『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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30-俺と『俺』

 教室の窓には、うっすらと結露が残っていた。

 暖房のまとわりつくような温かさが肌に残り、冬休みが終わったことを空気そのものが告げている。

 制服の下に着こんだインナーを一枚脱ぎそびれたのか、モーリは首元に小さな違和感を覚えていた。

 

 廊下を行き交う生徒たちは、まだペースを取り戻せていないのか、いつもより口数が少ない。

 モーリの席の前には、すでに荷物を広げていたミマが座っていた。背もたれに寄りかかり、携帯端末をいじりながら、ちらりと目だけをこちらに向ける。

 

「冬休み、どうだった?」

 

 唐突な問いに、モーリは少しだけ考えてから答える。

 

「まあ、いろいろあったよ」

「『いろいろ』ってなんだよ。なんかこう、あんだろ? 恋バナとかさ」

 

 ミマがニヤニヤとからかうように言うのを、モーリは無視する。いつものことだ。

 それ以上の詮索が来る前に話題を変えようとしたところで、珍しくモーリの背後から声を掛ける者がある。

 

「モーリ、ちょっといいかな」

 

 声の主はムラナカだった。ノートを抱えたまま、控えめに立っている。

 

 モーリは軽く手を挙げて立ち上がる。

 

 

 

「この前の話、覚えてる?」

 

 廊下に出ると、ムラナカは開口一番に言った。

 モーリはその話題に心当たりがある。

 

「絵のモデルってやつか?」

「そう。テーマが決まったから、次の休みにお願いしたいんだ」

 

 モーリはうなずく。

 

「構わないけど、場所は美術室か?」

「うん。あとね、ポケモン、三匹全部、連れてきてくれる?」

「三匹、ブニャットと、ガブリアスとファイアロー?」

「そうそう」

 

 ムラナカはそれ以上は語らず、「よろしく」とだけ言って微笑む。

 その笑みには、これまでとは少し違った。どこか『覚悟』のような色が宿っていた。

 

 

 

 

 週末の午前、美術室のドアを開けた瞬間、モーリは思わず足を止めた。

 

 いつもの美術室とは少し空気が違っていた。

 窓から差し込む冬の光が、床に斜めの帯を落としていて、空気が張りつめているように感じる。

 部屋の中央には、教室の備品とは思えないほど大きなキャンバスが据えられ、その前にはスケッチ台と丸椅子が二つ。

 ムラナカが一人、その前に立ち、鉛筆の先でゆっくりとキャンバスの縁をなぞっていた。

 

「思ったより、でかいな」

 

 何気なく漏れた独り言に、ムラナカは顔を向けずに答えた。

 

「君たちを収めるには、これくらい必要だと思って」

 

 モーリは少しだけ頷いて、奥へと進む。

 ブニャットはすでにモンスターボールから出ていて、美術室の隅で毛繕いをしていた。

 

「ブニャットはここに乗って」

 

 ブニャットはムラナカが指さした丸椅子に素直に飛び乗ると、椅子の軋む音を気にすること無く器用にバランスを取ってくつろぐ。

 

「他のポケモンは?」

「出したければ出していいよ、でもあくまで主役はブニャットと君だから」

「連れてこいってお前が言ったんだぞ」

 

 ガブリアスとファイアローも呼び出され、壁際の床に静かに立つ。まるで、展示物のように大人しい。

 

「モーリ、そこに座って。ブニャットを見る感じで」

 

 ムラナカが指差したのは、ブニャットの正面に置かれた丸椅子だった。

 

「俺も座るのか?」

「そう。向かい合ってくれたほうがいい。いまの君たちを見て、そう思った」

 

 モーリは少し肩をすくめながらも、言われたとおり椅子に腰を下ろした。

 ブニャットは椅子の上で器用に丸くなり、尻尾を揺らしている。緊張感もなければ、構図を意識する様子もない。その自由さがかえって『らしい』と、モーリは思った。

 

