『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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29-晴れた日に、降る雨のこと

 目が覚めたのは、いつもより少し遅い時間だった。

 暖房の音が小さく唸り、カーテンの隙間から冬の光が差し込んでいる。

 布団の中は心地よく、しばらくまどろみの中に身を沈めていたが。

 

 衣擦れの音がした。

 そして、かすかに漂う香水の匂い。甘さよりも、わずかにツンとするタイプの。

 

 モーリは、嫌な予感がして、ゆっくりと目を開けた。

 視界の先、部屋の椅子に腰かけていたのは、レイカだった。

 

「おはよ」

 

 ロングコートのフードを外しながら、レイカは軽く髪をかき上げた。

 濃いネイビーの厚手のコートに、黒いスキニーパンツ。首にはふわりとした白いマフラーが巻かれていて、手には毛糸の手袋。足元は滑り止め付きのショートブーツで固められている。

 まさに、冬の冷え込みに正面から対抗する格好だった。

 その着こなしは実用的であると同時に、どこか洗練されていた。まるで街中のショーウィンドウから抜け出してきたかのような、そんな雰囲気さえあった。

 そしてその耳元で、雫型のピアスがゆらゆらと揺れている。

 

 モーリは、一拍置いて布団を引き寄せる。

 

「どうやって入ってきたんだよ」

 

 レイカは足を組みながら、淡々と言う。

 

「玄関から堂々と入ってきたわよ。お母さんが快くね」

 

 モーリは、ため息をついた。

 

「母さん」

「まあ、仕方ないでしょ。あの人からすれば、私もあんたもガキなわけだし」

 

 部屋の隅では、ブニャットがまだ丸まって寝息を立てていた。

 その静けさが、なんだか妙に心強かった。

 

「帰れ」

 

 レイカはわざとらしく驚いた顔をする。

 

「何よその反応。もっと『会いたかった』とか、ないの?」

「ない」

「ちぇっ」

 

 レイカは不満げに口を尖らせてから、モーリの部屋を見渡した。

 

「久しぶりにあんたの部屋入ったけど、全然変わってないじゃん。ガキすぎるでしょ、ポスターもそのままじゃん」

「それ、言いに来たのかよ」

「違うわよ」

「じゃあ、何しに来たんだよ」

 

 レイカはひょいと立ち上がり、モーリの机に置かれていたカバンをつつきながら言った。

 

「初詣にでも行こうかと思って」

 

 その提案に、モーリはごろりと寝返りを打ちながら答える。

 

「はあ?」

「お互いに、願いたいこともあるでしょ?」

 

 どこか挑戦的な笑みを浮かべて言うその表情は、あの旅の途中でも何度も見たことがあるものだった。

 

 モーリは渋い顔をしたまま黙り込んだが、レイカは続ける。

 

「まだまだ寒いからしっかり防寒しなぁ」

「わかったよ、着替えるから出てけよ」

「なによ、見られて困るようなもん持ってないでしょ」

「うるせえよ!」

 

 モーリが枕を投げると、レイカは笑いながらひょいと避けて、立ち上がった。

 

「はいはい、あと五分で玄関集合ねー」

 

 そう言い残して、レイカは扉を開けて出ていった。

 

 扉が閉まると同時に、モーリはため息をつき、天井を見上げた。

 正月早々、落ち着かない一日が始まった気がしていた。

 

 

 

 

 冬の空は、抜けるように澄んでいた。

 空気は冷たいが、陽差しは強く、アスファルトの上に延びた二人の影がくっきりと長く伸びている。

 

 モーリとレイカは、住宅街を抜けた先にある小さな神社へ向かっていた。

 街中の神社とはいえ、参道は木々に囲まれていて、風が吹くたびに枝がこすれ合う音が耳に心地よく響く。

 

 レイカはモーリの一歩前を歩いていた。

 

 濃い色のロングコートを着込み、裾は太ももあたりまでしっかりと覆っている。

 手には分厚い毛糸の手袋、首元には白いマフラーが巻かれていて、足元はボア付きのブーツで固められていた。

 その装いは、動きやすさよりも、冬の冷え込みに真正面から対抗するためのものだった。

 

 彼女は、寒さに耐えるのではなく、それを拒絶するように服を選んでいる。

 まるでこの季節そのものを、自分に近づけまいとしているかのようだった。

 

「やっぱ、あんたの家の近くって静かだね」

 

 前を歩いていたレイカがふと振り返り、ポケットに手を突っ込んだまま言った。

 

「都心の神社だともうすごい人だし、何かしらやってるのに。こっちはなんにもない」

「それがいいんだろ」

 

 モーリは短く返す。

 ポケットに手を突っ込んだまま、地面の影を見つめるように歩いていた。

 

 やがて鳥居が見えてきた。

 参道には何組かの親子連れと、老夫婦の姿がある。

 その老夫婦は、ニドキングを連れて歩いていた。

 

 立派な体格のニドキングは、首にリードをつけられてはいたが、どこか腑に落ちないような顔をしていた。

「これはちがくねえか?」とでも言いたげに、時おりリードの端を目で見つめ、首を傾けている。

 だが、パートナーたる老夫婦にとっては、それが当たり前の散歩スタイルなのだろう。ニドキングも最終的には諦めたように、その巨体を慎重に運んでいた。

 

 石段の下で軽く会釈して通り過ぎていく人たちに、レイカは会釈もせず、軽く横を向いてスルーしていく。

 

「昔来たことあったっけ?」

「あー、一回だけ? あんたに連れられて」

「そうか」

 

 石段を上り、境内に入ると、静けさが一段と深まった。

 吐く息が白く、砂利の上を歩く音がやけに大きく響く。

 鈴の音や柏手の音が、ときどき風に乗って届いてくる。

 

 レイカは軽やかな足取りで手水舎に向かい、水をすくって手を清めた。

 

「ひえぇ冷たい」

 

