『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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23-サイトー先生のデート疑惑と、俺の進路

 夕方の部室は、すでに静けさに包まれていた。

 夏の熱気をまだ少し残す廊下を歩きながら、モーリは軽く汗を拭った。今日は少し帰るのが遅くなったが、荷物を取りに戻るだけだ。部室にいるのは、せいぜい片付けをしているスズモトくらいだろう。

 

 扉を開けると、ひんやりとした空気が肌に心地よい。だが、そこにいたのはスズモトではなく、サイトーだった。

 

 サイトーは窓際に立ち、携帯端末を片手に話している。普段のラフな口調とは違い、どこか慎重な響きを帯びた敬語だった。

 

「はい、ええ……それでは、土曜日に駅前でお待ちしています」

 

 モーリはその言葉を何となく耳にしながら、ロッカーへと向かう。だが、扉を開けた音に気づいたサイトーが、ちらりとこちらを見た。

 

「ああ、モーリか。お疲れ」

 

 通話を切ると、サイトーは普段の気さくな口調に戻り、軽く片手を挙げた。

 

「荷物、忘れ物か?」

「ええ、ちょっと」

 

 モーリはスポーツバッグを肩にかけながら、何となく視線をサイトーの携帯へと向けた。普段、こんな風にビジネスライクな話し方をするのは珍しい。

 

「……先生、誰かと電話してましたね?」

 

 自然な流れでそう口にしたが、サイトーは一瞬だけ微かに表情を動かした。だが、すぐに肩をすくめる。

 

「ああ、ちょっとな。まあ、大したことじゃないさ」

 

 モーリはそれ以上は踏み込まず、「そうですか」とだけ返した。

 

 サイトーが何かを隠しているような素振りを見せることはほとんどない。むしろ、さっぱりした性格の教師だ。だからこそ、ほんのわずかな違和感が残った。

 

 しかし、そこまで深く考えることでもないだろう。

 

「じゃあ、お疲れ様です」

「おう、気をつけて帰れよ」

 

 モーリは軽く会釈をし、部室を後にした。

 廊下を歩きながら、頭の片隅には 「土曜日」「駅前で待ち合わせ」 という言葉が微かに残っていた。

 

 だが、それが後日、自分たちを妙な騒動へと巻き込むとは、まだ思いもしなかった。

 

 

 

 

 朝のライモン高校は、普段よりもざわついていた。

 モーリは教室へ向かいながら、その妙な空気を感じ取る。すれ違う生徒たちがひそひそと話し合い、時折「マジかよ」「いや、でもさ……」といった言葉が聞こえてくる。

 

 何か事件でもあったのかと思いながら教室に入ると、すでに何人かの生徒が集まり、各々の話に夢中になっていた。

 

 窓際の席に向かいながら鞄を下ろすと、前の席のミマがすかさず声をかけてきた。

 

「おい、モーリ。聞いたか?」

「何を?」

 

 モーリは椅子に座り、ミマの方を向く。彼はいつになく興奮した様子で、机に肘をつきながら身を乗り出してきた。

 

「サイトー先生が、イケメンと歩いてたらしいぞ」

 

 モーリは一瞬、言葉の意味を考えた。

 

「サイトー先生が?」

「そう。昨日の夕方、街で誰かと一緒にいたんだとよ」

 

 ミマの口ぶりからして、すでにクラスの間ではちょっとした騒ぎになっているらしい。モーリは適当に頷きながら、鞄の中からノートを取り出した。

 

「それがどうかしたのか?」

「いや、ただの知り合いとかじゃなくてさ、結構親しげな雰囲気だったって話なんだよ」

「誰が見たんだ?」

「バレー部のマネージャーのやつ。間違いなくサイトー先生だったってさ」

 

 ミマがやけに自信ありげに言う。

 

 バレー部のマネージャーは、比較的真面目な生徒が多い印象だ。適当な噂を流すタイプではない。モーリはノートを開きながら、ふと昨日の部室でのことを思い出した。

 

 サイトーが電話で話していた、「土曜日」「駅前で待っています」という言葉。

 

 それと関係があるのかもしれない。

 

「まあ、先生もプライベートで誰かと会うことくらいあるだろ」

 

 ノートに視線を落としたまま、そう言うと、ミマがすぐに返してきた。

 

