットに向かってハサミを振り上げる。

 だが、その懐に入り込むようにブニャットが地面を蹴って飛び上がった。

 

「『ねこだまし』」

 

 前足を勢いよく叩きつけると、シザリガーの巨体が一瞬怯む。

 

 モーリは思わず息を呑んだ。もしブニャットが『ねこだまし』ではなく普通に攻撃していたら、この試合はすでに終わっていたかもしれない。

 この状況で、一撃必殺を狙っていたのか。

 カザの勝利への執着が、ひしひしと伝わってくる。モーリの脳裏に、試合前の言葉が蘇った。

 

『勝てればいい試合じゃなくてもいい』

 

 その言葉が、今のシザリガーの動きと完全に一致した。

 

 シザリガーが動いたのを確認してからモーリは指示を出す。

 

「『みがわり』」

 

 ブニャットが身を翻し、影がふわりと現れる。

 安定した選択肢だ、リスクの高い技を振り回す相手に対して様子を見ることができる。

 

 だが、カザの声がやはり強く響いた。

 

「『クラブハンマー』!」

 

 次の瞬間、シザリガーの巨大なハサミが振り下ろされ、鈍い音とともに、ブニャットの影が砕け散った。

 土煙が舞い、視界が揺れる。

 モーリは歯を食いしばった。考える暇を与えず、攻め続けてくる。

 とにかく攻め潰してくるつもりだ。

 だが、それならこちらにも動きようがある。

 

「『じゃれつく』」

 

 モーリの声に応じるように、ブニャットが低い姿勢でシザリガーの懐へ飛び込んだ。

 爪を立て、勢いよく絡みつく。

 弱点をついた攻撃に、シザリガーの巨体がぐらりと崩れそうになる。

 モーリの中に、小さな手応えが生まれた。

 シザリガーが倒れる。そう確信した瞬間、カザの指示が飛ぶ。

 

「『クラブハンマー』!」

 

 強烈な一撃が、ブニャットの体を弾き飛ばした。地面を転がり、足を踏ん張るが、膝が震えている。

 モーリはブニャットの姿を見つめ、その違和感に気づく、明らかに想定以上のダメージを受けている。

 

 急所に当たったのか。

 

 だが、勝ちは揺るがない。

 

 舌を噛むようにして、モーリは指示を出した。

 

「『でんこうせっか』」

 

 シザリガーの素早さを考えると、この攻撃に先手を取れる選択肢は存在しない。

 そして『じゃれつく』を受けたシザリガーの残り体力を考えれば、これに抗うことは不可能なはずだ。

 

 ブニャットが最後の力を振り絞り、疾風のようにシザリガーへ飛びかかる。爪が鋭く閃き、その巨体を打ち抜いた。

 

 スタジアムが静まりかえる。

 シザリガーの巨体が、わずかに揺れる。ぐらりと傾く。決まったか。

 

 だが、シザリガーは体感を傾けながらも、まだ立っている。

 右のハサミがゆっくりと振り上げられる。その動きに、モーリの鼓動が跳ね上がる。

 

 シザリガーは、カザを悲しませまいと持ちこたえた。

 

 だが、モーリと対称的に、カザはそれに驚いてはいないようだった。

 モーリの中に、不安が広がる。シザリガーの目が、再び鋭く光る。

 カザは、シザリガーがまだ動けることを確信しながら指示を出す。

 

「『インファイト』!」

 

 それに反応するように。モーリは反射的に叫んだ。

 

「『でんこうせっか』!」

 

 ブニャットが反応する。しかし、その前にシザリガーのハサミが強烈な一撃を叩き込む。

 肉が叩かれる衝撃の音が響いた。ブニャットの体が揺れ、地面に崩れる。モーリは、息を詰まらせた。

 立ち上がるはずだった。ブニャットのタフさを、否、シザリガーとのレベル差を考えれば、この一撃では倒れない。

 だが、ブニャットは動かない。モーリの脳裏に、一つの考えがよぎる。

 

 急所に当たったのか。

 

 全身の力が抜ける。

 

 学生審判が静かに手を挙げた。

 

「ブニャット、戦闘不能」

 

 それが誤審でないことは、誰の目から見ても明らかだった。

 

 

 

 

 審判の旗が上がった瞬間、リオー高校の観客席から大きな歓声が上がった。カザはその声援を背に、誇らしげに右手を掲げる。

 シザリガーは息を荒げながらも、勝利を確信したかのように胸を張っている。

 

 一方、モーリはブニャットのもとへ駆け寄った。ブニャットはまだ地面に伏したまま、疲れ切った目でこちらを見ている。その背中を、モーリはそっと撫でた。

 

「悪かったな」

 

