『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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22-合宿、そして、砂浴び ③

 研修施設のロビーには、風呂上がりの部員たちがゆったりと集まっていた。

 昼間の激しいバトルやトレーニングの熱気も、湯に浸かり、汗を流したことでようやく和らいだようだった。

 

 全員が私服に着替え、髪を乾かしきれずにまだ少し湿っている。部活の練習着とは違い、それぞれが持ってきた寝間着姿でいるせいか、どこか緩んだ空気が漂っていた。

 

 ロビーの中央にあるテーブルには、トランプの束が置かれている。ソファや床に適当に陣取りながら、部員たちは手札を抱え、大富豪に興じていた。

 

「タケダさん、また革命?」

 

 ムラナカがげんなりとした声を上げる。

 

 テーブルの中央に置かれた場札を見れば、確かに『革命』が成立していた。タケダが無言でカードを出し、場の強弱が一気にひっくり返る。

 

「やっぱりこのゲームは駆け引きが面白いですぅ」

 

 タケダはにこやかに微笑みながら手札を整えている。どう見ても場を完全に支配しているプレイヤーの余裕だった。

 

「いや、っていうかさ」

 

 ムラナカは少し呆れたように、テーブルの端を指さした。

 

 そこには、小さな袋に入ったミニチョコが積み上げられている。

 

 勝者が手に入れることのできるささやかな景品。

 

 そのほとんどが、タケダの手元にあった。

 

「結局さ、大富豪経由して、自分で自分の買ったチョコ食べてるだけじゃん」

 

 ムラナカの指摘に、周囲の部員たちが吹き出した。

 

「まあ、そうとも言いますわねぇ」

 

 タケダは小さく笑いながら、手元のチョコをひとつ口に放り込む。

 

「でも、こうやってみなさんと勝負するのが楽しいんですもの。あと、お菓子はお裾分けも大切ですぅ? ほら、ムラナカさんもどうぞ」

「負けた相手から貰うの、悔しいんだけどな」

 

 そう言いながらも、ムラナカは結局受け取るのだった。

 

 周囲には、気だるげで、それでいて心地の良い笑い声が広がる。昼間の緊張感はどこにもなかった。

 

 モーリは、そんなやり取りを横目にしながら、手元のトランプを眺めていた。

 

 大富豪は、そこまで得意でもないが、特別苦手なわけでもない。ただ、ルールを覚えている程度のプレイ感覚で、適当にカードを出している。

 

 そんな手を動かしながら、ふと考えた。

 

 そういえば、こんな雰囲気は初めてだ。

 

 考えてみれば、ポケモンバトル部に入ってから、それなりに部員たちと過ごしてはいた。だが、それはあくまで「バトル」や「練習」の場だった。

 

 ただこうやって、肩の力を抜いて、何かを競いながらも笑い合う時間。

 

 そんなものが、モーリには今まであっただろうか。

 

 ジム巡りをしていた頃は、夜の時間は次の戦略を考えるためのものだった。どこかに泊まる時も、基本は一人だったし、トレーナー同士の交流があったとしても、それは互いの実力を測り合う緊張感のあるものだった。

 

 それとは、全く違う空気が、今ここにはあった。

 

「モーリくん、手番だよ?」

 

 スズモトが微笑みながら声をかけた。

 

「あ、ああ、悪い」

 

 慌てて手札から一枚を出す。

 

 その一瞬、スズモトの視線が、ほんのわずかに自分へと向けられた気がした。

 

 

 

 

 部屋の灯りは少し落とされ、ぼんやりとした明かりが畳の上に広がっていた。窓の外では虫の声が響き、研修施設の静けさが夜の訪れを告げている。

 

 モーリは布団の上に仰向けになり、ぼんやりと天井を見つめていた。今日一日の出来事が頭の中を巡る。トミノとのバトル、特訓、そして夕食の時間――合宿の一日目は想像以上に濃密だった。

 

 隣の布団ではムラナカが寝返りを打つ音がする。その向こうでは、コウヌがマリルリの毛並みにクシを通していた。

 

「可愛いですねぇ」

 

 コウヌはふわふわした毛並みを撫でながら、慈しむように声をかける。進化したばかりのマリルリはまだ自分の体の変化に戸惑っているのか、長くなった耳をぴょこぴょこと動かしていた。