「でもさ、さっき勇者が直接先生に聞いたんだよ」

「勇者?」

 

 モーリが顔を上げると、ミマが小さく笑った。

 

「要するに、気になって直接突っ込んだやつがいたってこと」

「で、なんて言ったんだよ?」

 

 モーリが興味なさそうに聞くと、ミマは少し得意げに続けた。

 

「それがさ、先生、めちゃくちゃ言葉を濁してたんだよ」

 

 モーリはペンを回しながら、ミマの話を待った。

 

「普通なら『違う』とか『ただの知り合いだよ』って言うだろ? でも、勇者が『先生、昨日イケメンと歩いてたらしいっすね!』って言ったらさ」

 

 ミマはちょっと芝居がかった調子で、サイトーの口調を真似した。

 

「ん? いや、まあ……んー……ははっ」

 

 モーリは軽く眉をひそめた。

 

「それ、本当にサイトー先生がそんな感じだったのか?」

「マジでそんな感じだったってさ。全然ちゃんと否定しなかったらしい」

「単に面倒くさかっただけじゃないのか?」

「かもな。でも、先生がそういう反応すると逆に怪しくなるんだよな」

 

 教室のあちこちで同じ話が持ち上がっているのか、他の生徒たちも何やら盛り上がっているのがわかる。

 

「いや、ありえねえって」

「え、でもマジだったらどうする?」

「先生がデートとか……想像できねえ」

 

 そんな会話が耳に入ってくるたび、モーリは少しだけ居心地の悪さを感じた。

 

「まあ、本人が話したくないなら、それでいいんじゃないか?」

 

 そう言うと、ミマは少しつまらなそうな顔をして肩をすくめた。

 

「ま、そうだけどさ。ほら、話題としては面白いじゃん?」

 

 モーリはそれ以上何も言わず、ノートのページをめくった。

 

 だが、頭の片隅にはやはり昨日のサイトーの電話が引っかかっていた。

 

「土曜日に駅前で待っています」

 

 あの言葉と、今回の噂が関係しているのだとしたら……。

 

「いや、考えすぎか」

 

 小さく息を吐き、モーリはノートに視線を戻した。

 だが、予感は次第に現実へと近づいていた。

 

 

 

 

 放課後になり、部活動が始まる時間になると、モーリは自然と部室へ足を向けた。

 午前中から続いていたサイトーの噂話は、昼休みを挟んでさらに加速していたようで、どこを歩いていても「先生が」「イケメンが」という単語が聞こえてくる。

 

 どこまで話が膨らんでるんだ?

 

 そう思いながら部室の扉を開けると、すでにスズモト、ムラナカ、タケダの三人が集まっていた。

 

「お、モーリ。ようやく来たな」

 

 ムラナカがソファに腰掛けたまま、こちらを見て手を挙げる。

 スズモトは机の上で書類を整理しており、タケダは隅でケッキングに何やら話しかけている。

 

 モーリはバッグを椅子の上に置きながら、軽く周囲を見渡した。

 

「今日、やけに早く集まってないか?」

「それだけ話すことがあるってことですわぁ!」

 

 タケダが勢いよく手を挙げる。

 

「部活動が始まる前に、大事な情報を整理しないといけませんの!」

「いや、何の話だよ」

 

 モーリが訝しげに眉をひそめると、スズモトが軽くため息をついた。

 

「サイトー先生のことに決まってるじゃない」

「まだその話続いてるのか?」

「当然ですわぁ!」

 

 タケダが自信たっぷりに胸を張る。

 

「イケメンと歩いてたという目撃情報はすでに確認済み! さらに、先生本人が否定しなかったという証言も得られておりますの!」

「だからって、なんでそんな探偵みたいな口調になってるんだよ……」

 

 モーリが呆れたように肩をすくめると、ムラナカが肘をつきながら口を開いた。

 

「まあでも、先生がわざわざ言葉を濁したってのはちょっと気になるよな。普段なら『そんなわけねえだろ』って即否定するタイプだし」

「ずばり! これは何か隠しているということに他なりませんわぁ!」

 

 タケダが勢いよく指を立てるが、スズモトが冷静にそれを遮った。

 

「はいはい。でも、本人が話したくないことかもしれないし、勝手に騒ぐのはよくないと思うけどね」

「スズモトさん、冷静ですぅ!」

「まあね」

 

