『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

24 / 65
21-そして日常

 夏の暑さが少しずつ和らぎ、蝉の声に代わって鈴虫の音が響くようになった。

 ライモン高校も、夏休みが明け、新しい学期を迎えている。

 正門をくぐる生徒たちは、久しぶりの学校生活にどこか浮ついた様子だった。

 部活の話をする者、夏休みの出来事を語り合う者、宿題の確認をし合う者。

 教室に入れば、そこには夏の間に少し成長した友人たちの顔が並んでいる。

 そんなざわめきに包まれながら、新学期の一日目が始まろうとしていた。

 

 

☆

 

 

 教室に入ると、すでに何人かの生徒が集まり、それぞれ夏休みの出来事を話していた。

 

「海行ってきたんだけどさ、メノクラゲが大量発生しちゃってほとんど海に入れなかったわ」

「え、それやばくない?」

「やばかった、レンジャーさん来なかったら大変なことになってたと思う」

 

 そんな他愛のない会話が飛び交う中、モーリは自分の席に着き、ぼんやりと窓の外を眺める。

 

 新学期特有の浮ついた雰囲気が、教室全体を包んでいる。

 別にそれが嫌なわけではなかった。

 

 始業のチャイムが鳴ると、ほとんどそれぴったりに担任が教室に入ってくる。

 教壇に立った担任は、生徒たちを見渡し、軽く咳払いをした。

 

「さて、新学期が始まったな」

 

 そこから、担任の長ったらしい挨拶が始まる。

 

「夏休み、みんなしっかり楽しめましたか? 先生率いる野球部は念願の一回戦を突破しました。なんと調子に乗って二回戦も突破しました。調子に乗りすぎて三回戦のリオー高校にスコンスコンにされました。皆悔しい思いをしたと思いますが、正直一、二回戦の突破と合わせて若干嬉しいが勝っています。皆さん、こんな人生で良いんです」

 

 延々と続く話に、モーリは机の端を指でなぞりながら、適当に聞き流している。

 ようやく話が終わるかと思った頃、担任はふと思い出したように手を打った。

 

「ああ、そうそう、大事なことを言い忘れていた」

 

 その言葉に、教室が少しぴりついた。

 

「このクラスから、全国レベルの活躍をしたやつがいるぞ」

 

 モーリの胸に嫌な予感がよぎる。

 

「モーリが、ポケモンバトルインターハイの個人戦でベスト八に入った。全国で八番目だ。すごいことだぞ」

 

 一瞬、教室が静まり、それから一気にざわめきが広がった。

 

「え、マジ?」

「全国でベスト八ってやばくない?」

「そんなに強かったのかよ!」

 

 担任の言葉がクラスメイトたちの間を駆け巡り、あっという間に教室の空気が変わる。

 

「拍手!」

 

 担任の一声で、教室内に拍手が起こった。

 

 モーリは適当に頭を下げたが、心の中では居心地の悪さを感じていた。

 

 

☆

 

 

 ホームルームが終わり、担任が教室を出ていく。

 モーリは伸びをしながらようやく解放された気分になったが、次の瞬間、前の席に座るミマが振り返り、いかにも何気なく問うてきた。

 

「そういやさ、ジムバッジ七つ持ってるって本当なのか?」

 

 モーリは思わず固まる。

 教室のざわめきの中、ミマの何気ない言葉がやけに鮮明に響いた。

 

「え、何それ?」

「マジなの?」

 

 クラスメイトたちが興味を示し、会話に加わってくる。

 

 モーリはすぐに答えず、まずミマに問い返した。

 

「誰から聞いた?」

「タテカワ高校の友達が言ってた」

 

 モーリの眉がわずかに動く。

 タテカワ高校。

 確か地区大会で見かけたことがある。

 

 ポケモンバトル部で目立ったことで、自然と情報が広まったのだろう。

 

 カザやムラナカ、タケダが漏らしたわけではないとわかり、少し安心する。

 

 だが、その反応はすでに肯定と同じだった。

 

「え、じゃあ本当なの?」

「ジムバッジ七つって、ほぼジム巡り制覇してるレベルじゃん」

「ほぼプロじゃん」

「すげえな」

 

 モーリは曖昧に視線をそらしながら、肩をすくめる。

 

「まあ、一応」

 

 その言葉が決定打になり、教室が再びざわめく。

 

「なんでジム巡りやめたんだよ?」

「どこのバッジ取ったの?」

 

 次々と投げかけられる言葉に、モーリは小さく息を吐いた。

 

「いや、そんなにたいしたことないんだよ」

 

 本心からそう言った。

 だが、クラスメイトたちは信じる様子もなく、むしろ「謙遜してるのか?」と余計に盛り上がるばかりだった。

 

 モーリは居心地の悪さを感じながら適当に話を切り上げようとしたが、クラスの空気はしばらく彼の話題でもちきりだった。

 

 

☆

 

 

 新学期最初の部活動の時間。

 モーリは教室を出ると、少し足早に廊下を進んだ。

 

