『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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22-合宿、そして、砂浴び ②

 「ちょっと負けそうになって焦ったよ」

 

 そう言って、彼は穏やかに笑った。

 

 モーリは驚いてトミノを見上げる。

 彼の口調には冗談めいたものはあったが、嘘をついているようには見えなかった。

 

「君のブニャット、相当鍛えられてるね。『こらえる』と『じたばた』のコンビネーション、あれはなかなか怖かった。ムクホークを残していなかったら、本当に危なかったよ」

「……でも、読まれていました」

 

 モーリは肩を落とし、視線を地面に落とした。

 

「まだ、足りないのかも」と、呟くように付け加える。

 

 トミノは少しの間、モーリの横顔を見つめてから、ゆっくりと言葉を継いだ。

 

「ブニャットと戦い始めたのは、高校に入ってからなんだろう?」

 

 モーリは小さく頷く。

 

「はい」

 

 彼はトミノを見上げると、少し迷いながら問いかけた。

 

「トミノさんは、俺のこと、どこまで知っているんですか?」

 

 トミノは軽く笑いながら、メガネを押し上げた。

 

「イイダ部長に君が話したことは、だいたい聞いているよ。それと、君のことを知っている人にも、少し話を聞いた」

 

 モーリは一瞬、息を止めた。

 誰のことを指しているのかは分からないが、思い当たる人物はいる。

 

 トミノは彼の反応に気づいていたが、それ以上は何も言わず、話を続けた。

 

「この数年、ブニャットと戦って、何を感じたかな?」

 

 モーリはトミノの問いに、ゆっくりと息を吐いた。

 

「自分の、トレーナーとしての力不足を感じています」

 

 彼は拳をぎゅっと握る。

 

「こいつを、もっと活かせることができるのかも、って」

 

 それは、今現在の、心の底からの本心であった。

 しかし、トミノは首を振る。

 

「いいや、違うよ」

 

 モーリは驚いて顔を上げる。

 

「君とブニャットのコンビネーションは、完成に近づいている」

 

 彼は淡々とした口調で、けれどもはっきりとそう告げた。

 モーリは言葉を失う。

 もし本当にそうならば、自分達はなぜ負けたのか。

 

「だから、質問を変えようか」

 

 トミノは穏やかな目でモーリを見つめる。

 

「君のことじゃなく、ブニャットのことだ。ブニャットについてどう思う?」

 

 モーリはその問いを聞いて、胸の奥がかすかに疼くのを感じた。

 分かっている。トミノは、俺がずっと考えていたことを見抜いている。

 

「速さはあります」

 

 彼は言葉を選びながら、静かに続ける。

 

「でも、パワーとタフさは、どうしても、一線級には劣ります」

 

 それは、長い間ずっと頭の中にあった考えだった。

 けれど、口にすることは、どこかで避けていた。

 ブニャットは自分にとって大切なパートナーだ。

 それなのに、その「足りない部分」を認めることは、まるでブニャットを否定するような気がしていた。

 

 トミノはモーリの言葉をじっと聞いたあと、ふっと微笑んだ。

 

「うん、ありがとうね」

 

 彼はそう言いながら、軽く頷いた。

 

 まるで、モーリがその言葉を口にするまでに、どれほどの葛藤があったのかを理解しているかのようだった。

 

「それで良いんだ、それで良いんだよ」

 

 トミノの言葉は、優しく、けれど深く響いた。

 

「君の考えは、トレーナーとしての正解に近い」

 

 静かな口調だったが、その言葉には確かな重みがあった。

 

「僕は否定しないよ」

 

 トミノはメガネを軽く押し上げると、淡々とした口調で続けた。

 

「確かに、ブニャットというポケモンは、一線級で戦うには力不足な面もあるだろう。パワーとタフネスに劣り、速さはあるが、それは特性には勝らない」

 

