『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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32-遠い夜をくぐって

 道端の枯れ草に、小さな緑が混じりはじめていた。

 まだ吐く息は白く、手袋越しでも指先に冷たさが残る。コートの襟を立てる癖はまだ抜けず、歩道に吹き抜ける風には冬の匂いが混じっている。だが、校舎の壁に射す陽はやわらかく、ガラス越しの教室には、わずかに春の気配が差し込んでいた。

 窓辺に吊るされた植物の影が、午後の光に揺れ、静かな教室の片隅で、季節の境目をそっと告げているようだった。

 

 

 

 

 

 

 週末の午後は、少しだけ陽が長くなってきた気がした。それでも放課後になれば陽は落ち、視界を電灯に頼ることになる。

 

 校舎の窓という窓から、部活を終えた生徒たちのざわめきが次第に遠ざかっていく。グラウンドには野球部の声がかすかに残っているが、それもまばらになっていた。部室棟の廊下には夕暮れの光が斜めに差し込み、床に長く伸びた影がいくつも交差している。

 

 そんな静けさの中、部室棟からモーリとスズモトが並んで出てくる。

 

 他の部員たちはすでに帰路につき、部室にはふたりだけが残っていた。備品の整理と戸締まりは、いつものようにふたりに任されている。

 誰も邪魔しようとはせず、自然とこの静けさが守られている。そんな空気が、当たり前のようにそこにあった。

 

 備品点検を終え、荷物を背負ったスズモトが少し肩を回す。

 

「ふう……。なんか、今日けっこう埃っぽかったね」

「しばらく奥の棚、開けてなかったからな」

 

 モーリが静かに返す。

 

 年度末が近づき、部員たちの練習も落ち着きを見せはじめている。全体の雰囲気に張りつめたものはなく、むしろそれぞれが目の前の課題に丁寧に向き合っている印象だ。

 特にオーアサとブーピッグは、これまでの遅れを取り戻すようにテンポよく成長を続けていた。動きにメリハリがつき、反応が早くなっている。ふたりの間に新たに生まれつつある信頼と理解のようなものが、見る者にも伝わってきた。

 

 ふたりが校門をくぐり、下り坂の道に差し掛かろうとしたときだった。

 

「おーい」

 

 聞き覚えのある声に、モーリが立ち止まる。スズモトも顔を上げた。

 

 道の向こう、電信柱のそばに、制服姿の男子生徒が立っている。

 

 金髪で、がっしりした体格。彫りの深い顔立ちに、普段なら強気な視線が宿っているはずの目は、どこか曇っていた。

だが、そのときの彼は、その大きな体を縮めるようにして、肩をすぼめながら、こちらに手を小さく振っている。通りすがりの人間に悟られまいとでもするように、声をかける代わりに、控えめな仕草だけで存在を伝えてくる様子には、妙な切実さがあった。

 

「カザ?」

 

 思わず名前を口にするモーリに、カザはそっけなくうなずくと、指先をくいと曲げて手招きする。

 

 スズモトをそっと背後に下げながら、モーリが歩み寄る。

 

「どうした?」

 

 カザは一瞬、言葉を探すように視線を泳がせてから、ポツリと呟く。

 

「わりい、一日でも、いや、二日でもいい。お前んちに泊めてくれねえか」

 

 そう言って、両手を合わせる。

 

 あまりに意外な言葉に、モーリもスズモトも目を見開いた。

 

「頼む、誓ってなんにもしねえ。気に入らなきゃ玄関先でも構わねえ。絶対に中には上がらねえから」

「なんだよそれ……」

 

 モーリが困惑混じりに返すと、カザは肩をすくめる。

 

「ウチの部員とか、友達とか……もう使い切っちまったんだよ。今さら他んとこ行けねえ」

 

 それまで沈黙していたスズモトが、おずおずと口を開く。

 

「なんか大変な感じだけど。それって、その、警察とか、そういうところは?」

 

 スズモトはカザが何らかのトラブルを抱えている事は理解していたが、それは彼の素行によるものだと思っていた。例えば漫画で見るような不良同士の構想のような、そんな。

 

 警察、という単語に、カザはすぐにぶんぶんと手を振って否定する。

 

「それはダメだ。マジでダメ」

 

 そして、ほんの一拍の沈黙のあと、目を伏せる。

 