「なんか、構図が地味じゃないか?」

 

 遠慮がちに投げた言葉に、ムラナカは間を置かずに返した。

 

「いや、これでいいんだ」

 

 迷いのない返事だった。

 

「でも、コンクールに出すんだろ? こんなにでかい紙に、俺とブニャットと、隅にもう二匹だけってさ」

「テーマは『ポケモンと人間』だよ。逸脱してない。それに、描きたいのは『数』じゃないんだ」

 

 モーリは少し口を閉ざす。何か言い返すほどの理屈は思い浮かばなかったし、なによりムラナカの目が真っ直ぐだった。冗談も牽制もなく、ただ純粋に『描くこと』に集中している目だった。

 

「まあ、お前が良いなら、いいけど」

 

 そう呟いてから、モーリは再びブニャットのほうへ視線を向けた。

 相変わらず、こいつは気ままで、勝手で、でも、どこかしっくりくる空気を持っていた。

 最近ようやく、それを『愛着』と言ってもいい気がしている。

 

 

 

 

 鉛筆がキャンバスの上を滑る音だけが、静かな教室に響いていた。

 ムラナカは何本かの線を描いたあと、不意に手を止めた。

 そして、椅子越しにこちらを見つめながら口を開く。

 

「モーリ、絵って何だと思う?」

 

 問いかけの声は、思ったよりも静かだった。

 モーリはその言葉を、いわゆる芸術家気取りの言葉遊びだと思った。

 故に、皮肉的なユーモアで返す。

 

「絵は、絵だろ」

 

 だが、ムラナカはひるまない。

 

「そうだね。じゃあ、『何が』絵だと思う?」

 

 何が、ってなんだよ。モーリは眉間にシワを寄せたまま、答えに詰まる。

 ムラナカは、別にすぐに答えを求める様子はなく、穏やかに続けた。

 

「そこにあるものを捉えるだけじゃ、絵にはならない。それは写真の仕事だ」

「へえ、なるほどね」

 

 モーリはまだ半分茶化すような口調で言うが、ムラナカは真面目だった。

 

「絵っていうのはね、極めて四次元的なものなんだ。タテ、ヨコ、奥行きに加えて、いくつもの要素を積層する。たとえば、時間、狂気、虚構、悲哀」

「なに言ってんだ、ほんとに」

 

 鉛筆を持っていた手を止めて、ムラナカはゆっくりとこちらに目を向けた。

 

「モーリ、僕は君がブニャットに抱いてる『感情』を描きたい」

 

 その言葉は、鉛筆の音すら静まり返った空間に、ぽつりと落とされた。

 それを聞いたモーリは、一瞬だけ目を見開いて、それから小さく鼻を鳴らした。

 

「感情を?」

 

 肩越しに振り返るようにして言うと、ムラナカはうなずく。

 

「そうさ」

「馬鹿言えよ、感情を絵に描くだって?」

 

 軽口のように言ったつもりだった。だがムラナカの顔は、真剣そのものだった。

 彼の手にはまだ鉛筆が握られているが、それはキャンバスから遠ざけられ、完全にこちらへと向けられていた。

 

「それを目指すことは、絵画において普遍的なテーマだよ」

「どうやって?」

 

 モーリが眉をひそめると、ムラナカは軽く指を振った。

 

「それなりの技法を使えば、難しいことじゃない。たとえば漫画で、男を見る女の頬に赤面を示すトーンが貼られていたら、それは恋愛感情を意味してる。なぜか? 頬を赤らめていれば、それは恋愛感情であり、そうじゃないときには、そのトーンを使わないからだ。尤もそのようなお約束を逆手に取って、例えば冬場にラーメンを食べながら微妙な関係の会話を描くことだってあるだろう。だけどそれは、結局のところ『頬に貼ったトーン』が恋愛感情を表していることの前提がある」

 

 モーリは、思わず口を閉ざす。確かに、と納得しかけた。

 