 モーリは黙って聞いていた。

 トミノの言葉は冷静で的確だったが、どこか慰めのようなものではなく、事実を淡々と伝えているだけだった。

 

「ここ数年のバトルでは、単純な速さよりも、特性や技の引き出しが優位にあるからね」

 

 モーリは小さく息を吐いた。

 速さはある。しかし、それは決定打にはなり得ない。

 それを痛感する場面は、今までにも何度もあった。

 

 トミノはふっと表情を和らげると、先程のバトルについて話題を変えた。

 

「先程のバトル、君とブニャットは『こらえる』と『じたばた』のコンビネーションを通すために、考えを巡らせていたね」

 

 モーリは無言のまま、トミノの言葉を待った。

 

「先制技を持たないヤドランとシンボラー相手に、『みがわり』でノイズとなる状態変化のリスクを減らしながら立ち回り、こちらの攻撃を誘ってから『こらえる』で完成させた」

 

 モーリは少し考え込みながら、小さく頷いた。

 確かに、そういう意図で動いていた。

 

「ですが」

 

 モーリはそこで言葉を切り、拳を握る。

 

「『でんこうせっか』を選択肢に持つムクホークを温存された時点で、そのプランは失敗でした」

 

 トミノは微笑み、すぐに頷く。

 

「そうだね、それは僕の経験が上回った場面だ。だが、あの時の君の手持ちで勝とうと思えば、あれしかなかった」

 

 その言葉に、モーリは少し目を見開いた。

 

「事実、君達の『でんこうせっか』の打ち所が悪ければ、僕達は負けていた」

 

 トミノは穏やかに語る。

 

「つまり君達は、あの状況においての最善を、作り出すことができていた」

 

 モーリは息を呑んだ。

 負けた戦いだった。

 しかし、あれが最善だったのだと言われると、不思議と心の奥に小さな誇りが芽生えるような気がした。

 

「君はブニャットの強みと弱みをよく理解している」

 

 トミノはそう続ける。

 

「だからこそ、僕達を追い詰めることができた」

 

 モーリはじっとトミノを見つめた。

 そう言われると、少しだけ報われたような気がした。

 だが。

 

「じゃあ、なぜ負けたと思う?」

 

 トミノの問いに、モーリは一瞬息を止めた。

 そして、じわりと胸の奥に重みが戻ってくるのを感じた。

 

 モーリは、トミノの問いにすぐに答えることができなかった。

 敗因は何だったのか。その問いの答えを導き出すには、あまりに思考が整理されていなかった。

 確かにブニャットの戦略を読まれていた。だが、それだけではない。ファイアローやガブリアスが期待したほどの働きを見せなかったことも、敗因の一つだったはずだ。

 

 何が違ったのか。

 どうして、自分は。

 

「見通しが、甘い部分がありました」

 

 絞り出すように、モーリはそう答えた。

 

「ファイアローの『ブレイブバード』は、思っていたよりもヤドランに通らなかったし、ガブリアスの『ストーンエッジ』もムクホークを落とせなかった。自分の攻撃が、思ったほどの威力を出せていなかった」

 

 それを言葉にした瞬間、モーリは自分の胸が少しだけ痛んだ気がした。

 

 すると、トミノはすぐに頷き、柔らかく微笑む。

 

「そうだよ、それだよ」

 

 モーリは顔を上げた。

 

「君はブニャットに対する理解は深い。強みと弱みを知り、それを考えながら戦っていた。だが、それに比べてガブリアスやファイアローへの理解があまりにも乏しい」

 

 モーリは言葉を飲み込む。

 

「いや、理解が乏しいという言い方は少し乱暴だね」

 

 トミノはメガネを押し上げながら言葉を選ぶように続ける。

 

「正確に言うならば、君はガブリアスやファイアローのようなポケモンを『信じすぎている』」

 

 モーリは息を呑んだ。

 

「例えば、ヤドラン相手にファイアローが『ブレイブバード』をした場面があったね」

 

