『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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31-燻る僕らの二月

 二月の空気は、まだ冬の名残を引きずっていた。

 外気は冷たく、校舎の窓から吹き込む風が制服の裾をかすかに揺らす。けれど、ただ冷たいだけではない。

 陽の差し方が、ほんの少しだけ柔らかくなってきた気がした。

 木々の枝先は色を取り戻し始め、どこか乾いた空気の中に、春の気配が混じり始めている。

 

 季節の変わり目。

 そして、そんな時期に必ず訪れる、特別な日。

 

 

 

 

「バレンタインだよ、バレンタイン! お前、靴箱、見たか?」

 

 登校して間もなく、ミマの声が教室の空気を弾いた。

 彼は相変わらずの調子でモーリの肩を叩きつつ、勝手に机の中を覗き込む。

 

「うわ、やっぱ入ってんじゃん。モテ男か?」

 

「いや、入ってただけだし」

 

 モーリはわずかに肩をすくめてみせる。

 朝の下駄箱にも、包装紙で包まれたそれらしきものがいくつか入っていたし、机の中にも三つ、いや四つか。

 義理チョコか、ネタか、はたまた。

 

 そこまで考えて、モーリはそれをやめた。

 

 彼はそっとそれらを机の片隅に寄せ、ため息をひとつ吐く。

 

「で、まとめる袋とか持ってんの?」

 

 と、ミマがどこからかビニール袋を取り出して差し出してきた。

 コンビニで貰えるような普通の袋だが、今日に限っては、妙に気恥ずかしい。

 

「いらねぇよ」

「いやいや、必要だって。どれが誰のかわかんなくなるぜ」

 

 ぼやきながら、モーリはビニール袋を受け取る。

 ひとつずつチョコレートを入れていくその動作には、どこか業務的な無愛想さがあったが、それでも手元にかすかな迷いが混じっていた。

 

 ミマは袋をじっと見つめたあと、ふと思い出したように口を開いた。

 

「そういやさ、お前んとこのバトル部、一年のコウヌっているだろ?」

「うん?」

「なんか、すごいことになってるらしいぞ。下駄箱も机も、溢れんばかりにチョコの山。本人より目立ってるって噂」

 

 モーリは思わず吹き出しそうになった。

 

「良かったじゃん、あいつモテたいって言ってたし」

「でも本人は怯えてるらしいぞ。今、手持ちのマリルリが全部食う勢いなんだと。チョコもラッピングも紙ごと」

 

 想像するだけで、情け容赦ない暴食が頭に浮かぶ。

 モーリは吹き出すのをこらえながらも、少し笑顔を浮かべた。

 

 そんな空気の中で、ミマが続ける。

 

「でもさ、お前がモテない理由がねえんだよな。そりゃ来るよ、チョコくらい」

「は?」

 

 モーリが眉をひそめると、ミマは得意げに指を折って語り出した。

 

「まず、顔がいい。都会から来てる。成績もいい。アレがでかそう」

「ちょっと待て、その四番目なんだよ」

「直感」

「やめろ、そういうことは本人のいないところで言え」

「もう言ってるし」

「お前なあ」

 

 呆れながらも、モーリはビニール袋を机のフックに掛ける。

 机の上には、余った包み紙と折れたリボンが転がっていた。

 

「で、他には?」

 

「ポケモンが強い。あと、地元のオニドリルから女の子守った」

 

「それまだ引っ張る?」

 

 ミマが「武勇伝は大事」と笑うその時。ふと、教室の入り口に人の気配があった。

 

 スズモトだった。

 

 彼女は制服の袖口をそっと握りながら、ゆっくりと教室の中に歩を進めてくる。

 その視線はモーリと、彼の手元のビニール袋に向いていた。

 

 言葉はない。けれど、確かな気配があった。

 

 彼女は、無言のまま袋の中へと小さなチョコのパックをひとつ入れる。

 目立たない、お徳用サイズのパック。けれど、その手の動きは慎重で、どこか決意めいていた。

 

 ほんの一瞬だけ、視線が交差する。

 

「お疲れさま」

 

 かすかな声だけが、耳に残った。

 

 モーリが「ありがとな」と返した時には、スズモトはすでに自分の席へ向かっていた。

 その背中を、モーリはしばらく見つめていた。

 

 ミマはぽつりと呟いた。

 

「っぱ、モテ男だなあ」

 

 先ほどよりは静かな、けれど確かな皮肉と羨望が混じった声だった。

 モーリはその言葉に何も返さず、ビニール袋の中を、ただ見つめていた。

 

 

 

 

 放課後の部室棟は静かだった。

 どの部活も活動しておらず、空気には、乾いた夕陽の色が満ちている。

 靴音を響かせながら、モーリは気まぐれに、ポケモンバトル部の部室を訪れた。

 