 昼休みの出来事。

 ミマの何気ない一言によって、クラスメイトたちの視線が一斉に自分に向いたあの瞬間が、まだ頭に残っていた。

 結局、否定も肯定も中途半端にしかできず、そのまま話題が流れたものの、何かしらの「異物」として意識されてしまった感覚がある。

 

 そんな雰囲気の中、授業を受けるのは正直疲れた。新学期が始まったばかりで、授業の内容はまだ軽めだったが、それでも一日がやけに長く感じた。

 

 グラウンド脇を通り、部室棟へ向かう。校舎の中ほど蒸し暑さはないが、それでもじっとりと肌に張りつくような空気が残っている。扉を開けると、わずかにひんやりした空気が流れ込み、モーリは無意識のうちに息を吐く。

 

 部室の中にいたのは、イイダだった。

 彼はソファーに深く腰掛け、新聞を広げて読んでいる。

 

「なんで新聞なんか読んでるんですか?」

 

 思わず問いかけると、イイダは新聞の端を軽く持ち上げ、こちらを一瞥する。

 

「推薦入試には面接があるからな。世界情勢ってやつを理解しておかないと」

 

 そう言いながら、イイダは新聞をくしゃりと閉じる。

 

 その言葉がどれほど本気なのか、モーリにはわからなかった。

 少なくとも、これまでのイイダを見ている限り、そんなことを気にするようなタイプには見えなかったが、彼も三年生なのだから進路を考えているのは当然かもしれない。

 

 少しだけ考えてから、モーリはふと違和感を覚える。

 

 そういえば、イイダはもう夏の大会を終えているのに、なぜまだ部室にいるのか。

 

「ていうか、なんでまだここにいるんです?」

 

 何気なくそう問いかけると、イイダは肩をすくめながら答える。

 

「今日追い出しだからな」

 

 その言葉を聞いて、モーリはようやく理解する。

 

 なるほど、そういうことか。

 

 夏の大会を終え、引退が決まった三年生は、今日で正式にポケモンバトル部を去る。その最後のイベントとして『追い出しバトル』が開かれるのだ。

 

 モーリは軽く息をつきながら、ソファーの向かいにある椅子に腰を下ろす。

 

「そっか」

 

 それは単なる確認のつもりだったが、口に出した瞬間、妙に実感がこもった。

 

 

☆

 

 

 ケッキングとバタフリーが向かい合い、グラウンドの片隅で静かに風が吹いていた。夕暮れの光が長く伸びる影を作る。

 

 「今日は大切な日なのでお願いしますよぉ!」

 

 タケダが手を合わせるようにして、ケッキングを見上げる。

 

 しかし、周囲の部員たちはすでにその結果を概ね察していた。

 

 モーリが手を挙げて合図する。

 

「それじゃあ、バトル開始!」

「『ギガインパクト』!」

 

 タケダが大きく指示を飛ばす。だが、ケッキングはまったく動かない。片手で大きくあくびをすると、そのままごろんと横になった。

 

「ケッキングさぁん!?」

 

 タケダが焦ってケッキングに叫ぶが、当の本人は気にも留めない。

 

 イイダは肩をすくめながら、バタフリーに目を向けた。

 

「『ねむりごな』」

 

 バタフリーが羽を大きく振ると、淡い粉がふわりとケッキングに降りかかる。ケッキングの目がとろんと閉じ、ちょうどいいと言わんばかりにそのまま完全に眠りに落ちた。

 

「寝ないでくださいぃ!」

 

 タケダが抗議の声を上げるが、モーリは淡々と手を挙げる。

 

「ケッキング、戦闘不能」

 

 タケダはむくれながらケッキングを見下ろした。

 

「ケッキングさん、せっかくの晴れ舞台なんですよぉ」

 

 しかし、ケッキングは気持ちよさそうに寝返りを打つだけだった。

 

「はい、次いくぞ」

 

 イイダが視線をムラナカに向ける。

 

「ムラナカ、いけるか?」

 

 ムラナカは腕を組み、静かに前へ出る。

 

「行けますよ」

 

 モーリはふぅ、と息をついた。

 

 

☆

 

 

 バタフリーの翅が光を反射し、微かに羽音を響かせる。

 対するエビワラーは無駄な動きを一切見せず、拳を構え、鋭い視線を相手へ向けている。

 

 風の音だけが流れる。静寂が張り詰めた空気をつくり出していた。

 

 これまでの練習の様子から考えれば、ムラナカの方が勝ち越しているはずだ。

 

「『かみなりパンチ』!」

 

 エビワラーが瞬時に地を蹴る。稲光を帯びた拳を振りかざし、一直線にバタフリーへ突進した。鋭い踏み込みと風を切る音が交差する。

 

 イイダがわずかに眉をひそめ、すぐさま声を上げた。

 

「『いとをはく!』」

 

 バタフリーは翅を強くはためかせ、白い糸を鋭く放つ。

 だが、エビワラーの動きは予想以上に速く、放たれた糸をかいくぐるようにして迫った。

 

 稲光が弾けたような衝撃音とともに、エビワラーの拳がバタフリーの翅をかすめた。バタフリーの体が空中で大きく弾かれ、バランスを失いかける。

 

