『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~ 作:rairaibou(風)
目が覚めたのは、いつもより少し遅い時間だった。
暖房の音が小さく唸り、カーテンの隙間から冬の光が差し込んでいる。
布団の中は心地よく、しばらくまどろみの中に身を沈めていたが。
衣擦れの音がした。
そして、かすかに漂う香水の匂い。甘さよりも、わずかにツンとするタイプの。
モーリは、嫌な予感がして、ゆっくりと目を開けた。
視界の先、部屋の椅子に腰かけていたのは、レイカだった。
「おはよ」
ロングコートのフードを外しながら、レイカは軽く髪をかき上げた。
濃いネイビーの厚手のコートに、黒いスキニーパンツ。首にはふわりとした白いマフラーが巻かれていて、手には毛糸の手袋。足元は滑り止め付きのショートブーツで固められている。
まさに、冬の冷え込みに正面から対抗する格好だった。
その着こなしは実用的であると同時に、どこか洗練されていた。まるで街中のショーウィンドウから抜け出してきたかのような、そんな雰囲気さえあった。
そしてその耳元で、雫型のピアスがゆらゆらと揺れている。
モーリは、一拍置いて布団を引き寄せる。
「どうやって入ってきたんだよ」
レイカは足を組みながら、淡々と言う。
「玄関から堂々と入ってきたわよ。お母さんが快くね」
モーリは、ため息をついた。
「母さん」
「まあ、仕方ないでしょ。あの人からすれば、私もあんたもガキなわけだし」
部屋の隅では、ブニャットがまだ丸まって寝息を立てていた。
その静けさが、なんだか妙に心強かった。
「帰れ」
レイカはわざとらしく驚いた顔をする。
「何よその反応。もっと『会いたかった』とか、ないの?」
「ない」
「ちぇっ」
レイカは不満げに口を尖らせてから、モーリの部屋を見渡した。
「久しぶりにあんたの部屋入ったけど、全然変わってないじゃん。ガキすぎるでしょ、ポスターもそのままじゃん」
「それ、言いに来たのかよ」
「違うわよ」
「じゃあ、何しに来たんだよ」
レイカはひょいと立ち上がり、モーリの机に置かれていたカバンをつつきながら言った。
「初詣にでも行こうかと思って」
その提案に、モーリはごろりと寝返りを打ちながら答える。
「はあ?」
「お互いに、願いたいこともあるでしょ?」
どこか挑戦的な笑みを浮かべて言うその表情は、あの旅の途中でも何度も見たことがあるものだった。
モーリは渋い顔をしたまま黙り込んだが、レイカは続ける。
「まだまだ寒いからしっかり防寒しなぁ」
「わかったよ、着替えるから出てけよ」
「なによ、見られて困るようなもん持ってないでしょ」
「うるせえよ!」
モーリが枕を投げると、レイカは笑いながらひょいと避けて、立ち上がった。
「はいはい、あと五分で玄関集合ねー」
そう言い残して、レイカは扉を開けて出ていった。
扉が閉まると同時に、モーリはため息をつき、天井を見上げた。
正月早々、落ち着かない一日が始まった気がしていた。
☆
冬の空は、抜けるように澄んでいた。
空気は冷たいが、陽差しは強く、アスファルトの上に延びた二人の影がくっきりと長く伸びている。
モーリとレイカは、住宅街を抜けた先にある小さな神社へ向かっていた。
街中の神社とはいえ、参道は木々に囲まれていて、風が吹くたびに枝がこすれ合う音が耳に心地よく響く。
レイカはモーリの一歩前を歩いていた。
濃い色のロングコートを着込み、裾は太ももあたりまでしっかりと覆っている。
手には分厚い毛糸の手袋、首元には白いマフラーが巻かれていて、足元はボア付きのブーツで固められていた。
その装いは、動きやすさよりも、冬の冷え込みに真正面から対抗するためのものだった。
彼女は、寒さに耐えるのではなく、それを拒絶するように服を選んでいる。
まるでこの季節そのものを、自分に近づけまいとしているかのようだった。
「やっぱ、あんたの家の近くって静かだね」
前を歩いていたレイカがふと振り返り、ポケットに手を突っ込んだまま言った。
「都心の神社だともうすごい人だし、何かしらやってるのに。こっちはなんにもない」
「それがいいんだろ」
モーリは短く返す。
ポケットに手を突っ込んだまま、地面の影を見つめるように歩いていた。
やがて鳥居が見えてきた。
参道には何組かの親子連れと、老夫婦の姿がある。
その老夫婦は、ニドキングを連れて歩いていた。
立派な体格のニドキングは、首にリードをつけられてはいたが、どこか腑に落ちないような顔をしていた。
「これはちがくねえか?」とでも言いたげに、時おりリードの端を目で見つめ、首を傾けている。
だが、パートナーたる老夫婦にとっては、それが当たり前の散歩スタイルなのだろう。ニドキングも最終的には諦めたように、その巨体を慎重に運んでいた。
石段の下で軽く会釈して通り過ぎていく人たちに、レイカは会釈もせず、軽く横を向いてスルーしていく。
「昔来たことあったっけ?」
「あー、一回だけ? あんたに連れられて」
「そうか」
石段を上り、境内に入ると、静けさが一段と深まった。