 モーリもそのあとに続く。

 

 参拝の列は短く、すぐに順番が回ってきた。

 二人は並んで立ち、賽銭を入れ、鈴を鳴らす。

 

 モーリは手を合わせながら、ふっと息をついた。

 視線の先でレイカも手を合わせている。

 ただ、彼女の目は閉じていなかった。

 まっすぐに、前を見ていた。

 そしてその横目で、モーリの横顔をじっと見ていた。

 

 

 

 

 参拝を終えたあと、二人は無言のまま境内を出た。

 

 鳥居をくぐり、再び住宅街に続くゆるやかな坂道を歩いていく。

 冬の陽はまだ高く、雲一つない空を背景に、民家の屋根がくっきりと浮かんで見えた。

 時折吹く風が冷たい。けれど、どこか乾いていて、嫌な冷たさではなかった。

 

 モーリは両手をポケットに突っ込んだまま歩いていた。

 その横を歩くレイカは、さっきまでよりも少しだけ無口だった。

 

 静けさの中に、足音と小さな衣擦れだけが続く。

 遠くで誰かの笑い声が聞こえて、それがすぐに風に流されていく。

 

「何お願いしたの?」

「無病息災」

「つまんな」

「そういうお前はどうなんだよ」

「決まってるでしょ八つ目のバッヂ獲得よ」

 

 レイカは唐突に、ポケットから飴の包みを取り出し、口に放り込んだ。

 そしてモーリに視線を向ける。

 

「おみくじ、引かないんだ」

 

 モーリは少し遅れて、首を横に振った。

 

「別に、いらねえかなって」

「ふーん」

 

 それだけ言って、レイカはまた前を向いた。

 飴を転がす舌の動きが、口元にわずかに現れている。

 

 そのまましばらく歩いた先に、小さな公園があった。

 住宅街の合間にぽつんとあるような、小さな広場。ベンチが二脚並び、その奥には落葉した木が何本か、影を落としていた。

 

「座ってこうよ」

 

 レイカがそう言って、先にベンチに腰を下ろす。

 モーリはわずかに躊躇ってから、その隣に腰を下ろした。

 

 二人の間に一人分の距離がある。

 特に意味のないようでいて、どちらかが少しでも動けば、すぐに近くなるような距離だった。

 

 レイカは飴の包み紙を小さく丸めてポケットに押し込み、唐突に言った。

 

「タマ大、推薦もらったんでしょ?」

 

 モーリは一瞬、返事を忘れた。

 その後、少しだけ眉をしかめたような顔で、彼女を見た。

 

「なんで知ってんだよ」

「お母さんがね」

 

 レイカは、ふっと笑った。だがその目は笑っていなかった。

 

「嬉しそうに教えてくれたわよ」

 

 モーリは小さく舌打ちしそうになって、それを飲み込んだ。

 

「母さん」

 

 レイカは黙ったまま、上を見上げる。

 空はまだ晴れている。けれど、風の中にほんのわずかに湿り気が混じりはじめていた。

 

 そして、ぽつりとこぼすように言った。

 

「うまくやったよね」

 

 それは、評価でも賛辞でもなかった。

 むしろ皮肉めいた音のほうが濃かった。

 

 モーリは返事をしなかった。

 否定も肯定もしない。ただ、ベンチの下で軽く拳を握りしめる。

 

 レイカは前を向いたまま、言葉を続けた。

 

「アタシと違って、あんたは頭がいいからさ。そういう生き方もできるんじゃない?」

 

 モーリは、それに答えない。

 

「良かったじゃん。逃げた先に道があってさ」

 

 モーリの肩が、ほんのわずかに動いた。

 だが、それだけだった。言葉は返ってこない。

 

 レイカはモーリの横顔をちらりと見て、眉をひそめた。

 そして、声を強める。

 

「怒りなさいよ。嫌なこと言ってるんだから」

 

 モーリは、それでもすぐには反応しなかった。

 だけど、その次の瞬間、静かに口を開いた。

 

「いや、多分、俺もおんなじこと考えてたんだ」

 

「は?」

 

「お前の言うこと、わかるよ。いや、むしろ、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない」

 

 レイカは一瞬、言葉を失ったように黙った。

 モーリは視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を続ける。

 

「悩んでるんだ。それを受けるかどうか」

「あんた、それ本気で言ってんの?」

 

 レイカの声には、怒りと、そして少しの戸惑いが混じっていた。

 モーリは答えず、ただ小さくうなずいた。

 

 それだけで十分だった。レイカには、それが本気だと伝わった。

 

 レイカは信じられないという顔で、モーリを見つめている。

 

「自分が何言ってるか、わかってるの?」

 

 モーリは、少しうつむいたまま、返事をしなかった。

 だが、その沈黙がすべてを肯定している。

 

 レイカは、かすかに唇をかみしめた。

 そして、怒鳴るような声を吐き出す。

 

「馬鹿じゃないの!? 大学行きながらだってジムバッジは集められるし、だったらストレートでポケモンリーグに挑戦でもするの!?」

 

 モーリは顔を上げた。

 だがその表情は、怒ってもいなければ、拗ねてもいなかった。

 ただ、困ったように笑っただけだった。

 

「何が良いことなのかわからないんだよ」

 

 その言葉を口にしたあと、胸の奥で、重く冷たいものが転がる音がした。

 誰かに理解されるつもりはなかった。けれど、それでも、言わずにはいられなかった。

 

「なんだか、そういう生き方って、まるで『保険』をかけてるみたいでさ」

 

 レイカはその言葉に、わずかに表情を変えた。

 

「良いじゃない、保険。誰だってかけたいわよそんなの。……運良く、あんたにはその権利があっただけじゃない」

「そうだよ。運なんだ」

 

 その瞬間、胸の奥に潜んでいた『ことば』が、ぽろりと落ちた気がした。

 モーリは、自分でもそれが出てくるとは思わなかった。

 だが、口が勝手に続けていた。

 