「警察に行くと、家に連絡が行っちまうから」

 

 ぽつりと呟いたその声は、驚くほど弱々しかった。

 

 その言葉に、モーリの表情がわずかに変わる。何かを察したように、目を細めた。

 

「スズモト」

 

 モーリがスズモトを見た。

 

「今日は、別の友だちと帰って」

「でも、モーリ君」

「大丈夫だよ。俺のほうが強いんだから」

 

 スズモトは数秒、迷うようにモーリとカザを見比べて、それから静かにうなずいた。

 

「わかった」

「気いつけろよ」

 

 足早に立ち去るスズモトの背を見送ってから、カザが口を開く。

 

「……わりいな」

 

 その声には、申し訳なさと、それでも頼らざるを得なかった苦しさが滲んでいた。

 

 

 

 

 バスを乗り継いで、小さな山の麓へ向かう。

 

 ふたりは並んで歩いていた。郊外の住宅地はすでに街灯が灯っているが、やはり少し薄暗い。

 

 あたりは少しずつ夜の顔を見せ始めている。アスファルトの上を風が滑り、制服の裾をはためかせた。時折、遠くの道から車のエンジン音が響いてくるほかは、あまりに静かだった。

 

 カザは何も言わない。背中のリュックが少し重たそうに揺れている。歩幅は普段よりわずかに狭く、足取りもどこか鈍い。

 

 モーリもまた、言葉を選ぶように黙ったまま歩いていた。すぐ横にいるはずなのに、カザとの間には、冷たい風が通り抜けるような隙間がある。それでも、不思議と気まずさはなかった。

 

 言葉では埋められない何かが、すでにこの時間には流れている。

 

 ときおり交差点の明かりがふたりの影を交錯させ、それがまた、すぐに離れていった。

 

 

 

 

 住宅街というには少し寂しげな場所。モーリの家は、その一角にひっそりと佇んでいた。

 

 木の門扉を開けると、こぢんまりとした一軒家が迎える。新しくはないが、手入れが行き届いた様子で、庭にはひっそりとした植え込みが並んでいた。

 

「誰もいねーのか?」

 

 玄関先に立ったカザが、少し戸惑ったように訊く。

 

 そして、少ししてから思い出したように呟いた。

 

「ああ、そうか。お前カントーから来てるんだもんな、下宿か」

 

 モーリはそれに頷く。

 

「ああ。じいちゃんとばあちゃんの家だけど、じいちゃんはもう死んでる。ばあちゃんは海外旅行中」

「なんか、わりいな」

「いいんだよ。玄関先なんて言わないから、ゆっくりしてくれ」

「本当に、すまねえ」

 

 カザは小さく頭を下げてから、靴を丁寧に揃えて上がった。普段はそうしないであることがうかがえるかかとの折れた革靴が、小さく隅っこに並ばれている。

 

 モーリも続けて靴を脱ぎ、廊下を進みながら一つのモンスターボールを手に取る。

 

「出てこい」

 

 白い光の中から、ふわりと現れたブニャットが、のそりとあくびをする。

 

「ああ、そいつか」

 

 カザがそれを眺める。

 

「とても俺のシザリガーより強そうには見えないんだがなあ」

 

 ようやく、彼にも笑顔が見えた。

 

 

 

 

 風呂場の扉が開き、湯気とともにカザが出てきた。

 タオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら、リビングに入ってくる。

 

「マジで申し訳ねえ。湯船に入ったの、久しぶりだよ。ほんと助かった」

 

 モーリはキッチンの片隅で、コップに水を注いでいた。

 

「晩飯、どうする?」

「いいよ気ぃ使わなくて。別に一日くらい食わなくてもなんとかなるし」

「そう言われると食ってけとしか言えないなあ」

 

 そう言って、モーリはフライパンを手に取る。冷蔵庫から食材を取り出し、手際よく切り分け、火を入れはじめた。

 

「……お前、すげえな。そんなことできるんだ」

「一人暮らしみたいなもんだからな」

 

 カザは感心したようにタオルを首にかけたまま、椅子に腰を下ろす。

 

「それじゃあ、この家の掃除とか、洗濯とか、洗い物もやってるってことか?」

「そりゃまあ。やらないと溜まっていくからな」

「はあ……俺のおふくろにも見習わせてえよ」

 