吐く息が白く、砂利の上を歩く音がやけに大きく響く。
鈴の音や柏手の音が、ときどき風に乗って届いてくる。
レイカは軽やかな足取りで手水舎に向かい、水をすくって手を清めた。
「ひえぇ冷たい」
モーリもそのあとに続く。
参拝の列は短く、すぐに順番が回ってきた。
二人は並んで立ち、賽銭を入れ、鈴を鳴らす。
モーリは手を合わせながら、ふっと息をついた。
視線の先でレイカも手を合わせている。
ただ、彼女の目は閉じていなかった。
まっすぐに、前を見ていた。
そしてその横目で、モーリの横顔をじっと見ていた。
☆
参拝を終えたあと、二人は無言のまま境内を出た。
鳥居をくぐり、再び住宅街に続くゆるやかな坂道を歩いていく。
冬の陽はまだ高く、雲一つない空を背景に、民家の屋根がくっきりと浮かんで見えた。
時折吹く風が冷たい。けれど、どこか乾いていて、嫌な冷たさではなかった。
モーリは両手をポケットに突っ込んだまま歩いていた。
その横を歩くレイカは、さっきまでよりも少しだけ無口だった。
静けさの中に、足音と小さな衣擦れだけが続く。
遠くで誰かの笑い声が聞こえて、それがすぐに風に流されていく。
「何お願いしたの?」
「無病息災」
「つまんな」
「そういうお前はどうなんだよ」
「決まってるでしょ八つ目のバッヂ獲得よ」
レイカは唐突に、ポケットから飴の包みを取り出し、口に放り込んだ。
そしてモーリに視線を向ける。
「おみくじ、引かないんだ」
モーリは少し遅れて、首を横に振った。
「別に、いらねえかなって」
「ふーん」
それだけ言って、レイカはまた前を向いた。
飴を転がす舌の動きが、口元にわずかに現れている。
そのまましばらく歩いた先に、小さな公園があった。
住宅街の合間にぽつんとあるような、小さな広場。ベンチが二脚並び、その奥には落葉した木が何本か、影を落としていた。
「座ってこうよ」
レイカがそう言って、先にベンチに腰を下ろす。
モーリはわずかに躊躇ってから、その隣に腰を下ろした。
二人の間に一人分の距離がある。
特に意味のないようでいて、どちらかが少しでも動けば、すぐに近くなるような距離だった。
レイカは飴の包み紙を小さく丸めてポケットに押し込み、唐突に言った。
「タマ大、推薦もらったんでしょ?」
モーリは一瞬、返事を忘れた。
その後、少しだけ眉をしかめたような顔で、彼女を見た。
「なんで知ってんだよ」
「お母さんがね」
レイカは、ふっと笑った。だがその目は笑っていなかった。
「嬉しそうに教えてくれたわよ」
モーリは小さく舌打ちしそうになって、それを飲み込んだ。
「母さん」
レイカは黙ったまま、上を見上げる。
空はまだ晴れている。けれど、風の中にほんのわずかに湿り気が混じりはじめていた。
そして、ぽつりとこぼすように言った。
「うまくやったよね」
それは、評価でも賛辞でもなかった。
むしろ皮肉めいた音のほうが濃かった。
モーリは返事をしなかった。
否定も肯定もしない。ただ、ベンチの下で軽く拳を握りしめる。
レイカは前を向いたまま、言葉を続けた。
「アタシと違って、あんたは頭がいいからさ。そういう生き方もできるんじゃない?」
モーリは、それに答えない。
「良かったじゃん。逃げた先に道があってさ」
モーリの肩が、ほんのわずかに動いた。
だが、それだけだった。言葉は返ってこない。
レイカはモーリの横顔をちらりと見て、眉をひそめた。
そして、声を強める。
「怒りなさいよ。嫌なこと言ってるんだから」
モーリは、それでもすぐには反応しなかった。
だけど、その次の瞬間、静かに口を開いた。
「いや、多分、俺もおんなじこと考えてたんだ」
「は?」
「お前の言うこと、わかるよ。いや、むしろ、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない」
レイカは一瞬、言葉を失ったように黙った。
モーリは視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「悩んでるんだ。それを受けるかどうか」
「あんた、それ本気で言ってんの?」
レイカの声には、怒りと、そして少しの戸惑いが混じっていた。
モーリは答えず、ただ小さくうなずいた。
それだけで十分だった。レイカには、それが本気だと伝わった。
レイカは信じられないという顔で、モーリを見つめている。
「自分が何言ってるか、わかってるの?」
モーリは、少しうつむいたまま、返事をしなかった。
だが、その沈黙がすべてを肯定している。
レイカは、かすかに唇をかみしめた。
そして、怒鳴るような声を吐き出す。
「馬鹿じゃないの!? 大学行きながらだってジムバッジは集められるし、だったらストレートでポケモンリーグに挑戦でもするの!?」
モーリは顔を上げた。
だがその表情は、怒ってもいなければ、拗ねてもいなかった。
ただ、困ったように笑っただけだった。
「何が良いことなのかわからないんだよ」
その言葉を口にしたあと、胸の奥で、重く冷たいものが転がる音がした。
誰かに理解されるつもりはなかった。けれど、それでも、言わずにはいられなかった。