 言われて、モーリの脳裏に先程の光景が蘇る。

 弾丸のように飛び込んだファイアロー。

 だが、ヤドランはそれを耐え、即座に『ハイドロポンプ』で反撃した。

 結果、ファイアローは一撃で倒されてしまった。

 

 モーリは、その場面を改めて思い返し、トミノの問いに答える。

 

「ただ、ファイアローの攻撃でヤドランを落とせれば、と」

「それが難しいことはわかっていたよね?」

 

 トミノの静かな指摘に、モーリは口を閉じるしかなかった。

 

「君はブニャットと戦う時に見せていた細かな戦略が、前の二体では見られなかった」

 

 トミノの言葉は淡々としていたが、その指摘はモーリの胸を抉るように突き刺さる。

 

「君のトレーナーとしての弱点はそこだ。君はファイアローやガブリアスの弱みを知らない」

 

 モーリの喉が強張った。

 何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。

 むしろ、それは心の奥に突き刺さるような痛みを伴っていた。

 

 ファイアローの耐久は、それほど高くない。

 ガブリアスの攻撃だって、決して万能ではない。

 それは分かっていたはずだった。

 

 だが、モーリはそれを「理解すること」から目を逸らしていた。

 

 トミノは静かに続ける。

 

「ガブリアスやファイアローのような『強いポケモン』も、その本質はブニャットと変わらない」

 

 モーリははっと顔を上げる。

 

「彼らは君の『チームの一員』なんだ」

 

 チームの、一員。

 

「そして、優れたトレーナーというものは『チームリーダー』でなければならない」

 

 トミノは言葉を区切り、静かにモーリを見つめる。

 

「この合宿で、君には君の『チーム』の『リーダー』になってもらう」

 

 モーリは息を呑む。

 

「ガブリアス、ファイアローと手合わせをひたすら繰り返す。その中で、彼らに何ができるか、何ができないか、何を望み、何を嫌うか、それを知ろう」

 

 モーリは拳を握り締めた。

 トミノの言葉の一つ一つが、彼の胸の奥に響いていた。

 

 

 

 

 日が傾き始め、空は茜色に染まっていた。島の空気は昼間よりもひんやりとし、疲れた体に心地よい風が吹き抜ける。

 

 トレーニングを終えた部員たちは、バトル場のすぐ近くにある広場に集まっていた。地面は整備された芝生で、ところどころに木のベンチが並んでいる。

 

 トミノは部員たちを見渡し、ゆっくりと口を開いた。

 

「今日はお疲れさま。短い時間だったけど、それぞれ課題が見えてきたと思う」

 

 穏やかな口調だが、部員たちは自然と背筋を伸ばす。彼の視線には、昼間のバトルやトレーニングを見届けた確かな重みがあった。

 

 トミノは一人ずつ視線を巡らせながら、続ける。

 

「午前中の手合わせで、僕は君たちの特徴を見させてもらった。そして、午後の練習で、それぞれに必要な課題に取り組んでもらったわけだけど、手応えはどうだったかな?」

 

 その問いかけに、最初に反応したのはコウヌだった。

 

「あの、なんか光って進化しました」

 

 周囲の部員たちが「え?」と彼の方を振り向く。

 

 見ると、コウヌの横に立つマリルが、進化した姿、マリルリになっていた。

 

「えぇ! かわいい!」

 

 スズモトが感嘆の声を漏らす。ムラナカも目を見開いて驚いている。

 

 オーアサは進化を知っていたものの、改めて注目されると少し複雑な気分になった。彼女のバネブーは、まだ進化の兆しすら見えていない。

 

「マリルは進化が早いからね」

 

 トミノが微笑みながら言うと、コウヌは少し得意げに胸を張った。

 

「トミノ先生の奥さんのタブンネさんとハピナスさんが、実戦形式で経験値をくれたんスよ」

「そうか。それにしても、マリルリになったということは、バトルのスタイルも少し変わるね」

 