 スズモトはにこりと微笑みながら、書類をまとめて机の隅へ寄せた。

 

「それで、モーリはどう思う?」

「どうって」

 

 適当に流そうとしたその瞬間、不意に脳裏に昨日の光景がよぎる。

 

『それでは、土曜日に駅前でお待ちしています』

 

 ふとした拍子に、何気なく口をついて出てしまった。

 

「ああ、そういえば先生、土曜日に駅前で待ち合わせするって電話してたな」

 

 次の瞬間、部室の空気が凍りついた。

 

 三人の視線が、一斉にモーリへ向けられる。

 

 そして、ほんの一拍の沈黙の後。

 

「えっ、それ確定情報じゃないですの!?」

 

 タケダがテーブルをバンッと叩きながら立ち上がった。

 

「ちょ、モーリ、それもっと早く言えよ!」

 

 ムラナカも椅子を引き寄せながら前のめりになる。スズモトでさえ、目を見開いてこちらを見つめていた。

 

 モーリは少しだけ後悔しながら、言い訳の言葉を探した。

 

「いや、まあ、ただの待ち合わせだろ? 仕事の打ち合わせかもしれないし」

「それ、どんな感じで話してたんだ?」

「どんなって、普通に敬語だったよ」

「敬語!」

 

 タケダが手を組み、目を輝かせる。

 

「それはつまり、相手は目上の人か、ビジネス関係の人の可能性が高いということですわぁ! もしくは! 友達以上恋人未満の微妙な関係!」

「だから、そういう仕事関係の打ち合わせだったんじゃないのか?」

 

 モーリが肩をすくめると、ムラナカが腕を組んで唸る。

 

「でもさ、ビジネス関係の打ち合わせを、わざわざ駅前でするか?」

「うーん」

「いや、ちょっと待ってくださいませぇ!」

 

 タケダが勢いよく手を挙げる。

 

「これはもう、当日現場で確認するしかないですわぁ!」

「は?」

「土曜日、駅前で先生が誰と会うのか、直接見ればすべてが明らかになりますぅ!」

 

 タケダの瞳が輝いている。ムラナカも興味をそそられたのか、口元に手を当てながら頷いた。

 

「確かに、それなら白黒はっきりするな」

「いや、別に俺はそこまで興味ないし……」

 

 モーリが抵抗しようとすると、スズモトが静かにため息をついた。

 

「モーリ君、今更もう遅いよ」

「……え?」

 

 スズモトはくすりと笑いながら、さらりと言った。

 

「もう決定事項だから」

 

 モーリは頭を抱えた。

 

 

 

 

 土曜日の昼下がり、駅前は週末の賑わいを見せていた。

 家族連れや買い物客が行き交い、カフェのテラス席にはのんびりとした雰囲気が漂っている。

 

 そんな中、モーリたち四人は少し離れた場所から駅前の様子を窺っていた。

 

「……本当にやるのか?」

 

 モーリは腕を組みながらため息をつく。

 

「当然ですわぁ!」

 

 タケダがやる気満々で拳を握る。

 

「これで真相が明らかになりますの!」

「いや、そもそもこんなことしてバレたら、先生に怒られるだろ……」

「バレなければ問題ありませんわぁ」

 

 タケダはにっこりと微笑み、スズモトは苦笑しながら肩をすくめた。

 

「まあ、せっかくここまで来たんだから、見届けるくらいはいいんじゃない?」

「スズモトまで……」

 

 モーリは再びため息をつく。

 

「ほら、そろそろ時間じゃね?」

 

 ムラナカが腕時計をちらりと見た。

 

 モーリも視線を駅の入口へ向ける。

 

 そして、その瞬間だった。

 

「……いたぞ」

 

 モーリの静かな声に、全員の視線が一斉にそちらへ向かった。

 

 ライモン駅の改札を抜け、待ち合わせ場所らしきベンチへと向かってくるのは──

 

 サイトーだった。

 

 しかし、そこにいたのはいつものジャージ姿の体育教師ではない。

 

 黒のジャケットにシャツを合わせ、シンプルながらも洗練されたコーディネート。

 ジャージのときとはまるで印象が違い、スラリとした長身がより際立っていた。

 

 周囲を歩く人々の中でも、ひときわ目立つ存在感。

 