「なんだか、そういう生き方って、まるで『保険』をかけてるみたいでさ」
レイカはその言葉に、わずかに表情を変えた。
「良いじゃない、保険。誰だってかけたいわよそんなの。……運良く、あんたにはその権利があっただけじゃない」
「そうだよ。運なんだ」
その瞬間、胸の奥に潜んでいた『ことば』が、ぽろりと落ちた気がした。
モーリは、自分でもそれが出てくるとは思わなかった。
だが、口が勝手に続けていた。
「逃げた先に、ポケモンバトル部があった。正直、地方のレベルは低くて、インターハイに出ることができた」
視線はまっすぐ地面を見ているのに、思い出しているのは別の時間だった。
最初の練習試合、戸惑いながら出した指示、ブニャットの眠そうな目。
懐かしさと居心地のよさと、でも『仮の舞台』のような感覚。
「ジム巡りっていう『貯金』を使って、ベスト八に残った。ただ、それだけなんだ」
言い切ったあと、冷たい空気が胸をなぞっていった。
そして、あのときの感情が再びよみがえる。
「それなのに、推薦の話が来た」
少し間を置いて、モーリは息を吐いた。
隣のレイカが、何も言わずにこちらを見ている気配を感じた。
「俺だって、馬鹿じゃない。あれがどれだけ『良い話』かはわかってる」
その瞬間、レイカと目を合わせることは出来なかった。
「ちゃんと勉強して、大学に入って、それなりの人生が待ってる。それくらいのことはわかってるよ」
言っていて、自分が自分じゃないような気がした。
それでも、これだけは正直に言わなければならなかった。
「だけどさ」
モーリは言葉を切り、ゆっくりと遠くを見た。
風が吹き、どこかで枝が擦れる音がした。
「卑怯じゃないか? それって」
わずかに、拳を握る。
「俺の実力は、いつまでも中途半端なままで。何も成せないままで、そういう道に行く。それって、本当に『良いこと』なのかよ」
モーリの言葉を聞き終えたレイカは、呆れたような、それでいてどこか傷ついたような目で彼を見ていた。
彼女はほんの一拍、息を止めた。
そして、叫ぶように言った。
「あんたやっぱりおかしくなっちゃったのよ。良いことじゃない、良いに決まってるわ、半端なあんたに、それなりによく生きる事ができる道が出来たのよ、それに飛びつかないなら、あんたは、あんたはどうしてポケモンリーグから逃げたのよ!?」
その声は、冷たい空気の中で鋭く響いた。
モーリは、すぐには答えられなかった。
それは、まさに彼自身が、いまだに自分に問いかけ続けている言葉だったからだ。
レイカの目は潤んでいた。
それを隠すように、彼女は立ち上がり、腰元に手を伸ばす。
「わかった」
その声は低く、淡々としていたが、はっきりと怒りと悲しみの温度を帯びていた。
「だったら、あんたのそのちっぽけなプライド、粉々にしてあげる」
レイカはモンスターボールをモーリの顔の前に突きつけた。
「すがるもの全部砕いて、勝手に幸せになればいい」
言葉を投げつけるのではなく、叩きつけるような口調だった。
モーリはその言葉に、すぐに返すことはできなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がり、腰元に手をやる。
モンスターボールに指が触れたとき、モーリはふと、今朝の光景を思い出した。
厚手のロングコートにマフラー、毛糸の手袋。しっかりと防寒されたブーツ。
彼にはわかる。
どこをどう見ても、それは『彼女が戦うための格好』ではなかった。
あいつ、今日戦うつもりじゃなかったんだ。
それでも、今この瞬間、レイカは目の前でモンスターボールを構えている。
髪は風でわずかに乱れていて、マフラーも少しずり落ちている。
感情が、彼女を先に動かしていた。そうとしか思えなかった。
受けなければ、ならないと思った。
そして、空を見上げる。
冬の陽は高く、抜けるような青空が広がっていた。
雲ひとつない。空気は乾き、風は冷たくも澄んでいる。
雨の気配なんて、どこにもなかった。
それでも、今からその空の下に、雨が降るのだとしたら。それは、ポケモンたちが選ぶ世界の話だ。
モーリはポケットの中のモンスターボールをゆっくりと握りしめた。
そして、言葉もなく、立ち上がる。
☆
雨が降り出した。
それは、空から落ちてきたものではなかった。
頭上には冬晴れの空が広がり、雲一つない青が街並みを照らしていた。
だが、バトルフィールドにだけ、不自然なほど均一に、冷たい雨が降り注いでいた。
ペリッパーが翼を広げて羽ばたいたその瞬間、空気が切り替わったのだ。
『あめふらし』その特性によって、現実とは異なる天候が、この場だけに現出する。
レイカは、濃い色のロングコートを着込んでいた。裾は太ももあたりまでしっかりと覆われており、足元にはボア付きのブーツ、手には分厚い毛糸の手袋、首には白いマフラーがふわりと巻かれている。
だが、いま、彼女のその服は、容赦なく降る雨に濡れはじめていた。
ロングコートの肩から裾へ、雨粒が次々と染みていき、布地の色がじわりと濃く沈んでいく。
