『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~ 作:rairaibou(風)
冬の夕暮れは、思ったよりも静かだった。
高架を走るリニアの窓から見えるのは、雪が消え残る歩道、街路樹に結ばれたままのクリスマスのリボン。
大通りの端にはイルミネーションの名残がちらほらと残っていて、赤や青の電球がまだ点いたまま瞬いていた。
年の瀬。町が慌ただしさを纏う一方で、車内は落ち着いた暖かさに包まれていた。
乾燥した空気とヒーターのぬくもりが入り混じり、どこかまどろむような匂いが漂っている。
☆
リニアの車内は、静かだった。
冬休みも終盤に差し掛かり、乗客の姿はまばらだ。指定席の列には誰も座っていない車両もある。
モーリは通路側の席に腰を下ろし、隣の窓際にブニャットを座らせていた。
膝に乗せるには重すぎる六十キロを超えるこの相棒は、冬用のコートを着込んだ人間よりもどっしりとしていて、座席のクッションをいびつに沈ませていた。
それでも、ブニャットは何か文句を言いたげに鳴くこともなく、窓の外をじっと見ている。
車窓に流れるのは、葉を落とした街路樹、光の消えた看板、雪が中途半端に積もった道路。都会のすぐ外側にある、どこか寂れた景色だった。
暖房が効いている車内は、少しだけ眠気を誘う温度だった。
そのせいか、隣でブニャットが小さくまばたきをして、鼻先をシートに預けている。
去年の冬、モーリは帰らなかった。
別にトラブルがあったわけじゃない。ただ、なんとなく、必要を感じなかった。家に戻る理由がなかった。
けれど今年は、違う。
理由が、ある。
話さなければいけないことがあった。
リニアの電子案内が『ヤマブキシティ、まもなく到着です』と告げた。
モーリは足元に置いたカバンの取っ手に手をかける。ブニャットがわずかに顔を上げる。
大学の推薦の話が、頭の中に浮かぶ。
タマムシ大学、名の知れた、安定した進路。先生たちも、部のメンバーも、あるいは家族も、きっと「良いこと」だと口を揃えて言うだろう。
だけど、自分はまだ、それを「良いこと」だと信じきれていなかった。
モーリは小さくため息をついた。
駅が近づくにつれて、ブニャットの耳が少し動いた。彼も、空気の変化を感じているのかもしれない。
もうすぐ到着する。
帰りたかったわけじゃない。でも、行かなくちゃならなかった。
☆
駅を出たところで、母親が手を振っていた。
毛糸の帽子に厚手のコート。冬らしい格好をした母・エミは、モーリを見つけるといつも通りの声で言った。
「モトマサ、おかえり!」
少しだけ手を上げて応える。ブニャットが母を見上げて、短く鼻を鳴らす。
「ふふっ。ブニャットもおかえり。変わらず丸いね」
「まあ、な」
駅前の風は冷たくて、アスファルトの影には霜が残っている。
歩き出してすぐ、エミが笑いながら言った。
「夏にも会ったけど、やっぱり、年越しで帰ってきてくれると違うね」
「うん」
短く答えながら、モーリはポケットの中で手を握った。
道すがら、エミはいくつか近所の話をしていた。
新しくできたスーパーの話。向かいのマンションに引っ越してきた若い夫婦の話。
モーリはそのどれにも、うなずくだけだった。
会話が途切れても、エミはとくに気まずさを見せるわけではない。むしろ、そういう沈黙には慣れている様子だった。
実家のマンションに着くと、エントランスの飾りが正月仕様に変わっていた。しめ縄と門松。小さなダルマッカの置物もあった。
鍵を開けてドアを開くと、懐かしい空気が流れ込んでくる。
ファンヒーターの香りと、少し乾いた室内の匂い。家具の配置も、廊下の壁の小さな傷も、昔のままだった。
「ただいま」
靴を脱ぎながら言うと、すぐ近くから返事が返ってきた。
「おかえり、モトマサ」
エミの声は変わらない。
リビングの方からは、テレビの音が聞こえていた。
ドアの奥、ソファにもたれかかっている父、モトハルが、チラリとこちらを見て一言だけ言う。
「おう」
それだけ。
けれど、モーリは特に気にする様子もなく、軽くうなずいて通り過ぎた。
ブニャットが玄関からまっすぐリビングの隅へ向かっていく。
その先には、まるくなって眠っていたコラッタがいた。
ブニャットが鼻を近づける。コラッタが目を開け、しばらく見つめ合う。
やがて、二匹は何も言わずに、そのまま並んで座った。
モーリは、その様子を少しだけ離れた場所から見ていた。
気づけば、ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
夏にも来た家。
でも、今日は少しだけ違う気がした。
空気の温度でも、家具の配置でもなく。
自分がここに何をしに来たかを、ちゃんと知っているから。
モーリはブニャットに目を向けた。
ブニャットは、何かをわかっているような、そうでもないような顔で、じっとテレビの音に耳を傾けていた。
☆
食事が終わったリビングには、湯気の残る湯のみと、こたつのぬくもりと、テレビの音だけが残っていた。
年末特番の、スポーツ名場面集。誰がいつ勝ったかを並べ立てる実況の声が、壁にぶつかってしずかに広がっていく。
モーリは湯のみを両手で包んだまま、言葉を探していた。
目の前に座る母、エミは、優しく笑みを浮かべて彼を見ている。父、モトハルはこたつの端でテレビを見ていたが、実際に画面を見ているかどうかは分からない。
「推薦の話、サイトー先生から聞いたよ」
エミの声はあくまで明るく、誇らしげだった。
「タマムシ大学だなんて、すごいじゃない。がんばってきたもんね」
モーリは、軽くうなずいた。