「逃げた先に、ポケモンバトル部があった。正直、地方のレベルは低くて、インターハイに出ることができた」

 

 視線はまっすぐ地面を見ているのに、思い出しているのは別の時間だった。

 最初の練習試合、戸惑いながら出した指示、ブニャットの眠そうな目。

 懐かしさと居心地のよさと、でも『仮の舞台』のような感覚。

 

「ジム巡りっていう『貯金』を使って、ベスト八に残った。ただ、それだけなんだ」

 

 言い切ったあと、冷たい空気が胸をなぞっていった。

 そして、あのときの感情が再びよみがえる。

 

「それなのに、推薦の話が来た」

 

 少し間を置いて、モーリは息を吐いた。

 隣のレイカが、何も言わずにこちらを見ている気配を感じた。

 

「俺だって、馬鹿じゃない。あれがどれだけ『良い話』かはわかってる」

 

 その瞬間、レイカと目を合わせることは出来なかった。

 

「ちゃんと勉強して、大学に入って、それなりの人生が待ってる。それくらいのことはわかってるよ」

 

 言っていて、自分が自分じゃないような気がした。

 それでも、これだけは正直に言わなければならなかった。

 

「だけどさ」

 

 モーリは言葉を切り、ゆっくりと遠くを見た。

 風が吹き、どこかで枝が擦れる音がした。

 

「卑怯じゃないか? それって」

 

 わずかに、拳を握る。

 

「俺の実力は、いつまでも中途半端なままで。何も成せないままで、そういう道に行く。それって、本当に『良いこと』なのかよ」

 

 モーリの言葉を聞き終えたレイカは、呆れたような、それでいてどこか傷ついたような目で彼を見ていた。

 

 彼女はほんの一拍、息を止めた。

 そして、叫ぶように言った。

 

「あんたやっぱりおかしくなっちゃったのよ。良いことじゃない、良いに決まってるわ、半端なあんたに、それなりによく生きる事ができる道が出来たのよ、それに飛びつかないなら、あんたは、あんたはどうしてポケモンリーグから逃げたのよ!?」

 

 その声は、冷たい空気の中で鋭く響いた。

 

 モーリは、すぐには答えられなかった。

 それは、まさに彼自身が、いまだに自分に問いかけ続けている言葉だったからだ。

 

 レイカの目は潤んでいた。

 それを隠すように、彼女は立ち上がり、腰元に手を伸ばす。

 

「わかった」

 

 その声は低く、淡々としていたが、はっきりと怒りと悲しみの温度を帯びていた。

 

「だったら、あんたのそのちっぽけなプライド、粉々にしてあげる」

 

 レイカはモンスターボールをモーリの顔の前に突きつけた。

 

「すがるもの全部砕いて、勝手に幸せになればいい」

 

 言葉を投げつけるのではなく、叩きつけるような口調だった。

 

 モーリはその言葉に、すぐに返すことはできなかった。

 ただ、ゆっくりと立ち上がり、腰元に手をやる。

 

 モンスターボールに指が触れたとき、モーリはふと、今朝の光景を思い出した。

 

 厚手のロングコートにマフラー、毛糸の手袋。しっかりと防寒されたブーツ。

 彼にはわかる。

 どこをどう見ても、それは『彼女が戦うための格好』ではなかった。

 

 あいつ、今日戦うつもりじゃなかったんだ。

 

 それでも、今この瞬間、レイカは目の前でモンスターボールを構えている。

 髪は風でわずかに乱れていて、マフラーも少しずり落ちている。

 感情が、彼女を先に動かしていた。そうとしか思えなかった。

 

 受けなければ、ならないと思った。

 

 そして、空を見上げる。

 冬の陽は高く、抜けるような青空が広がっていた。

 雲ひとつない。空気は乾き、風は冷たくも澄んでいる。

 

 雨の気配なんて、どこにもなかった。

 

 それでも、今からその空の下に、雨が降るのだとしたら。それは、ポケモンたちが選ぶ世界の話だ。

 

 モーリはポケットの中のモンスターボールをゆっくりと握りしめた。

 そして、言葉もなく、立ち上がる。

 

 

 

 

 雨が降り出した。

 

 それは、空から落ちてきたものではなかった。

 頭上には冬晴れの空が広がり、雲一つない青が街並みを照らしていた。

 だが、バトルフィールドにだけ、不自然なほど均一に、冷たい雨が降り注いでいた。

 

 ペリッパーが翼を広げて羽ばたいたその瞬間、空気が切り替わったのだ。

『あめふらし』その特性によって、現実とは異なる天候が、この場だけに現出する。

 

 レイカは、濃い色のロングコートを着込んでいた。裾は太ももあたりまでしっかりと覆われており、足元にはボア付きのブーツ、手には分厚い毛糸の手袋、首には白いマフラーがふわりと巻かれている。

 

 だが、いま、彼女のその服は、容赦なく降る雨に濡れはじめていた。

 

 ロングコートの肩から裾へ、雨粒が次々と染みていき、布地の色がじわりと濃く沈んでいく。

 毛糸の手袋はすぐに水を含み、しとどに濡れた白いマフラーは、レイカの頬に張りついていた。

 ボアのついたブーツも、土と水を吸って重たくなる。

 

 このバトルは、彼女にとって、想定外だったのだ。

 

 本当は、こんな場所で戦うつもりなんてなかった。

 冷え込む日をやり過ごすために選んだこの服が、雨に打たれて変形していく様子は、そのまま彼女の感情の揺らぎを映しているようにも見えた。

 

 レイカはマフラーを地面に投げ捨て、張り付く手袋も同様に放り投げる。

 濡れた前髪を払い、表情を変えないまま、ペリッパーの背中を見上げる。

 