毛糸の手袋はすぐに水を含み、しとどに濡れた白いマフラーは、レイカの頬に張りついていた。
ボアのついたブーツも、土と水を吸って重たくなる。
このバトルは、彼女にとって、想定外だったのだ。
本当は、こんな場所で戦うつもりなんてなかった。
冷え込む日をやり過ごすために選んだこの服が、雨に打たれて変形していく様子は、そのまま彼女の感情の揺らぎを映しているようにも見えた。
レイカはマフラーを地面に投げ捨て、張り付く手袋も同様に放り投げる。
濡れた前髪を払い、表情を変えないまま、ペリッパーの背中を見上げる。
その目に宿るのは、もはや覚悟でも怒りでもなく、ただ流されるままに抗おうとする人間の、静かな意志だった。
対するモーリの足元では、ブニャットが雨に打たれながらも、眠たそうにあくびをしていた。
濡れることなど一切気にしないといった様子で、ふてぶてしく尻尾を揺らし、相手を見上げる。
静かに水音が落ちる中で、最初に動いたのはブニャットだった。
「『ねこだまし』」
ブニャットは、前足をふわりと浮かせる。
地面を蹴る音もなく、一気に距離を詰め、相手のくちばしを叩いた。
ペリッパーが羽を広げかけたその刹那、タイミングを奪われたように体勢を崩す。
初手の駆け引きは、わずかにモーリが取った。
「『みがわり』」
モーリの指示と同時に、ブニャットはくるりと身を引いた。
その場に、小さく光る影が立つ。雨を弾きながら、朧げな輪郭を保っている。
「『とんぼがえり』」
ペリッパーが羽を広げ、滑るような軌道で突っ込んでくる。
その体がぶつかる瞬間、身代わりの影が水煙のように吹き飛んだ。
命中はしたが、本体には届かない。
ペリッパーは反動のまま空中を旋回し、レイカの手元へと戻っていく。
そして、代わりに投げられたボールが、濡れた空気を切り裂いて弧を描いた。
鋼の羽音とともに現れたのは、赤い光沢を持つ鋼虫。
ハッサム。
鋭利な鋏が雨を弾きながら、静かに開閉している。
空気が、再び張り詰めていく。
「『バレットパンチ』」
ハッサムの鋏が、雨の中で赤く閃いた。
そのまま勢いを乗せて踏み込み、一直線にブニャットの影へと突き立てる。
刹那、鋏が叩きつけられた瞬間、ブニャットの前にあった淡い影が爆ぜるように弾けた。
小さく砕けた光が雨に混じって消え、『みがわり』が破壊される。
次の瞬間、残った本体がすかさず動いた。
「『いかりのまえば』」
ブニャットは濡れた地面を蹴り、すっとハッサムの懐に潜り込む。
わずかに開いた鋏の隙間を突いて、前足で鋭く腹部をなぞる。
直接の衝撃ではない。
だが、的確に力を削ぐその一撃で、ハッサムの体力は半分近くに落ちる。
ハッサムは一歩下がり、鋏をカチリと鳴らして体勢を立て直す。
ブニャットは少しだけ後ろに跳ねて、なおもふてぶてしい目つきでこちらを見上げていた。
「『バレットパンチ』」
ハッサムの鋏が再び閃いた。
地面を蹴りつけるようにして距離を詰め、一直線にブニャットへと突き刺さる。
直撃。
今度は身代わりもない。
ふてぶてしいその体が、わずかに後ろへよろける。
だが、ブニャットはすぐに顔を上げた。
表情ひとつ変えず、しなるように身をひねると、尾を巻き込んで勢いを乗せる。
「『とんぼがえり』」
その巨体からは想像もつかない速さで、一気に踏み込んだ。
体当たりに近い重い一撃がハッサムの胸元に叩き込まれ、雨の中に鈍い衝撃音が響く。
すぐにブニャットの体が反転し、軌道を描いてモーリの手元へと戻っていく。
その手には、すでに次のボールが握られていた。
無言のまま、モーリがそれを投げる。
放たれたボールが雨の中を切り裂き、鋭い軌道で弧を描いた。
白い翼を広げて現れたのは、ファイアロー。
赤と黒の羽が雨粒を弾き、炎の気配すら纏わせるその姿は、降りしきる雨の中でも確かな存在感を放っていた。
空気が、再び変わった。
☆
鋏をゆっくりと構え直すハッサム。
その対面に現れたファイアローは、すでに翼を軽く広げていた。
羽根の内側には熱が灯り、その体からはかすかな気流が立ち上る。
ハッサムは、一瞬、鋏をわずかに下げた。
「戻って」
レイカが指を伸ばす。
ハッサムが後退し、代わりに放たれたのは、先ほどのペリッパーだった。
その動きに迷いはなかった。
火傷技『おにび』を警戒した、冷静な交代。
しかし、それを見てなお、モーリは指示を変えなかった。
「『ブレイブバード』」
ファイアローが弾けるように飛び立った。
羽ばたきと同時に雨粒を後ろへ弾き飛ばし、鋭い滑空で一直線にペリッパーを貫く。
雨の中でも衰えない突撃の力。
翼をたたんだままぶつかり、そのまま抜けるようにして飛びすぎると、ペリッパーの体が大きく揺れた。
そのまま地面に叩き落ちるような軌道は取らず、辛うじて羽ばたきながらバランスを保つ。
だが、限界は近い。
ペリッパーはふらつきながらも羽ばたきを維持していた。
それでも、明らかに動きは鈍い。
雨の恩恵を受けてなお、ブレイブバードの直撃は深く響いていた。
ファイアローは低空を滑るように回り込み、翼を広げたままモーリの視線を伺う。
「『とんぼがえり』」
