『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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20-インターハイ

 窓の隙間から差し込む朝の光が、静かにカーテンを揺らしていた。

 モーリはぼんやりと天井を見つめながら、ゆっくりとまばたきをする。

 

 隣ではブニャットが丸くなって眠っていた。柔らかな寝息が聞こえ、しっぽがわずかに動く。

 その姿を眺めていると、自然と気持ちが落ち着いてくる。

 

 インターハイだ。

 

 そう思うと、少しずつ意識がはっきりしてくる。

 モーリは上半身を起こし、軽く伸びをした。

 

 部屋の中は、昨夜と何も変わらない。

 机の上には昨日まで読んでいたバトルノートが開かれたままになっていた。

 棚の上には、昔のトレーナーカードがそのまま残っている。

 

 ゆっくりと布団をめくる。

 ブニャットの耳がぴくりと動いたが、彼は起きる気配を見せなかった。

 モーリはそんなブニャットの背中を軽く撫でると、静かに立ち上がった。

 

 

☆

 

 

 リビングに降りると、エミが朝食の準備をしていた。

 テーブルには湯気の立つおかず、炊きたての白飯が並んでいる。

 

「ちゃんと食べなきゃダメよ」

 

 エミが笑顔で言いながら、お椀を差し出す。

 

 食卓にはモトハルがすでに座っていた。

 モーリは一瞬だけ父の顔を見たが、特に会話を交わすことなく、自分の席につく。

 

 食事は静かに進んだ。

 スープをすすりながら、モーリはふと口を開く。

 

「一回戦の相手、ホウエンの高校らしいけど、正直知らない学校だった」

 

 エミが箸を止め、興味深げに顔を上げる。

 

「そうなの? でも、全国に出てるんだから強いんでしょう?」

 

 モーリは小さく頷いた。

 

「まあ、そうだと思う」

 

 そう付け加えながら、白飯を口に運ぶ。

 

 エミは優しく微笑みながら言った。

 

「モトマサなら大丈夫よ」

 

 その言葉に、モーリは曖昧に「うん」とだけ返す。

 

 モトハルは何も言わないまま、黙々と箸を進めていた。

 

 

☆

 

 

 食事を終え、モーリが準備を整えると、玄関でエミが「気をつけてね」と声をかけた。

 その横で、モトハルは少しの間を置いてから、静かに言った。

 

「頑張れよ」

 

 モーリは一瞬、驚いたように父を見た。

 彼は、昔のことを思い出す。

 かつては、「負けるなよ」と言われていた。

 

 その違いに気づいてしまう。

 そして、そこにある父の気遣いも。

 

 モーリは、自分が気を使わせていることに気づき、重い感情を覚えた。

 だが、それを表に出さずに、ただ短く答える。

 

「行ってきます」

 

 外に出ると、朝の空気がわずかに肌を冷やした。

 玄関のドアが静かに閉まる音が背後でしたが、モーリは振り返らなかった。

 

 本来なら、親と一緒に会場へ向かうのが普通なのかもしれない。

 しかし、エミもモトハルも、その選択をしなかった。

 

 きっと、俺が気を使わないようにしてくれたんだろう。

 

 わかってはいる。

 それでも、何か引っかかるものがあった。

 

 深く息をつく。

 そして、まっすぐに駅へ向かった。

 

 

☆

 

 

 電車の心地よい揺れが続く。

 窓の外には都会の景色が流れていき、ヤマブキシティの中心を離れ、インターハイの会場へと向かう道のりが着々と進んでいた。

 

 モーリは携帯端末を片手に、画面をスクロールしながら情報を探る。

 一回戦の対戦相手、名前はすでに確認済みだった。

 

 だが、いくら検索しても、これといった実績や話題になった試合が見つからなかった。

 もし、ジム巡りで結果を残し、バッジをいくつも持っているなら、どこかで名前が引っかかるはずだ、モーリのように。

 

 全国に出てくる以上、それなりの実力者であることは間違いない。

 ただ、どんなバトルスタイルなのか、どんなポケモンを使うのか、そういった具体的な情報が少ないのはやはり不安だった。

 

「まあ、やるしかないな」

 

 小さく呟き、端末の画面を閉じる。

 考えすぎても仕方がない。結局、目の前の試合で確かめるしかないのだから。

 

 ちょうどそのタイミングで、電車が速度を落とし始める。

 到着のアナウンスが流れ、モーリは軽く伸びをして立ち上がった。

 

 

☆

 

 

 駅を出ると、遠くに巨大なスタジアムがそびえ立っているのが見えた。

 

 全国大会の会場は、地方大会とは比べものにならないほどの規模だ。

 広場では選手や関係者、応援団が思い思いに過ごしている。見れば、どこかの局のカメラクルーも見える。

 

 周囲を見渡せば、ジャージを着た強豪校らしい選手たちが談笑し、他校の選手と情報交換をしている姿もある。

 その逆に、恐らく地方の無名校の選手が、一人もしくは数人で不安そうに歩いている。

 試合に向けて、ポケモンと入念に調整をしている者もいれば、リラックスするために軽く体を動かしている者もいる。

 

 そこには確かに、全国から集まった人間たちの熱があった。

 インターハイという舞台にかける、それぞれの思いが混ざり合い、熱狂を生んでいる。

 