 その目に宿るのは、もはや覚悟でも怒りでもなく、ただ流されるままに抗おうとする人間の、静かな意志だった。

 

 対するモーリの足元では、ブニャットが雨に打たれながらも、眠たそうにあくびをしていた。

 濡れることなど一切気にしないといった様子で、ふてぶてしく尻尾を揺らし、相手を見上げる。

 

 静かに水音が落ちる中で、最初に動いたのはブニャットだった。

 

「『ねこだまし』」

 

 ブニャットは、前足をふわりと浮かせる。

 地面を蹴る音もなく、一気に距離を詰め、相手のくちばしを叩いた。

 

 ペリッパーが羽を広げかけたその刹那、タイミングを奪われたように体勢を崩す。

 初手の駆け引きは、わずかにモーリが取った。

 

「『みがわり』」

 

 モーリの指示と同時に、ブニャットはくるりと身を引いた。

 その場に、小さく光る影が立つ。雨を弾きながら、朧げな輪郭を保っている。

 

「『とんぼがえり』」

 

 ペリッパーが羽を広げ、滑るような軌道で突っ込んでくる。

 その体がぶつかる瞬間、身代わりの影が水煙のように吹き飛んだ。

 

 命中はしたが、本体には届かない。

 ペリッパーは反動のまま空中を旋回し、レイカの手元へと戻っていく。

 

 そして、代わりに投げられたボールが、濡れた空気を切り裂いて弧を描いた。

 

 鋼の羽音とともに現れたのは、赤い光沢を持つ鋼虫。

 

 ハッサム。

 

 鋭利な鋏が雨を弾きながら、静かに開閉している。

 空気が、再び張り詰めていく。

 

「『バレットパンチ』」

 

 ハッサムの鋏が、雨の中で赤く閃いた。

 そのまま勢いを乗せて踏み込み、一直線にブニャットの影へと突き立てる。

 

 刹那、鋏が叩きつけられた瞬間、ブニャットの前にあった淡い影が爆ぜるように弾けた。

 小さく砕けた光が雨に混じって消え、『みがわり』が破壊される。

 

 次の瞬間、残った本体がすかさず動いた。

 

「『いかりのまえば』」

 

 ブニャットは濡れた地面を蹴り、すっとハッサムの懐に潜り込む。

 わずかに開いた鋏の隙間を突いて、前足で鋭く腹部をなぞる。

 

 直接の衝撃ではない。

 だが、的確に力を削ぐその一撃で、ハッサムの体力は半分近くに落ちる。

 

 ハッサムは一歩下がり、鋏をカチリと鳴らして体勢を立て直す。

 ブニャットは少しだけ後ろに跳ねて、なおもふてぶてしい目つきでこちらを見上げていた。

 

「『バレットパンチ』」

 

 ハッサムの鋏が再び閃いた。

 地面を蹴りつけるようにして距離を詰め、一直線にブニャットへと突き刺さる。

 

 直撃。

 今度は身代わりもない。

 ふてぶてしいその体が、わずかに後ろへよろける。

 

 だが、ブニャットはすぐに顔を上げた。

 表情ひとつ変えず、しなるように身をひねると、尾を巻き込んで勢いを乗せる。

 

「『とんぼがえり』」

 

 その巨体からは想像もつかない速さで、一気に踏み込んだ。

 体当たりに近い重い一撃がハッサムの胸元に叩き込まれ、雨の中に鈍い衝撃音が響く。

 

 すぐにブニャットの体が反転し、軌道を描いてモーリの手元へと戻っていく。

 その手には、すでに次のボールが握られていた。

 

 無言のまま、モーリがそれを投げる。

 放たれたボールが雨の中を切り裂き、鋭い軌道で弧を描いた。

 

 白い翼を広げて現れたのは、ファイアロー。

 

 赤と黒の羽が雨粒を弾き、炎の気配すら纏わせるその姿は、降りしきる雨の中でも確かな存在感を放っていた。

 

 空気が、再び変わった。

 

 

 

 

 鋏をゆっくりと構え直すハッサム。

 その対面に現れたファイアローは、すでに翼を軽く広げていた。

 羽根の内側には熱が灯り、その体からはかすかな気流が立ち上る。

 

 ハッサムは、一瞬、鋏をわずかに下げた。

 

「戻って」

 

 レイカが指を伸ばす。

 ハッサムが後退し、代わりに放たれたのは、先ほどのペリッパーだった。

 

 その動きに迷いはなかった。

 火傷技『おにび』を警戒した、冷静な交代。

 

 しかし、それを見てなお、モーリは指示を変えなかった。

 

「『ブレイブバード』」

 

 ファイアローが弾けるように飛び立った。

 羽ばたきと同時に雨粒を後ろへ弾き飛ばし、鋭い滑空で一直線にペリッパーを貫く。

 

 雨の中でも衰えない突撃の力。

 翼をたたんだままぶつかり、そのまま抜けるようにして飛びすぎると、ペリッパーの体が大きく揺れた。

 

 そのまま地面に叩き落ちるような軌道は取らず、辛うじて羽ばたきながらバランスを保つ。

 

 だが、限界は近い。

 

 ペリッパーはふらつきながらも羽ばたきを維持していた。

 それでも、明らかに動きは鈍い。

 雨の恩恵を受けてなお、ブレイブバードの直撃は深く響いていた。

 

 ファイアローは低空を滑るように回り込み、翼を広げたままモーリの視線を伺う。

 

「『とんぼがえり』」

 

 その言葉と同時に、ファイアローが音を置き去りにするような加速で突っ込んだ。

 先ほどの突撃とは違い、力をセーブしながらの一撃。だが、それでも十分だった。

 

 再びの衝突。

 ファイアローの鋭い体当たりを受け、ペリッパーはその場でバランスを失った。

 体をひねりながら雨空を旋回しようとするが、そのまま体勢を立て直すことができず、地面へとゆっくり落下する。

 