 

「お前、マリルリに甘すぎないか?」

 

 ムラナカが呆れたように言うと、コウヌは悪びれる様子もなく「いやあ、そうなんですよ」とあっさり肯定した。

 

「はじめはバトル部に入るためだけにもらったポケモンだったんスけど、もうどんどん可愛くなってきちゃって」

 

 そう言いながら、マリルリの丸いほっぺたをむにむにと指でつつく。マリルリは心地よさそうに目を細める。

 

「もうラブラブじゃん」

「ほんとにな」

 

 ムラナカとモーリが顔を見合わせて苦笑した。

 

 コウヌは「いやぁ、それほどでも」と得意げに胸を張るが、その言葉とは裏腹に、マリルリへのデレデレぶりは増すばかりだった。

 

 その流れのまま、ムラナカがくるりとモーリの方へ向き直った。

 

「で、君はどうなんだい?」

「……何が?」

「ほら、真夜中に部屋を抜け出したりとかさ」

 

 ニヤリとした笑みを浮かべながら言うムラナカに、モーリはきょとんとした顔をする。

 

「いや、別に」

 

 心底意味がわからないという顔だった。

 

 ムラナカは「お前なあ」と大げさにため息をついた。

 

「なあモーリ、少しはスズモトさんに応えてやりなよ」

「なんだよ、それ」

 

 モーリは怪訝な顔をしながら返す。だが、そのやり取りを聞いていたコウヌが驚いたように声を上げた。

 

「ええ、先輩たち付き合ってないんですか!?」

「は?」

 

 モーリが眉をひそめると、コウヌは「うっそだろ」と信じられないものを見るような顔をした。

 

「な?」

 

 ムラナカがコウヌに頷く。

 

「いや、だって」

 

 コウヌは腕を組み、しばらく何かを考え込むような素振りを見せた後、ぱっと顔を上げた。

 

「じゃあじゃあ、俺が狙ってもいいんスか?」

「は?」

 

 モーリが再び聞き返す間もなく、コウヌはウキウキした様子で続ける。

 

「スズモト先輩って、めちゃくちゃ人気あるじゃないスか! 俺も結構好きッスよ!」

「な?」

 

 ムラナカが再び頷く。

 

「まあ、僕だってさあ」

 

 ムラナカは口ごもりながらも、どこか思わせぶりな言葉を漏らした。

 

 モーリはその場の雰囲気に居心地の悪さを感じ、曖昧に笑いながら「もう寝るわ」と布団をかぶった。

 

 背中越しに、コウヌが「えー、気になるなあ」とまだ何か言っていたが、モーリは聞こえないふりをした。

 

 何となく、胸の奥がそわそわするような感覚があった。

 

 

 

 

 寝る前の時間、女子部屋にはゆったりとした雰囲気が漂っていた。

 

 畳敷きの部屋には、すでに敷かれた布団が並んでいる。窓の外では虫の声が響き、遠くに波の音が微かに聞こえていた。

 

 スズモトは布団の上に腰を下ろし、フシギダネの背中を優しく撫でていた。タケダは「ケッキングさぁん」と呼びかけながら、巨大なポケモンのヒゲをブラッシングしている。横ではオーアサがバネブーの体にクリームを塗りながら「乾燥対策は大事ですからね」と頷いていた。

 

 誰もがそれぞれの相棒に向き合う、穏やかな時間。

 

 そんな中、不意にタケダが顔を上げた。

 

「そういえば、モーリさんとはどこまでいかれたんですかぁ?」

「うぇえ!」

 

 スズモトは驚いて変な声を上げた。驚いたフシギダネが「ダネッ!」と小さく鳴きながら膝から飛び降りる。

 

 タケダはそんなスズモトの様子を意に介さず、ニコニコとした表情で首をかしげた。

 

「ど、どこって……?」

 

 スズモトは戸惑いながら言葉を探すが、タケダはまるで話の続きを促すように手をヒラヒラと動かす。

 

「お付き合いされてるんですかぁ?」

「え、いや、その……」

 

 スズモトは言葉に詰まり、視線を泳がせる。すると、タケダは満面の笑みを浮かべながら、さらに畳みかけた。

 

「式はいつなんですかぁ?」

「ええええ!? そんな話になってないよ!」

 