 だが、その熱はどこか明るいものだった。

 

 ジムを巡っていた時とは違うな、と、モーリは思った。

 

 ジム戦の終盤は、もっとひりついていたように思う、文字通り、そこには人生がかかっていた。

 

 それと比べると、インターハイの空気は健全だ。

 ここで負けても、彼らにはまだ未来がある。

 悔し涙を流すことはあっても、それがすべてではない。

 

 それが、モーリには新鮮に、リラックスしたものに映った。

 

 一度、軽く息を整える。

 それから、会場の中へと足を踏み入れた。

 

 

☆

 

 

 ライモン高校の待機スペースに向かうと、すでにサイトー先生や部員たちが集まっていた。

 

「お、モーリ! 来たか!」

 

 ムラナカが手を挙げ、軽く笑いながら声をかける。

 その表情はリラックスしているように見えるが、どこか興奮も混じっていた。

 

「ついに始まるな。いよいよ全国デビューじゃんか」

「まあ、そうなるか」

 

 モーリが軽く肩をすくめると、すぐにタケダが勢いよく前に出てきた。

 

「モーリさんなら優勝ですぅ! 私、全力で応援しますねぇ!」

 

 彼女のエネルギッシュな声に、スズモトが苦笑しながら注意する。

 

「タケダちゃんはちょっと騒ぎすぎ。でも、私も応援するから、頑張ってね」

 

 そして彼女は、肩がけのクーラーボックスをパンと叩いた。

 

「いろいろ準備もしてきてるから、困ったことがあったら何でも言ってね!」

「ああ、ありがとう」

 

 そんなやり取りをしていると、顧問のサイトーが静かに近づいてきた。

 

「調子はどうだ?」

「悪くはないです」

「そうか。焦らず、しっかり自分のバトルをしろ」

 

 モーリは短く「はい」と答えた。

 

 

☆

 

 

 インターハイ個人戦、一回戦。試合開始の合図が響く。

 

 モーリは無言でブニャットのモンスターボールを開いた。赤い光が弾け、しなやかな肢体がフィールドに現れる。対する相手のトレーナーのボールからは、草の刃を持つポケモン、みつりんポケモンのジュカインが飛び出した。

 

 瞬間、対戦相手の表情が曇る、それがブニャットというポケモンに対しての感情であることをモーリは理解したが、それには何も考えないようにした。

 

 ジュカインは長い尻尾を軽く振ると、すぐに低い体勢を取る。その姿勢の良さから、スピードを活かした戦いに慣れていることが見て取れた。

 

 モーリは一瞬だけ視線を動かし、考える。ジュカインは基本的にはブニャットよりも素早い。

 

 相手が素早く声を上げる。

 

「『エナジーボール』!」

 

 ジュカインの口元に緑の光弾が形成される。

 だが、それが放たれるよりも先に、モーリの指示が勝った。

 

「『いばる』」

 

 ブニャットが低く喉を鳴らし、威圧的に前脚を踏み鳴らす。挑発的な動きに、ジュカインの集中がわずかに乱れた。

 

 だが、その一瞬の遅れを持ち直し、放たれたエナジーボールがブニャットに直撃する。

 ブニャットは衝撃で後退するも、四足を踏ん張り、その場に立ち続けた。

 

 一瞬、モーリはその挑発が無意味に終わったのかと焦る。

 しかし、ジュカインの様子にわずかな違和感が生じていることから『いばる』の成功を確信した。

 

 モーリは静かにブニャットを見やる。

 勝機はある。

 ジュカインとブニャットの種族的な差異はあれど、少なくともこの対戦では先手が取れそうだった。それは単純なレベルの差もあるだろうし、モーリとブニャットの技術がなせる技かもしれなかった。

 

 それを理解していたかのように、ブニャットが動く。

 

 ブニャットがジュカインへと跳びかかり、間合いを詰める。相手は距離を取ろうとするが、混乱した動きがわずかにぎこちない。

 

 モーリの想像通り、対戦相手のコンビは自分より素早い相手の対処に慣れていないようだった。

 

「カウンターを狙え!」

 

 相手トレーナーの指示が飛ぶ。しかし、ジュカインは命令を聞かず、本能的に尻尾を振りかぶった。

 鋭い風を切る音が響く。

 モーリはその瞬間を見逃さなかった。

 

「『イカサマ』」

 

 振り下ろされた尻尾をブニャットは巧みに受け流し、逆にその勢いを利用するようにジュカインの体を弾き飛ばした。ジュカインは体勢を崩し、フィールドの端へと吹き飛ぶ。

 

 わけの分からぬ自傷のダメージに加え、怒りによって引き上げられた攻撃性を逆手に取られた『イカサマ』のような攻撃。

 与えられたダメージは大きい。

 

 ジュカインはそのまま立ち上がろうとしたが、踏ん張ることができずに崩れ落ちた。

 

「ジュカイン、戦闘不能!」

 

 審判の宣言と同時に、モーリは軽く息を吐いた。ブニャットは満足そうに尻尾を揺らしている。

 

「よくやったな」

 

 モーリがそう言うと、ブニャットは誇らしげに鼻を鳴らした。

 

 初戦突破。モーリは静かにブニャットをボールに戻し、フィールドを後にした。

 

 

☆

 

 