 トミノは優しく言いながら、マリルリの頭を軽く撫でる。マリルリは気持ちよさそうに喉を鳴らした。

 

 そのやりとりを見ながら、オーアサは少し俯く。

 

 進化すれば単純に戦力が上がるわけではないことは、バトルを重ねる中で理解している。それでも、コウヌとの差が開いてしまったように思えて、落ち着かない気分になった。

 

 そんな彼女の様子を、モーリがちらりと横目で見ていたが、何も言わなかった。

 

 その時、スズモトがふとモーリの方を向く。

 

「モーリ君、大丈夫だった?」

 

 その言葉に、周囲の視線が一斉にモーリへと向かう。

 

 モーリは一瞬、答えに詰まった。

 

 脳裏には、昼間のバトルの光景が鮮明に浮かぶ。ガブリアスとファイアローを使いこなせなかった悔しさ。トミノに「君はガブリアスやファイアローの弱みを知らない」と言われた瞬間の胸の痛み。

 

 けれど、それをそのまま口にするわけにはいかなかった。

 

「まあ、なんとか」

 

 曖昧な笑みを浮かべて答える。

 

 しかし、スズモトは納得していない様子だった。

 

 トミノがそんなモーリの様子を横目で見ながら、穏やかに言う。

 

「メリハリをつけて、しっかりと休養するんだよ」

 

 それは、ただの疲労回復の話ではなく、彼の心情を察しての言葉だった。

 

 モーリは小さく頷いたが、まだ心のどこかがざわついていた。

 

 

 

 

 広場での振り返りが終わると、部員たちは宿泊施設へ戻った。

 

 共有スペースは温かい光に包まれている。ソファやテーブルが並び、壁際にはポケモンバトル関連の雑誌やトレーナーズガイドが整然と並べられていた。心地よい静けさが広がり、それぞれが思い思いの場所でくつろいでいる。

 

 ムラナカはテーブルの端に座り、手に持った色紙をじっと眺めていた。

 

 白地に整った筆跡で記された「トミノ」のサインは、シンプルながらも重みがある。

 

 彼は指でそっと縁をなぞりながら、小さく呟く。

 

「兄貴の分、親父の分、母さんの分、そして自分の分」

 

 それぞれの名前を心の中で反芻しながら、一枚ずつ丁寧にバッグへしまう。その仕草から、大切にしたいという気持ちが伝わってきた。

 

「そんなにたくさんもらったんだね」

 

 スズモトが微笑みながら覗き込むと、ムラナカは少し照れくさそうに頷く。

 

「頼んだら快く書いてくれたんだ」

 

 声には喜びが滲んでいる。

 

「自分はずっと憧れてたんだよ。だから、こうして直接サインをもらえるなんて、本当に嬉しい」

 

 彼はそう言うと、ふっと遠くを見つめる。何かを思い出しているような、噛み締めるような表情だった。

 

 スズモトはその横顔を見て、ゆっくりと頷く。

 

 テーブルの反対側では、コウヌがマリルリの毛並みにクシを通していた。

 

「可愛いですねぇ、ほんとにもう」

 

 親ばか全開の口調で、愛おしそうにマリルリの頭を撫でる。進化したばかりの身体はまだ少しぎこちないが、それでも嬉しそうにコウヌの手に擦り寄っていた。

 

「進化したばっかりで、まだうまく技を出せないっスけど、それもまた愛嬌ってことで」

 

 そう言って柔らかく笑う。その様子を見ていたオーアサは、複雑な表情を浮かべていた。

 

 進化の瞬間は、自分も間近で見ていた。あの時、マリルは光に包まれ、一回り大きなマリルリへと変化した。まるで、あるべき姿に導かれるように、迷いのない進化だった。

 

 でも、自分のバネブーはまだ進化の兆しすら見えていない。

 

 取り残されたような気がして、胸がざわつく。焦りを感じる自分が情けなく思えて、余計に口を開きにくかった。

 