けれど、その一言を押し出すのに、想像以上の力がいった。
「うん」
そのまま湯のみの縁を親指でなぞる。何か言わなければと分かっていながら、言葉がすり減っていく。
「でも、まだ、決めたわけじゃないから」
ふと、こたつの端で丸まっていたブニャットが寝返りを打った。
その動きに助けられるように、モーリは視線を床に落とす。
「そうなの?」
エミの声は、少しだけ驚いていた。
ただし、それは責めるようなものではない。ただ純粋に『意外』と思っただけのような声音だった。
モーリは、言葉をつなげることができなかった。
何が引っかかっているのか、自分でも正確には分からない。ただ、胸の奥に冷たい違和感があった。
リーグに向かって突き進んでいた自分が、その実績で大学に推薦されている。
まるで、理想と正反対の方向に、静かにスライドしていくような感覚。
モーリは、リーグトレーナーという存在を、かつて『孤高』だと思っていた。
どこか無頼で、型にはまらず、自らの信念だけを道しるべにするような生き方。
そんな姿に憧れていたのに。
推薦、『評価されたこと』のはずなのに、それがどこか、ぬるく、決められたルートに感じてしまう。
そのとき、モトハルが湯のみを置いた音が、カタン、とテーブルに響く。
テレビの音も、母の視線も、その瞬間に静止した。
「お前がバトルで、あのタマムシ大学から声をかけられた」
声は低く、そして慎重だった。
「私からすれば、それだけで立派なことだ」
その言い方に、モーリはわずかに眉を動かした。
父が自分の過去を語ることは、滅多になかった。
けれど、今の言葉の中には、それが含まれていた。
父もまた、かつてはバトルで生きようとしていた。
そして、自分の父、つまりモーリから見れば祖父の期待に、最後まで応えられなかったことを、モーリは知っている。
学業の道に進み、手堅く人生を立て直した父は、それでもずっとどこか距離を置いたままバトルと向き合っていた。
「私は、そういう目でお前を見ることはない」
その言葉は、思った以上にやさしかった。
責めるものでも、突き放すものでもない。ただ静かに、そこに置かれた言葉。
けれど。
モーリの中に、その言葉は少しだけ深く突き刺さった。
まるで、自分の中の後ろめたさ、中途半端な実力で、誇りを持てないまま推薦を得たこと、を、すべて見透かされたような気がした。
何も返せなかった。
ただ湯のみの湯気だけが、じっと、手の中で揺れていた。
「夏までには、決めるつもり」
ようやく絞り出した声に、父は頷いたかどうか分からない。
湯のみを手に取り、何も言わずに口をつけた。
エミは、柔らかく笑っていた。
「モトマサが納得できる答えを選べば、それでいいと思うよ」
テレビでは、誰かのバトルシーンが流れていた。
鮮やかなフィニッシュブローに、観客が湧き上がる。実況が熱を帯びる。
けれど、ソファにいる三人の中で、それを見ていた人間はいなかった。
モーリは、ただブニャットの寝息を聞いていた。
☆
扉を開けたとき、ほんのわずかに空気が揺れた。
その中に、かすかに埃の匂いが混じっていた。
モーリの部屋は、あの夏に来たときと何も変わっていなかった。
壁に貼られたままのカレンダー。使われていないデスク。メモを挟んだままの棚。
ポケモンリーグのポスターだけが、時間の重みに耐えられなかったのか、端がめくれていた。
電気をつけると、淡いオレンジの明かりが部屋全体を照らした。
その光の中で、モーリは引き出しを一つ開ける。
中から出てきたのは、旅用のパスケースだった。
表面の合皮はすり減り、角の縫い目が少しほつれている。
最初の旅に出たときから、ずっと使っていたものだった。
手のひらで包み込むと、体温でわずかに柔らかくなった。
無言のまま、それを机の上にそっと置く。
あの頃は、どこへでも行ける気がしていた。
目的地のことなんて、ろくに考えたこともなかった。ただ「進んでいれば大丈夫だ」と信じていた。
今、その感覚は少し遠くにある。
進む先は、いくつもあるように見えて、どれも決め手に欠けている気がする。
選ぶことが、進むこととイコールじゃない、そんな風に思う自分がいる。
机の端に腰を下ろして、モーリはゆっくりと息を吐いた。
この部屋は変わっていない。
けれど、自分は少しだけ変わったのかもしれない。
廊下の方から、意外と軽い足音が聞こえたかと思うと、ドアがゆっくり押し開けられた。
ブニャットだった。
当然のように入ってきて、何の躊躇いもなくベッドの上に飛び乗る。
その重さにマットレスが大きく沈む。ブニャットはモーリに一瞥をくれただけで、さっさと丸まり始めた。
「お前な、もうちょっと人の部屋っぽい扱いしろよ」
文句のような、挨拶のような声だった。
ブニャットは返事もせず、ただ尻尾をひと振りして、それきり動かなくなった。
モーリは立ち上がり、明かりを少しだけ絞った。
蛍光灯の代わりに、机の端のスタンドだけをつけて、柔らかな影が部屋を包む。
「夏までには、な」
誰にともなく呟いた。
リビングで口にした言葉を、今度はもっと静かに、自分のためだけに繰り返した。
そのとき、ベッドの上で、ブニャットが軽くまぶたを開けた。
けれどすぐにまた、何事もなかったかのように目を閉じる。
言葉はいらなかった。
ブニャットが隣にいてくれること。それだけで、今夜は十分だった。
モーリはスタンドのスイッチを切った。
薄闇の中、静かな寝息が部屋に溶けていく。
カーテンの隙間から差す街の光が、床に揺れていた。
次回5/5 18:01予定
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