 鍵がかかっていると思っていたドアは、意外にも半開きだった。

 軽くノックしながら中に入ると、すぐにソファーに座る人影が目に入った。

 

「……あれ」

 

 そこにいたのはイイダだった。

 分厚いパーカーの上からさらにベンチコートを羽織り、ソファーに体を埋めるようにして座っている。

 

「うわ、来た。モーリかよ。めずらしいな」

 

「そっちこそ、何してんですか。今日は活動ないでしょ」

 

「んー、まあ。ちょっと静かなとこでサボりたかっただけさ。推薦組はこの時期、居場所がないんだよ」

 

 苦笑いしながらイイダが言う。

 その横で、モンスターボールがひとつ、ぱちんと音を立てて開いた。

 

「うおっ」

 

 中から飛び出したのはブニャットだった。

 ブニャットは目を細めながらソファーへと近づき、イイダの膝をぐいと押してどかし、空いた中央に堂々と陣取る。

 

「おい、マジで……。譲るけどさあ」

 

 文句を言いながらも、イイダは素直に端へずれる。

 ブニャットはすっかり落ち着いた様子で、ソファーに体を沈めていた。

 

「……決まったんですか」

 

 モーリの問いに、イイダは少し意表を突かれたように顔を上げた。

 

「ああ。クチバにある工業大。推薦でな」

 

「へぇ……意外と、大人しいんですね」

 

「そりゃ、俺だってやるときはやるさ。コツはな、減点されることをしない。それだけ」

 

 モーリは思わず吹き出しそうになる。

 

「それ、先生に言われたことじゃなくて、イイダさん自身の言葉ですか?」

 

「もちろん自分で編み出した金言だよ。笑うなって、ついでに言っとくと、お前も似たようなもんだろ? うまいこと推薦、もらったらしいじゃねえか」

 

「……まあ、そうですけど」

 

 モーリは視線を逸らす。

 その話題になると、どうにも表情が固くなるのが自分でもわかった。

 

「堂々としてりゃいいさ。お前が推薦で決まろうがなんだろうが、それにケチつける奴がいたら、こう言ってやればいい。『じゃあバトルで勝てますか?』ってな。ほとんどの奴が、黙るだろうよ」

 

「……へえ」

 

 言いながらも、モーリの口元にわずかな笑みが浮かぶ。

 イイダの言い回しはいつだって荒いけれど、心のどこかに刺さる。

 

「タマ大の推薦なら、共通テストもそれなりに頑張んなきゃなんねえんだろ? いいなー、お前はまだ戦ってて。俺はもう、年明けからダラダラだぜ」

「それはそれで羨ましいですけどね」

 

 そんなやりとりを交わしながら、ソファーには静かな時間が流れる。

 部室の窓からは夕焼けが差し込み、床の上に長い影を落としていた。

 

 ふと、モーリが口を開く。

 

「……あの、ひとつ聞いてもいいですか」

「ん?」

「秋合宿のことなんですけど。トミノさん、来たじゃないですか。あれ、イイダさんが仕掛けたって聞いて」

「あー……」

 

 イイダは頬をぽりぽりと掻いた。

 その様子は、どこか照れくさそうだった。

 

「別に俺が、あくせく働いたってほどのもんじゃねえよ。サイトー先生に『こんなんやれたら楽しいんじゃないっすかね』って、軽く話しただけ。先生が食いついてくれて、いろいろ段取りつけてくれたってだけの話だ」

「……でも、もう引退する立場じゃないですか。自分が関わらない時期のことまで考えてくれてたってのが、ちょっと意外で」

 

 モーリがそう言うと、イイダは少し目を伏せて、言いづらそうに言葉を探す。

 

「なんていうかさ。せっかくだったからよ、お前にも、ちゃんと強くなってほしかったんだよ」

 

 モーリは目を瞬いた。

 

「俺?」

 

「ああ。お前みたいなやつが、こんな田舎の学校でくすぶってるの、もったいねえだろ。インターハイでも、タマムシ大学でも、リーグでも、どこでもいいからさ、堂々と行きゃいいんだよ。恥じるこたあねえ」

 

 そこまで言って、イイダは少しだけ声を低くする。

 

「お前みたいなのはさ、どんどんどんどん高みに行けば良いわけ。そしたら俺みたいなのはさ『ああ、やっぱりあいつは凄かったんだな』って思えるわけよ。それが自慢になるわけ、指標になるわけ、救いになるわけ」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「燻るなよ、お前みたいなのは」

 

 言い終えたイイダの顔には、確かにほんのわずか赤みが差していた。

 自分でも照れているのだと悟ったのか、すぐに手を振って誤魔化そうとする。

 

「いや、違う違う。なんでもねえ、忘れろ」

 

 けれど、モーリは忘れなかった。

 ゆっくりと立ち上がり、頭を下げる。

 