 カザがぼそっとそう言って、少し笑う。

 

 モーリはその言葉に、返すべきか迷ったまま黙ってしまう。

 冗談にしては、どこか笑いきれていない響きが残っていた。

 

 キッチンに、鍋の煮立つ音が静かに満ちていく。

 

 ややあって、カザがポツリと口を開いた。

 

「いや、実はな」

 

 モーリは火加減を見ながら言う。

 

「言いたくなかったら、言わなくてもいいよ。誰にだって、そんなことはある」

 

 カザは一瞬、その言葉に逃げ込もうとしたように見えた。だが、すぐに首を横に振った。

 

「いや、そんなわけにはいかねえよ。俺だって、お前に言われたくないことを言っただろ。過去をほじくった」

「気にしてやしないよ」

「いや、いいんだ」

 

 カザはひとつ、深く息をついて、視線を床に落とした。

 

「……俺のおふくろがさ。なんて言えばいいんだろうな……まあ、ダメな奴なんだよ。駄目なのは、まあ慣れてっからいいんだけど。問題は──男をコロコロ変えるんだよ」

 

 モーリは黙ったまま、手を止めずに聞いていた。

 

「一月くらい前から来たクソ男がさ。俺のこと、明らかに嫌いでさ。別に俺はいいんだよ、俺たちのほうが強えからさ。でもあいつ、機嫌悪くなるとおふくろに行くんだよ。だから……今、家に帰れねえんだよ、まあ、そろそろとは思うんだけどな。」

 

 カザの声は静かだったが、その下に張りつめた感情があった。

 

「最近夜も補導が厳しいからさ。ほら、補導されるとさ、家に連絡行くじゃん」

 

 モーリはそれに相槌を打たなかった。

 

 彼にとって『補導されて家に連絡が行く』という状況は、どこか遠い世界の話だった。それでも彼は、その違和感を口には出さなかった。

 

「家に連絡行くと、またややこしくなるからな」

 

 その言葉のあと、再び少しだけ沈黙が落ちた。

 

 やがて、モーリの鍋の音がぴたりと止む。

 

「できたよ」

 

 差し出された器からは、温かい湯気が立っていた。香ばしい匂いがふわりと広がる。

 

 モーリが手際よく炊飯器の蓋を開け、茶碗にご飯をよそう。カチャリと食器棚の引き戸を開け、人数分の皿や箸をテーブルに並べていく。

 

 その様子を見ていたカザが、おずおずと立ち上がった。

 

「なんか、手伝うことあるか?」

「うーん、じゃあ皿……いや、もう出しちゃったな」

 

 カザは立ったまま戸惑ったように視線をさまよわせ、結局、箸を一本手に取ったまま動きを止めた。

 

 何かをしようという気持ちは伝わるが、何をしていいのかわからない。その不器用さが、逆に素直さとして滲んでいた。

 

 モーリは「いいよ、座ってて」とだけ言って、ご飯茶碗をふたつテーブルに置いた。

 

 カザは箸を握りしめるように持ち、どこか落ち着かない様子で膝を揺らしていた。

 

 姿勢も定まらず、食べながら時折ちらりとモーリの顔をうかがっている。

 

 遠慮と慣れていない粗さ、その両方が食卓ににじんでいた。

 

「いただきます」と、義務感のように言うと、彼は箸をおかずに伸ばす。

 

「うめえ、うめえ」

 

 カザは夢中でそれをかきこむように食べはじめた。

 姿勢も定まらず、食べながら時折ちらりとモーリの顔をうかがっている。

 

 その様子に、モーリは少しだけ目を細めた。どこか子どもみたいな素直さがにじんでいた。黙って食卓を見守りながら、モーリは心の中で「来てくれてよかった」と思った。

 

 

 

 

 モーリは居間に布団を敷いていた。布団を押し入れから取り出し、無駄のない動きで畳の上に広げていく。その様子を見ながら、カザは遠慮がちに言った。

 

「畳で寝るよ、俺は慣れてるから」

 

 だがモーリは手を止めず、振り返りもせずに答える。

 

「寒いからさ。布団使いなよ」

 

 その言葉に、カザは少し口元を歪めて、ほんの一瞬だけ視線を落とす。

 

「……ありがとな」

 