 対戦場を後にし、モーリは無言で廊下を歩いていた。

 ブニャットのボールを握りしめたまま、試合の展開を思い返す。

 

 確かに勝てた。だが、どうにも釈然としない。

 ブニャットの素早さが相手の想定を上回っていたことで、こちらのペースに持ち込めた。

 だが、本来であればジュカインというポケモンはブニャットより素早く動けるポケモンであるのだ。

 

 もしジュカインが同等の速さだったら。いや、相手がもっと経験を積んでいて、素早い相手への対策を持っていたら。

 

 モーリは無意識に眉間へ指を当て、静かに息を吐いた。

 

 そんな時だった。

 

「勝ったな」

 

 通路の壁にもたれ、腕を組んだままのカザがいた。彼はモーリを見つめ、どこか悔しそうな目をしている。

 

 モーリは足を止め、軽く息をつくと、「ああ」とだけ答えた。

 

 カザはふっと息を漏らし、視線を逸らす。

 

「俺は負けたよ」

 

 モーリはわずかに目を見開く。

 カザが個人戦の初戦で負けたことに驚いたのだ。

 だが、それを直接口にはしなかった。ただ、次の言葉を待つ。

 

「団体戦も、二回戦目で負けた。さすが全国って感じだよ」

 

 カザはそう言いながら、ポケットに手を突っ込む。普段なら冗談でも言いそうな彼が、今日は妙に静かだった。

 

「でも、お前がそれより劣ってるとは思わねえよ」

 

 モーリはその言葉に、一瞬だけ視線を上げる。

 

 そして、次の瞬間には「ああ」と短く返す。

 

 カザはそんなモーリの様子を見て、口元に苦笑を浮かべた。

 

「なんだよ、もう次の試合のこと考えてんのか?」

 

 モーリはわずかに肩をすくめ、「まあね」とだけ答え、再び歩き出した。

 

 カザはその背中をしばらく見つめていたが、やがて小さく笑い、廊下の反対方向へと歩き出した。

 

 

☆

 

 

 モーリは深く息をつき、ブニャットのモンスターボールを静かに握りしめた。

 試合が終わったばかりのフィールドを後にし、控えエリアへ向かう通路を歩く。

 

 二回戦、三回戦。どちらも決して楽な試合ではなかった。

 二回戦では相手のスキを突き、ブニャットの素早さと『イカサマ』の奇襲で勝ちをもぎ取った。

 三回戦はさらに厳しかった。相手のポケモンとの読み合いが続き、最後は一瞬の判断で競り勝つ形になった。

 

 ブニャットはよく戦っている。モーリはモンスターボール越しに、その体温を感じるように握り直す。

 

 控えエリアへ続く通路には、他校の選手や関係者が行き交っていた。試合前の選手、敗退した選手、チームメイトを応援するために駆けつけた者。様々な思惑が入り混じる中、モーリは無言で通路を歩いた。

 

 ふと、気配を感じる。

 

 目線を向けると、数人の選手がこちらをちらりと見ていた。特に会話を交わすわけではない。ただ、確実にこちらに意識が向いているのがわかる。

 

 あの二年生、強いな

 ブニャットでここまで勝ち上がるのはすごい

 聞いた話だと、昔バッジを七つまで集めてたらしい

 

 断片的に聞こえてくる声。それを無視するように、モーリは前を向いたまま歩く。

 

 静かな興奮。だが、それ以上に感じるのは妙な違和感だった。

 

 これまでの戦績が少しずつ周囲に知られている。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。

 バッジ七つ。

 自分の過去がどこまで知られているのかも、気にするつもりはない。

 

 「ふう」

 

 モーリは軽く息を吐き、控えエリアへ足を踏み入れた。

 

 

☆

 

 

 待機エリアへ戻ると、ムラナカ、タケダ、スズモトが待っていた。

 モーリは水を一口飲み、疲れを押し殺しながら椅子に腰を下ろす。

 対戦を重ねるごとに、身体の奥にじわじわと疲労が積み重なっていくのを感じる。

 それ以上に、ブニャットの疲れも相当なものだろう。

 

「お疲れさま。相変わらず強いよね」

 

 ムラナカが軽く拳を突き出してきた。モーリも無言で拳を合わせる。

 

「次の試合の相手、見てきたよ」

 

 そう言いながら、ムラナカが携帯端末を取り出し、画面をこちらへ向ける。

 

「カントーの有名私立の選手だ。んで」

 

 画面には選手名と所属高校のロゴが表示されていた。その横には手書きのメモが添えられている。

 ムラナカが少し眉をひそめながら続ける。

 

「ブリジュラス? っていうポケモンを使うらしい」

 

 モーリはその言葉に目を細めた。

 

「ブリジュラスか」

 

 ムラナカの口ぶりからして、ブリジュラスというポケモンを詳しく知らないのは明らかだった。珍しいポケモンだから無理もない。

 だが、モーリにとっては馴染みのある名前だった。

 

 鋼・ドラゴンタイプ。高い特殊攻撃力と防御力を誇る。

 ただし、素早さはそこまででもない。

 ブニャットが全く劣っている相手ではない。

 

 頭の中で情報を整理する。ブニャットがスピードで勝っているのは間違いないが、火力と耐久では完全に押される。殴り合えば、不利になるのは明白だった。

 