 小さく呟くように言った。その手に感じる毛並みの感触は、試合前と変わらないのに、今は妙に遠いもののように感じる。

 

 立ち上がる気力が湧かない。心のどこかで、勝てると思っていた。

 その自信が根本から崩されたような感覚に、足元がぐらつく。

 

 カザがシザリガーをボールに戻し、モーリのもとに向かう。彼の足取りには迷いがなかった。

 

 彼はモーリの前に立つと、手を差し出す。

 

「悪いな、これが俺達のやり方だ」

 

 彼は、自分たちの勝利が決して美しくは映らないことを理解しているようだった。そして、それを理解しつつも、それを誇りに思っているのだろう。

 

 モーリは一瞬、その手を見つめた。試合前、同じように交わした握手の感触が蘇る。あのとき感じた熱は、まだ残っているのだろうか。

 

 迷いながらも、その手を握る。

 

 熱い。

 

 やはり、カザの手は熱を持っていた。だが、今のモーリはそれをどう受け止めればいいのか分からなかった。

 カザは手を離すと、振り返らずにそのままリオー高校のメンバーのもとへと向かっていった。仲間たちが彼を迎え、勝利の余韻に浸っているのが見える。

 

 モーリは、ブニャットをボールに戻した。

 

 観客席へと向かう途中、ライモン高校のメンバーが迎えに来た。スズモトは何か言いたげにモーリを見つめていたが、結局、言葉にはしなかった。

 

 イイダが先に口を開く。

 

「まあ、しゃーないな」

 

 その声には、責めるような色はなかった。

 モーリはすぐに頭を下げる。

 

「すみませんでした」

 

 しかし、イイダはあっけらかんとした調子で返す。

 

「ええよ別に。決めたのは俺やしな」

 

 その言葉に、モーリは顔を上げる。イイダは普段と変わらない様子だった。

 

「しゃーないって、そういうこともある」

 

 そう言って、軽く肩を叩く。

 モーリは頷けなかった、その言葉を受け入れることができなかった。

 胸の奥に残る重さは、何時まで消えないのだろう。

 

 

 

 

 試合が終わったスタジアムには、勝者と敗者、それぞれの色が浮かんでいた。

 勝ったチームの選手たちは興奮冷めやらぬ様子で肩を組み、今日の試合を語り合っている。

 一方、敗れた者たちは静かに荷物をまとめ、悔しさを噛み締めながら帰路についていた。

 

 モーリは、そんな中をただ一人、無言で歩いていた。

 理解できている、不運が重なった敗北であった、だが、それでも敗北は敗北だ。

 敗北の余韻が、まだ身体の奥に沈殿しているような気がした。

 

 空は夕焼けに染まり始めている。

 赤く燃えるような光が、アスファルトに長い影を落としていた。

 風がほとんど吹かないせいか、昼間に焼けた地面の熱がまだ肌に残っている。

 じりじりとした暑さが、心のざわつきをより際立たせるようだった。

 

 ポケットの中のモンスターボールを、無意識に指でなぞる。

 いつもと変わらぬその丸い感触が、妙に重く感じられた。

 その時、背後から不意に声をかけられた。

 

「モーリ、一緒に帰るぞ」

 

 その方向に目を向けると、ムラナカとタケダ、そしてスズモトが、それぞれ大股に、または小走りにモーリのもとに集まってくる。

 

「モーリさんも、途中までは帰る方向同じですしねぇ」

 

 タケダは額にできたハチマキの日焼け跡を気にすること無くそう告げる。

 いつもの柔らかい口調だったが、彼女の視線にはわずかな気遣いが滲んでいるように感じた。

 

「モーリ君、いいよね?」

 

 スズモトの声は、どこか遠慮がちだった。

 彼女はじっとモーリを見つめている。

 

 モーリは少しだけ逡巡したが、断る理由もなかった。

 軽く頷くと、四人は自然と彼の隣に並んで歩き出した。

 

 スタジアムを出ると、開けた通りに出る。

 周囲にはまだ人の波があり、バス停へ向かう選手や応援団の姿がちらほらと見えた。

 遠くでは、試合の結果を語り合う声が聞こえる。

 夕焼けがビルの隙間に沈み、空を淡い紫色に染めていた。

 

「結局、リオー高校が優勝しちゃうんだもんなあ」

 

 ムラナカが感想を漏らしながら、両手を頭の後ろで組む。

 

「決勝戦のカザさん、凄かったですぅ」

 

 タケダは感心したように頷く。

 

「うん、あの試合は、見てるこっちも緊張した」

 

 スズモトが付け加える。

 けれど、その横顔には微かな不安の色が浮かんでいた。

 

「モーリ君のバトルも、すごかったよ」

 