「現実だって、似たようなもんさ。言葉にしなくたって、ある程度の感情って、見てとれるでしょ。たとえば、君のことを誰が好いてるか、とか」

 

 その言葉に、モーリは露骨に背筋を伸ばした。

 鼻で笑ってごまかすように顔をそらすが、すぐに視線をブニャットに戻す。

 椅子の上で丸くなっていたブニャットが、その空気を読んだのか、尻尾をぱたんと揺らした。

 

「ああ、モデルだからって固まらなくていいよ。むしろ積極的に動いてくれたほうが助かる。いい瞬間は覚えておくから。良いものは記憶されるんだ。あの戦争を描いたバカでかい絵画にモデルの写真があるわけ無いじゃないか」

 

 ムラナカの声は相変わらず静かだったが、どこか楽しんでいるような響きもあった。

 

「もちろん、現実はその逆もしかり。誰かが君のことを好いているとして、それが君に伝わらないように、わざと見えないようにしてる場合もある」

 

 モーリは目を細めて、ムラナカを見つめた。

 

「遠回しに言うなよ。回りくどい」

「そういうの、君は好きじゃないよね」

 

 ムラナカは小さく笑うと、再び筆記具を持ち直した。そして、少しだけ姿勢を正す。

 

「でもね、モーリ。僕の知る限り、君はこの学校で『最も複雑な感情』を持っているトレーナーだと思う」

 

 モーリは目をしばたいた。

 

「俺が?」

「そう。たとえば、スズモトさんとフシギダネは『友人』。タケダさんとケッキングは『甘え』。コウヌくんとマリルリは『愛着』。オーアサさんとブーピッグは『対等』。どれも、描きやすい関係性だよ」

 

 ムラナカは鉛筆の尻で膝をとんとんと叩く。

 

「でも、君とブニャットの関係は違う。『相棒』『信頼』『引け目』いろいろな感情が混ざってるように見えるけど、そのどれもが絶妙に違う。だからこそ知りたい。描きたいんだ。ちょうど探検家が、前人未踏の地を目指すように」

 

 そのたとえに、モーリは苦笑をこぼす。

 

「つまり、俺がブニャットに何を思ってるか、言えと」

「まあ、そういうことだね」

 

 モーリは、もう一度鼻を鳴らした。

 

「それはしんどいな」

「そうだろうね」

「ここで全裸になれって言われたほうが、まだマシだよ」

 

 ムラナカは肩をすくめた。

 

「それじゃコンクールには出せないなあ」

「他のもんじゃダメなのかよ」

「描いてもいいけど、それは僕の『本当に描きたいもの』じゃない」

 

 沈黙が落ちた。数秒か、あるいはもっと長く。

 モーリはゆっくりと息を吐いてから、視線をブニャットに向けた。

 

「『謝罪』だよ」

 

 ムラナカは鉛筆を止めた。

 

「謝罪?」

「ジム巡りに参加させなかった」

 

 モーリはそうつぶやき、ブニャットの揺れる尻尾を眺めて続ける。

 

「いや、もっと前からか。あいつを弱いポケモンだと勝手に決めつけて、視野に入れず、家に置きっぱなしにして。ずっと放置してたんだよ」

 

 ブニャットはモーリの丸椅子の上で、まるで何も聞いていないような顔で前足を舐めていた。

 

「それって『謝罪』以外に言いようがないだろ」

 

 その言葉のあと、ムラナカはゆっくりと、一筋だけ線を引いた。だが、続けなかった。

 鉛筆の先を紙から浮かせたまま、目だけでモーリを見る。

 

「違う」

 

 モーリは眉をひそめた。

 

「違う?」

「それだけじゃない。絶対に、何かある。僕が、いや、君自身すらも、まだ気づいていない感情があるはずだ」

「馬鹿言え」

 

 声が、思ったよりも強く出た。モーリは立ち上がって、ムラナカを睨みつける。

 その気配に、ブニャットもぴくりと顔を上げたが、それ以上は動かない。

 