その言葉と同時に、ファイアローが音を置き去りにするような加速で突っ込んだ。
先ほどの突撃とは違い、力をセーブしながらの一撃。だが、それでも十分だった。
再びの衝突。
ファイアローの鋭い体当たりを受け、ペリッパーはその場でバランスを失った。
体をひねりながら雨空を旋回しようとするが、そのまま体勢を立て直すことができず、地面へとゆっくり落下する。
落ちる音はなかった。
ぬかるんだ土が、最後の衝撃をすべて吸収した。
ファイアローは反動で飛び戻りながら、モーリの手元へと吸い込まれていく。
次に放たれたのは、ガブリアス。
流れるように出現したその姿は、ファイアローと対照的な重厚さを持っていた。
雨の中でもその鱗は力強く、爪は鋭く、地を蹴る脚には迷いがなかった。
フィールドには、再び緊張が満ちる。
☆
雨音の中に、別のリズムが割り込んだ。
次に現れたのは、フローゼルだった。
水を纏ったような滑らかな体。二本の尾が地面を叩き、戦意を示すように跳ねる。
『すいすい』雨を受けたこのポケモンは、今や誰よりも速い。
すでにその動きには、鋭さと強さが滲んでいた。
レイカが繰り出す、本気の切り札。
「『クイックターン』」
雨を切り裂くように、フローゼルが地面を滑る。
その一撃は、まるで水の槍のようにガブリアスの腹部をかすめていく。
ガブリアスは咄嗟に体をひねって正面衝突を避けたが、雨で滑る足元に体勢が崩れる。
フローゼルはその勢いのまま旋回し、レイカの手元へと戻っていった。
すぐさま繰り出されたのは、再びのハッサムだった。
鋼の体に雨粒を跳ね返しながら、鋏をゆっくりと構える。
その動きに、さきほどよりも隙はなかった。
モーリはわずかに目を細めて、静かに言う。
「『じしん』」
ガブリアスが鋭く地を蹴った。
刹那、空気が震える。
一直線に踏み込んだガブリアスは、ハッサムの懐に肉薄すると、
そのまま体重を乗せて片脚を振り上げ、ハッサムの肩口を思い切り踏みつけた。
踏み込んだ足が、雨に濡れた地面を砕く。
鈍く響く衝撃音と共に、大地全体が小さく震えた。
技名の通り、地を揺るがすその一撃は、単なる遠距離技ではない。
肉体による打撃と、周囲に広がる衝撃波の複合。
ハッサムの足が一歩後ろへズレた。
鋏がわずかに開いたまま固まり、呼吸が乱れる。
持ちこたえた。だが、その足元は泥に沈みかけている。
その耐久力を、誇りを、かろうじて支えているだけだった。
ガブリアスが低くうなり、体を少し傾けた。
次の一撃を放つ態勢ではない。
モーリは迷わず、手を動かした。
「戻れ」
ガブリアスが身を引き、ボールの中に戻っていく。
入れ替わるように投げられたのは、再びのファイアローだった。
雨がまだ残る空に、その細身の体が滑り出すように現れる。
濡れた翼の羽ばたきが雨粒を四方に飛ばしながら、空中で旋回した。
それを見たレイカは、すぐに次の手を打った。
「『つるぎのまい』」
ハッサムが鋏を大きく広げ、体をかがめて構えを取る。
雨の中、動きは鈍く見えるはずなのに、その動作には静かな迫力があった。
鋏が交差するたび、雨粒が弾け、金属音のような響きが空気を震わせる。
それはまるで、刃が研ぎ澄まされていく音のようでもあった。
次の攻撃には、倍の重さと、倍の速さが宿る。
その鋏が何を狙うのか、ファイアローは、まだ羽ばたきを止めなかった。
☆
「『バレットパンチ』」
ハッサムが音を置き去りにする速さで飛び込む。
鋏の一撃がファイアローの肩をかすめ、濡れた羽が鋭く裂けた。
ファイアローはそれでも、翼を折らなかった。
小さく体をくるりと旋回させて高度を取り直すと、空中で羽ばたきを止め、ほんの一瞬、風の中に身を浮かせる。
モーリは短く言った。
「『にほんばれ』」
その声と同時に、ファイアローの羽が広がる。
まるで空を抱くように。
風が変わった。
空は相変わらず雲ひとつない快晴。
だが、バトルフィールドの空気だけが変質する。
これまで冷たく降り続けていた雨が、ふと止まった。
静寂。
次の瞬間、光が差した。
ファイアローの翼の縁が金色に照らされ、濡れた地面に落ちた雨粒が光を反射する。
まるでその場だけ、別の季節が訪れたかのように。
レイカの表情がわずかに動く。
目を細め、唇をかすかに結ぶ。
雨を断ち切った。
その意味を、彼女は誰よりも知っていた。
鋏を構えるハッサムの前で、ファイアローはゆっくりと旋回をはじめる。
湿気を失いかけた風が、冷たく背中を撫でていく。
「『バレットパンチ』」
再び、ハッサムの鋏が閃いた。
つるぎのまいを積んだその一撃は、まるで弾丸のような速さでファイアローを貫いた。
翼を広げたまま、ファイアローの体がくるりと空中で回転する。
先ほどまで晴れ渡っていた空の光が、濡れた羽根の隙間をすり抜けてきらりと光った。
ふわりとした落下。
羽ばたく力もなく、ただ風に委ねるように地面へと降りていく。
泥を巻き上げることもなく、ファイアローは静かに着地し、そのまま動かなくなった。
モーリはゆっくりとボールを構え、何も言わずにファイアローを戻した。
指先に残る熱と、肩にかかった湿気が、戦場にまだ雨の名残を漂わせていた。