 スズモトは顔を真っ赤にして首をブンブンと振る。

 

 だが、それを聞いたタケダは「まぁ」と小さく息をつき、少し不満げに腕を組んだ。

 

「だめですよぉ。お母様も『据え膳に、なれ!』とおっしゃっていましたわぁ」

「おお、肉食系」

 

 オーアサが興味深そうに頷く。

 

 スズモトは「いやいやいや」と慌てて手を振るが、タケダはさらに真剣な顔で続ける。

 

「このままでは、取られてしまいますぅ」

「え?」

 

 スズモトが思わず聞き返すと、オーアサが冷静に頷いた。

 

「確かに、モーリ先輩は人気ありますものね」

 

 スズモトの胸がドクンと高鳴る。

 

 そんな彼女をさらに追い詰めるように、タケダが目を丸くして手を打った。

 

「はっきりさせないと、スズモトさんのヒーローが取られますぅ!」

「もう、やめてよ!」

 

 スズモトは顔を真っ赤にしながら布団を頭からかぶる。

 

 その様子を見て、タケダとオーアサは顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。

 

 

 

 

 研修施設の一室には、静かな夜の空気が流れていた。

 

 テーブルの上には簡素な資料とメモ帳、それから冷めかけたコーヒーのカップが置かれている。照明は落ち着いた暖色で、窓の外には波の音が微かに響いていた。

 

 トミノは椅子に深く腰掛け、手元のノートを軽くめくる。ペンを指で転がしながら、満足げに頷いた。

 

「若いということは、素晴らしいものだね」

 

 穏やかな声でそう呟く。

 

「荒削りで、未熟で、でもその中に光るものがある。それを磨き、より輝き、世の中がそれに気づく。そこに自分が関われるのは、何よりも幸せなことだよ」

 

 ゆっくりとした動作で眼鏡を押し上げ、横に座る人物へと目を向けた。

 

「君はそう思わないかな、モモナリ君」

 

 その名を呼ばれた男は、口元に軽い笑みを浮かべていた。

 

 カントー・ジョウトリーグトレーナー。モモナリ。その名を知る者ならば、彼が単なる観戦者ではなく、勝負を求める戦士であることをすぐに察するだろう。

 彼は椅子に浅く腰掛け、足を組みながらテーブルの端を指で弾いていた。その仕草は、何かを待ちわびる獣のようでもあった。

 

「へえ、そんなふうに考えるんですねえ」

 

 どこか人懐っこい声音だったが、その奥にはじわりと滲む好戦的な熱がある。

 

「でもまあ、わかる気はしますよ。彼が成長するのであれば、それは喜ばしいことだ」

 

 モモナリはそう言いながら、腰のモンスターボールを指先で弾いた。カチリと、小さな音が鳴る。

 

「それで、何を教えたんです?」

 

 トミノは静かに微笑んだ。

 

「ポケモンたちへの理解だよ。彼はブニャットほど、ガブリアスやファイアローへの理解があるわけではない。そこを理解できれば、彼は群れのリーダーになれる」

 

「なるほど」

 

 モモナリは感心したように頷いた。

 

「さすがトミノさんだ。よくわかってる」

 

 その評価に満足気に頷きながら、トミノは静かにコーヒーカップを置き、ペンを回しながらモモナリを見た。

 

「どうして、ここに来たんだい?」

 

 モモナリは軽く肩をすくめると、飄々とした口調で答えた。

 

「風の噂で聞いて」

「そうかい」

 

 トミノは眼鏡のブリッジに指をかけ、微かに笑った。

 彼が少し前にモーリと戦ったことは、彼が教育委員会から抗議を受けた『事件』で良く知っている。

 

「君から見て、モーリ君はどうなんだい?」

 

 その問いに、モモナリはわずかに間を置いた。

 

 指先でモンスターボールを転がしながら、考えをまとめるようにゆっくりと口を開く。

 

「賢いとは思いますよ。でも、やはりポケモンを知らないし、頼ってる。まだ、そこに甘えがあるんでしょうね」

 

 ボールを指先で軽く弾き、カチリと小さな音を響かせる。

 まるでそれは、その中にいる幼子をあやしているようだった。

 

「それが解消されてからが、ようやくスタートラインってところでしょ」

 