「……ありがとうございます」

 

 その声は真っ直ぐで、まっすぐだった。

 イイダは驚いた顔を見せ、それから少しだけ、くしゃっと笑った。

 

 

 

 

 部室のドアが、静かに軋んだ。

 微かな音だったが、モーリの耳にははっきりと届いた。

 

 振り返るより先に、気配でそれが誰かを悟る。

 空気の密度が変わったような、静かに満ちてくる気配だった。

 

「……あ」

 

 姿を見せたのは、スズモトだった。

 

 白いマフラーを首元に巻いたまま、少しだけ赤くなった頬が、かすかな冷気を語っている。

 手には、小さな紙袋が握られていた。

 

「おう。お姫様のおな〜り〜」

 

 と、イイダがどこか読んだように声を上げた。

 ソファーから立ち上がり、ふざけた調子で手をひらひらと振る。

 

「はいはい、俺はどこでも邪魔者ですよ」

 

 そんな言葉を残して、スズモトの横をすり抜けて出ていく。

 けれどその背に向けて、モーリは深く頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 イイダは振り返らずに片手を上げ、廊下の静寂に消えていった。

 

 ドアが閉まり、再び、部室に静けさが戻る。

 

 それでも、そこにいる空気だけは、やわらかに温まっていた。

 

「……ちょっとだけ、渡したいものがあって」

 

 スズモトの声は、冬の終わりの空気のようだった。

 冷たいのに、ほんの少しだけあたたかい。

 

 小さな紙袋を差し出す。

 リボンはきゅっと結ばれ、少しだけ歪んでいるけれど、それがどこかいとおしかった。

 

「……これ、あたしから」

 

 モーリは少し驚いたように、目を瞬いた。

 さっきの教室でのやりとりとは、明らかに空気が違っていた。

 

「……あのときのチョコと、別?」

 

「うん。あれは……なんか、勢いというか……その」

 

 スズモトは手袋の指先をぎゅっと握りながら、うつむく。

 リボンを結んだ手は、冷たさのせいか少しだけ震えていた。

 

 モーリは、そっと紙袋を受け取る。

 想像していたよりも、少しだけ重かった。

 けれど、その重みがなぜか心地よかった。

 

「中は、普通のやつ。ガトーショコラと……あと、クランチも少し」

 

「へえ……ありがとな」

 

「ううん……返事とか、そういうのは、別に」

 

「それは、無理かな」

 

 モーリは照れくさそうに笑いながら、紙袋を大事そうに机の上に置いた。

 

「もらっておいて、黙ってるわけにはいかないし」

 

「……ふふ、じゃあ。三倍で返してもらうね」

 

「……やっぱ高いな」

 

 二人の間に、やわらかい沈黙が落ちる。

 窓の外では夕陽がわずかに朱色を差し始めていた。

 

 その光が部室の窓を通って差し込み、紙袋のリボンをほんのりと照らしていた。

 

「……あたしさ、」

 

 スズモトがふと、目を伏せたまま呟く。

 

「モーリ君が、今、どういう気持ちでいるかは、なんとなくわかってるつもり。だから……応援とか、急かしたりとか、そういうのはしないつもり」

 

 彼女はゆっくりと顔を上げ、まっすぐにモーリを見つめた。

 

「でも、どんな答えを出すにしても……ちゃんと、自分で決めてね」

 

 その言葉には、やさしさと、信じているという静かな強さが宿っていた。

 

 モーリは、そのまなざしに目を伏せ、そしてまた顔を上げて、頷いた。

 

「……わかってる」

 

 その時、ソファーで丸くなっていたブニャットが、ふと目を開けて小さくあくびをした。

 長くて鋭い牙がちらりとのぞき、またすぐにぺたんと目を閉じる。

 

 スズモトはその様子に小さく笑い、立ち上がる。

 

「……じゃ、あたし帰るね」

「送るよ」

 

 彼の声に、スズモトはほんの一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐに優しく笑って、小さくうなずいた。

 

「……うん」

 

 その返事を確認してから、モーリはソファーで丸くなっていたブニャットの頭を軽く撫でた。

 

「ほら、帰るぞ」

 

 ブニャットはぐるりと尻尾を一振りしてから、のそりと立ち上がり、モーリを見上げる。

 その目には、どこか満足げな光が宿っていた。

 

 モーリはボールを取り出し、ブニャットをそっと戻す。

 

 スズモトはその様子を見守っていたが、何も言わなかった。

 ただ、彼女の手にある紙袋が、ほんの少しだけ強く握られた気がした。

 

「行こうか」

 

 モーリが言うと、スズモトはうなずく。

 そして二人は、並んで部室をあとにする。

 

 ドアを閉める直前、夕陽の色を映した窓ガラスに、白いリボンが静かに揺れていた。




次回未定

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