だが、確かに変わった。
空はもう、晴れていた。
☆
モーリは黙ったまま、ファイアローのボールを下げ、もう一つのボールを握り直した。
ガブリアス。
鋭く、重い足音が一歩ずつ地面を鳴らし、戦場に戻る。
雨が上がった今、その鱗はほんのりと太陽を反射し、砂の熱を纏っているようだった。
「『バレットパンチ』」
鋏が、迷いなく振るわれた。
素早く、重い打撃がガブリアスの肩をかすめる。
それでも彼は一歩も引かず、低く腰を落として踏みとどまった。
そのまま、モーリが静かに告げる。
「『スケイルショット』」
ガブリアスが咆哮を上げる。
次の瞬間、体をひねりながら飛び上がり、鋭い鱗を次々と射出する。
音を立ててハッサムの装甲に鱗が突き刺さる。
一枚、また一枚。
連続で叩き込まれた鱗が、甲殻を破り、鋏を弾き、ハッサムの体を後ろへ押しやった。
その場に突き立てられた最後の一撃で、ハッサムの体がわずかに浮き、
重力に引かれるように膝をつく。
そのまま崩れ落ちるように、ハッサムは地面に伏せた。
戦闘不能。
だが、ガブリアスは止まらない。
鱗を飛ばした直後の呼吸の中で、明らかにその動きが軽くなる。
体重が乗るのではなく、風に乗るように、次の動きに向けて加速していく。
スケイルショットの副効果で速度を上げる。
次に来る敵のことを、すでに見据えていた。
☆
ハッサムが沈んだあと、レイカはすぐにボールを構えた。
再びフィールドに送り出されたのは、フローゼル。
その体は既に雨の恵みを失っていた。
今、空は明るく、ファイアローが残した陽射しが濡れた地面に静かに染み込んでいる。
『すいすい』の恩恵はない。
それでもフローゼルの目には、わずかな迷いもなかった。
「『アクアジェット』」
鋭く飛び出す水の音と同時に、フローゼルの体が白い線を描いた。
水流に乗って突っ込んでくるその姿は、陽に照らされ、まるで光そのもののようだった。
反応より速い。
速さを得たガブリアスでさえ、その動きには追いつけなかった。
体当たりの衝撃が腹部を直撃し、ガブリアスの体が後方へ跳ね上がる。
着地の足が一歩足らず、地面に膝を落とす。
その瞬間、ガブリアスが静かに顔を上げた。
真っ直ぐに、モーリの方を見つめる。
その瞳は、痛みでも悔しさでもない。
静かに、託すような目だった。
モーリは、一歩も動かないまま、その視線をしっかりと受け止めた。
口元は引き結ばれたままだったが、ほんのわずかに頷いた。
ガブリアスはそのまま崩れるように倒れ、立ち上がらなかった。
☆
モーリは無言のまま、次のボールを構えた。
そして、ためらうことなく放つ。
フィールドに現れたのは、ブニャット。
雨に濡れ、泥に染まりながらも、ふてぶてしいその佇まいは少しも崩れていない。
かすかに首を振り、尻尾を一度巻くようにして動かすと、フローゼルをじっと見つめた。
「『ねこだまし』」
ブニャットが足を踏み出し、軽く尻尾を跳ね上げる。
フローゼルの前で、予備動作すら見せずに前足を振ると、ぴしゃりと鼻先を叩いた。
フローゼルの体が一瞬硬直する。
軽い牽制にすぎないはずの動きだったが、空気を断ち切るような鋭さがあった。
間を取った。
その静寂に、モーリの声が重なる。
「『さいみんじゅつ』!」
ブニャットの目が細くなった。
その瞳が、雨上がりの空のように、静かに揺らめく。
フローゼルはふと足を緩める。
まぶたが落ち、姿勢がわずかに前へ傾いた。
その瞬間、レイカが小さく息を呑む。
おかしい。
フローゼルは、素早さで言えばブニャットより速いはずだ。
それが、先手を取られた。
そして何より、モーリの指示は、その速さを確信していたようなものだった。
レイカは眉を寄せた。
自分とモーリの間にある、“現実”の距離が、思いがけず露わになった瞬間だった。
眠ったフローゼルの体に、ブニャットがするりと歩み寄る。
「『いかりのまえば』」
爪先が滑るように動き、前足がフローゼルの胸元をかすめた。
軽く、だが深く。
その一撃で、フローゼルの体力は半分近く削り取られる。
だが、その直後。
フローゼルのまぶたがふいに開いた。
眠っていたはずの目に、再び光が戻っている。
その速さに、モーリも一瞬だけ目を見開いた。
起きた。
フローゼルの体に再び緊張が戻る。
眠りから覚めたその瞬間、足元の水を弾き、構えを取った。
鋭く、速く、ためらいなく。
「『アクアジェット』」
レイカの声が落ちると同時に、フローゼルの体が水流を纏って前に滑り出す。
今度こそ、狙いは定まっている。
起きた直後とは思えない、完璧な踏み込みだった。
だが、その瞬間。
「『ふいうち』」
モーリの声が先に届いた。
ブニャットが半身をひねる。
その巨体からは想像もできないほどの速度で、雨に濡れた前足が地面を蹴る。
足元の泥を巻き上げ、鋭い角度でフローゼルに斬りかかる。
両者の間合いが、ほんの一瞬だけ重なった。
次の瞬間。
フローゼルの体が、風のなかで一回転し、そのままくるりと横に流れた。
アクアジェットの勢いを失ったまま、無音のまま倒れ込む。