 イイダが息を呑んだ。焦りが一瞬、その表情に滲む。

 

 しかし、バタフリーは必死に翅をはためかせ、空中で体勢を立て直した。その間も糸は途切れず、エビワラーの足元に絡みついていく。拘束された足がもつれ、エビワラーの動きが僅かに鈍った。

 

「『ねむりごな』!」

 

 イイダの声が再び響く。

 

 バタフリーが高く舞い上がり、翅を広げた。そこから緑色の粉が静かに舞い落ちる。淡い光を含んだその粉が、エビワラーの頭上に降り注ぐ。

 当然彼はそれを避けようとした、だが、糸を足を取られ、思うように動けない。

 

 エビワラーの意識が切れそうになる、もちろん彼はそれに抗おうとするものの、それに意識を取られ、ムラナカの方が指示が届かない。

 

 イイダはすぐさま指を振り上げ、確実な一撃を指示する。

 

「『エアスラッシュ』!」

 

 バタフリーが空高く舞い上がり、翅を鋭く振るった。空気が裂ける音が響き、透明な刃となってエビワラーを切り裂くように襲いかかる。

 

 エビワラーの体が後ろに揺れた。しかし、まだ意識はまどろんでおり、迎撃の体制を取れない

 

 イイダがさらに追撃の指示をする。

 

「『エアスラッシュ』」

 

 空気を裂く鋭い音が、再びフィールドに響いた。二撃目がエビワラーの体を直撃する。

 

 そこでようやく、エビワラーの意識が戻る。

 

「『バレットパンチ』!」

 

 先手を取れる指示をした。

 すでに『かみなりパンチ』でバタフリーは大きなダメージを負っている、あと一押しがあればという判断だ。

 

 エビワラーはバタフリーに向かって体勢をとった。だが、先手を取って攻撃することはできない。

 意識が朦朧としているうちに食らった『エアスラッシュ』のダメージに、少し怯んでしまった。

 

「『エアスラッシュ』!」

 

 そこに、三撃目が飛んだ。

 

 やはり空気を切り裂く鋭い音が、エビワラーに襲いかかる。

 したたかにそれを食らったエビワラーは、それでも拳を構えていたが、悔しそうに、前のめりに倒れた。

 

「よし」と、イイダは満足げに頷く。

 

 対するムラナカは、悔しげに唇を噛みながらエビワラーをボールに戻した。

 

 周囲からは部員の拍手が自然に沸き起こる。

 

「やられました」

 

 ムラナカは苦笑しながら呟く

 その言葉にイイダは口元をわずかに緩めた。

 

「最初の『かみなりパンチ』思ったより効いてたからビビったよ」

 

 ムラナカは少し照れくさそうに笑みを浮かべる。

 

 そしてイイダは、軽く視線を巡らせた後、迷いなく次の相手を指差した。

 

「次は、お前だ。モーリ」

 

 モーリは無言で一歩を踏み出す。冷たい風がフィールドをかすめた。

 

☆

 

 イイダと向かい合ったモーリは、彼のバタフリーが明らかに消耗していることに気づいた。

 飛ぶことすら負担なのだろうか、イイダの肩に留まるバタフリーは、荒く呼吸しているように見える。

 そして、イイダ本人も少し疲れているようだった。

 無理もないだろう、ここまで二戦をこなしている。

 

 モーリはその様子を見て、ブニャットのモンスターボールを軽く握りしめたまま、静かに言葉を発する。

 

「バタフリーを回復しますか? それか、少し休憩でも」

 

 その言葉に、イイダは軽く笑って、肩のバタフリーを見た。

 バタフリーはわずかに羽を揺らし、イイダの目を静かに見返す。

 

 その返答を受け取ったイイダは、再び前を向き、モーリを指差した。

 

「これは『追い出し』だぞ?」

 

 少し声を低くして言い切ると、イイダは口の端をわずかに上げた。

 

「舐めんなよお、先輩ってやつをさあ」

 

 そのやり取りを聞いたモーリは小さく目を細める。イイダとバタフリーの間に、言葉を必要としない強い繋がりがあることを悟った彼は、一歩下がって、深く一礼をする。

 

「失礼しました。本気で行きますよ、先輩」

 

 

☆

 

 

 モーリがモンスターボールを開くと、ブニャットがしなやかな体を伸ばし、尻尾をふわりと揺らす。フィールドに向き合った両者が、互いの気配を読むように動きを止めた。

 

「『ねむりごな』!」

「『ねこだまし』」

 

 バタフリーが行動するよりも先に、モーリの短い指示が響いた。ブニャットが地面を蹴り、低く鋭い軌道でバタフリーに迫る。

 

 風を切る音とともに、ブニャットの前足が鋭く振るわれた。バタフリーが一瞬怯んだように羽をすぼめる。動きが止まる。そのわずかな隙をモーリは見逃すはずがなかった。

 

「『のしかかり』」

 

 素早く構えたブニャットが意外に思えるほど高く跳躍し、全体重を乗せてバタフリーに覆いかぶさる。

 