 その姿を見た瞬間、四人の間にざわめきが走る。

 

「おおお……!?」

 

 ムラナカが思わず声を漏らす。

 

「な、なんか……すごくキマってますわぁ!」

 

 タケダが目を輝かせる。

 

「いや、流石にデートにスーツはないだろ……」

 

 モーリは困惑しながら呟いた。

 

「でも、わたくしのお母様もお見合いのときにこのような感じだったらしいですぅ!」

「一回お母さんに会わせてもらえる?」

「ムラナカさんは大胆ですぅ!」

 

 タケダが慌てて手を振る。

 

 そのやり取りの間も、サイトーは待ち合わせ場所に立ち、携帯を取り出して何かを確認していた。

 

「……本当にデートじゃないよな?」

 

 モーリがぼそっと呟く。

 

 しかし、その疑問が確信に変わるのは、次の瞬間だった。

 

「……来たぞ」

 

 スズモトが小さく言う。

 

 視線の先、一人の男がサイトーに向かって歩いてくる。

 

 長身でスラリとした体型。

 落ち着いた雰囲気を持ち、シンプルなシャツとコートをスマートに着こなしている。

 どことなく知的な印象を与える、爽やかな男だった。

 

 そして、サイトーの前で足を止めると、自然な仕草で微笑んだ。

 

「お待たせしました」

 

 そう言って差し出された手を、サイトーが握り返す。

 

「いえ、こちらこそ」

 

 穏やかに応じるサイトー。

 

 周囲の雑音が、一瞬遠のいた気がした。

 

「……えっ?」

 

 モーリたちは思わず顔を見合わせる。

 

「な、なんか……本当にデートみたいな雰囲気なんですけど……」

 

 タケダが戸惑いながら言う。

 

「……これ、どういうことだ?」

 

 ムラナカが腕を組み、状況を整理しようとする。

 

「やばい、思った以上にすごい展開になってきた……」

 

 モーリは額に手を当てた。

 

 しかし、彼はそれ以上に別のことが気になっていた。

 

 あの男、どこかで見たことがある気がする。

 

 確信があるわけではない。記憶のどこかに、彼と似た雰囲気を持つ人物がいたような気がする。

 だが、それが誰なのか、どこで見たのかまでは思い出せなかった。

 

「でも、普通に考えたら、やっぱり仕事関係の人じゃない?」

 

 スズモトが冷静に分析する。

 

 しかし、目の前の光景はどう見ても「ビジネスミーティング」には見えない。

 

 待ち合わせて、握手を交わし、微笑みながら喫茶店へと向かう二人。

 

 その姿は、まさに。

 

「先生、まさか……本当に!?」

 

 タケダの目がキラキラと輝く。

 

「いやいや、まだ決めつけるのは早い!」

 

 ムラナカが慌てて制止する。

 

「とにかく、様子を見よう」

 

 モーリは静かに言い、三人は頷いた。

 

 こうして、四人の「張り込み」は、次のステージへと進むことになった。

 

 

 

 

 サイトーと男は、駅前にある落ち着いた雰囲気の喫茶店へと入っていった。

 店の外には、テラス席がいくつか並んでおり、すでにカップルや家族連れが席についている。

 自動ドアの向こうに消えていく二人の姿を見届けると、モーリたちは顔を見合わせた。

 

「……どうする?」

 

 ムラナカが小声で尋ねると、タケダが即答する。

 

「もちろん、ついて行きますわぁ!」

「やっぱりそうなるか……」

 

 モーリは深くため息をついた。

 

「でも、どうやって入るの? さすがに先生たちと同じテーブルには座れないでしょ」

 

 スズモトが冷静に指摘する。

 

「ふむ、それは確かに……」

 

 タケダが腕を組んで考え込む。

 

「とりあえず、店に入ってから考えようぜ」

 

 ムラナカがそう言って、先陣を切るように喫茶店のドアを開けた。

 モーリたちもそれに続く。

 

 店内は落ち着いたジャズが流れ、柔らかい照明が心地よい雰囲気を醸し出していた。

 窓際の席では、すでにサイトーと男が向かい合い、何かを話し始めている。

 

 モーリたちは、できるだけ自然な動作を装いながら、一番遠くの席へと向かった。

 店員が水を持ってきたところで、タケダが小声で言う。

 