 落ちる音はなかった。

 ぬかるんだ土が、最後の衝撃をすべて吸収した。

 

 ファイアローは反動で飛び戻りながら、モーリの手元へと吸い込まれていく。

 

 次に放たれたのは、ガブリアス。

 

 流れるように出現したその姿は、ファイアローと対照的な重厚さを持っていた。

 雨の中でもその鱗は力強く、爪は鋭く、地を蹴る脚には迷いがなかった。

 

 フィールドには、再び緊張が満ちる。

 

 

 

 

 雨音の中に、別のリズムが割り込んだ。

 

 次に現れたのは、フローゼルだった。

 水を纏ったような滑らかな体。二本の尾が地面を叩き、戦意を示すように跳ねる。

『すいすい』雨を受けたこのポケモンは、今や誰よりも速い。

 

 すでにその動きには、鋭さと強さが滲んでいた。

 レイカが繰り出す、本気の切り札。

 

「『クイックターン』」

 

 雨を切り裂くように、フローゼルが地面を滑る。

 その一撃は、まるで水の槍のようにガブリアスの腹部をかすめていく。

 

 ガブリアスは咄嗟に体をひねって正面衝突を避けたが、雨で滑る足元に体勢が崩れる。

 フローゼルはその勢いのまま旋回し、レイカの手元へと戻っていった。

 

 すぐさま繰り出されたのは、再びのハッサムだった。

 鋼の体に雨粒を跳ね返しながら、鋏をゆっくりと構える。

 その動きに、さきほどよりも隙はなかった。

 

 モーリはわずかに目を細めて、静かに言う。

 

「『じしん』」

 

 ガブリアスが鋭く地を蹴った。

 刹那、空気が震える。

 

 一直線に踏み込んだガブリアスは、ハッサムの懐に肉薄すると、

 そのまま体重を乗せて片脚を振り上げ、ハッサムの肩口を思い切り踏みつけた。

 

 踏み込んだ足が、雨に濡れた地面を砕く。

 鈍く響く衝撃音と共に、大地全体が小さく震えた。

 

 技名の通り、地を揺るがすその一撃は、単なる遠距離技ではない。

 肉体による打撃と、周囲に広がる衝撃波の複合。

 

 ハッサムの足が一歩後ろへズレた。

 鋏がわずかに開いたまま固まり、呼吸が乱れる。

 

 持ちこたえた。だが、その足元は泥に沈みかけている。

 その耐久力を、誇りを、かろうじて支えているだけだった。

 

 ガブリアスが低くうなり、体を少し傾けた。

 次の一撃を放つ態勢ではない。

 

 モーリは迷わず、手を動かした。

 

「戻れ」

 

 ガブリアスが身を引き、ボールの中に戻っていく。

 入れ替わるように投げられたのは、再びのファイアローだった。

 

 雨がまだ残る空に、その細身の体が滑り出すように現れる。

 濡れた翼の羽ばたきが雨粒を四方に飛ばしながら、空中で旋回した。

 

 それを見たレイカは、すぐに次の手を打った。

 

「『つるぎのまい』」

 

 ハッサムが鋏を大きく広げ、体をかがめて構えを取る。

 雨の中、動きは鈍く見えるはずなのに、その動作には静かな迫力があった。

 

 鋏が交差するたび、雨粒が弾け、金属音のような響きが空気を震わせる。

 それはまるで、刃が研ぎ澄まされていく音のようでもあった。

 

 次の攻撃には、倍の重さと、倍の速さが宿る。

 その鋏が何を狙うのか、ファイアローは、まだ羽ばたきを止めなかった。

 

 

 

 

「『バレットパンチ』」

 

 ハッサムが音を置き去りにする速さで飛び込む。

 鋏の一撃がファイアローの肩をかすめ、濡れた羽が鋭く裂けた。

 

 ファイアローはそれでも、翼を折らなかった。

 小さく体をくるりと旋回させて高度を取り直すと、空中で羽ばたきを止め、ほんの一瞬、風の中に身を浮かせる。

 

 モーリは短く言った。

 

「『にほんばれ』」

 

 その声と同時に、ファイアローの羽が広がる。

 まるで空を抱くように。

 

 風が変わった。

 

 空は相変わらず雲ひとつない快晴。

 だが、バトルフィールドの空気だけが変質する。

 

 これまで冷たく降り続けていた雨が、ふと止まった。

 静寂。

 次の瞬間、光が差した。

 

 ファイアローの翼の縁が金色に照らされ、濡れた地面に落ちた雨粒が光を反射する。

 まるでその場だけ、別の季節が訪れたかのように。

 

 レイカの表情がわずかに動く。

 目を細め、唇をかすかに結ぶ。

 

 雨を断ち切った。

 その意味を、彼女は誰よりも知っていた。

 

 鋏を構えるハッサムの前で、ファイアローはゆっくりと旋回をはじめる。

 湿気を失いかけた風が、冷たく背中を撫でていく。

 

「『バレットパンチ』」

 

 再び、ハッサムの鋏が閃いた。

 つるぎのまいを積んだその一撃は、まるで弾丸のような速さでファイアローを貫いた。

 

 翼を広げたまま、ファイアローの体がくるりと空中で回転する。

 先ほどまで晴れ渡っていた空の光が、濡れた羽根の隙間をすり抜けてきらりと光った。

 

 ふわりとした落下。

 羽ばたく力もなく、ただ風に委ねるように地面へと降りていく。

 

 泥を巻き上げることもなく、ファイアローは静かに着地し、そのまま動かなくなった。

 

 モーリはゆっくりとボールを構え、何も言わずにファイアローを戻した。

 指先に残る熱と、肩にかかった湿気が、戦場にまだ雨の名残を漂わせていた。

 

 だが、確かに変わった。

 空はもう、晴れていた。

 

 

 

 