 彼女はそう言った。

 ただ、どこか迷うような響きを含んでいた。

 

 モーリは何も答えなかった。

 スズモトの視線が、自分の横顔を窺うのを感じながら、ただ黙って歩く。

 

 ポケットの中のボールを、また無意識に指で転がした。

 

 

 

 

 バス停へ向かう道は、どこか静かだった。

 試合の熱気はすでに消え、虫の声と遠くを走る車の音だけが響く。

 

 モーリは歩きながら、先ほどのバトルを頭の中で反芻していた。

 ブニャットの最後の姿。倒れたまま、立ち上がれなかった姿。

 

 あの時「悪かったな」と自分は言った。

 不意に出た言葉だった、だが、それは何に対しての言葉だったのだろう。

 急所に当たったことを考慮できなかったことだろうか。

 戦闘不能にしてしまった事だろうか。

 それとも、もっと昔の事だろうか。

 

 自分が、負けた後でブニャットに何を言えるだろう。

 

 ふと、ムラナカが足を止めた。

 

「モーリ、本当に大丈夫か?」

 

 何気ない問いかけだったが、その声には、どこか真剣な響きがあった。

 

 モーリは歩みを止めず、前を向いたまま答える。

 

「大丈夫」

 

 それは、ほとんど反射のような返答だった。

 

 だが、ムラナカは納得しなかったのか、少し唇を引き結び、考えるように視線を下げる。

 すると、その横からタケダが軽く首を傾げながら言った。

 

「大丈夫には、見えませぇん」

 

 柔らかい口調だったが、核心を突く言葉だった。

 

 モーリは一瞬だけ視線を向ける。

 タケダは相変わらずの笑顔だったが、その瞳はしっかりとモーリを見ていた。

 

「モーリさんは、素晴らしいトレーナーだと思いますぅ。でも、言わせてくださぁい」

 

 タケダは少しだけ間を置き、まっすぐな瞳で続けた。

 

「モーリさんは、もっとブニャットさんを褒めるべきですぅ」

 

 モーリはわずかに眉を寄せる。

 

「確かに、私はケッキングさんのトレーナーとしてはダメダメだと思いますぅ。だけど、私とケッキングさんはいい友達だと思います」

 

 タケダは、愛おしそうに自分のモンスターボールを撫でた。

 

「モーリさんとブニャットさんは、友達という感じがしませぇん」

 

 言葉が、静かにモーリの胸に落ちた。

 

 友達。

 

 モーリは無意識に自分のベルトに触れた。

 ブニャットのモンスターボールの感触を確かめる。

 真新しいそれは、どこか異物のように感じられた。

 

 ブニャットと自分は友達だろうか。

 否、そんなはずがない。

 

 タケダの言葉が、じわじわと胸に広がっていく。

 

 タケダはそれ以上何も言わず、優しく微笑むと「では私はこちらですので」と手を振りながら、道を曲がっていった。

 

 モーリは、ただ黙って、その背中を見送った。

 

 

 

 

 タケダと別れ、残った三人はしばらく歩き続けた。

 

 住宅街の間を縫うように伸びる細い道。

 アスファルトの上に伸びる影が、夕日に照らされて長くなっていた。

 

 風が吹いた。どこかの家の風鈴が鳴る。

 

 モーリは、ポケットの中のブニャットのボールを指で転がした。

 その感触はいつもと同じなのに、やけに重く感じる。

 

 ふと、ムラナカが口を開いた。

 

「なあ、モーリ」

 

 声の調子はいつもと変わらない。

 だが、言葉を選んでいるような間があった。

 

「タケダさんとは違うんだけどさ」

 

 モーリは顔を上げる。

 ムラナカは前を向いたまま、ポケットに手を突っ込んでいた。

 

「なんだか今日のモーリって、あまりにも冷たかったように見えたんだ」

 

 モーリは眉を寄せる。

 

「冷たかった?」

「ああ」

 

 ムラナカは足を止め、振り返る。

 

「モーリってさ、どんな相手でも落ち着いてるじゃん」

 

 そう言って、彼は空を仰ぐ。

 

「涼しい顔して戦うモーリは、カッコいいと思うよ。でも」

 

 少しだけ、言葉が途切れる。

 

「カザみたいなやつが相手だとさ、なんか、そのまま溶かされてしまいそうに見えるんだ」

 

 風が吹いた。

 遠くで車のエンジン音が響く。

 モーリは、何も言わなかった。

 

 ムラナカは少し気まずそうに目を逸らし、「まあ、僕の勝手な感想なんだけどね」と苦笑いを浮かべる。

 

 それから、「じゃあね」と軽く手を上げると、そのまま別の道へと向かっていく。

 