 羽音が掻き消え、地面に小さな衝撃が走る。舞い上がった砂埃がゆっくりと収まっていくなか、バタフリーは羽を一度も動かさなかった。

 

 立ち上がる気配もない。バトルの終わりを告げる空気がグラウンドを包む。

 

 

☆

 

 

 モーリは静かに息をついた。ブニャットはその場で座り込み、尻尾を軽く振る。

 

 すでにイイダはバタフリーを回復させており、肩に乗せた彼と共に、小さなパックのきのみジュースを口にしている。

 

 沈黙が続いたが、イイダはふっと笑い声を漏らした。

 

「いやー、負けた負けた。完敗だな」

 

 パックを崩しながら、さらに続ける。

 

「まあでも、頑張ったほうだよ、俺は」

 

 彼は苦笑いした。

 

「多分だけど、お前ら二年が入ってなかったらさ、ポケモンバトル部、終わってたと思うんだよな。ツキシタさんみたいに這いずり回って部員を集めなかっただろうし、廃部になったらなったで、図書室にでも籠もってたんだろうと思う」

 

 一拍おいて、続ける。

 

「少なくとも、団体戦で勝利はできなかったと思う。そういう意味じゃ、まあ、お前らがいてくれてよかったな」

 

 それに、と、彼はバタフリーから空のパックを受け取った。

 

「多分、ちょっとだけだと思うけど、強くなれた気がするよ」

 

 遠くを見ながら、少しだけ誇らしげにそう言った彼に、モーリは答える。

 

「イイダさんは、強くなりましたよ」

 

 その言葉に、イイダはわずかにモーリに視線を戻した後に、鼻を鳴らして下を向く。

 

「まあ、お前がそう言うならそうなんだろうな」

 

 そして彼は「なあ、一年」と、コウヌとオーアサに視線を向けた。

 

「強くなれるぞ、結構」

 

 その短い言葉に、彼らは「はい」と気持ちよく返答した。

 

「さて、と」と、イイダはバタフリーをボールに戻しながら呟く。

 

「次の部長はモーリな。一応俺なりに考えての結論なんだけど、なんかある」

 

 突然のその指名に、しかしモーリはどこかそれはしょうがないことのような気持ちを覚えた。

 

「無いです」

「無いですぅ」

 

 ムラナカやタケダも同様のようだ。

 

「いやあ、大変だぞお部長は」と、イイダはモーリの肩を叩く。

 

「まあお前ならさ、俺よりかは良い部長になれるよ」

「イイダ先輩も良い部長でしたよ」

 

 モーリの脳裏に、夏の地方大会が思い浮かぶ。

 そして、彼はイイダに頭を下げた。

 

「夏の大会ではすみませんでした」

 

 それがどの事についての謝罪なのか、漠然としていた。

 だが、イイダはそれに首を横に振る。

 

「気にすることはねえよ、それも含めて、部長の仕事だ」

 

 彼はモーリたちに背を向ける。

 

「そんじゃ、あとはよろしく」

 

 イイダは背を向け、フィールドを後にする。夕暮れに伸びた長い影が、軽やかな足取りに揺れていた。振り返ることなく、イイダは小さく手を挙げる。

 

 その背中を、モーリ達は静かに見送った。

 

 

☆

 

 

 静かな朝だった。

 平日の喧騒が消えた校舎には、人の気配がほとんどない。

 

 窓から差し込む柔らかな陽光が、まだ冷たさを残す空気を優しく照らしている。

 遠くで運動部の掛け声がかすかに聞こえたが、この部室にいる二人の時間を邪魔するようなものではなかった。

 

 休日の午前、練習開始前。

 部室には、モーリとスズモトだけが集まっていた。

 

 モーリは机に広げた備品リストに目を落とし、ペンを走らせている。

 必要な備品の数を確認し、ノートに控える動作を淡々と繰り返していた。

 

 その向かい側、ソファーの上にはブニャットとフシギダネが寄り添うようにして眠っている。

 フシギダネはブニャットの大きな体に寄りかかり、小さな呼吸音を立てている。ブニャットは尻尾をふわりと揺らし、ときおりフシギダネの背を毛繕いするように鼻先を近づけていた。

 あたたかな日差しが、その二匹の上にやわらかい影を作っていた。

 

 スズモトはその様子を見ながら、机の上のファイルを整えている。

 指先はきびきびと動くが、その視線は時折ソファーの二匹へと向けられていた。

 

「仲良しだよね」

 

 スズモトが不意に口を開いた。

 モーリはペンを止め、ちらりとソファーを見やる。

 

「そうだな。あんまり馴れ合うほうじゃないんだけど」

 

 モーリは小さく笑うと、またペンを動かし始めた。

 だが、ふと思う。

 そういえば実家では、ブニャットはコラッタと仲良くしていた。

 馴れ合わない、と思っているのはもしかして自分だけなのではないだろうか。

 

 スズモトも笑みを浮かべて続ける。

 

「きっとあの子、ブニャットのこと頼りにしてるんだよ」

 

 一つ沈黙を作ってから続ける。

 