 モーリは黙ったまま、ファイアローのボールを下げ、もう一つのボールを握り直した。

 ガブリアス。

 

 鋭く、重い足音が一歩ずつ地面を鳴らし、戦場に戻る。

 雨が上がった今、その鱗はほんのりと太陽を反射し、砂の熱を纏っているようだった。

 

「『バレットパンチ』」

 

 鋏が、迷いなく振るわれた。

 素早く、重い打撃がガブリアスの肩をかすめる。

 それでも彼は一歩も引かず、低く腰を落として踏みとどまった。

 

 そのまま、モーリが静かに告げる。

 

「『スケイルショット』」

 

 ガブリアスが咆哮を上げる。

 次の瞬間、体をひねりながら飛び上がり、鋭い鱗を次々と射出する。

 

 音を立ててハッサムの装甲に鱗が突き刺さる。

 一枚、また一枚。

 連続で叩き込まれた鱗が、甲殻を破り、鋏を弾き、ハッサムの体を後ろへ押しやった。

 

 その場に突き立てられた最後の一撃で、ハッサムの体がわずかに浮き、

 重力に引かれるように膝をつく。

 

 そのまま崩れ落ちるように、ハッサムは地面に伏せた。

 

 戦闘不能。

 

 だが、ガブリアスは止まらない。

 鱗を飛ばした直後の呼吸の中で、明らかにその動きが軽くなる。

 

 体重が乗るのではなく、風に乗るように、次の動きに向けて加速していく。

 スケイルショットの副効果で速度を上げる。

 

 次に来る敵のことを、すでに見据えていた。

 

 

 

 

 ハッサムが沈んだあと、レイカはすぐにボールを構えた。

 再びフィールドに送り出されたのは、フローゼル。

 

 その体は既に雨の恵みを失っていた。

 今、空は明るく、ファイアローが残した陽射しが濡れた地面に静かに染み込んでいる。

 

 『すいすい』の恩恵はない。

 それでもフローゼルの目には、わずかな迷いもなかった。

 

「『アクアジェット』」

 

 鋭く飛び出す水の音と同時に、フローゼルの体が白い線を描いた。

 水流に乗って突っ込んでくるその姿は、陽に照らされ、まるで光そのもののようだった。

 

 反応より速い。

 速さを得たガブリアスでさえ、その動きには追いつけなかった。

 

 体当たりの衝撃が腹部を直撃し、ガブリアスの体が後方へ跳ね上がる。

 着地の足が一歩足らず、地面に膝を落とす。

 

 その瞬間、ガブリアスが静かに顔を上げた。

 真っ直ぐに、モーリの方を見つめる。

 

 その瞳は、痛みでも悔しさでもない。

 静かに、託すような目だった。

 

 モーリは、一歩も動かないまま、その視線をしっかりと受け止めた。

 口元は引き結ばれたままだったが、ほんのわずかに頷いた。

 

 ガブリアスはそのまま崩れるように倒れ、立ち上がらなかった。

 

 

 

 

 モーリは無言のまま、次のボールを構えた。

 そして、ためらうことなく放つ。

 

 フィールドに現れたのは、ブニャット。

 

 雨に濡れ、泥に染まりながらも、ふてぶてしいその佇まいは少しも崩れていない。

 かすかに首を振り、尻尾を一度巻くようにして動かすと、フローゼルをじっと見つめた。

 

「『ねこだまし』」

 

 ブニャットが足を踏み出し、軽く尻尾を跳ね上げる。

 フローゼルの前で、予備動作すら見せずに前足を振ると、ぴしゃりと鼻先を叩いた。

 

 フローゼルの体が一瞬硬直する。

 軽い牽制にすぎないはずの動きだったが、空気を断ち切るような鋭さがあった。

 

 間を取った。

 

 その静寂に、モーリの声が重なる。

 

「『さいみんじゅつ』!」

 

 ブニャットの目が細くなった。

 その瞳が、雨上がりの空のように、静かに揺らめく。

 

 フローゼルはふと足を緩める。

 まぶたが落ち、姿勢がわずかに前へ傾いた。

 

 その瞬間、レイカが小さく息を呑む。

 

 おかしい。

 

 フローゼルは、素早さで言えばブニャットより速いはずだ。

 それが、先手を取られた。

 そして何より、モーリの指示は、その速さを確信していたようなものだった。

 

 レイカは眉を寄せた。

 自分とモーリの間にある、“現実”の距離が、思いがけず露わになった瞬間だった。

 

 眠ったフローゼルの体に、ブニャットがするりと歩み寄る。

 

「『いかりのまえば』」

 

 爪先が滑るように動き、前足がフローゼルの胸元をかすめた。

 軽く、だが深く。

 その一撃で、フローゼルの体力は半分近く削り取られる。

 

 だが、その直後。

 

 フローゼルのまぶたがふいに開いた。

 眠っていたはずの目に、再び光が戻っている。

 

 その速さに、モーリも一瞬だけ目を見開いた。

 

 起きた。

 

 フローゼルの体に再び緊張が戻る。

 眠りから覚めたその瞬間、足元の水を弾き、構えを取った。

 

 鋭く、速く、ためらいなく。

 

「『アクアジェット』」

 

 レイカの声が落ちると同時に、フローゼルの体が水流を纏って前に滑り出す。

 今度こそ、狙いは定まっている。

 起きた直後とは思えない、完璧な踏み込みだった。

 

 だが、その瞬間。

 

「『ふいうち』」

 

 モーリの声が先に届いた。

 

 ブニャットが半身をひねる。

 その巨体からは想像もできないほどの速度で、雨に濡れた前足が地面を蹴る。

 足元の泥を巻き上げ、鋭い角度でフローゼルに斬りかかる。

 

 両者の間合いが、ほんの一瞬だけ重なった。

 

 次の瞬間。

 

 フローゼルの体が、風のなかで一回転し、そのままくるりと横に流れた。

 アクアジェットの勢いを失ったまま、無音のまま倒れ込む。

 