 そんな彼女の様子を感じ取ったのか、スズモトが隣に腰を下ろし、そっと声をかける。

 

「大丈夫?」

 

 オーアサは一瞬戸惑い、表情を整えてから小さく息を吐く。

 

「うん、ちょっと考え事してただけ」

 

「無理しなくてもいいよ。焦る気持ちはわかるけど、成長のペースは人それぞれだから」

 

 優しい言葉に、一瞬肩の力が抜ける。でも、焦る気持ちは簡単には消えない。

 

 そんな彼女に、コウヌがぽんと肩を叩く。

 

「俺、ポケモンのことまだ全然わからないからさ。いつもオーアサのアドバイスに助けられてるんだ」

 

 そう言って、いつもの屈託のない笑顔を向けた。

 

「また何かあったらよろしくな」

 

 オーアサは少し驚いた顔をした後、ゆっくりと頷いた。

 

「……うん、任せといて」

 

 さっきまでの焦りは、まだ心の奥に残っている。でも、コウヌの言葉が少しだけ、それを和らげてくれた気がした。

 

 

 

 

 宿泊施設のキッチンに部員たちが集まり、エプロンを手に取る。

 それぞれが慣れた手つきで身に着ける中、モーリは自分の荷物から適当にエプロンを取り出した。

 首にかけようとした瞬間、手元の布に大きく書かれた文字が目に入る。

 

『グレンタウン土産』

 

 炎と煙の派手なイラストが大胆にあしらわれており、やたらと主張が激しい。

 モーリは一瞬、手が止まる。

 

「なんでこんなの持ってきたんだ」

 

 思わず小さく呟く。

 

 どうやら家に置いてあったものをそのまま持ってきてしまったらしい。

 

 鮮やかな赤色に包まれたエプロンは、どう見ても観光地のお土産コーナーで売られているような代物だった。

 尤も、今となってはこれはかなり貴重なものかもしれなかったが。

 

 スズモトがそれに気付き、くすっと笑う。

 

「モーリ君、それすごく目立つね」

「いや、違うんだ。これは」

 

 何か弁解しようとするが、他の部員たちもエプロンを着け終え、調理の準備が整いつつあった。

 スズモトが手を打ち、全員の視線を引きつける。

 

「じゃあ、分担を決めようか」

 

 彼女の言葉を合図に、それぞれの役割が決まり始める。

 そんな中、キッチンの入り口から静かな声が響いた。

 

「さて、みなさん」

 

 部員たちの動きが止まる。

 

 トミノの妻が、微笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄ってきた。

 

「料理は、段取りが大切です」

 

 その優しい声は、どこか絶対的な威圧感を伴っていた。

 

 言葉自体は穏やかだったが、目はすでに全員の動きを観察し、完全に支配する準備が整っているようだった。

 

 部員たちは無意識のうちに背筋を伸ばす。

 

 サイトーが早々に逃げ腰になり、軽く手を上げて口を開いた。

 

「料理はちょっと、専門外なので」

 

 だが、トミノの妻はその言葉に微笑みながら、しかし有無を言わせぬ口調で返す。

 

「成長の機会ですよ」

 

 サイトーの表情が一瞬で固まる。

 普段はどんな場面でも堂々としている彼女が、なぜか怯えたような顔になった。

 

 その様子を見た部員たちは、確信する。

 

 この人は料理のすべてを支配している。

 

 

 

 

「では、ジャガイモの皮むきから始めましょう」

 

 タケダが慎重に包丁を握り、ジャガイモに向き合う。

 その横で、サイトーが無造作にジャガイモを手に取った。

 

「ジャガイモなら、こうやってガッと切ればいいんじゃないか?」

 

 軽く振りかぶったサイトーの手が降りかけた瞬間、オーアサが素早く手を伸ばしてそれを止める。

 

「待ってください、先生!」

 

 鋭い声に、サイトーが驚いたように手を止めた。

 