「お前に何がわかるんだよ。お前に!」

 

 ムラナカは一歩も引かず、淡々と答えた。

 

「ああ、わからない。だから君に聞いてる」

「だから、『謝罪』だって言ってんだろ!」

 

 ムラナカは、そこで声を張り上げた。

 

「だったら、僕はそれを描くぞ!」

 

 鉛筆を握ったまま、ムラナカは立ち上がる。彼にしては珍しい、感情の高ぶりだった。

 

「君がブニャットに『謝罪』してるところを描くぞ! ちゃんと描く! そしたら多分、賞が取れる! この学校に展示される! 皆が見る! 生徒も先生も外部の人も、みんなが見る!」

 

 ムラナカは両手を広げる。

 

「『ああ、モーリはブニャットに謝ってるんだな』って、ひと目でわかるぞ!」

 

 更に続ける。

 

「本当に、それでいいのか!? 本当に、君は心の底からひれ伏して、ブニャットに謝罪しているのか!? それで良いのかい! 君がブニャットに持っている『感情』が謝罪だって皆に思われて、それで良いのかよ!」

 

 その勢いに、モーリは何も言えなかった。

 否定したかった。反論したかった。けれど、どの言葉も、口の奥で崩れていく。

 

 しかし、ちからずくで、それを否定できるはずだった。

 

 モーリにとって、ムラナカは取るに足らない存在であるはずだ。

 たしかにエビワラーは強いが、ガブリアスやファイアローに敵うとは思えない。どう頑張ってもファイアローの『ブレイブバード』が先手を取り、彼らをぐちゃぐちゃにするだろう。

 

 だが、モーリはそれを出来なかった、やらなかった。彼は椅子にドカリと座り込むと、ムラナカを睨みつけるだけだ。

 

 なぜそれをしなかったのか。

 

 それはモーリが優しいからか、否、そうではない。

 怒っていたのではない。悔しかったのでもない。

 

 ムラナカの言葉を、否定しきれなかったのだ。

 

 静けさが戻った美術室で、ムラナカの問いが再び投げかけられる。

 

「なぜ、ブニャットをこの地方に連れてきたんだい?」

 

 静かな声だった。感情を荒げた先に、真実だけを引き出そうとする、穏やかな声。

 

 モーリはしばらく答えず、ゆっくりと顔を上げる。

 

「モモナリさんに言われたからだよ。『最初に手に入れたパートナーと旅をしてみなさい』って」

 

 ムラナカは首を横に振る。

 

「それは、違うと思う」

 

 その反応に、モーリは黙ったまま続きを待った。

 

「あの日、君からそれを聞いたときから、ずっと、その言葉に違和感があった。だってそうだろう。君はバトルから離れようとしたのに、何故か今までずっと家に預けていたブニャットをわざわざボールに入れてこの地方に来た、それはどうしてだい」

 

 モーリは目を伏せる。

 

「まあ、自衛のために、一匹くらいは」

「だったら後ろにいるその二匹でよかったはずだ。ガブリアスも、ファイアローも、バトルには向いてる。強いし、扱いにも慣れてる。それなのに、君は『もしものための笛』にはそっちを選んで、日常を一緒に過ごすポケモンには、ブニャットを選んだんだ」

 

 モーリはしばらく考え、少しだけ肩をすくめた。

 

「気まぐれとか、気の迷いだったんだろ。あるだろ、そういうの」

 

 ムラナカは、それには返事をせず、じっとモーリの目を見つめたまま問いを重ねる。

 

「いつ、出会ったんだい?」

「え?」

「ブニャットと、いつ出会った?」

 

 その質問に、モーリはしばらく黙って、やがてゆっくりと語り始めた。

 

「ずっと前だ。まだ俺が子供だった頃。近所の公園で遊んでたときに出会った。あいつ、最初はニャルマーだったんだけど」

 

 モーリの目が、少し遠くなる。

 