 モーリは、その背中を見送る。

 

 

 

 

 バスの中は、人もまばらで静かだった。

 窓の外には、街灯のオレンジ色の光が流れていく。

 

 モーリは座席に沈み込み、腕を組んだままぼんやりと外を眺めていた。

 ブニャットのモンスターボールが、まだ腰にセットされていることを意識しながら。

 

 スズモトが隣に座っていた。

 ずっと無言だったが、時折モーリの顔を覗き込んでは、何か言いたげに視線を落とす。

 

 エンジン音と、車内アナウンスの機械的な声だけが響く。

 

 しばらくして、スズモトがゆっくりと口を開いた。

 

「モーリ君さ」

 

 その声に、モーリは視線を向ける。

 スズモトは、どこか拗ねたような、それでいて真剣な顔をしていた。

 

「ブニャットちゃんが、一番悔しいと思うよ」

 

 モーリの指先が、かすかに動いた。

 その言葉が、思ってもみなかった角度から突き刺さる。

 

 ブニャットが、悔しい。

 

 モーリは試合の光景を思い出す。

『でんこうせっか』を打ち込んだ後、最後の一撃を受けて倒れたブニャット。

 地面に伏せたまま、もう動かなかった姿。

 

 あの時、自分は「負けた」と思った。「勝てる試合だったのに」と、そう考えた。

 

 でも、ブニャットは。

 

「私、モーリ君のこと、心配なんだ」

 

 スズモトの声が、そっと思考を引き戻す。

 

「モーリ君は、すごく強いんだと思う。でも、今日の試合は、なんて言えばいいんだろう。カザ君に振り回されてた気がする」

 

 モーリは口を開きかけたが、言葉が出なかった。

 

「私、モーリ君に勝ってほしいわけじゃない。ただ、モーリ君が、もっと楽しそうにバトルしてほしかった」

 

 バスが信号で止まり、微かに揺れる。

 

 スズモトは小さく息をついた。

 

「いいじゃん別に。なんのために戦うのか分からなくたって」

 

 それは、カザの言葉に対する彼女の反論であった。

 彼女はモーリの肩にもたれかかるように体を預ける。

 

「そんなもんじゃん、高校生なんて。私達は、高校生なんだし」

 

 モーリは、彼女の言葉を反芻する。

 

 なんのために戦うのか。

 それを決めなきゃいけないのか?

 

 カザは「勝つために戦う」と言った。

 モーリは、そこまで明確なものを持っていなかった。

 

 バスが停留所に到着し、スズモトがゆっくりと体を起こす。

 

「じゃあね、モーリ君」

 

 そう言って、スズモトはバスを降りていく。

 街灯の光に照らされる後ろ姿が、なんとなく遠くに感じた。

 

 ドアが閉まり、バスが動き出す。

 

 モーリは、窓の外を見つめながら、モンスターボールを軽く握った。

 

 

 

 

 夜の静けさが、部屋の中に満ちていた。

 窓の外には街の灯りがぽつぽつと浮かび、カーテンの隙間から淡い光が差し込んでいる。

 

 モーリは、部屋の真ん中に座り込んでいた。

 手にはモンスターボール。

 指先でそれを転がし、一度深く息を吐く。

 

 そして、軽くボールを弾くようにして床に放る。

 

 赤い光が弾け、ブニャットが現れる。

 

 ブニャットは、何も言わず、ただ尻尾を揺らした。

 モーリに背を向けたまま、丸い耳だけがピクリと動く。

 

 モーリは、スズモトの言葉を思い出す。

 

 ブニャットちゃんが、一番悔しいと思うよ。

 

 ゆっくりと、口を開く。

 

「お前、悔しいか?」

 

 ブニャットは、特に反応を見せなかった。

 いつものように、どこか無関心な態度。

 

 けれど、わずかに尾を揺らしながら、一瞬だけモーリの方を振り向いた。

 

 モーリは、それを見て微かに笑う。

 

「俺は、悔しいよ」

 

 正直な言葉だった。

 勝てた試合だった、とか、そういう後悔ではない。

 一人で突っ走って、落ち込んで、周りを巻き込んで、迷惑かけて、心配させて、何もつかめずに、ただ、負けた。

 

 ただ、負けただけ。

 

 ブニャットは、その言葉に反応するように、ゆっくりと体の向きを変える。

 鈍い動作だったが、その瞳には、確かにモーリを映していた。

 

 モーリは指を組みながら、もう一度息を吐く。

 

「明日は、勝とう」

 

 そう呟いた言葉に、ブニャットは何も答えなかった。

 ただ、尻尾がわずかに揺れる。

 

 それで十分だった。

 

 モーリは、静かに頷く。




次回4/9 18:01予定

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