「助けてもらったし」

 

 一瞬、スズモトの手が止まる。

 視線を下げたまま、小さな声で続けた。

 

「私も」

 

 窓の外では、校庭の木々が秋風にそよいでいた。

 葉の一部が赤く色づき始め、枝先からこぼれた陽光が地面に揺れる模様を描き出している。

 

 沈黙が流れる。

 だが、それは気まずいものではなかった。

 

 部室の時計の針が、午前九時を指す。

 モーリはリストをまとめ、椅子から立ち上がった。

 

 それを合図にしたかのように、ブニャットが伸びをしながら立ち上がる。尻尾をふわりと揺らし、一度大きなあくびをした。

 フシギダネもそれにつられるように体を伸ばし、丸い背中を押し出す。

 

「そろそろ始めるか」

 

 モーリが低く呟いた。

 

 スズモトは何も言わずに頷き、フシギダネを軽く抱き上げる。

 フシギダネは小さく鳴き声をあげた。

 

 扉を開けると、秋風が少し強めに吹き込んできた。

 

 練習が始まる。

 そうして、また一日が静かに動き出した。

 

 

☆

 

 

 秋の風が校庭を吹き抜け、砂の匂いをわずかに運んでくる。高く澄んだ空には薄い雲が浮かび、季節の移ろいを静かに告げていた。

 

 モーリは校庭の隅に立ち、集まりつつある部員たちを無言で見渡していた。スズモトはその隣でメモを手にして立っている。二人のそばでは、スズモトのフシギダネが日向の暖かさにまどろんで、校庭の片隅で静かに眠っていた。丸くなったその姿は、午後の陽だまりに溶け込んでいるようだった。

 

 モーリは視線を校庭に戻す。集まった部員たちが、特に何の疑問もなく彼を見ていることに、少しだけ違和感を覚えた。

 

 部長になって、まだ一週間。

 やっていることは、結局のところツキシタやイイダがやっていたことの見様見真似に過ぎない。指示を出すタイミングも、立つ位置も、声のトーンさえも。

 

 モーリは手を軽く上げた。

 

「それぞれ、自分のメニューをこなしてくれ」

 

 簡潔な指示だった。けれど、それだけで十分だったらしい。部員たちは「はい!」と声を上げ、それぞれの持ち場へと散っていった。

 

「これ、本当に必要か?」

 

 小さく息をつき、そんな疑問が頭をよぎる。挨拶なんて、形式的なものだ。それでも部長として、何かしら言わなければならないことはわかっていた。

 

「まあまあ、形式的なものですから」

 

 隣でスズモトが小さく頷く。風で髪がわずかに揺れ、視線は変わらず校庭の方へ向けられている。何も言わないが、スズモトは自然にモーリの隣に立っていた。

 

 モーリはその存在を横目で確認し、視線を戻した。

 無意識に、スズモトがそばにいることを肯定している自分に気づく。

 

 

☆

 

 

 校庭の一角。タケダとケッキングが向かい合っていた。

 

 タケダは真剣な顔で額にハチマキを巻き、同じ模様のハチマキをケッキングの頭にも巻きつけている。

 ケッキングはというと、ぼんやりとした目で空を見上げ、どこか眠そうな顔をしていた。

 

「今日こそはお願いしますよぉ、ケッキングさぁん!」

 

 タケダが手を合わせ、声を張り上げた。ケッキングはその声を聞いて、一瞬だけ目を細める。

 

 モーリは少し離れた場所でその様子を見ていた。

 相変わらずだな、と思う。ケッキングはタケダの指示を聞かないことで有名だった。けれど、タケダは諦める様子もなく、何度も何度も指示を出している。

 

「『のしかかり』!」

 

 タケダの声が校庭に響いた。

 

 その瞬間、ケッキングが体を軽くバウンドさせるように一度だけ跳ね上がった。意外なほど素早い動きに、タケダが「おおっ!」と歓声を上げる。

 

 だが、その次の瞬間。

 

 ケッキングは腹から地面に落下し、そのまま地面に突っ伏した。

 

 大きな砂埃が舞い上がり、地面に沈んだケッキングの体が重そうな音を立てた。

 

 タケダが慌てて駆け寄る。

 

「ケッキングさん!? どうしたんですかぁ!?」

 

 しかし、ケッキングは応えることなく、気持ちよさそうに寝息を立て始めた。まるで最初からそれが目的だったかのように。

 

「起きてくださいよぉ!」

 

 タケダの必死の声が響く中、ケッキングはゆっくりと寝返りを打つだけだった。

 

 モーリはその光景を見て、小さくため息をつきながらも、少しだけポジティブな感想を持った。

 

「少しずつだな」

 

 タケダがどれだけ真剣に取り組んでも、ケッキングは自分のペースを崩さない。けれど、その頑固さすらも、タケダにとっては付き合うべき課題なのだろう。

 だが、少しずつだが、指示に従う確率が増えている。と、思う。

 

 そんな様子を遠目に眺めながら、モーリは次の指示を考え始めた。

 

 

☆

 

 