「一緒に遊んだ。気がついたら、俺のポケモンになってた。ボールに入れた記憶すら曖昧でさ。でもまあ、楽しかったし、いつの間にか家にもいるようになって、そんな感じだ」

「ゲットしたんじゃなくて、『一緒にいた』ってこと?」

 

 モーリはうなずいた。

 

「そういうこと。ボールはただの携帯用って感じだったな。なんとなく一緒にいて、なんとなく家にいて、なんとなく手持ちになった。俺も、あいつも、たぶんそれで満足してた」

 

 ムラナカは、膝の上で鉛筆を転がしながら言う。

 

「じゃあ、不満はなかったんだ」

「うん、なかったと思う。少なくとも、あの頃は」

「その後は?」

 

 モーリは少し顔を伏せる。

 

「ジム巡りを始めて、ガブリアスやファイアローを貰って……バトルに集中するようになって。気づいたら、ニャルマーは、家にいるのが当たり前になってた」

 

「ジムで一緒に戦おうとは、思わなかったの?」

 

 モーリは即答した。

 

「無いよ。それは非効率なことだと思ったし、何より、あいつが可哀想だと思ったから」

 

 その言葉を聞いて、ムラナカは軽く鉛筆の尻を膝に当てて、とんとん、と叩いた。

 まるで、言葉を探しているようだった。

 

「それってさ」

 

 静かに、しかし確かな口調で続ける。

 

「もしかしてその時も、『ニャルマーのことを考えてた』ってことじゃない?」

 

 モーリはピクリと肩を揺らした。

 だがすぐにそれを打ち消すように肩をすくめる。

 

「そりゃまあ、言い様によれば、な」

「つまり、頭の片隅にはいたわけだ?」

 

 ムラナカの追及は、優しいようで容赦がなかった。

 

 モーリはわずかに目を逸らし、視線を宙に投げた。

 

「そりゃまあ、あるだろ。一応、手持ちにはいたんだし」

 

 ムラナカはその答えに満足したように頷くと、間髪入れずに問う。

 

「そしてその後、負けたんだよね」

 

 それは決して挑発ではなかった。ただ、事実の確認だった。

 けれど、その事実が胸を刺すのは、負けた者だけだ。

 

 モーリは眉を寄せ、唇を強く結ぶ。

 

「あまり、簡単に言うなよ」

 

 声がかすれた。

 悔しさというより、そこに残っている『重み』が、まだモーリの中に沈殿しているようだった。

 

「まあ、そうだよ。負けた。目標が見えなくなって、そしてじいちゃんが死んで」

 

 そこまで言って、モーリは言葉を切った。

 少しだけ呼吸を整えて、ゆっくりと続ける。

 

「ポケモンバトルに固執する理由が、無くなった気がしたんだ」

 

 ムラナカは指先で、まっすぐにモーリを指した。

 

「でも、ほら。やっぱりそこが不思議なんだよ」

「何がだよ」

「完全に消えてるんだよ、バトルに対する執着が。なのに、君はブニャットを連れてきた。『モモナリさんに言われたから』は、間違いだよ」

 

 モーリはその言葉に、しばらく沈黙し、やがて小さく肩を落とした。

 

「まあ、そうかもなあ」

 

 声は、少しだけ素直だった。

 

 そのまま、教室の中に静寂が落ちる。

 鉛筆の音も、椅子の軋みも、誰の吐息もない。けれどその静けさは、むしろ次の一言を際立たせる。

 

「だけどさ」

 

 ふと、思い出したようにモーリが言った。

 

「バトルはしたんだよ、少しだけ」

 

 そう言ったモーリの目は、過去のどこかを見ていた。

 声が少しずつ熱を帯びていく。

 

 ムラナカは目を見開く。

 

「え?」

「ニャルマーと一緒にさ、バトルはしたんだ。だから、進化してる。なかなか進化しないんだよ、ニャルマーって」

「ジムにチャレンジしたのかい?」

 

 ムラナカの声には、驚きと静かな期待が混じっていた。

 