 トミノはその言葉を聞きながら、彼の手元に注目した。

 

 腰のモンスターボールに触れる仕草。それは、単なる癖ではない。

 好戦的な獣のような微かな熱が、その指の動きから伝わってくる。

 

「トミノさんの指導で、それが解消されるなら」

 

 モモナリは一度言葉を切り、薄く笑った。

 

「興味がある」

 

 トミノは短く息を吐くと、静かに頷いた。

 

「解消はできると思うよ」

 

 ペンを指で転がしながら、穏やかに言葉を紡ぐ。

 

「モーリ君は、確かに賢い。すでに掴みかけている。でも」

「でも?」

「今じゃないだろう」

 

 トミノの言葉に、モモナリの指の動きが止まる。

 それは明らかに彼の持つ『権利』を否定するような言葉に聞こえた。そして、彼はそれを受け入れない。

 理屈ではないのだ、自らの『自由』を否定する言動には、立場を示す必要があると信じている。

 

「それを決めるのは……」

 

 腰にセットされたボールを撫でながら、そう言いかけた彼を、トミノは手のひらを軽く上げて制した。

 

「わかってるよ。選択肢は常に君にある。だけど、もし君が『お手つき』することがあれば、もう君と本心から楽しくお酒は飲めないだろうね」

 

 モモナリはしばらく無言だった。

 

 やがて、ふっと笑う。

 

「そりゃ、もったいないですねえ」

 

 彼は椅子から立ち上がり、伸びをした。

 

「ま、今日はこれくらいにしておきますか。お邪魔しました」

 

 軽く手を上げると、ゆっくりとした足取りで部屋を後にする。その背中を見送りながら、トミノは眼鏡を外し、こめかみを指で押さえた。

 

 背後で、小さな笑い声がする。

 

「モーリ君が、羨ましいよ」

 

 振り返ると、そこにはトミノの妻が立っていた。

 

「ふふ、妬いてるんですか?」

「いやいや、そんなことはないさ」

 

 トミノは苦笑する。

 

「ただ、モモナリ君のようなトレーナーに注目されるのは、それだけで価値のあることだからね」

 

 彼は再びノートを開き、ペンを走らせる。

 

「彼がどこまで伸びるのか、僕も楽しみだよ」

 

 夜の静寂が、彼らを包み込んでいった。

 

 

 

 

 目を覚ました時、部屋の中はまだ薄暗かった。

 

 カーテンの隙間からわずかに光が差し込み、朝が近いことを知らせている。隣のムラナカとコウヌは寝息を立て、掛け布団を肩までしっかりと掛けたまま眠っていた。

 

 モーリは布団を抜け出し、静かに立ち上がる。冷えた床板が素足にひんやりとした感触を伝えてきた。部屋の隅に置いていたジャージを羽織り、そっとスニーカーを履く。

 

 施設の廊下を歩く間、誰ともすれ違わなかった。夜明け前の空気は澄んでいて、どこか清々しい。建物を抜け、冷たい砂を踏みしめながら浜辺へと向かった。

 

 

 

 

 海はまだ静かだった。

 

 波は穏やかに寄せては返し、遠くの水平線には、うっすらと朝焼けの色が滲み始めている。潮の香りが風に乗って鼻をかすめた。

 

 モーリはゆっくりとモンスターボールを取り出し、ガブリアス、ファイアロー、ブニャットの三体を解放した。

 

 ガブリアスは砂の感触を確かめるように足元を踏みしめると、ゆっくりと横になり、体を砂に擦りつけはじめた。ファイアローは羽を広げ、朝の空気を吸い込むように深く息を吐く。そして、ブニャットは尻尾を砂の上で振りながら、気持ちよさそうに欠伸をした。

 

 それを見て、モーリはふと気づく。

 

 ガブリアスも、ファイアローも、こうして砂浴びをするのか。

 いや、そもそもこいつらが、こうしてリラックスする姿を見るのは初めてだった。

 

 戦いの場では、常に指示を待ち、敵を倒すことに集中していた。だが今、彼らはただ朝の海を感じ、砂の感触を楽しんでいる。まるで、当たり前のように。

 

 モーリはその光景に、不思議な感覚を覚えた。

 

 彼らは、生きている。

 