 泥が跳ねた。

 そして、静かになった。

 

 

 

 

 

 ブニャットは、肩で息をしていた。

 戦いが終わったその場所で、泥まみれの身体を丸めながら、重たく呼吸を繰り返している。

 まぶたの奥にまだ火花の残滓があるようで、瞬きひとつにも疲労がにじんでいた。

 

 それでも立っていた。

 大きく、ずっしりと、フィールドの中心に残るようにして。

 

 モーリは黙っていた。

 勝ったのだと、頭では理解している。

 だが、その実感はどこか遠く、うっすらとした霞のように指先からこぼれていく。

 

 今、この勝利には、確かに自分だけの力ではない何かがあった。

 

 ファイアローが、ガブリアスが、ブニャットが。

 それぞれが、モーリの意図を越えて、動き、意思を重ね、勝利を掴んでくれた。

 否、それもあるかもしれない、だが、もっと感じたのは、彼らの意図を、ある程度汲むことが出来たということだ。

 

 そう、息が合っていた。

 だからこそ、この勝利は手に届いたのだ。

 

 ふと、視線がレイカに向く。

 レイカは、その場に立ち尽くしていた。

 

 濡れたマフラーと手袋は、足元の泥の中に捨てられている。

 白かったマフラーは茶色く染まり、手袋は水を吸ってぺたりと地面に貼りついていた。

 

 レイカ自身も、微動だにしていない。

 ロングコートは水を含み、その裾からは絶え間なく水が滴っていた。

 首元の布地が肌に貼りつき、肩は細かく震えていた。

 

 髪が頬に張りついている。顔は、見えない。

 

 思い出していた。

 あの時、あの場所で、自分が崩れ落ちた日のこと。

 目の前にいる彼女は、その頃と同じなのだと思う。

 

 風が吹く。

 冬の、冷たく乾いた風だった。

 だが、水を吸ったコートははためかない、ただ、彼女の熱を奪うだけ。

 

 モーリはゆっくりと歩を進めた。

 その足元の泥は、戦いの余熱を失いかけていた。

 

 わずかな距離を保ったまま、彼は言った。

 

「……風邪ひくぞ」

 

 レイカは反応しなかった。

 

 数秒の間が空いた。

 やがて、彼女の口から、ぽつりと声が落ちる。

 

「うるさい」

 

 それは、いつものように鋭い声ではなかった。

 張りつめた何かが、今にもほどけそうな、頼りない言葉だった。

 

 モーリは一歩だけ前に出て、そっと手を伸ばす。

 

 手袋はもうなかった。

 代わりに、コートの袖口ごしに、その手首を掴む。

 

 布越しでもわかる。冷たい。

 濡れて、細くて、軽かった。

 

 レイカはそのまま動かない。

 手を振り払うこともなく、ただ風に吹かれていた。

 

 目も、合わない。言葉も、来ない。

 けれど、それでも、モーリは手を離さなかった。

 

 かつて、自分が打ちひしがれた日のことを思い出す。

 誰も自分を止めてくれなかった、あの瞬間の孤独。

 

 だから今は、この手を離してはいけないと、どこかで感じていた。

 

 慰めじゃない。説得でもない。

 ただ、ここにいるという事実だけを、届けるように。

 

 

 

 

 二人は、言葉を交わさないまま歩き出した。

 

 ブニャットはすでにボールに戻っている。

 勝敗はついた。だが、道にはまだ答えが落ちていなかった。

 

 冬の風が吹いていた。

 街路樹の枝が揺れ、遠くで何かが軋む音がした。

 

 レイカの歩幅はいつもより小さく、足取りは重かった。

 コートの裾が濡れ、動くたびに水気を含んだ布が重たく揺れている。

 髪の先から雫がこぼれ、それが舗装された道に無言で落ちる。

 

 モーリは、ほんの一瞬だけ、その様子を横目で見た。

 けれど、何も言わなかった。

 

 並んで歩くだけだった。

 その距離が、いまは全てだった。

 

 空にはまだ明るさが残っている。

 けれど風は、季節の深まりを確かに告げていた。

 ぴたりと手が触れ合うこともなく、二人の影だけが、わずかに重なり合って進んでいく。

 

 

 

 

 玄関のドアが開いたとき、家の中の暖かい空気が、冷たい風とぶつかった。

 レイカの肩がほんのわずかにすくむ。

 

「……え? なにそれ、ちょっと、レイカちゃん?」

 

 キッチンから顔をのぞかせたモーリの母の声が、思わず上ずった。

 濡れた髪に泥の跳ねたコート。マフラーも手袋も文字通り泥に落としたようだった。

 彼女の目がその姿をひととおり確認すると、眉をひそめてすぐさま足を動かした。

 

「バトルで……ちょっと」

 

 モーリが説明しかけたが、

「そんなことより、早くお風呂入って」

 母の声が重なるようにして割って入った。

 

 その目は、一言で言えば“今”しか見ていなかった。

 

 モーリは言葉を飲み込み、唇をわずかに噛む。

 

「タオルあるから。レイカちゃん、これ使って。……服、あとで持って行くわね」

 

 レイカは何も言わなかった。

 視線は床に落ちたまま、タオルを静かに受け取る。

 ほんの少しだけ、うなずいたようにも見えた。

 

 濡れたコートの裾からしずくがぽたりと落ちる音がして、

 レイカはそのまま、ふらりと浴室の方へと歩いていった。

 

 背中越しに、まだ何の言葉もなかった。

 

 

 

 

 レイカが脱衣所の奥に消えたあと、家の中には静けさが戻った。

 湯沸かし器の控えめな音だけが、どこか遠くで響いている。

 