 タブンネのイラストが描かれた起き上がり小法師式のサンドバッグが置かれていた。

 ピンク色の丸みを帯びた形状が、殴られてもすぐに不規則に起き上がる構造になっている。無表情なタブンネの顔が揺れるたび、少し間の抜けた印象を与える。

 

 モーリはフィールドの端で、その様子を見つめていた。

 ムラナカとエビワラーが、サンドバッグの前に立っている。

 

 エビワラーは無駄のない構えを取り、ムラナカは静かに口を開いた。

 

「『ローキック』」

 

 エビワラーが素早く踏み込むと、低い位置からサンドバッグの土台を蹴り上げた。鈍い音が響き、タブンネの顔を模した部分が大きく後ろに倒れる。

 

 しかし、わずかに揺れながら起き上がってくる。無表情なタブンネの顔が、また真っ直ぐ立ち上がった。

 

 ムラナカは静かに頷いた。

 

「次、『インファイト』」

 

 エビワラーの目つきが鋭く変わる。素早く間合いを詰め、連続した拳打と蹴りがサンドバッグに叩き込まれた。

 打撃ごとに鈍い衝撃音が響き、サンドバッグは激しく揺れ続ける。

 

 モーリは腕を組んだまま様子を見ていた。

 エビワラーの連撃に無駄はない。だが、それでもサンドバッグは倒れたままではない。あくまで『起き上がってくる存在』として立ち続けていた。

 

「最後、『とびひざげり』」

 

 ムラナカの指示に、エビワラーは低く身を沈めた後、地面を強く蹴った。

 一気に加速した体が空中で回転し、ひざが正確にサンドバッグの中央を捉える。

 

 重い衝撃音が響いた。サンドバッグは大きく後ろへ倒れ、しばらくの間、地面を転がった。

 

 ムラナカは静かに呼吸を整える。サンドバッグがゆっくりと立ち上がる様子を見届けた後、エビワラーを振り返った。

 

「悪くないね」

 

 モーリは歩み寄りながら声をかけた。

 

「エビワラー、やっぱ動きがいいな。特に『とびひざげり』の決まり方は良かった」

 

 ムラナカは少しだけ口元を緩める。

 

「うん。でも、今回が特別うまくいっただけの気がする」

 

 モーリはエビワラーの構えを見る。全体的に無駄がなく、基礎がしっかりしていることがわかる。

 

「そうだな、動いてる相手にどう当てられるかだ」

 

 モーリはムラナカとエビワラーを交互に見た後、静かに言った。

 

「最後に、実戦形式でやってみよう。ムラナカ、準備いい?」

 

 ムラナカはすぐに落ち着いた声で答える。

 

「うん、大丈夫」

 

 エビワラーも軽く構え直す。

 モーリはその様子を見て、小さく頷いた。

 

 

☆

 

 

 簡易的に作られたバトルフィールドの中央でマリルとバネブーが向き合っている。

 

 マリルは丸い体をわずかに揺らし、前足を地面に構えた。短い尻尾が緊張に応じてわずかに跳ねる。

 対するバネブーは額の真珠を淡く輝かせ、微動だにしない。

 

「『たいあたり』!」

 

 マリルは小さな体を前傾させ、地面を蹴った。驚くほど低い体勢でバネブーへと突進する。バネブーは静かに目を閉じ、余裕をもった様子で動かない。

 

「『サイケこうせん』」

 

 オーアサの低く冷静な声が響くと、バネブーの額に光が集まり、虹色の光線が一直線にマリルへ放たれた。直撃した衝撃にマリルの動きが鈍る。

 

 そしてさらなる指示を重ねる。

 

「『あやしいひかり』」

 

 バネブーの真珠から放たれた『あやしいひかり』が、動きの鈍ったマリルの周りを蠢く。

 当然マリルはそれに気を取られるが、それを知ってか知らずかコウヌの次なる指示が飛ぶ。

 

「『たたきつける』!」

 

 マリルは口を一文字に結び、勢いを殺さずにバネブーに飛びかかる。

 

 その一瞬、オーアサの指示が遅れた。

 

「『まもる』!」

 

 だが、そのタイミングはわずかに遅かった。マリルの渾身の一撃がバネブーの体を叩きつけ、土煙が舞い上がる。

 まだ勝負がついたわけではなかったが、お互いに、それぞれやりたいことはできてるようだった。

 

☆

 

 試合を終えたコウヌとオーアサが並んで立ち、モーリの言葉を待つ。

 

「悪くなかった」

 

 モーリは静かに口を開いた。

 

「バネブーは的確にダメージを与えてたし、『あやしいひかり』もいいタイミングだった。でも、その後にちょっと油断したな。『こんらん』状態は必ずしも自分有利なわけじゃないよ」

 

 オーアサは無言で頷いた。その瞬間に油断があったことは、何より彼女が理解している。

 

「コウヌも打撃に特化した戦い方が板についてきたよ。マリルの動きも悪くなかった」

 

 コウヌは嬉しそうにマリルの頭を撫でた。マリルも満足げに鼻を鳴らす。

 