泥が跳ねた。
そして、静かになった。
☆
ブニャットは、肩で息をしていた。
戦いが終わったその場所で、泥まみれの身体を丸めながら、重たく呼吸を繰り返している。
まぶたの奥にまだ火花の残滓があるようで、瞬きひとつにも疲労がにじんでいた。
それでも立っていた。
大きく、ずっしりと、フィールドの中心に残るようにして。
モーリは黙っていた。
勝ったのだと、頭では理解している。
だが、その実感はどこか遠く、うっすらとした霞のように指先からこぼれていく。
今、この勝利には、確かに自分だけの力ではない何かがあった。
ファイアローが、ガブリアスが、ブニャットが。
それぞれが、モーリの意図を越えて、動き、意思を重ね、勝利を掴んでくれた。
否、それもあるかもしれない、だが、もっと感じたのは、彼らの意図を、ある程度汲むことが出来たということだ。
そう、息が合っていた。
だからこそ、この勝利は手に届いたのだ。
ふと、視線がレイカに向く。
レイカは、その場に立ち尽くしていた。
濡れたマフラーと手袋は、足元の泥の中に捨てられている。
白かったマフラーは茶色く染まり、手袋は水を吸ってぺたりと地面に貼りついていた。
レイカ自身も、微動だにしていない。
ロングコートは水を含み、その裾からは絶え間なく水が滴っていた。
首元の布地が肌に貼りつき、肩は細かく震えていた。
髪が頬に張りついている。顔は、見えない。
思い出していた。
あの時、あの場所で、自分が崩れ落ちた日のこと。
目の前にいる彼女は、その頃と同じなのだと思う。
風が吹く。
冬の、冷たく乾いた風だった。
だが、水を吸ったコートははためかない、ただ、彼女の熱を奪うだけ。
モーリはゆっくりと歩を進めた。
その足元の泥は、戦いの余熱を失いかけていた。
わずかな距離を保ったまま、彼は言った。
「……風邪ひくぞ」
レイカは反応しなかった。
数秒の間が空いた。
やがて、彼女の口から、ぽつりと声が落ちる。
「うるさい」
それは、いつものように鋭い声ではなかった。
張りつめた何かが、今にもほどけそうな、頼りない言葉だった。
モーリは一歩だけ前に出て、そっと手を伸ばす。
手袋はもうなかった。
代わりに、コートの袖口ごしに、その手首を掴む。
布越しでもわかる。冷たい。
濡れて、細くて、軽かった。
レイカはそのまま動かない。
手を振り払うこともなく、ただ風に吹かれていた。
目も、合わない。言葉も、来ない。
けれど、それでも、モーリは手を離さなかった。
かつて、自分が打ちひしがれた日のことを思い出す。
誰も自分を止めてくれなかった、あの瞬間の孤独。
だから今は、この手を離してはいけないと、どこかで感じていた。
慰めじゃない。説得でもない。
ただ、ここにいるという事実だけを、届けるように。
☆
二人は、言葉を交わさないまま歩き出した。
ブニャットはすでにボールに戻っている。
勝敗はついた。だが、道にはまだ答えが落ちていなかった。
冬の風が吹いていた。
街路樹の枝が揺れ、遠くで何かが軋む音がした。
レイカの歩幅はいつもより小さく、足取りは重かった。
コートの裾が濡れ、動くたびに水気を含んだ布が重たく揺れている。
髪の先から雫がこぼれ、それが舗装された道に無言で落ちる。
モーリは、ほんの一瞬だけ、その様子を横目で見た。
けれど、何も言わなかった。
並んで歩くだけだった。
その距離が、いまは全てだった。
空にはまだ明るさが残っている。
けれど風は、季節の深まりを確かに告げていた。
ぴたりと手が触れ合うこともなく、二人の影だけが、わずかに重なり合って進んでいく。
☆
玄関のドアが開いたとき、家の中の暖かい空気が、冷たい風とぶつかった。
レイカの肩がほんのわずかにすくむ。
「……え? なにそれ、ちょっと、レイカちゃん?」
キッチンから顔をのぞかせたモーリの母の声が、思わず上ずった。
濡れた髪に泥の跳ねたコート。マフラーも手袋も文字通り泥に落としたようだった。
彼女の目がその姿をひととおり確認すると、眉をひそめてすぐさま足を動かした。
「バトルで……ちょっと」
モーリが説明しかけたが、
「そんなことより、早くお風呂入って」
母の声が重なるようにして割って入った。
その目は、一言で言えば“今”しか見ていなかった。
モーリは言葉を飲み込み、唇をわずかに噛む。
「タオルあるから。レイカちゃん、これ使って。……服、あとで持って行くわね」
レイカは何も言わなかった。
視線は床に落ちたまま、タオルを静かに受け取る。
ほんの少しだけ、うなずいたようにも見えた。
濡れたコートの裾からしずくがぽたりと落ちる音がして、
レイカはそのまま、ふらりと浴室の方へと歩いていった。
背中越しに、まだ何の言葉もなかった。
☆
レイカが脱衣所の奥に消えたあと、家の中には静けさが戻った。
湯沸かし器の控えめな音だけが、どこか遠くで響いている。
モーリは居間の隅に腰を下ろし、ブニャットの濡れた毛並みにタオルをあてがっていた。
ごしごしと拭くわけでもなく、ただ布を当ててはなでるようにして、水気を落とす。
ブニャットはされるがまま、気怠げに目を細めていた。