「これ、動画あるぜ」

 

 ムラナカが試合の映像を再生する。画面には、銀色の光をまとったブリジュラスが映し出されていた。

 

「『ラスターカノン』!」

 

 対戦相手の指示と同時に、鋭い金属光が放たれる。次の瞬間、相手のポケモンが一瞬で吹き飛ばされた。

 

 モーリは無言で動画を見つめる。

 

 火力が違いすぎる。

 ブニャットがまともに受けたら、一撃で終わるかもしれない。

 たった数秒のシーンで、ブリジュラスの強さが十分に伝わってきた。

 

「モーリさんなら勝てますぅ!」

 

 タケダが両手を握りしめ、無邪気に笑う。彼女にとってはモーリが勝つのは当たり前のことのようだった。

 

「モーリ君、少し休んだほうがいいんじゃない?」

 

 スズモトが心配そうに声をかける。彼女は対戦相手の強さよりも、明らかに疲れの見えるモーリの様子のほうを気にしていた。

 

「まだいけるよ」

 

 モーリは軽く首を回しながら答える。

 

 しかし、内心ではスズモトの言葉に同意しかけていた。

 たしかに、ここまで三試合を戦い抜き、疲労は確実に蓄積している。

 そして、それはブニャットも同じだろう。

 次の試合に向けて、どう戦うべきか、モーリは静かに考え始めた。

 

 

☆

 

 

 準々決勝のフィールド中央。

 モーリは静かに息を整えながら、対戦相手と向かい合った。

 

 相手は、誰もが知る名門私立大学の付属高校に通う三年生だった。

 身なりは整っており、髪型もきっちりとセットされている。かといって気取った印象はなく、むしろ余裕に満ちた雰囲気をまとっていた。

 

 いいとこの坊っちゃんだな。

 モーリは無意識にそう思った。

 そして同時に、その「育ちの良さ」が彼のポケモンにも現れていることを理解する。

 

 ブリジュラスというポケモンは、基本的にはプライドが高く、手懐けるには熟練した技術が必要なはずだ。

 とてもではないが『自分一人の力だけで育て上げた』とは思えない。

 きっと、このポケモンを育てる環境も、すべて与えられたものなのだろう。

 

 だが、それはかつての自分も同じだったのではないか?

 

 そう思った瞬間、モーリは無意識に拳を握る。

 かつての自分もそうだった。

 与えられたガブリアスを、ファイアローを武器に戦っていた。

 きっと、このように写っていたのだろう。

 

「君の快進撃、ずっと見てたよ」

 

 相手のトレーナーが静かに言った。

 穏やかな声だが、芯の強さを感じさせる口調だった。

 

「君の地方って、いつも不思議なポケモンを連れてるよね。同じ地方のシザリガーの子とかさ」

 

 シザリガー、おそらくカザのことだろう。

 モーリは短く「そうですか」と返す。

 

「正直、君と当たりたくはなかったんだ」

 

 相手は少し微笑み、そして続ける。

 

「多分、僕は君のファンなんだと思う」

 

 モーリは、一瞬言葉を失った。

 

「ファン?」

 

 自分に『ファン』がいるなど、考えたこともなかった。

 ジム巡りをしていた頃、観客の歓声や評価を意識したことは一度もない。

 ただ勝つために戦い、ただ強くなるために前に進んでいた。

 しかし今、目の前のトレーナーは、彼のバトルを見て『ファン』だと言った。

 

「そう、ですか」

 

 モーリは、それ以上言葉を続けることができなかった。

 相手の視線は揺らがず、ただ静かにモーリを見ている。

 

 次の瞬間、審判が試合開始の合図を告げる。

 

「それじゃあ、始めようか」

 

 相手のトレーナーがボールを構える。

 モーリもまた、ブニャットのモンスターボールを強く握った。

 

 インターハイ準々決勝、開始の瞬間だった。

 

 

☆

 

 

 開始の合図が響く。

 

 モーリはブニャットのモンスターボールを構え、静かに解き放つ。赤い光が弾け、フィールドに四本の脚がしなやかに着地した。ブニャットは尻尾を揺らしながら低く構える。その瞳はすでに試合に向けられている。

 

 対する相手のモンスターボールが開かれ、ブリジュラスが姿を現した。金属の装甲がわずかに光を反射し、その巨体がゆっくりと動く。どっしりとした四肢、鋭い爪、そして威圧感のある佇まい。これまで戦ってきた相手とは一線を画す力を持っていることが、一目でわかった。

 

 

「『てっぺき』!」

「『ねこだまし』」

 

 モーリの声とともに、ブニャットが一瞬で地を蹴り、ブリジュラスへと駆け寄る。跳び上がりながら前脚を叩きつけた。乾いた音が響くと、ブリジュラスの動きが一瞬止まる。わずかにひるんだが、すぐにその目が鋭さを取り戻した。

 

 モーリはある程度彼らの戦略に目安をつける。

 防御力を上げる『てっぺき』で万全の体制を作りつつ、硬いボディで攻撃する『ボディプレス』を押し付けるつもりだろう。

 

 相手のトレーナーが再度同じ指示を出す。

 

「『てっぺき』!」

 

 金属の身体がわずかに軋み、硬質な光を帯び始める。しかし、その動作が完了するよりも先に、モーリは次の指示を飛ばしていた。

 