 だが、モーリはかぶりを振る。

 

「いや、まさか。近所の草むらさ。野生のポケモンを相手に。子供の頃と、まったく同じだよ」

 

 そして、そこで、言葉が止まった。

 

 モーリの表情が変わった。

 まるで、心の中に入り込んだ深い洞窟の奥で、なにかを見つけたように。

 

「子供の頃と一緒」

 

 モーリは、もう一度その言葉を繰り返した。

 まるで、反芻するように、何かを確かめるように。

 

「モーリ?」

 

 ムラナカが慎重に声をかける。

 

 そして。

 

「ああ、そうか」

 

 モーリはゆっくりと笑った。

 それは驚きや喜びではなく、長い間見つからなかったものを、ようやく見つけたときの笑みだった。

 

「元に戻っただけなんだ。そういうことだったんだな」

 

 ブニャットが、眠たげな目をしてこちらを見ていた。

 モーリは、自然にその視線を受け止めて、続ける。

 

「これが、素なんだ。これが『俺』なんだ」

 

 その言葉に、ムラナカは息を飲んだ。

 何かが、確かに届いたのを、感じた。

 

 モーリは立ち上がるでもなく、ただ静かに呟く。

 

「ムラナカ、わかったよ。俺、わかった」

「うん」

「ニャーちゃんって、俺にとって『俺』なんだ」

 

 

 

 

 静かだった。

 

 それまで漂っていた緊張感が、ふわりとほどけていく。

 ムラナカは鉛筆を持ったまま、ずっとその場に立ち尽くしていた。

 何かを描くわけでも、声を返すわけでもなく、ただ、そこにあったものを目に焼きつけているように。

 

 そして、ゆっくりと息を吐いた。

 

「すごいね、モーリ」

 

 その声には、僅かな震えと、確かな敬意が含まれていた。

 ムラナカは静かに歩み寄ってきて、キャンバスの前に立つ。

 

「いま、全部見えたよ」

 

 モーリは少しだけ目を細める。まだ心が波打っていたが、ムラナカの目を見て、やっと少し落ち着いた。

 

「じゃあ、もう、いいのか?」

 

 ムラナカは小さくうなずく。

 

「うん。もう大丈夫。目に焼き付けたから。いつでも思い出せる、いつでも描ける」

 

 その一言に、モーリは眉を上げる。

 

「絵に描くんじゃないのか?」

「描くよ。でも、もう『探してる』んじゃない。『描き始める』段階になったんだ。いまの君とブニャットは、今、僕の中で、ちゃんと形になった」

 

 ムラナカはキャンバスを見ながら、少しだけ口元を緩める。

 

「だから、今日は帰っていいよ。もう、十分だ」

 

 モーリは戸惑いつつも立ち上がった。

 すると、床に伏せていたガブリアスが静かに顔を上げ、ファイアローも翼を軽く揺らす。

 ブニャットはというと、すでにストーブの近くで毛づくろいを始めていた。

 

「ありがとな、ムラナカ」

 

 モーリのその一言に、ムラナカは振り返らず、「うん」とだけ答えた。

 それ以上、何もいらなかった。言葉にするには、すでに伝わりすぎていた。

 

 モーリはガブリアスとファイアローをボールに戻し、ブニャットの肩を軽く叩いた。

 

「帰るぞ」と、声をかける。

 

 ブニャットは一瞬めんどくさそうな顔をしたが、すぐに立ち上がって、モーリの足元に寄り添った。

 

「じゃあ、またな」

 

 そう言って教室の扉を開けたとき、ムラナカがぽつりと呟いた。

 

「『俺』か、ふふ、なるほどね」

 

 それは独り言だったのか、モーリに向けたものだったのか。

 けれどモーリは、答えずに扉を閉めた。

 

 廊下には、夕方の光が差し込んでいた。

 その中を、モーリと一匹のポケモンが静かに歩いていく。

 何かが終わり、何かが、確かに始まっていた。




次回5/9 18:01

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