 当たり前のことなのに、今まで深く考えたことがなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。ガブリアスやファイアローを『強いポケモン』として扱い、彼らの力に頼ることばかり考えていた。だけど、それだけではなく、彼らもまた、自分と同じ『生き物』なのだ。

 

 モーリは息を飲み、ガブリアスの背中に触れた。指先に、砂のざらつきと、ポケモンの温もりが伝わる。

 

 どうして今まで、この当然の事実をきちんと受け入れられなかったんだろう。

 

 

 

 

「お邪魔だった?」

 

 背後から声をかけられ、モーリは振り向いた。

 

 そこにはスズモトがいた。

 

 フシギダネを抱えたまま、柔らかい笑みを浮かべている。足元は裸足で、つま先が砂に埋まっていた。

 

「いや、ここにいて」

 

 モーリがそう言うと、スズモトは「ありがとう」と言いながら、彼の隣に腰を下ろす。

 

 フシギダネを膝の上に乗せると、彼女は砂の上を撫でながら言った。

 

「朝の空気を吸いたかったのと、フシギダネに日光浴させたかったんだ」

 

 モーリは頷き、再びポケモンたちを見つめた。

 

 ガブリアスは目を細めながら気持ちよさそうに砂に体を擦りつけている。ファイアローは羽の手入れをしながら、ゆったりとした動きを見せていた。

 

 スズモトも、その光景をじっと眺めていた。

 

「ポケモンなんだ」

 

 モーリは呟くように言った。

 

「え?」

「ガブリアスも、ファイアローも、ブニャットやフシギダネと同じ、ポケモンなんだ」

 

 スズモトはその言葉に、一瞬きょとんとした。

 当たり前すぎることを言われたように思えた。しかし、モーリの表情は真剣だ。

 

 きっと、彼にとっては大事な気づきなんだ。

 

 スズモトは何か言おうとしたが、結局言葉が出てこなかった。

 ただ、モーリが自分のポケモンたちを見つめる目が、少しだけ優しくなった気がする。

 

「帰ろう」

 

 モーリが立ち上がる。

 

「またからかわれちゃうよ」

 

 スズモトは少しの間考え、それから小さく笑って「そうだね」と返した。

 

 

 

 

 バトルフィールドに立つモーリは、そっと深呼吸をした。熱を持った空気を肺の奥に送り込み、ゆっくりと吐き出す。

 

 ガブリアスとファイアローが彼の横に立ち、静かに佇んでいた。二匹とも疲れを感じさせる仕草を見せながら、それでもどこか満足げな表情を浮かべている。

 

 モーリは彼らを見つめ、手持ちのモンスターボールを指でなぞった。

 

 昨日と何かが違う。

 

 彼はそう思った。

 だが、それが具体的に何なのかまでは、はっきりと分からなかった。

 

「少しずつ、良くなってるね」

 

 ふと、トミノの声が聞こえた。

 

 モーリが顔を上げると、トミノはノートにペンを走らせながら、優しい笑みを向けていた。

 

 その言葉を聞いて、モーリは一瞬、迷うように視線を落とした。

 

「……少し休憩しませんか」

 

 自分でも、なぜこの言葉が出たのか分からなかった。

 

 けれど、そうした方がいい気がした。

 

「この子たちに、砂浴びをさせたくて」

 

 トミノは驚いたようにモーリを見た。

 だが、すぐにその表情は穏やかなものに変わる。

 

「いいね。それも立派なトレーニングだよ」

 

 満面の笑みで、トミノはそう答えた。

 

 

 

 

 バトルフィールドの片隅で、コウヌとオーアサが向かい合っていた。

 その間に立つのは、コウヌのマリルリと、オーアサのバネブー。

 

 マリルリは進化したばかりの体をわずかに揺らしながら構え、バネブーは慎重に相手を見据えている。

 

「『アクアテール』!」

 

 コウヌの声と同時に、マリルリが大きく跳び上がり、尾を水で包み込む。

 そのまま勢いよく振り下ろされる一撃。

 

「『サイコウェーブ』!」

 

 オーアサの指示を受け、バネブーが紫色の波動を放つ。

 しかし、マリルリのアクアテールの勢いには勝てず、バネブーの攻撃は押し切られる。

 