「で、どうやって話を聞くんですの?」

「普通にしてたら、さすがに声は届かないよな……」

 

 ムラナカがメニューを開きながら呟く。

 

「ポケモンさんに協力してもらいましょう」

 

 タケダがそう言うと、ケッキングのモンスターボールを取り出した。

 

「いや、何させる気だよ」

 

 モーリが即座に止める。

 

「ケッキングは優れた聴力を持ってますの! ちょっと指示を出せば、あの人たちの会話を聞き取ることも可能ですわぁ!」

「ダメに決まってるだろ」

「じゃあ、どうやって聞くんですの?」

 

 モーリはタケダの無茶ぶりに頭を抱えながら、ふとメニューの影からサイトーたちをちらりと見た。

 二人はすでに何かの話をしているようだった。

 

「いや、待て。静かにしてたら、ちょっとは聞こえるかもしれない」

「よし、じゃあとりあえず注文しとくか」

 

 ムラナカが店員を呼び、適当にコーヒーやジュースを頼む。

 その間、モーリはできるだけ自然にサイトーたちの席へと意識を向けた。

 

 そして、ようやく聞こえてきた会話の断片。

 

「……大学リーグの……」

「……今年の優勝候補は……」

「……モーリ君……」

 

 モーリは思わず、指がピクリと動く。

 

 今、俺の名前が出たか?

 

 スズモトもそれに気づいたのか、ちらりとモーリを見た。

 

「……推薦枠の……」

「……選抜試験……」

 

 それを聞いた瞬間、モーリの背筋に軽い衝撃が走った。

 

 推薦枠? 選抜試験?

 

 何のことだ?

 

「……試合を見させてもらいましたが……」

「……今後の進路について……」

 

 聞こえてくる単語を繋ぎ合わせながら、モーリの思考がぐるぐると回り始める。

 サイトーが何かの推薦について話している。

 しかも、それに俺の名前が出てきた。

 

 そんな話、聞いたことがない。

 

 モーリはじわりと手を握る。

 

 何かが、勝手に進んでいる気がした。

 

「モーリ君、どうしましたの?」

 

 タケダが小声で尋ねる。

 

「いや、なんでもない」

 

 モーリは表情を変えずに答えた。

 

 しかし、その胸の内には、確かな違和感が広がっていた。

 

 

 

 

 モーリの思考は、じわじわとまとまりのつかない違和感に支配されていた。

 推薦枠。選抜試験。進路。

 それらの言葉が、自分に関係しているとは考えてもいなかった。

 

 確かに、インターハイ個人戦ベスト8という結果を残したが、それが推薦に結びつくなどとは想像もしていなかった。

 サイトーは、その話をずっと知っていたのか?

 もしそうなら、なぜ一言も俺に話してくれなかったのか?

 

 モーリが拳を握りしめたまま考え込んでいると、不意に。

 

「……あら?」

 

 ピチャッ、と水の跳ねる音がした。

 

 モーリが顔を上げると、タケダが不安げな表情でグラスを見つめていた。

 テーブルの上に広がる水のシミ。タケダが手を滑らせ、コップを倒してしまったらしい。

 

 嫌な予感がする。

 

 案の定、店内に響く 「あっ……」 というタケダの声。

 すぐさま慌ててナプキンを掴むが、すでに手遅れだった。

 

 静かだった店内に、小さなトラブルに対する注目が集まる。

 

 そして、あろうことか。

 

「……おい」

 

 聞き覚えのある低い声が、モーリたちの方向から響いた。

 

 モーリは恐る恐る顔を上げる。

 

 サイトーが、こちらを見ていた。

 

 完全に目が合った。

 

「うわ……」

 

 ムラナカが静かに顔を伏せる。

 スズモトは小さく肩をすくめ、モーリはその場で思考をフル回転させる。

 

 いや、まだバレたとは限らない。偶然ここに来ただけ、という言い訳が。

 

「尾行がバレてしまいましたぁ!」

 

 はい、バレました。

 

 サイトーがゆっくりと席を立ち、こちらへ向かって歩いてくる。

 その隣では、その男が興味深そうにモーリたちを見ていた。

 

「え、ええと……」

 

 タケダが動揺しながら言葉を探す。

 

「ちょっと……あの……お茶を……」

 