 言葉は短くても、その声には確かな安堵がにじんでいた。

 

 ふと、カザの視線が庭先に向けられた。月明かりに照らされた植え込みの影が揺れている。彼の右手は無意識のうちにモンスターボールの表面をなぞっていた。指先がその丸い輪郭を、静かに何度もたどっている。

 

「シザリガー、出したいのか?」

 

 背後からモーリの声がして、カザは少し肩をすくめた。

 

「なんだよ、よくわかるな」

「まあ、なんとなく」

 

 カザは立ち上がってモンスターボールを手にする。

 

「出てろ」

 

 モンスターボールからシザリガーが繰り出される。彼は庭の土に爪先を置き、じっと辺りを見回す。少し緊張したような、それでもどこか楽しそうな気配もある。

 

 その様子を見ていたブニャットが、静かに居間から庭へと降りた。

 

 とことこと歩み寄り、シザリガーの正面に立つ。足元にすり寄って器用にその間を抜ける。

 

 その様子にシザリガーは一瞬たじろぐが、やがてそっとハサミを差し出して、ブニャットの額を軽く撫でる。

 

「珍しいな。あまり愛想のいいほうじゃないんだが」

「うちのもだよ」

 

 二匹の静かな交流を見つめながら、モーリとカザもまた、しばらく言葉を交わさずに立っていた。

 

「よく懐いてるよね、シザリガー。種族的には、そんなに懐きやすくないはずだけど」

「そりゃまあ、ガキの頃から一緒だからな。こいつがいなかったら、俺の人生はもっと窮屈だった」

 

 カザはブニャットに目をやりながら、ふと口元で笑う。

 

「お前らもそうだろ?」

 

 その言葉に、モーリは思わず目を見開く。

 

「どうなんだろうね。言うことはよく聞いてくれると思うけど」

「懐いてるよ、俺にはそう見える」

「そうだといいんだけど」

「なんでそんなこと言うんだよ。自信持っていいだろそこは。懐いてねえやつに、俺たちが負けるわけねえだろ」

 

 モーリは少し目を伏せる。

 

「……少し、ほっといた期間があったから」

 

 それから、淡々と語り始める。

 

 ジムチャレンジの最後のバッジを取れなかったこと、リーグトレーナーに敗北したこと、『ポケモンを知らない』と言われたこと。

 

「それでも、ブニャットだけは……連れてきた。それだけは、自分で決めたことだったと思う」

「ふーん。酷えこと言われたんだな」

 

 カザがぼそっと言う。

 

「ほっときゃよかったんだよ。大人なんて、嘘しか言わねえんだからさ」

 

 その言葉に、モーリは思わず顔を上げた。

 

「そういえばさ。バトル部の監督はこのこと知ってんの?」

「知らねえよ。大人に期待しても仕方ねえだろ。どうせ家に連絡入れられて終わりだよ」

 

 モーリは、カザの言葉を聞きながら、心のどこかで思っていた。

 

 ああ、カザは根本的に、世の中を信用していないんだな。

 

 それはカザの育った環境や、これまでの経験がそうさせてきたのだろうということも、うすうす察していた。

 

 自分が歩んできた道とは、あまりにも違っている。その違いを、簡単に理解したふりなどできなかった。

 

 そして同時に、そういう違いを『おかしい』とか『直すべき』とか思ってはいけないのだ、とも思った。

 

 それはカザの世界の中で、正直に生きてきた証なのだから。

 

 だからこそ、彼は、短い言葉にそれを込める。

 

「そんなことはないと思うけど」

 

 ひと呼吸の間があった。

 

 カザが、ふっと視線を戻して口を開く。

 

「借りができたな。だから困ったことがあったら、何でも言ってくれよ。できる範囲なら、ちゃんと返すから」

 

 そして少し口角を上げて続ける。

 

「まあ、大会での勝ちは譲らねえけどな」

 

 その言葉に、さっきまでの硬さが少しだけほぐれているのがわかる。声の調子も、どこかいつものカザに戻ってきていた。

 

 モーリは肩をすくめるように笑って、「あまり気にしなくていいよ」と返したが、ふと何かを思いついたように目線を動かす。

 

「ちょっと待ってて」

 

 そう言って立ち上がり、奥の部屋へと歩いていった。

 

 

 

 