 マリルリの尾がバネブーに命中し、バネブーは地面に弾かれるように転がった。

 

「バネブー!」

 

 オーアサが思わず声を上げる。

 バネブーはゆっくりと起き上がるが、明らかにダメージを受けていた。

 

 コウヌが続けて指示を出そうとした瞬間、トミノの妻が軽く手を挙げる。

 

「そこまでにしましょう」

 

 トミノの妻のその声で、コウヌもオーアサも動きを止める。

 バトルの熱気が残る中、彼女はオーアサの隣に立ち、優しく言った。

 

「焦らなくてもいいですよ」

 

 オーアサは息を整えながら彼女を見上げる。

 

「ゴールが一緒ならば、急ぐ必要はありません」

 

 オーアサはその言葉を噛みしめるように、ゆっくりとバネブーの体を撫でた。

 

 

 

 

 バトルフィールドの片隅で、タケダとムラナカのバトルが続いていた。

 

 タケダの手持ちはトミノから借りたヤドラン。

 ムラナカの手持ちはエビワラー。

 

「ヤドラン、『なみのり』ですわぁ!」

 

 タケダの声に応じ、ヤドランが前脚を振る。次の瞬間、フィールドいっぱいに水流が広がり、エビワラーを包み込んだ。

 

「エビワラー、『みきり』!」

 

 ムラナカの指示に即座に反応し、エビワラーは波の隙間を縫うように回避する。

 

 タケダはじっとヤドランを見つめながら、ヤドランの動きにある違和感を感じていた。ヤドランは技を繰り出す直前、一瞬だけエビワラーに視線を向けている。まるで、攻撃の意識がそこに向かったことを示すかのように。

 

「わかりましたぁ! ユリーカですわぁ!」

 

 突然タケダが叫び、何かを閃いたかのように笑顔を浮かべた。そして、ヤドランをボールに戻す。

 

「ヤドランさん! ちょっと休憩していてくださいぃ!」

 

 ムラナカが驚いた顔をする。

 

「えっ、どうした?」

 

 タケダは満面の笑みで次のモンスターボールを掲げた。

 

「ケッキングさん、参りますわぁ!」

 

 光とともに、巨大な体を持つケッキングが現れる。しかし、現れるや否やのっそりと欠伸をし、腕を投げ出して寝そべった。

 

 ムラナカはわずかに眉を上げた。これまでさんざん苦労してきた怠け癖だ。そんなにすぐにコツを掴めるのなら、苦労はしない。

 

「『ストーンエッジ』!」

 

 ムラナカの指示とともに、エビワラーが拳を固く握り、鋭利な岩の刃を作り出した。それを振り下ろし、ケッキングの肩口に叩き込む。

 

 鈍い音が響いた。

 

 しかし、ケッキングはただ目を細めるだけで、ほとんど反応を見せない。

 

「だよなぁ……」

 

 ムラナカがため息混じりに呟く。

 

 ダメージが有るのかどうかはわからないが、ケッキングは動かない。

 闇雲に指示を出したところで、言うことは聞かない

 

 しかし、タケダは一旦沈黙を作った。

 トミノのヤドラン、ゆっくりだが確実に指示を聞き、的確な攻撃をするポケモンを扱い、彼女は少し理解した。

 ポケモンにはペースがあり、それはそれぞれなのだ。

 トレーナーならば誰でも知っているようなことだ、初めてパートナーとなったポケモンがケッキングであった彼女は、それに気付けなかったのだ。

 だが彼女は、紛いなりにもケッキングと絆を得ているトレーナー。

 彼の視線が今になってようやくエビワラーに向かつつあることを理解していたのだ。

 

「はっきよい!」

 

 突如、相撲の掛け声をかける。

 

 ケッキングの目がかっと見開かれ、巨体がゆっくりと前傾姿勢を取る。

 

「は?」

 

 ムラナカが思わず声を漏らした。

 

「『ギガインパクト』!」

 

 タケダの指示とともに、ケッキングが一気に地面を蹴る。巨体とは思えない速度でエビワラーに突進する。

 

「『みきり』!」

 

 ムラナカの声が響く。エビワラーが瞬時に反応し、衝撃を最小限に抑えた。しかし、完全には防ぎきれなかった。ケッキングの圧倒的なパワーに押され、エビワラーはフィールドの端まで弾き飛ばされる。