「少し休憩したらまた実戦形式を続けよう。二人共慣れてきてる」

 

 モーリのその一言に、部員たちがそれぞれ準備を始めた。フィールドに立つ部員たちの表情には、自然な集中の色が浮かんでいる。

 

 

☆

 

 

 夕暮れが校庭を淡い橙色に染め、涼しげな風が夏の終わりを告げていた。長く伸びた影の中、校庭のすみっこのすみっこのさらにすみっこに置かれた学校の机が一つ。かつてイイダが余っているからと持ち込んだそこにマリルがちょこんと乗っていた。

 

 机の隣ではコウヌが真剣な表情でクシとハサミを使い、マリルの毛並みを丁寧に整えている。マリルは気持ちよさそうに目を細めて身を預けていた。クシが通るたび、光を受けた青い体毛がふわりと揺れて、陽に透けるようなやわらかな輝きを見せる。

 

「これでよし。帰ったらシャンプーしなきゃな」

 

 マリルの背中をくすぐりながらコウヌがそう呟く。

 茶髪で細く整えた眉、耳にはピアス穴も空いている彼であったが、マリルを見るその目は明らかに純朴そのものであった。モテたいとかかっこよくなりたいと口癖のようにいうが、どんどんとそこから離れているように思える。

 

「放っとくと、すぐ雑巾みたいな匂いになるからなぁ君はなぁ」

 

 彼の言葉に、マリルはピクリと耳を動かして応えた。何気ない会話のやり取りの中に、互いの信頼関係が自然と滲み出ている。

 

 モーリは、その様子を少し離れた場所から眺めていた。足元にいるブニャットが視線を机の上に固定していることに気づく。

 

 いつもは無関心を装っているブニャットが、どこか羨ましげな目をしていた。

 

「気になるのか?」

 

 モーリが声をかけると、ブニャットは一度だけ振り返ってから、またじっとマリルを見つめた。特別な表情を浮かべることもなく、ただ静かに。

 

 その横顔を見つめながら、モーリは思う。

 そういえば、こういうことをしてやったことはないなあ。

 

「なあ、機会があればブニャットもやってくれないか?」

 

 気づけば、その言葉が口をついて出ていた。

 

 コウヌが顔を上げる。

 驚いたような表情を見せたが、すぐに眉をひそめて申し訳なさそうに視線を落とした。

 

「すみません。人のポケモンにハサミを使うのはライセンスが必要なんすよ。ウチ、美容院なんで、素人が手を出しちゃいけないって教わってて」

 

 なるほどな、とモーリは小さく頷いた。

 その言葉の端々に、実家の仕事に対する誇りと責任感がにじんでいることが伝わってくる。

 

 少し間を置き、コウヌがふと思い出したように言葉を継ぐ。

 

「姉ちゃんがA級ライセンス持ってるんすけど、紹介しましょうか?」

 

 モーリは一瞬考えたが、すぐにブニャットの表情を見て答えを考える。

 ブニャットはまだ、マリルとコウヌを見つめていた。

 

 その様子を確認したコウヌが、何かを察したように言葉を続ける。

 

「いや、自分でやってみるといいと思うっす。クシを入れるだけでも全然違いますから。ポケモンも、けっこう気持ちよさそうにするもんです」

 

 そのとき、スズモトが静かに歩み寄ってきた。

 腕にはフシギダネを抱えており、心地よさそうに校庭の秋風にあたっている。

 

「いいなあ、フシギダネはトリミングとかそういうことじゃないもんねえ」

 

 スズモトの静かな声が、夕暮れの中でやさしく響いた。

 

 はさみをケースに収めたコウヌが、そのつぶやきに答えた。

 

「クシ入れるだけがトリミングじゃないですよ、フシギダネみたいなくさタイプのポケモンなら、保湿クリームでマッサージするのもいいっすね」

「へぇ、そうなんだ、コウヌくん詳しいんだね」

「ま、まあ、実家が美容院ですし、たまに姉ちゃんの手伝いとかさせられるんで」

「手伝いとかやってるんだ」

「やらされてるんすよ」

 

 モーリはその言葉を聞きながら、ゆっくりと視線をブニャットに戻す。

 ブニャットは静かに、モーリの目を見上げていた。

 

 その視線に、何を思ったのか自分でもうまく説明はできなかったが、確かに心の奥に何かが芽生えた気がした。

 

 日が沈む校庭で、風が一陣吹き抜ける。

 モーリとブニャットはその場に立ち尽くしたまま、机の上で毛並みを整えられているマリルと、それを見つめるコウヌの手さばきを見ていた。

 

 

☆

 

 

 秋の午後、校庭の一角に並べられた机が、即席のトリミングスペースとなっていた。金色に染まった夕陽が、集まったポケモンバトル部の面々を柔らかく照らしている。静かに吹く風が、樹々の間をすり抜け、夏の名残をさらっていった。

 

 机の前に立つコウヌが、クシを手にして指導役として説明を始める。

 

「無理に力を入れずに、優しくクシを通してあげてください。クシが必要ないポケモンは保湿クリームやブラシを使ってほしいっす」

 