「『ちょうはつ』」

 

 ブニャットが鋭く尻尾を振り、ブリジュラスを見上げながら低く喉を鳴らす。相手を挑発するような動きに、ブリジュラスの瞳がわずかに赤みを帯びる。これで補助技は封じた。

 

 モーリは対戦相手の能力をある程度見切った。

 おそらく、スキルは並だろう。

 

 モーリは静かにブリジュラスの様子を観察する。体力とパワーに優れたポケモンだが、先手を取る手段がない。相手のトレーナーは焦ってはいないが、完璧に戦略が封じられたことを理解しているはずだった。

 

「『いかりのまえば』」

 

 ブニャットが再び駆け出し、ブリジュラスの胴体へと牙を立てる。肉厚な装甲の隙間に確実にダメージを与え、相手の体力が大きく削られる。だが、ブリジュラスは崩れない。

 

「『ラスターカノン』!」

 

 鋼のエネルギーが一気に収束し、光がフィールドを切り裂くように発射された。ブニャットは跳び退こうとするが、避けきれない。

 爆発のような衝撃が巻き起こり、その体が弾き飛ばされた。

 

 モーリは無意識に拳を握る。ブニャットはゆっくりと立ち上がったが、その動きにはわずかに重さがある。

 

 相手の攻撃をもう一度食らえば、倒れる。ならば、こちらがやるべきことは一つしかなかった。

 

「『ラスターカノン』!」

「『こらえる』」

 

 再び放たれる『ラスターカノン』

 ブニャットの身体が眩い光に包まれる。しかし、ブニャットはそれにひるまず。倒れない。地面に爪を立て、気力だけで踏みとどまっている。

 

 モーリは力を振り絞りながらその指示を出す。

 

「『じたばた』!」

 

 ブニャットの体が跳ね上がる。その勢いのまま、ブリジュラスにぶつかるように突っ込んだ。ブリジュラスの装甲が鈍い音を立てて揺れる。巨体が揺らぎ、膝をつく。だが、倒れはしなかった。

 

 相手のトレーナーが興奮気味に叫んだ。

 

「『ラスターカノン』!」

 

 三度目の閃光がフィールドを焼く。衝撃の中、ブニャットの姿が弾き飛ばされるのが見えた。

 

 ブニャットは地面に倒れ、動かない。

 

 戦闘不能は明らかだった。

 

「ニャーちゃん!」

 

 モーリはすぐに駆け寄る。

 体を撫でると、腹が僅かに動いた。

 耳がわずかに動く。尻尾がかすかに揺れる。

 

 モーリはゆっくりと膝をつき、ブニャットの背を撫でる。

 

「よくやったよ」

 

 審判の声が響く。

 

「ブニャット、戦闘不能! 」

 

 モーリは静かに立ち上がり、ブニャットをボールに戻した。

 

 

☆

 

 

 試合が終わった後、審判の宣言が響く中、モーリはゆっくりと立ち上がり、フィールド中央へと歩いた。

 

 向かい合った対戦相手は、微かに笑みを浮かべながら手を差し出してくる。その仕草は余裕すら感じさせるものだったが、よく見れば、彼の肩もわずかに上下していた。相手もまた、全力を尽くしたのだろう。

 

「正直、負けると思った」

 

 モーリはその手を握り返した。手のひらから伝わる感触は、細く、しなやかだった。長くバトルを戦ってきた手ではなく、それでいて、しっかりとした意思を持った握手だった。

 

「多分、君のほうがトレーナーとして優れているんだと思う」

 

 相手は淡々と言った。その声音には、わずかながらの悔しさと、どこか達観した響きが混ざっていた。

 

 一瞬、モーリは何も言えなかった。

 

 その言葉の意味が分からないわけではない。暗に、手持ちのポケモンの差が勝敗を決めたのだと、そう言いたいのだろう。

 

 モーリの頭に、ブニャットが倒れる瞬間が蘇る。最後まで食らいつき、必死に勝利をもぎ取ろうとした姿。だが、最後には押し切られた。その事実が、鋭く心に刺さる。

 

「来年、応援しているよ」

 

 対戦相手はそう言い残し、モーリの手を離すと、すっと背を向けて歩き出した。まるで、自分にできることはもう終わったと言わんばかりの姿だった。

 

 モーリはしばらくその背中を見つめていたが、やがて静かに息を吐き、フィールドを後にする。

 

 会場から拍手が送られる。

 

 それは、モーリの健闘を称えるものだった。だが、モーリは、どこか居心地の悪さを覚えた。

 

 なぜだろう。

 

 自分は、ただ負けただけのはずなのに。

 

 会場の人々は、何を拍手しているのだろうか。

 

 健闘したことか。勝ち上がったことか。それとも、ブニャットでここまで戦ったことか。

 

 考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。

 

 だが、その違和感は、モーリの胸の奥に重く沈み続けていた。

 

 

☆

 

 

 フィールドを後にし、モーリはゆっくりと待機エリアへ向かった。試合の熱気がまだ肌に残っている気がする。

 

 ドアをくぐると、ムラナカが立ち上がった。

 

「おつかれ」

 

 その一言には、いくつもの感情が含まれていた。敬意、悔しさ、そして少しの羨望。

 