「力任せにやったら危ないですし、切り方が荒すぎます」

 

 オーアサのその言葉に、サイトーは思わず「そうか」と苦笑いしていまう。

 

「学生時代から合宿には行ってたが、料理の時はもっぱら味見係だったんだ。むしろ誰も包丁を握らせてくれなくてなあ」

 

 サイトーは腕を組みながら、懐かしそうに語る。

 それを聞いたタケダが、ふふっと微笑みながら包丁をゆっくりと動かし始めた。

 

「私もそこまで得意ではありませんが、食材を傷つけないように心を込めて切ることが大事ですわ」

 

 タケダの手元を覗き込むと、驚くほど丁寧な手際でジャガイモを均等な大きさに切り分けていた。

 だが、そのペースが異常に遅い。

 

「お母様は言っておられましたわ。『究極的には食べられれば良い』と」

 

 妙に説得力のある言葉に、オーアサは納得したように頷いた。

 

 そこへ、トミノの妻がふと顔を覗かせる。

 

「タケダさん、非常に綺麗な手際ですね」

「ありがとうございますぅ」

 

 タケダは誇らしげに微笑む。

 

 しかし、次の瞬間、トミノの妻が穏やかに告げた。

 

「でも、遅すぎますね」

 

 タケダは微笑みを崩さないまま、「それは否定できませんわぁ」と素直に認めた。

 

 

 

 

 ムラナカは、皿の上に並べた野菜をじっと見つめていた。

 

「なんか、赤がほしいな」

 

 コウヌが隣で頷く。

 

「たしかに。バランス的にちょっと足りない気がするっす」

 

 二人は腕を組んで皿を見つめるが、決定的な解決策は浮かばない。

 

「まあ、いいか」

 

 ムラナカが肩をすくめると、コウヌも「ですね」と笑いながらサラダの上にオボンのみを散らしていく。

 その横では、マリルリがいつの間にかオボンのみの皮をくわえ、もぐもぐと楽しそうに噛んでいた。

 

「お腹へっちゃったんですかぁ? 可愛いですねぇ」

 

 コウヌは全く止める素振りもなく、むしろ優しく頭を撫でている。

 

「つまみ食いは駄目です! このあともっとおいしいものを食べるんですから!」

 

 オーアサがすかさずマリルリの口元からオボンのみの皮を取り上げた。

 

「いいじゃないか、オボンのみの皮は食べても害ないって言うし」

「そういう問題じゃないの!」

 

 オーアサが真剣にたしなめると、コウヌは苦笑しながらマリルリの口元を軽く拭った。

 

 ムラナカはそんな二人のやりとりを横目で見つつ、ふと考える。

 なんか、僕の周りカップルばっかりじゃない?

 

 もちろん口には出さないが、少しだけ肩を落としてサラダの盛り付けに戻った。

 

 

 

 

 スズモトが鍋の火加減を調整しながら、玉ねぎをゆっくりと炒める。

 隣でモーリが具材を入れ、時折スズモトに確認を取る。

 

「焦がさないようにしないとね」

「わかってる」

 

 スズモトの指示を受けながら、モーリは木べらを動かす。

 

 その様子を見ていたトミノが、ふと思い出したように口を開いた。

 

「このカレーのレシピはね、ガラルのジムに研修に行ってた頃に教えてもらったんだよ」

 

 モーリが興味を持って顔を向ける。

 

「ガラルのジム、ですか?」

「うん、ガラルにはワイルドエリアがあるからね。カレーはエネルギー補給の基本だったんだよ」

 

鍋の中には、オボンのみ、ラムのみ、オレン のみが入れられ、トロトロと煮込まれていく。

 

「栄養価も高いし、トレーナーもポケモンも一緒に食べられるからね」

 

 トミノの話を聞きながら、スズモトが味見をする。

 

「うん、いい感じ」

 