「エビワラーの、デカいのはまあ、弱くはねえんだけど、ちょっと小細工に頼りすぎてる」

 

 モーリがカザに頼んだのは『ライモン高校バトル部の生徒について正直な感想を知りたい』という事だった。

 

 彼は、カザのバトル観が明らかに自分の持つものとは違うことを理解していた、故に、そんな彼が自分達にどのような感想を持っているのか、今後の練習の方針に出来そうだと思ったのだ。

 

 その提案にカザは少し渋い顔をしたが、断る理由はなかった。

 

「『てつのこぶし』じゃないからなあ」

 

 モーリは新たなページを開きながら呟いた。

 

 だが、カザはそれに首を横にふる。

 

「『インファイト』とか『とびひざげり』とかあるわけじゃん。小細工ってのは、そういうインパクトのある技があって初めて成立するもんだからさ。まずはしっかりとプレッシャーを与えねえと、小細工の威力も活きてこねえんだよ」

 

「なるほどね」

 

 モーリはその言葉を丁寧にノートへ書き込んだ。カザの視点は自分とはまるで違っていて、想像していたよりもずっと理詰めだった。

 

「じゃあ次、タケダさん。ケッキングの」

「ケッキングの姉ちゃんか。あれはたぶん、人間としてのランクが高いタイプだよな」

「どういうこと?」

「だってあの様子じゃ、バッジ持ってないだろ」

「まあ、そりゃね」

「それなのに、あのレベルのケッキングがある程度でも言うこと聞くってのは、要するに『人間力』が高えってことだよ。言葉通じなくても、空気通じてんだ」

 

 モーリはそれにうなずきながら、感心するようにページをめくった。

 

「ただまあ、ウチのもかなり熱心に対策練ってるからさ、これまでのようにはいかねえと思ったほうがいいぜ」

「ふふ、伝えておくよ」

「次、一年のマリルリのやつ。まずポケモンが強えし、指示もちゃんと通ってる。トレーナーがまだ素人だからな、俺ならトレーナーの方を揺さぶる」

 

 モーリは思わずペンを止めた。その発想は、自分にはないものだった。

 

「一年のちいちぇえ女のバネブーは進化したのか?」

「した」

「そうか、そりゃ厄介だな。トレーナーとしてはマリルリの兄ちゃんよりもそっちのほうが優秀だよ。ただ、まだ荒っぽい戦いには慣れてなさそうだ。そこを突けばいいが、ポケモンのほうがバネブーの方も賢そうだったからな」

 

 モーリはペンを置いて、カザの顔を見た。

 

「バトル観、すごいな。尊敬する」

「そうでもねえよ。そういう知恵つけないと、自由に生きられなかっただけだ」

「でも、それがバトルでは必要なんだよ。僕には、それがなかった」

 

 カザは鼻で笑った。

 

「何言ってんだ、俺に勝ってるくせによ」

 

 そう言って、モーリを指さす。

 

「最後に、お前について言う」

「いや、俺はいいよ」

「まあまあ、聞いてけよ」

 

 カザは腕を組みながら、少し笑った。

 

「お前に出会って、初めてポケモンとかバトルってもんを真面目に勉強した。苦労したぜ。だって、ブニャットで真面目に戦ってるやつなんていねえんだもんよ。調べても出てくるのはレパルダスとか、エネコロロとか、そんなんばっか」

 

 モーリは沈黙で続きを促す。

 

「調べれば調べるほど、ブニャットってのはバトルにゃ向いてねえ。ま、シザリガーが向いてるかどうかも怪しいけどな」

 

 モーリは口を結んだ。

 

「多少は速え。技もまあ、小細工はできる。『こらえる』と『じたばた』は持ってるが、逆に言えば、それでしか大きいダメージ取れねえ」

 

 カザは一つため息をつく。

 

「正直、勝てるポケモンじゃねえ」

 

 一瞬ムッとしたが、それが事実であることをモーリは認めざるを得なかった。

 

「だけど、お前らはそれをカバーして余りある実力と実績がある。さすがは、バッジを七つ持ってるだけあるよ」

「バッジを集めたのは他のポケモンたちだよ、ブニャットじゃない」

「んなこた、さっき聞いたよ。大事なのは『今』だろ。今お前がブニャットとこの地方を荒らして、俺に勝って、インターハイでベスト八に残ったってことが重要なんだよ」

 