「……張り込みか?」

 

 サイトーの鋭い指摘に、全員が硬直した。

 

 完全にバレている。

 

 ムラナカは「逃げる?」という視線をモーリに送るが、どう考えても無理だ。

 スズモトは諦めたように、素直に告白することを決めたらしい。

 

「すみません。先生が誰と会ってるのか、ちょっと気になっちゃって……」

「ちょっと?」

 

 サイトーが腕を組み、じっとスズモトを見る。

 

 スズモトは笑顔を崩さず、タケダは目を泳がせ、ムラナカは静かに黙っている。

 モーリは深く息を吐いた。

 

「すみませんでした」

 

 頭を下げる。

 さすがにここまで来たら、言い訳のしようがない。

 

 サイトーはしばらくじっと彼らを見ていたが、やがて深い溜め息をついた。

 

「お前らなぁ」

 

 そう言って、呆れたように眉を寄せる。

 

 そして、ゆっくりと横に立つ男へと視線を向けた。

 

「しょうがねえな、紹介するよ」

 

 そう言って、サイトーは彼を指し示した。

 

「タマムシ大学ポケモンバトル部の監督、トートクさんだ」

 

 その瞬間、モーリたちの間に驚きが走る。

 

「タマムシ大学……?」

「って、あの名門の!?」

「え、マジで!?」

 

 モーリは一瞬、息を飲んだ。

 

 タマムシ大学。

 カントー地方の名門大学であり、ことポケモン研究の分野においては国内トップレベルと言っても過言ではない。

 そこのポケモンバトル部監督が、なぜサイトーと。

 

「初めまして。タマムシ大学ポケモンバトル部の監督をしております、トートクです」

 

 静かで落ち着いた声。

 その態度からは威圧感はなく、むしろ親しみやすさすら感じる。

 

「今日はサイトー先生と、推薦について正式な確認をさせていただいていました」

「推薦?」

 

 モーリは思わず聞き返した。

 

 トートクは軽く頷き、続ける。

 

「はい。ライモン高校のモーリ君に対して、タマムシ大学として正式な推薦枠を検討しているところです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、モーリの心臓が大きく跳ねた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいませぇ!? モーリ君が、タマムシ大学に!?」

 

 タケダが驚きの声を上げる。

 

 ムラナカも信じられないというように口を開く。

 

「いやいや、そんな話、今初めて聞いたんだけど」

 

 モーリが戸惑いながら言うと、サイトーが腕を組みながら言った。

 

「そりゃそうだ。まだ話す段階じゃなかったからな」

「でも、推薦って、俺に?」

「そうだ」

 

 サイトーは真剣な表情でモーリを見る。

 

「お前のこれまでの実績を評価して、大学側が正式に推薦枠として考えてる」

 

 モーリは何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。

 

「もちろん、無理に行けとは言わん。でも、お前の今後を考える上で、こういう道もあるってことを知っておいてほしい」

 

 モーリは、ゆっくりと視線を落とした。

 頭の中で、いくつもの考えが交錯する。

 

 タマムシ大学の推薦。

 自分の未来。

 気づけば、彼の拳は静かに握りしめられていた。

 

「モーリ」

 

 サイトーが静かに言った。

 

「お前もそろそろ、進路について考えろよ」

 

 喫茶店の静かな空気の中で、その言葉は深く響いた。

 

 そして、モーリは初めて、真正面からその問題に向き合うことになった。

 

 

 

 

 喫茶店の空気が、どこか張り詰めたものへと変わっていた。

 

 サイトーの言葉を聞いた後、モーリはしばらく言葉を発せずにいた。

 タマムシ大学の推薦枠。

 その事実を突然突きつけられ、思考がまとまらないまま沈黙する。

 

 そんなモーリをじっと見つめていたトートクは、やがて微笑みながら口を開いた。

 

「少し、話せるかな?」

 

 落ち着いた口調だった。

 モーリは少し戸惑ったが、スズモトやムラナカ、タケダが静かに頷くのを見て、深く息を吐いた。

 

「はい」

「それじゃ、少しだけ席を移ろうか」

 

 そう言って、トートクは喫茶店の奥にある静かなカウンター席へと歩いていく。

 モーリもそれに続いた。

 

 カウンター席に腰を下ろすと、トートクはゆっくりとコーヒーを口に運び、落ち着いた視線をモーリへ向けた。

 