コートとシャツは脱いで乾いたものに替えてある。
頭もざっとタオルで拭いたが、まだ湿っていて、うなじに冷気が残っていた。
しばらくして、キッチンの方から母親の足音が近づいてきた。
モーリが顔を上げるより早く、エミが静かに口を開いた。
「……あの子、どうしてあんなに濡れてたの?」
その声に責める色はなかった。
ただ、状況を理解しきれないまま、ひとつずつ辻褄を合わせようとするような声音だった。
「なんで、あんたと一緒にいて、あんなふうになってるの?」
モーリは手を止めた。
少し間を置いてから、タオルの端を強く握ったまま、ぽつりと答える。
「バトルをしたんだ。ほら、レイカって、『雨』だから」
エミは黙っていた。
その言葉の意味を、すぐには飲み込めないという顔をしていた。
「『雨』って、どういうこと?」
真剣なまなざしだった。
咎めるでもなく、詰め寄るでもない。ただ、まっすぐに息子の言葉を求めていた。
モーリは返事をしないまま、目を伏せた。
エミの頭には、朝、おずおずと訪れてきたレイカの姿が残っている。
よく整えられた髪。真新しいブーツ。白いマフラー。
戦うための格好ではなかった。
それは、きっと「会いに行くため」の服装だった。
エミはそれを口には出さなかった。ただ、目を細める。
やがて、モーリが小さな声で言った。
「トレーナーだから」
けれどその言葉に、自分自身が納得できなかったのかもしれない。
わずかに息を呑み、目をそらしながら続けた。
「いや。俺が悪いんだ」
タオルの中のブニャットが、くしゃみをひとつした。
エミはそれを見て、わずかに口元をほぐしながら、モーリをしばらく黙って見ていた。
何かを察していた。けれど、あえて何も言わなかった。
その代わり、短く言った。
「モトマサが悪いのなら、ちゃんと謝っておきなさいよ」
それだけ告げて、エミはゆっくりとキッチンの方へ戻っていった。
モーリは返事をしなかった。ただ、もう一度タオルを持ち直し、ブニャットの背を軽く撫でた。
☆
リビングに戻ると、こたつには先客がいた。
モーリのスウェットにすっぽりと体を包んだレイカが、右手でコラッタの背をゆっくり撫でていた。
こたつの上には、湯気を立てるマグカップ。中身はエネココアだ。
レイカはちらりとこちらを見て、そっけなく言った。
「あんまり見んな、スケベ」
その言葉にモーリは、視線を慌ててそらした。
洗濯物が干されている方向に彼女の目線が流れたのを見て、理由を察する。
その一言の響きに、ほんの少しだけ、レイカが戻ってきた気がして、息をついた。
それでも、どう声をかけていいのかはわからなかった。
モーリは黙ってこたつに足を入れ、向かいに腰を下ろした。
二人の間には湯気と沈黙がただよう。
時間がゆっくり流れたあと、先に口を開いたのはレイカだった。
「なんで、強くなってんのよ」
モーリは一瞬、問いの意図を測りかねたが、すぐに応じる。
「合宿とか、したから」
レイカは、ぷっと噴き出すように笑った。
「なにそれ」
そのまま、エネココアをひと口すすると、マグカップの縁に口元をつけたまま、ぽつりとこぼした。
「逃げなくて、良かったじゃん」
ふう、と湯気を吹く。
「あんな田舎に行ってさ、それでも強くなった。時間の無駄じゃん」
モーリは首を横に振った。
「いや、多分、無駄じゃなかったんだと思う」
レイカはすぐに言葉を返さなかった。
コラッタの小さな背に手を滑らせながら、ふうっと小さく息を吐く。
「モーリはさ、全然半端じゃないんだよ、きっと」
コラッタの背中をくすぐって、続ける。
「強くて、勉強できて、それって全然半端じゃないでしょ」
モーリは答えなかった。
それが褒め言葉なのか、ただの観察なのか、うまく受け止めきれなかった。
こたつの中で足が偶然触れた。どちらも引っ込めなかった。
湯気の中、静けさが心地よく続いた。
やがて、レイカが何気ない調子で言った。
「あたしは、八つ目のバッジ、取りに行くよ」
モーリは短く、でも真っ直ぐにうなずいた。
「おう。頑張れ」
それだけで充分だった。
それが、今の二人にとって一番自然な言葉だった。
しばらくして、レイカがふと思い出したように言う。
「そういえばさ、好き好きビームの子とはどこまで行ったのよ」
モーリの手が一瞬止まった。
「そういうんじゃ」
その反応だけで、すべてを察したようだった。
レイカはいたずらっぽく笑い、軽く肩を揺らして言った。
「ヘタレ。スケベヘタレ」
モーリは反論もせず、肩をすくめただけだった。
その様子にレイカは満足げにココアをすする。
こたつの隅では、ブニャットが丸くなりながら寝息を立てている。
鼻先をふるわせ、一度くしゃみをしたあと、モーリの足にくっついて再び眠りに落ちた。
コラッタもこたつ布団の端で丸まり、レイカの手の中でときおりぴくりと尻尾を動かす。
すべてがうまくいったわけじゃない。不安はある。
でも今は、それでもいいと思えた。
次回5/7 18:01予定
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