 その言葉を聞いて、モーリも鍋を覗き込んだ。

 甘みとスパイスの香りが混ざり合い、食欲をそそる匂いが立ち込めている。

 

「よし、完成」

 

 モーリが満足げに頷いた瞬間、後ろからトミノの妻の冷静な声が響いた。

 

「まだです」

 

 一同が一瞬静まり返る。

 

「最後にまごころを入れます」

 

 ムラナカが怪訝な表情で呟いた。

 

「急にオカルト」

 

 そんなツッコミをよそに、トミノの妻は鍋に手をかけ、最後の味の調整を終えた。

 

「これで完成です」

 

 その一言で、ついにカレー作りが終わった。

 

 

 

 

 夕暮れの海風が心地よく吹き抜けるなか、部員たちは野外に用意された長机を囲んでいた。

 中央には大鍋いっぱいに作られたカレーが並び、湯気が立ち上るたびにスパイスの香りが広がる。

 

 ポケモンたちも、それぞれのトレーナーの近くで食事を楽しんでいた。

 モーリのブニャットは皿の端で気ままにカレーを舐め、ムラナカのエビワラーは慎重にカレーをすくいながらゆっくりと食べていた。

 コウヌのマリルリは、進化したばかりの長い耳がカレーにつきそうになっており、コウヌがそれを気遣いながら「ほら、気をつけろよ」と優しく耳を持ち上げている。

 そんな光景を眺めながら、タケダが感嘆の声を上げた。

 

「まごころのおかげですぅ!」

 

 スプーンを手にしながら、タケダが満足そうに笑う。

 コウヌが驚いたように頷く。

 

「味見のときより、できが良くないっすか?」

 

 全員が頷きながら、皿のカレーを口へ運んでいく。

 

 夕陽を背に、トミノは静かに語った。

 

「勝利よりも、勝負を望む瞬間があったんだよ。僕の人生は」

 

 そう、トミノはムラナカの質問に答えた。

 ムラナカは目を輝かせ、カレーのことも忘れて耳を傾けている。

 

 そんな雰囲気のなか、モーリはふとスプーンを置き、口を開いた。

 

「どうして、僕たちの指導をしてくれるんですか?」

 

 部員たちの視線が、トミノへと集まる。

 モーリは、自分が問うたこの疑問がずっと心のどこかに引っかかっていた。

 

 トミノは、カントー・ジョウトCリーガーだった。

 タマムシ大学を卒業し、今もキキョウ大学の客員教授を務めている。

 そんな彼が、どうしてこんな弱小地方の高校生たちのコーチをしているのか。

 

 トミノは少し考えるように視線を落とし、それから静かに口を開いた。

 

「貴重な経験を、誰かに伝えたかったんだ」

 

 その言葉は、とても穏やかで、まっすぐだった。

 しかし、モーリにはその言葉のすべてを理解することができなかった。

 

 トミノは続ける。

 

「僕は優れたリーグトレーナーではなかったが、恵まれたリーグトレーナーではあった。本当に、出会いに恵まれすぎていた。だからこそ、今度は僕が誰かの手助けをしたい。それだけだよ」

「それだけ、ですか?」

「うん。偉そうな話だけどね」

 

 トミノは苦笑し、メガネの位置を直した。

 

「たまたま話があっただけさ。それは運だね」

 

 モーリは、トミノの言葉を頭のなかで何度も繰り返した。

 貴重な経験を、誰かに伝えたかった。

 今度は自分が、誰かの手助けをしたい。

 

 言葉の意味は分かる。

 だが、その感情の深い部分までは、まだ理解できない。

 

 モーリはスプーンを取り、カレーを口に運んだ。

 ものすごく美味しい。けれど、何かが少しだけ足りない気もする。

 だが、その足りなさは決して悪いものではなく、むしろ「次は自分でアレンジしてみよう」と思えるような、前向きなものだった。

 

 モーリはゆっくりと、カレーを噛み締めた。




次回4/21 18:01予定

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