「まず、突然の話で驚かせてしまったことを謝るよ」

「いえ」

「ただ、君のことは以前から注目していたんだ。カントー出身で、ジムバッジを七つ所持。インターハイ個人戦でベスト八入り。それだけの実績を持っていれば、大学側が興味を持つのは当然のことだよ」

 

 モーリは、その言葉を受けながら、慎重に言葉を選ぶ。

 

「でも、俺は、特に大学でポケモンバトルをやろうと思っていたわけじゃなくて……」

「そうだろうね」

 

 トートクは柔らかく頷く。

 

「だからこそ、君自身の気持ちを知りたい。君は、これからどうしたいと思っている?」

 

 モーリは、口を開こうとして、しかし何も言えなかった。

 どうしたいか。

 

 その問いに、即答できる自信がなかった。

 

「正直、まだ考えたことがなかったです」

 

 ようやく絞り出した言葉だった。

 

「そうか。それは、別に悪いことじゃない」

 

 トートクは静かに微笑む。

 

「未来は、急いで決めるものじゃないからね。でも、可能性はできるだけ多く知っておくべきだと思う」

 

 モーリは、トートクの言葉をじっと聞いていた。

 

「タマムシ大学のポケモンバトル部は、リーグほどの規模を持つ組織ではない。大学のポケモンバトルは、プロリーグとは異なり、学業と両立する形で行われるものだ。それでも、近年は研究目的やフィールドワークでのバトル能力の重要性が高まってきている。だからこそ、実力のあるトレーナーの需要が大学の中でも増えているんだ」

 

「研究目的のバトル?」

「そう。フィールドワークでのポケモン調査や、企業との共同研究でも、実際にバトルの技術が求められる場面が増えている。そのため、大学としても、一定のバトル能力を持つ学生を確保する必要があるんだ」

 

 モーリは静かに話を聞きながら、少しずつ状況を理解し始める。

 

「でも、そういう人なら、普通にリーグや企業に行くんじゃないですか?」

「その通りだ」

 

 トートクは頷く。

 

「ジムバッジを七つ、八つ持つことができる実力者の多くは、リーグや企業へと進む。だからこそ、大学が確保できる現役学生でジムバッジを多く持つ者は、非常に稀なんだ。君のような存在は、大学側にとって貴重なんだよ」

 

 モーリは、トートクの言葉の意味をじっくりと噛みしめた。

 

「タマムシ大学としては、君がうちのバトル部に入るなら、君のジムチャレンジを全面的にサポートするつもりだ。リーグに挑戦することもできるし、その間に学業を並行して行うことも可能になる」

「ジムチャレンジのサポート?」

「そうだ。君が大学に在籍しながら、ポケモンリーグを目指すこともできる。大学としても、実力のある学生がリーグに挑むのは、競技としての価値を示す良い機会になる。だから、サポートを惜しむつもりはないよ」

 

 モーリは、トートクの言葉を反芻するように何度も心の中で繰り返した。

 

 大学で学びながら、ジムチャレンジを続ける。

 リーグにも挑戦できる環境。

 

 これまで考えたことのなかった道が、目の前に示された気がした。

 

「もちろん、君がどう決めるかは自由だよ。ただ、進路についてじっくり考える時間はある。推薦試験は来年だから、それまでに決断すればいい」

「来年」

 

 モーリは小さく呟いた。

 

 まだ時間はある。

 けれど、それは遠い未来の話というわけでもない。

 

「モーリ君」

 

 トートクが静かに名前を呼ぶ。

 

「君は、これからどうしたい?」

 

 モーリは、カウンターの木目をぼんやりと眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

「考えてみます」

 

 それが、今のモーリに言える精一杯の言葉だった。

 

 トートクは静かに微笑み、コーヒーをもう一口飲んだ。

 

 モーリの選択が、ここから始まる。

 

 

 

 

 喫茶店を出ると、夕方の空気が少しひんやりと肌を撫でた。

 

 昼間の賑わいが落ち着き始めた駅前で、モーリたちはゆっくりと歩きながら帰路につく。

 タケダとムラナカは、先ほどの話に興奮冷めやらぬ様子だった。

 

「しかし、まさかモーリ君が大学推薦をもらえるとは!」

 