「ああ」

 

 モーリが短く返すと、すぐにタケダが駆け寄ってくる。

 

「モーリさん! すっごくかっこよかったですぅ!」

 

 そのまま飛びついてこようとするのを、ムラナカが片手で制した。

 

「落ち着きなよ」

「落ち着いてますぅ! だからこそモーリさんを称えたいんですぅ!」

 

 タケダはふくれっ面をしながらも、すぐに真剣な表情に戻る。

 

「でも、本当にすごかったですぅ。あとちょっとでした……」

 

 スズモトも、少し離れたところから静かに言った。

 

「ブニャット、大丈夫?」

 

 その言葉に、モーリは一瞬だけ目を伏せる。

 すでに回復はしているが、それでも精神的なものまで改善するわけではない。

 

「ああ、でも、相当きつかったと思う」

 

『ラスターカノン』の直撃。その光景が脳裏に焼き付いている。あれだけの威力を持つ技を受け止めてなお、最後まで立ち続けたブニャットの姿。

 

「そっか、しっかり休ませてあげてね」

 

 スズモトは優しく微笑む。彼女の瞳には、純粋な心配がにじんでいた。

 そこへ、サイトーが腕を組みながら近づいてくる。

 

「よくやったな、モーリ」

 

 そう言いながらも、彼女の声は淡々としていたが、少しニヤリと笑う。

 

「二年生で全国ベストエイト。これは簡単にできることじゃない。自信を持っていい結果だ。多分学校はお祭り騒ぎになるぞ」

 

 モーリはその言葉を聞いて、少しだけ肩の力を抜く。

 だが。

 誇って、いいのか?

 確かに、全国の舞台で戦い抜いた。けれど、それは本当に自分の力だったのか?

 俺は、ブニャットに勝たせてやれるトレーナーだったのか?

 

 考えがまとまらないまま、モーリは静かに「ありがとうございます」とだけ返した。

 

 その時だった。

 

 ポケットの中で、携帯端末が微かに震えた。

 モーリはふと取り出し、画面を見る。

 レイカからのメッセージだった。

 

『話がある。今どこ?』

 

 画面を見つめたまま、モーリは小さく息を吐く。

 

 

☆

 

 

 モーリはメッセージを確認した後、誰にも何も言わずに静かに歩き出した。

 

 レイカが指定した場所——対戦場の裏手は、人通りがほとんどない。大会運営の関係者がたまに行き来する程度で、熱気のこもる会場の雰囲気とは別世界のように静かだった。

 

 少し進むと、壁にもたれかかるレイカの姿が見えた。

 

 彼女は腕を組み、足を軽く組み替えながら、じっとモーリを見つめている。

 

「なんでこんなところで」

 

 モーリが口を開くと、レイカは軽く肩をすくめて答えた。

 

「騒ぎになるのよ、カントーのインフルエンサー舐めんな」

 

 確かに、彼女はカントー地方でも名の知れたトレーナーだ。対戦会の動画やSNSの投稿が頻繁にバズり、ファンも多い。その彼女がこんな場所でモーリと話しているところを誰かに見られたら、余計な噂が立つのは目に見えていた。

 

 モーリは小さく息を吐き、「で、話って?」と本題を促す。

 

 レイカはしばらくモーリを見つめた後、少しだけ表情を和らげる。

 

「見てたよ、準々決勝」

「そうか」

 

 レイカはゆっくりと頷きながら、言葉を続けた。

 

「ブニャット、すごかったね。頑張ってた」

 

 モーリはその言葉に一瞬だけ気を緩めたが、次の瞬間に続いた言葉に表情を固くした。

 

「でも、あんたの選択は良くなかった」

「どういう意味だよ」

 

 レイカは腕を組み直しながら、モーリをまっすぐに見据える。

 

「相手のトレーナー、強くなかったでしょ?」

 

 モーリは反論しかけたが、言葉に詰まる。

 

 確かに、ブリジュラスのスペックは驚異的だったが、相手の動きは決して洗練されていたわけではなかった。戦略の引き出しも少なく、終始ブリジュラスの強さに頼ったバトルだった。

 

 レイカは続ける。

 

「もし、あんたがガブリアスを使ってたら? 影さえ踏めなかったと思うよ」

 

 モーリの口元がわずかに歪む。

 

「それは、大げさだろ」

 

 強く否定するつもりだったが、言葉に力が入らなかった。

 

 レイカは溜息混じりに首を振る。

 

「私たち、もうそういうレベルにいるんだよ。自分の選択ひとつで、勝てる試合を落とすことになる」

 

 モーリは何も言えなかった。

 

 レイカは少しだけ目を細めると、「ま、私には関係ないけど」と言い、背を向けた。

 

 モーリは彼女の背中を見つめながら、心の奥にわだかまる感情を持て余していた。

 だが、彼は一つ、レイカに呟く。

 

「七つ目、おめでとう」

 

 その言葉に、レイカは一瞬足を止めたが、すぐにその背は遠くなった。

 

 

☆

 

 

 玄関のドアを開けると、家の中にはいつもの落ち着いた空気が流れていた。

 夕食の香りが漂い、リビングの照明が温かい光を投げかけている。

 

「おかえり!」

 