 

 砂煙が舞い上がる中、エビワラーは膝をつきながらも立ち上がる。

 

 ムラナカは息を整えながら、タケダを見た。

 

「おいおい、マジかよ」

 

 タケダは満面の笑みで胸を張る。

 

「完璧ですわぁ! ケッキングさんの動きのタイミング、完全に掴みましたわぁ!」

 

 

 

 

 合宿最後のトレーニングが終わると、部員たちはバトルフィールドに集まり、トミノの前に整列した。陽が傾き始め、空にはオレンジ色の光が広がっている。

 

 トミノは眼鏡の位置を直し、ゆっくりと部員たちを見渡した。彼の隣にはサイトーと、少し後ろにはトミノの妻も控えている。

 

「さて、これで今回の合宿は終了だね」

 

 彼の穏やかな声に、部員たちは自然と背筋を伸ばした。

 

「短い時間だったけど、みんなそれぞれの課題に向き合っていた。バトルにおいても、練習においても、それがよく伝わってきたよ」

 

 そう言って、トミノは一人ひとりの顔を見ながら言葉を続ける。

 

「コウヌ君」

「はいっ!」

 

 コウヌが背筋を正す。

 

「マリルリとのバトルスタイルをうまく作り始めているね。自分たちの強みを活かしながらも、まだまだ伸びしろがある。これからも焦らずに続けていくといい」

 

「ありがとうございます!」

 

 コウヌは嬉しそうにマリルリの背中をぽんぽんと叩いた。

 

「オーアサさん」

「はい」

 

 オーアサは緊張した面持ちで頷く。

 

「焦りすぎることはないよ。大事なのは、少しずつでも自分のペースで進むことだ。君はちゃんと周囲を見て、考えながら行動できている。それを忘れなければ、きっと大丈夫」

 

 オーアサは表情を引き締めて、「わかりました」と返した。

 

「ムラナカ君」

「はい!」

「バトルの幅を広げるための努力が見えたね。ストーンエッジを会得しようとする姿勢も素晴らしかった。でも、それ以上に、君の戦い方には独自の色が出てきている。それを大事にするといい」

 

 ムラナカは拳を握り、嬉しそうに頷いた。

 

「タケダさん」

「はいぃ!」

「ケッキングとの付き合い方、かなり掴んできたね。あの相撲の掛け声はなかなか面白い発想だったよ」

「ありがとうございますぅ!」

 

 タケダは自信満々に胸を張る。

 

「だけど、これで満足しないこと。まだまだ伸ばせる部分はたくさんあるからね」

「心得ておりますぅ!」

 

 

 そして、トミノの視線がモーリへと向く。

 モーリは少しだけ身構えたが、トミノはただ穏やかに微笑んだ。

 

「モーリ君」

「はい」

「君は、よく考えていたね。ガブリアス、ファイアロー、ブニャット、それぞれへの理解を深めようとする姿勢が見えた。まだ途中だけど、君はすでに大事なことに気づき始めている。あとは、それを自分の形にしていくだけだ。だけど、これがスタートラインであることを忘れないようにね」

 

 モーリは小さく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

 

「はい」

 

 トミノの言葉は励ましであり、同時に、これからの課題を突きつけるものでもあった。

 

 そして、トミノの目がスズモトに向く。

 

「最後に、スズモトさん」

「はい」

「妻が、君を褒めていたよ。部員達を良く見ているとね。多分、皆もそれを理解していると思う」

「ありがとうございます」

 

 スズモトは小さく微笑んだ。

 

「みんな、よく頑張ったね」

 

 トミノの優しい声が、フィールドに響く。

 

「この合宿で学んだことを、これからの練習やバトルに、あるいは人生に活かしていってほしい。それができれば、君たちはもっと強くなれるはずだから」

 

 トミノの言葉に、部員たちは一斉に頭を下げた。

 

「ありがとうございました!」

 

 声を揃えて言うと、トミノは柔らかく微笑み、そっと眼鏡を押し上げた。

 

 

 

 

 解散した後、モーリは少し離れた場所で立ち止まり、静かに空を見上げた。

 夕陽がゆっくりと沈み、空の色が深まっていく。潮の香りが、かすかに鼻をくすぐった。

 