 モーリはそれに、何も言い返せなかった。

 

「要は、お前らのコンビネーションと、お前の知識と技術。それがすげえって話。正直、それにはかなわねえ。そんなもんが使える脳みそ、俺にはねえよ」

「環境だよ。親が熱心だったから」

「だから! 関係ねえんだって。親が熱心なやつなんて腐るほどいる。俺の高校の控えにだっていっぱいいるよ、そういうの。お前はその環境を最大限に生かして強くなったんだ。俺が俺の環境で強くなったように、お前はお前の環境で強くなった。それだけだろ。なんで引け目感じてんだよ」

 

 モーリは沈黙した。『引け目を感じている』という指摘に、何も返せない。

 

 その言葉はあまりにまっすぐで、的確だった。

 

 そして、それに答えることは出来ない。それに答えることは、自分の言葉を出すことは、何よりカザへの侮辱になってしまうかもしれなかったから。

 

「言いたくないんだろ?」

 

 カザが鼻を鳴らす。

 

 彼はこの瞬間、自分が寝床を恵まれている身だということを忘れていた。それよりも、モーリの心の中にある歪みを指摘するほうが、より人生が面白くなると思っていた。

 

「高校ポケモンバトル部を見下してるなんて言いたくないんだろ? それが、引け目の正体なんだろ」

 

 その瞬間、モーリは目を伏せた。

 言葉は頭の中にいくつか浮かんでいたのに、どれも声にはならなかった。

 視線を上げることもできず、ただ静かに息を吐く。

 その沈黙が、すべてを認めたように思えて、自分自身でも少し怖かった。

 本当は否定しなければならなかった。沈黙は肯定と同じだから。

 

 だが、カザはにやりと笑う。

 

「いーんだよそれで。俺なんて、お前含めて全員見下してるぜ? 勝敗に限らず、たまに現れるお前みたいなやつをリスペクトすることはあるが、リスペクトと見下しは両立するだろ」

 

 一拍置いて、彼はさらに続ける。

 

「今お前が強いのは、お前の実力だ。環境とかそんなのは、少なくともお前が責任を感じることじゃねえ。お前はただ、目の前に立つ俺をぶっ潰すことだけ考えりゃいいんだ。それだけだよ、お前に足りねえのは」

 

 さて、とカザが立ち上がる。

 

「言いたいこと言えてスッキリしたぜ。それじゃ、出てくわ」

 

 モーリの機嫌を損ねたと思い、もうここにはいられないと感じたのだろう。

 

 だが。

 

「いや、いいよ。出ていく必要はない」

 

 モーリは静かに言った。

 そして、一つ息を吐いて笑う。

 

「少し、救われたよ」

 

 その言葉に、カザは一瞬きょとんとした。

 何か別の言葉が来ると思っていたのか、あるいは想定していた反応とは違ったのかもしれない。

 口元がわずかに緩む。

 

「お前も、苦労してんだな」

 

 

 

 

 月は高く昇り、夜はすっかり更けていた。

 家の中の灯りは落ち、縁側の外では、庭の植え込みが風に揺れて微かな音を立てている。

 

 遠くでホーホーの声が何度か響き、そのあとは静けさが深く染み込んでいた。

 

 庭の片隅、柔らかな芝の上では、シザリガーとブニャットが背中を向け合うようにして、だが互いの体温を感じ取れるくらいの距離で身を寄せていた。

 

 ふたりの呼吸はゆるやかに重なり、夜の静けさに溶けていく。

 まるでそれぞれの主の心が、今ようやく落ち着く場所を見つけたかのように。

 

 モーリはふっと息をついて、あらためてカザを見た。

 

「いつでも来ていいよ」

 

 カザは少し黙ってから、肩をすくめるように答える。

 

「いや、もう来ねえ。流石に悪いし。ウチの監督にも、相談してみるよ」

 

 ふたりの間に、言葉のいらない静けさが満ちる。

 縁側の外では、夜風に枝葉がそっと揺れていた。

 

 この夜が、ふたりの遠さを照らすことも、埋めることもない。

 それでも、何かが少しだけ動き出したように思えた。

 

 夜は、深く、静かに、そのままふたりを包みこんでいた。




次回5/13 18:01予定です

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