 その言葉に、部員たちは頷き、それぞれのポケモンと向き合う。

 

 

☆

 

 

 フシギダネは、机の上でのんびりと体を伸ばしていた。つぼみの根本からはツルがガラリと広がり、見るからにリラックスしていた。

 スズモトは保湿クリームを指に取り、つぼみとツル、そして体全体をマッサージしていた。

 クリームをなじませるたびに、フシギダネはうっとりと目を細め、ツルがピクピクと反応する。

 

 一方、ムラナカのエビワラーは無言で自分の拳にクリームを塗り込んでいた。拳を開いたり握ったりするたび、筋肉が動き、その度に真剣な表情で様子を確認している。

 

 オーアサのバネブーは、最初こそ落ち着かずに机の上をちょこちょこと動き回っていたが、ブラシで体を優しく掻かれると、やがて気持ちよさそうに目を閉じ、ピンク色の体を預けるように静かになった。

 

 タケダのケッキングは当然机に乗るはずがないため、地面に座り込んだままトリミングを受けている。

 

「ケッキングさん、いきますよぉ!」

 

 タケダが大きなクシを手に奮闘する。だが、彼女が思った以上に、それはすんなりと通った。

 

「あれ、意外といけますぅ」

 

 何度もクシを通すタケダ。するとケッキングは目を細め、気持ちよさそうにあくびをし、そのまま寝息を立て始めた。

 

「お父様に髪があればこんな感じにクシを通すことができたのでしょうかぁ?」

「あんまりそういう事言わないであげてよ」

 

 タケダの言葉に、ムラナカが肩をすくめる。

 部員たちの笑い声が校庭に広がった。雰囲気は自然と和やかになっていた。

 

 

☆

 

 

 モーリは、机の上に座るブニャットを見つめていた。

 白くしなやかな毛並みが、夕陽を反射して柔らかく輝いている。モーリはクシを手に取り、ゆっくりとブニャットの体に通した。

 

 最初はぎこちなかった。クシを通すたび、思っていたよりも絡まりやすいことに驚いた。だが、何度も手を動かすうちに、その作業に集中している自分に気がつく。

 

 ブニャットは大人しくしている。クシが肌をなでるたび、気持ちよさそうに目を閉じた。

 

 モーリはふと思う。

 

 こうして手をかけるのは、もしかしたら初めてかもしれない。

 

 いや、違う。

 

 長い間、家に預けっぱなしにしていた。その時点で、愛情を注いでいたなんて言えるはずがなかった。

 

 指先がクシを通すたび、ブニャットの白い毛並みが少しずつ整っていく。柔らかな毛を撫でながら、モーリは自分の中にじわりと広がっていく感情に気づく。

 

 たったこれだけのこともしていなかったのか。

 トリミングなんて、愛情表現の中でも最も単純で当たり前のことなのに。

 

 バトルでの強さばかりを考えていた。ブニャットの体にクシを通すことすらしてこなかった自分を、モーリは心の中で笑った。いや、笑うしかなかった。

 

 クシを通し終えたブニャットは、背筋を伸ばし、モーリを見上げた。

 その表情はどこか誇らしげで、自分の姿をようやく見てもらえたことを喜んでいるように見えた。

 

 その瞳を見た瞬間、モーリの胸に言葉にできない感情が広がる。

 ずっと気づかないふりをしてきた何かが、ようやく形になった気がした。

 

 

☆

 

 

 部員たちが一通りのケアを終え、和やかな空気が流れる校庭。

 

「お、いい雰囲気だな」

 

 ジャージ姿のサイトーが、バインダー片手に現れた。

 笑いながら部員たちを見渡す。

 

「みんな、次の月の三連休、空けておけよ」

 

 突然の言葉に、部員たちはざわめいた。

 

「えっ?」

「合宿とかですか?」

 

 サイトーは頷き、ポケットに手を突っ込んだ。

 

「ある知り合いに話がついてな。三日間、コーチしてくれるそうだ。楽しみにしておけ」

 

 その言葉に、部員たちの間に期待と緊張が入り混じった空気が流れる。

 

 しかし、サイトーはそこでモーリにだけ視線を向けた。

 

「それからモーリ。その人がな『ガブリアスとファイアローも連れてきてくれ』って言ってたぞ」

 

 モーリは一瞬、息を呑んだ。

 何かが胸を掴んだような感覚があった。

 

 なぜその必要が。

 

 心の中で問いかける。

 

 その理由が分からない不安が、静かに胸を満たしていく。

 

 足元に目を落とすと、ブニャットがそっとモーリに寄り添っていた。

 温かな体温が、不安をわずかに和らげてくれた。




次回4/17 18:01予定

感想、評価、批評、お気軽にどうぞ、質問等も出来る限り答えようと思っています。
誤字脱字メッセージいつもありがとうございます。
ぜひとも評価の方よろしくおねがいします。
ここすき機能もご利用ください!

Twitter
マシュマロ

投稿頻度はどの程度がいいですか?

  • これまで通り二日に一回
  • 毎日投稿
  • 週一
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。