 エミの声が真っ先に響いた。明るく、どこか弾んでいる。

 モーリは「ただいま」と短く返しながら靴を脱ぐ。

 モーリが帰ってきたことに気づいたコラッタが廊下を走り、足元にうろちょろとまとわりつく。

 

 ボールから繰り出されたブニャットは、モーリの足元をするりとすり抜けると、そのまま迷うことなく廊下を歩いていった。リビングを横目にしながら、自分の居場所を理解しているかのように部屋へ向かう。

 

「お疲れさん」

 

 モーリがそう声をかけると、ブニャットはわずかに尻尾を揺らした。

 

 リビングへ入ると、すでに食事の準備が整えられていた。

 湯気の立つ椀物、しっかりと味の染みた煮込み料理、香ばしく焼かれた魚。どれも見慣れた家庭の味だった。

 

 エミが嬉しそうに言いながら席に座る。

 モーリも促されるままに椅子を引いた。

 

☆

 

 

「すごかったわよ、モトマサ!」

 

 少しばかり家族の箸が動き、おかずが順調に減ってきた頃だった。

 

「準々決勝まで行くなんて、あんな大舞台で堂々と戦って……お母さん、誇らしかったわ!」

 

「まあね」

 

 モーリは箸を手にしながら答える。

 エミの笑顔は試合中の緊張した空気とは正反対で、その温かさに少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 

 一方で、モトハルは何も言わず、黙々と箸を動かしていた。

 彼も試合を見ていたはずだが、特に感想を述べることもない。

 

 モーリはちらりと父の横顔を見た。

 険しいわけではないが、何かを考えているような沈黙。

 

「お父さんも、モトマサの活躍に驚いてたのよ」

 

 エミが笑いながら言うと、モトハルは少し目を細め、少し沈黙してから言った。

 

「よくやったと思う」

 

 その言葉にモーリは少し驚いた。

 褒められたことにではなく、その言い方に。

 どこか慎重に選ばれたような言葉だった。

 

「ありがとう」

 

 そう返しながらも、モーリは違和感を拭えなかった。

 

 箸を動かしながら、自然と今日の試合のことを思い出す。

 ブニャットと共に戦った準々決勝。

 あと一歩、届かなかった試合。

 だが、あれ以上の策があったのか。

 

 そんなことを考えていると、不意にモトハルが口を開いた。

 

「どうして負けたと思う?」

 

 静かに放たれた問いに、モーリは箸を止めた。

 エミも一瞬、モトハルを見たが、特に何も言わない。

 

 味噌汁の湯気がゆらりと立ち上る。

 モーリはそれを見つめながら考えた。

 

 なぜ負けたのか。

 

 その答えは、試合が終わった直後からずっと頭の中にあった。

 ブリジュラスの圧倒的な耐久と火力。

 ブニャットの素早さと駆け引きだけでは、最後まで押し切るには足りなかった。

 

「俺の力不足だと思う」

 

 モーリは短くそう答えた。

 事実、あと一歩が足りなかった。

 決め手に欠け、最終的にはブリジュラスの『ラスターカノン』で押し切られた。

 

 しかし、モトハルは少し間を置いてから、もう一つの問いを投げかける。

 

「ガブリアスやファイアローだったら、どうだった?」

 

 その言葉が落ちた瞬間、モーリの表情がわずかに歪んだ。

 

 言われるまでもなく、わかっている。

 もしガブリアスを使っていたら、鋼技をまともに受ける前に決着をつけられたかもしれない。

 それどころか、相手に反撃の機会すら与えなかった可能性もある。

 

 モーリは箸を置く。

 

「それが言いたかったのかよ」

 

 低く絞り出した言葉は、重たく沈んでいた。

 気づけば、無意識のうちに拳を握りしめていた。

 

 モトハルは視線を逸らさず、落ち着いた口調のまま続けようとした。

 

「そういう意味じゃない。父さんはただ」

「俺はニャーちゃんで勝ちたかったんだよ!」

 

 モーリの声が食卓に響いた。

 理屈ではない。

 それが言葉になった瞬間、自分の感情がどれほど強いものだったのかを改めて知る。

 

 エミが少し慌てたように口を開いた。

 

「モトマサ、お父さんにそんな言い方」

 

 しかし、モーリはそれ以上聞いている気になれなかった。

 

「もういい!」

 

 そう言い残し、立ち上がる。

 椅子がわずかに音を立てた。

 

 エミが「ちょっと!」と声をかけたが、モーリはリビングを横切り、自分の部屋へと向かう。

 振り返らず、足を止めず、ただ一直線に。

 

 扉を閉めると、家の中は静かになった。

 

 

☆

 

 

 自室の扉を乱暴に閉めたとき、モーリはまだ怒りの余韻の中にいた。

 

 けれど、部屋の中に一人になると、勢いで飛び込んだ自分の行動が急に色褪せて見えてくる。

 

 子どもじみた癇癪にしか思えなかった。

 

 大きな音を立ててドアを閉めたのも、食卓で声を荒げたのも、今考えれば驚くほどダサい。こんなこと、今までしたことがなかった。

 

 それなのに、なぜ今日は抑えられなかったのか。

 

 胸の奥がざわつくまま、ベッドに腰を下ろす。部屋の電気はつけなかった。カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、ぼんやりと天井に映っている。

 