 モーリは居間の隅に腰を下ろし、ブニャットの濡れた毛並みにタオルをあてがっていた。

 ごしごしと拭くわけでもなく、ただ布を当ててはなでるようにして、水気を落とす。

 ブニャットはされるがまま、気怠げに目を細めていた。

 

 コートとシャツは脱いで乾いたものに替えてある。

 頭もざっとタオルで拭いたが、まだ湿っていて、うなじに冷気が残っていた。

 

 しばらくして、キッチンの方から母親の足音が近づいてきた。

 モーリが顔を上げるより早く、エミが静かに口を開いた。

 

「……あの子、どうしてあんなに濡れてたの?」

 

 その声に責める色はなかった。

 ただ、状況を理解しきれないまま、ひとつずつ辻褄を合わせようとするような声音だった。

 

「なんで、あんたと一緒にいて、あんなふうになってるの?」

 

 モーリは手を止めた。

 少し間を置いてから、タオルの端を強く握ったまま、ぽつりと答える。

 

「バトルをしたんだ。ほら、レイカって、『雨』だから」

 

 エミは黙っていた。

 その言葉の意味を、すぐには飲み込めないという顔をしていた。

 

「『雨』って、どういうこと?」

 

 真剣なまなざしだった。

 咎めるでもなく、詰め寄るでもない。ただ、まっすぐに息子の言葉を求めていた。

 

 モーリは返事をしないまま、目を伏せた。

 エミの頭には、朝、おずおずと訪れてきたレイカの姿が残っている。

 

 よく整えられた髪。真新しいブーツ。白いマフラー。

 戦うための格好ではなかった。

 それは、きっと「会いに行くため」の服装だった。

 

 エミはそれを口には出さなかった。ただ、目を細める。

 

 やがて、モーリが小さな声で言った。

 

「トレーナーだから」

 

 けれどその言葉に、自分自身が納得できなかったのかもしれない。

 わずかに息を呑み、目をそらしながら続けた。

 

「いや。俺が悪いんだ」

 

 タオルの中のブニャットが、くしゃみをひとつした。

 

 エミはそれを見て、わずかに口元をほぐしながら、モーリをしばらく黙って見ていた。

 何かを察していた。けれど、あえて何も言わなかった。

 

 その代わり、短く言った。

 

「モトマサが悪いのなら、ちゃんと謝っておきなさいよ」

 

 それだけ告げて、エミはゆっくりとキッチンの方へ戻っていった。

 モーリは返事をしなかった。ただ、もう一度タオルを持ち直し、ブニャットの背を軽く撫でた。

 

 

 

 

 リビングに戻ると、こたつには先客がいた。

 

 モーリのスウェットにすっぽりと体を包んだレイカが、右手でコラッタの背をゆっくり撫でていた。

 こたつの上には、湯気を立てるマグカップ。中身はエネココアだ。

 

 レイカはちらりとこちらを見て、そっけなく言った。

 

「あんまり見んな、スケベ」

 

 その言葉にモーリは、視線を慌ててそらした。

 洗濯物が干されている方向に彼女の目線が流れたのを見て、理由を察する。

 その一言の響きに、ほんの少しだけ、レイカが戻ってきた気がして、息をついた。

 

 それでも、どう声をかけていいのかはわからなかった。

 モーリは黙ってこたつに足を入れ、向かいに腰を下ろした。

 

 二人の間には湯気と沈黙がただよう。

 時間がゆっくり流れたあと、先に口を開いたのはレイカだった。

 

「なんで、強くなってんのよ」

 

 モーリは一瞬、問いの意図を測りかねたが、すぐに応じる。

 

「合宿とか、したから」

 

 レイカは、ぷっと噴き出すように笑った。

 

「なにそれ」

 

 そのまま、エネココアをひと口すすると、マグカップの縁に口元をつけたまま、ぽつりとこぼした。

 

「逃げなくて、良かったじゃん」

 

 ふう、と湯気を吹く。

 

「あんな田舎に行ってさ、それでも強くなった。時間の無駄じゃん」

 

 モーリは首を横に振った。

 

「いや、多分、無駄じゃなかったんだと思う」

 

 レイカはすぐに言葉を返さなかった。

 コラッタの小さな背に手を滑らせながら、ふうっと小さく息を吐く。

 

「モーリはさ、全然半端じゃないんだよ、きっと」

 

 コラッタの背中をくすぐって、続ける。

 

「強くて、勉強できて、それって全然半端じゃないでしょ」

 

 モーリは答えなかった。

 それが褒め言葉なのか、ただの観察なのか、うまく受け止めきれなかった。

 

 こたつの中で足が偶然触れた。どちらも引っ込めなかった。

 

 湯気の中、静けさが心地よく続いた。

 

 やがて、レイカが何気ない調子で言った。

 

「あたしは、八つ目のバッジ、取りに行くよ」

 

 モーリは短く、でも真っ直ぐにうなずいた。

 

「おう。頑張れ」

 

 それだけで充分だった。

 それが、今の二人にとって一番自然な言葉だった。

 

 しばらくして、レイカがふと思い出したように言う。

 

「そういえばさ、好き好きビームの子とはどこまで行ったのよ」

 

 モーリの手が一瞬止まった。

 

「そういうんじゃ」

 

 その反応だけで、すべてを察したようだった。

 

 レイカはいたずらっぽく笑い、軽く肩を揺らして言った。

 

「ヘタレ。スケベヘタレ」

 

 モーリは反論もせず、肩をすくめただけだった。

 その様子にレイカは満足げにココアをすする。

 

 こたつの隅では、ブニャットが丸くなりながら寝息を立てている。

 鼻先をふるわせ、一度くしゃみをしたあと、モーリの足にくっついて再び眠りに落ちた。

 

 コラッタもこたつ布団の端で丸まり、レイカの手の中でときおりぴくりと尻尾を動かす。

 

 すべてがうまくいったわけじゃない。不安はある。

 でも今は、それでもいいと思えた。




次回5/7 18:01予定

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