 タケダが両手を組みながら、嬉しそうに言う。

 

「すごいよなぁ。普通ならリーグとか企業に行っちまう奴ばっかなんだろ? そんな中で大学が注目するって、やっぱモーリはすげえんじゃね?」

 

 ムラナカも感心したように頷く。

 

「そもそも、大学でバトルできるなんて、考えたこともなかったですわぁ! それも学業と両立しながらジムチャレンジのサポート付きなんて……もう完璧じゃないですの!」

 

「いや、でもさ……」

 

 モーリが何かを言いかけると、タケダがすかさず続けた。

 

「推薦が来るってことは、モーリ君ならそれだけの価値があるってことですわぁ! これはもう、行くしかないですの!」

 

 モーリは曖昧に笑いながら、「そうだな」とだけ答えた。

 

 恵まれた選択肢。

 

 それは間違いない。

 大学のバックアップを受けながら、ジムチャレンジも続けられる。

 タマムシ大学の推薦枠を得られることは、確かに素晴らしいチャンスだ。

 

 けれど、どうしてだろう。

 

 心の奥に、何かが引っかかっていた。

 

 スズモトは、そんなモーリの様子に気づいていた。

 

 彼がいつもなら少しは照れくさそうにしても、嬉しそうにする場面なのに。

 今日はどこか、ぼんやりとしているように見える。

 

「モーリ君、嬉しくないの?」

 

 スズモトがそっと尋ねると、モーリはわずかに表情を動かした。

 

「いや、嬉しくないわけじゃない。恵まれた話だってのは分かってる」

「でも、なんか引っかかる?」

 

 モーリは少しだけ目を伏せ、歩く速度を落とした。

 

「なんか、俺のイメージしてた『ポケモントレーナー』とは違う気がするんだよな」

 

 スズモトは、彼の言葉の意味を考えながら黙って歩く。

 

「俺にとってポケモントレーナーってさ……もっと“無頼”で、“冒険”で、“刹那”なものだったんだよ」

 

 モーリの言葉は、どこか自分に言い聞かせるような響きを持っていた。

 

「無頼……冒険……刹那……?」

 

 スズモトが繰り返すと、モーリは小さく笑う。

 

「自分の信じる道を突き進む、自由で、予測不能で、今この瞬間を全力で生きる……そんな感じだよ」

 

 スズモトは、モーリの言葉にじっと耳を傾けた。

 

「大学に行って学びながらバトルするっていうのは、確かに安定してるし、悪い話じゃない。でも、俺の思い描いてた“トレーナー”とは、なんか違う気がしてさ」

 

 モーリはポケットに手を突っ込み、ふっと夜空を見上げる。

 

「大学で学ぶっていうのは、すごく合理的なんだよな。でも、それって俺に合ってるのか、よく分からないんだ」

 

 スズモトは、何も言わずにモーリの隣を歩き続けた。

 

 彼の気持ちは分かる気がした。

 モーリは、型にはまることを嫌う性格だ。

 自由で、感覚的で、だからこそトレーナーという生き方に惹かれている。

 

 そんな彼が、大学という「決められた道」を与えられて、戸惑わないはずがない。

 

 それに、もうひとつ。

 

 スズモトは、無意識に自分の胸のあたりを軽く押さえた。

 

 モーリがもしタマムシ大学に行くとしたら、遠くに行ってしまうのかもしれない。

 

 当然のことだ。

 進路が変われば、今の生活も変わる。

 

 でも、それが思っていたよりもずっと現実味を帯びた瞬間、スズモトは少しだけ息苦しさを感じた。

 

「まあ、まだ時間はあるんだろ?」

 

 モーリがふっと笑いながら、スズモトの方を見る。

 

「とりあえず、じっくり考えてみるよ」

 

 スズモトは一瞬言葉を詰まらせたが、やがて小さく微笑んだ。

 

「うん。モーリ君が納得できる選択をしてほしい」

「ああ」

 

 そう言いながらも、モーリの心はまだ答えを見つけられずにいた。

 

 タマムシ大学の推薦という『恵まれた道』

 

 そして、自分が思い描いていた『自由』

 

 俺は、どっちに進みたいんだろうな。

 あるいは進めるのだろうか

 

 その答えはまだ、霧の向こうにあった。




次回4/25 18:01予定

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