 ふと、扉の向こうから爪が木の表面を引っかく音がした。

 

 コラッタかと思ったが、重みが違う。

 

 モーリは立ち上がり、静かに扉を開けた。

 

 廊下の明かりの中に、ブニャットの影が浮かび上がる。

 

「……入れよ」

 

 低く声をかけると、ブニャットは何も言わずに部屋に入り、モーリの足元に腰を下ろした。

 

 モーリも床に座り込み、しばらく黙っていた。

 

 さっきの試合が頭をよぎる。

 

 ブリジュラスの圧倒的なパワー。

 それでも最後まで食らいついたブニャット。

 だけど、結局勝つことはできなかった。

 

 モーリは拳を握りしめ、ブニャットを見つめる。

 

 何にこんなに怒っているのか。

 

 レイカの言葉も、父の指摘も、どちらも正しかった。

 能力の差は歴然だった。ブリジュラスに勝つには、ブニャットでは足りなかった。

 それは認めるしかない。

 

 なのに、こんなにも悔しいのはなぜなのか。

 

『戦いに向いていない』『能力が足りていない』

 

 その言葉が頭の中で別のものに変わっていく。

 

『生きているポケモンを知らない』

『座学に重きを置きすぎている』

 

 モーリは息を詰まらせた。

 

 その言葉をかけられたときの気持ちが、今のブニャットに重なった。

 

 モーリは目を伏せる。

 

 何をしていたんだ、自分は。

 

「お前、こんな気持ちだったんだな」

 

 ポツリと呟くと、ブニャットはゆっくりと鼻を鳴らした。

 肯定とも否定ともつかない、ただそこにいることを示すような仕草。

 モーリは、震える手でそっとブニャットを抱き寄せた。

 

「ごめんな」

 

 かすれた声が夜の静寂に溶ける。

 ブニャットは軽く尻尾を揺らした。

 その動きに、責めるような意図はなかった。ように思う。

 

 モーリの腕の中で、ゆっくりと目を閉じる。

 

 外の街灯の光が、二人の影をぼんやりと床に映していた。

 

 

☆

 

 

 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、室内をぼんやりと照らしていた。

 モーリはゆっくりと目を開け、天井を見つめる。布団の感触は馴染みのあるものだが、どこか違和感があった。もう何年もここで寝ていなかったからかもしれない。

 

 ふと横を見ると、ブニャットが丸まって眠っていた。穏やかな寝息を立て、時折耳をぴくりと動かす。その姿を見て、昨夜のことを思い出した。

 

 ブニャットを抱きしめながら謝ったこと。

 そして、自分がなぜあれほど苛立っていたのか、ようやく理解したこと。

 

 モーリはそっと布団を抜け出し、ベッドの端に腰を下ろした。部屋の中は昨日と何も変わらない。だが、自分の中にある感情は、少しだけ違っていた。

 

 軽く伸びをすると、扉の向こうから朝の気配が感じられた。台所からは食器の音、コーヒーの香りが漂ってくる。

 

 モーリは静かに立ち上がり、部屋を出た。

 

 

☆

 

 

 リビングに入ると、エミが朝食を準備していた。

 昨日のことには一切触れず、いつもと同じ調子で「おはよう」と微笑む。

 モーリは「おはよう」と返し、テーブルに目を向けると、モトハルがコーヒーを飲んでいた。

 

 出勤前のルーティンなのだろう。新聞は広げられていないが、コーヒーを片手に黙って窓の外を眺めている。

 

 モーリは一瞬ためらったが、意を決して口を開いた。

 

「昨日は、ごめん」

 

 モトハルは視線をモーリに向ける。驚いた様子はない。

 

「私の言い方も悪かった」

 

 そう言って、コーヒーを一口飲む。

 その後、ボソリと呟いた。

 

「父さん、バトルのことはタイプ相性くらいしかわからないからな」

 

 モーリは一瞬、言葉を失った。

 だが、その一言で全てを理解した。

 

 父は、父なりに自分のことを考えていた。

 そして、唯一知っているタイプ相性の観点から、ガブリアスやファイアローのことを持ち出したのだろう。

 決して、ブニャットを否定したかったわけではなく。

 ただ、勝てる可能性を探していただけだったのだ。

 

 モーリは申し訳ない気持ちになり、もう一度小さく頭を下げた。

 

「ごめんなさい」

 

 モトハルは何も言わず、最後の一口を飲み干す。そして、立ち上がるとネクタイを軽く締め直し、玄関へ向かう。

 

 靴を履く前に、一度だけモーリのほうを振り返った。

 

「遅くなったが、ベスト八おめでとう」

 

 それだけを言い残し、家を出て行った。

 

 モーリはしばらく玄関のほうを見つめていたが、やがて小さく息をついた。

 

 

☆

 

 

 食卓に戻ると、エミが「これからどうするの?」と尋ねてきた。

 

 モーリは答えを考えるまでもなく、「予定通り、今日帰るよ」と答えた。

 

 エミは少し残念そうに「もっとゆっくりしていけばいいのに」と言うが、モーリは首を横に振る。

 

「練習とかあるから」

 

 そう言いながら、荷物をまとめるために席を立つ。

 本心では、カントーに居続けると何かがおかしくなりそうだからだった。




次回4/15 18:01予定

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