 今回の合宿は、間違いなく素晴らしい経験だった。

 

 しかし、その先にあるものが、まだはっきりと見えてこない。

 これからどうすればいいのか。どうなっていくのか。

 

 自分は、本当に『群れのリーダー』になれるのだろうか。

 

 そんな思いを胸に抱えながら、モーリはゆっくりと宿泊施設へと歩き出した。

 

 合宿は終わった。

 だが、モーリの中で始まったものは、まだ終わらないままだった。

 

 

 

 

 研修施設の前で、ポケモンバトル部の部員たちは荷物を持ち、トミノ夫妻と向き合っていた。

 

「ありがとうございました!」

 

 サイトーの掛け声とともに、部員たちは一斉に頭を下げる。二日間の短い合宿だったが、その濃密さは、全員の表情が物語っていた。

 

 トミノは穏やかな笑みを浮かべて頷く。

 

「こちらこそ、楽しい時間を過ごさせてもらったよ。君たちの成長を間近で見られて、とても嬉しかった」

 

 その隣で、トミノの妻も微笑む。

 

「しっかり食べて、しっかり寝て、しっかり鍛えてくださいね」

「はい!」

 

 ムラナカは少し緊張しながら、一歩前に出る。そして、大事そうに抱えていたサイン色紙を胸に抱え直し、トミノを見上げた。

 

「サイン、ありがとうございました!」

 

 トミノは小さく笑って頷く。

 

「大切にしてくれるなら、僕も嬉しいよ」

 

 ムラナカは感激したように何度も頷いた。

 

 サイトーがバスの運転手と簡単に話をつけると、部員たちに振り返る。

 

「じゃ、そろそろ行くぞ!」

 

 部員たちはそれぞれ最後にもう一度トミノ夫妻に頭を下げると、荷物を抱えてバスに乗り込んだ。

 

 モーリは最後にもう一度トミノの顔を見た。トミノは小さく手を振り、モーリもわずかに頷き返す。

 

 バスのドアが閉まり、エンジンが静かに唸りを上げる。

 

 ゆっくりとバスが発進し、部員たちを乗せた車両は、フェリーターミナルへと向かっていった。

 

 

 

 

 秋の海風が心地よく吹き抜ける。フェリーの甲板には、部員たちが思い思いにくつろいでいた。

 

 コウヌが伸びをしながら、大きく息を吸い込む。

 

「いやー、楽しかったッスね!」

 

 その隣で、ムラナカは自分のバッグに大事そうにサイン色紙をしまっていた。

 

「トミノさんのサイン、もう宝物にしますよ」

 

 それを見ていたオーアサが、興味深そうに首を傾げる。

 

「四枚ももらってましたもんね」

 

 ムラナカがビクリと肩を跳ねさせた。

 

「家族用、家族用だから」

 

 その必死な言い訳に、タケダがくすくすと笑う。ミニチョコを口に放り込みながら、軽く肩をすくめた。

 

「家族思いですわねぇ」

 

 そんな会話が続く中、モーリは少し離れた場所で甲板の手すりに肘をつき、遠ざかる島を見つめていた。

 

 二日間の合宿。

 短い時間だったが、得るものは多かった。

 自分は何を考え、何を目指しているのか。

 

 ガブリアス、ファイアロー、ブニャット。

 

 彼らと共に、どう戦うべきなのか。

 風に吹かれながら、モーリは静かに考えていた。

 

「モーリ君」

 

 不意に、隣から声がかかった。

 振り向くと、スズモトが立っていた。フシギダネを腕に抱え、柔らかく微笑んでいる。

 

「合宿、どうだった?」

 

 モーリは少し考えてから、ゆっくりと答えた。

 

「良かったと思う、思うだけだけど」

 

 スズモトは意外そうに目を瞬かせたあと、納得したように頷く。

 

「でも、何か掴めたんじゃない?」

 

 モーリは視線を前に戻し、波の向こうへと目を向けた。

 

「そうかもな」

 

 心の中にはまだ迷いがあった。だが、それでも、 何かが変わり始めたことだけは、確かだった。

 

 秋の風が吹き抜ける。

 

 フェリーは静かに波を切り、本土へと向かって進んでいった。




次回4/23 18:01予定

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